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8. 我慢と限界

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  アリスの懇願するような声に抵抗を諦めたのか、恐る恐る目を覆っていた手のひらをノアは下げた。オーロラのように煌めきながらゆらゆらと揺れる深い青色の瞳は、更に色が濃くなっていた。先程感じられた鋭さは鳴りを潜めている。

「すごく綺麗……」

 じっと宝石を見るように瞳を眺めているアリスとは対照的に、ノアは半ばやけくそな気持ちになっていた。何もかも放り出してしまおうか、そうノアが考えていた時だった。

  カシャン

「……?」

 金属音がした方に目線を下げると、ノアの手首に拘束具が嵌められている。

「……一体なにを」
「ノアも怖いよね、ごめん。でもお願い、逃げないで。3分だけでいいから」
「……」

 そう言うとしっかり詳細を確認できるようにズイッと座る位置をノアに近づける。ほとんどないと言っても良い距離に、自然と体が強張った。一方アリスはそんな様子もお構いなしに、瞳の変化や詳細、牙の伸び具合の有無などを確認している。遠慮のえの字もない精査にノアは早く終わることを祈っていた。視線を少し落とすといまだに晒された首筋が視界に入る。目の毒だ。そう思いつつも顔を逸らそうとするとアリスに戻されることがわかっていたため、されるがままになっていた。そんな状態の中、アリスが動くたびに襲ってくる甘美な香りにノアはとうとう耐えきれなくなった。
  
「………………ストップ」
「ん?もう少しじっとしていて。いまいいところなの」
「…………いやこれは……本当に、ちょっと待って」

 本当に限界だと言わんばかりの掠れ声で懇望され、そろそろだめかな?とアリスは心の中で呟く。すでにノアは息があがり始めていた。吸血鬼研究に伊達に長く携わっていないアリスは、吸血衝動のコントロールがとても難しいことや本能的な欲望のため上手く抗えないことをよく知っている。そして長年生きているノアのような吸血鬼が、コントロール不能に陥ることはめったにないことも熟知していたのだった。
 もっといけるだろうとアリスは踏んでいたのだが、衝動に駆られたノアの限界は近いようだ。これ以上は危険だと頭の中では理解していても、せっかく色々データが取れる機会を自ら切り上げる気にはならなかった。

 ギイイイ

「なにいかがわしいことやってんだ鍵もかけずに」
「あ、ランラン」

 いつの間に扉の外に来ていたのか、鍵が施錠されてないのを良いことにランディが部屋に入ってくる。アリスの晒された首筋に、かすかに息があがったノア。状況を既に察知しているのか、ランディは部屋の中心まで遠慮なく踏み込んできた。

「お前も常識ねえなあ。こんな夜中に男の部屋にあがりこむなんて」
「言い方に悪意があるなあ、ランランは。確認したいことを調べてただけだよ」
「こんな惨状でか?加減ってもの知らないのかお嬢さんよ」
「データ集めてたの。新しく発見したことも色々あったんだよ?」
「まあとりあえずもう夜遅いから解散だ解散」
「えーー」

 渋々ノアの拘束具を外しながらあと少しで終わるのに、と不満そうなアリスだったが、結局持ってきた小道具と一緒に半ば無理やりランディに部屋から追い出されたのだった。

 
 ◇


「……青い瞳見られたんだな」
「…………、いつから扉の外に?」


ニヤニヤと含みのある喋り方で話しかけてきたランディは、珍しく消耗してるノアにとても嬉しそうである。

「正直に話せば良かったのに。甘い匂い纏って近づかれるとムラムラするからやめろって」
「......頼むから。ちょっとは言葉を選びなさい」
「青色の瞳は吸血衝動じゃないぞって言ってやろうか?勘違いさせたまんまだと後々大変なことになるんじゃねえ?」

ランディは弱ったノアの姿が珍しいのか、鼻唄でも歌いだしそうなほど楽しんでいる。しかしノアがニコッと冷ややかに微笑むと、その口が開かれる前にそそくさとその場を退散した。以前ラインを超えた際とんでもない目に合ったことがランディのトラウマになっているらしい。
 怒った時に笑うのも細めた目で赤色を隠す為だもんなあ、冷ややかだから余計おっかなくてしょうがねえ。そう心の中で呟いたランディは、以前うっかり怒らせて1か月間コウモリの姿にされた記憶を思い出し身震いしていた。

 
 ◇

 
ランディが出ていったあと、ノアは移動しようとソファを立つ。しかし気持ちの昂りが収まりきらないのか、壁に寄りかかりこうべを垂れながらズルズルと床にしゃがみ込んだ。
 
(......これはさすがにきつい)

 ノアはその場に座り込んだまましばらく動けず、苦悩していたのだった。
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