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3・想いを乗せて
しおりを挟む震える手で、花を束ねる。
―――花を選んでください。
草薙の『お願い』に、気が付いた時には頷いてしまっていた。
いつもの彼の為に、彼が奥さんに渡す花を選んできた。
しかし、今日は違う。
草薙の為ではない、花を選んだ。
微塵も迷いは無かった。
手にしたのは赤い花。
まん丸の花が特徴のピンポンマムとスプレーマム。菊の一種ではあるが、可愛らしい見た目は女性に人気で、アレンジメントに加えることも多い。
草薙の大人の雰囲気からはかけ離れたものだが、これでいい。
想いを、湧きだしては止まることを知らないこの想いを…伝えたかった。
胸を巡り、暴れ狂う想いを、渡したかった。
紅い菊の花言葉―――『あなたを愛しています。』
言葉で伝える事は叶わない、言ってはいけない想い。
それでも、行き場のないこの気持ちを何とかしたかった…適が精一杯の勇気を振り絞ってできる、最初で最後の行動だ。
あの男に伝わる事はないだろう。それでいい。
ラッピング材に伸ばした手を止め、いつものオフホワイトの包装紙を取った。それが一番しっくりくる気がしたからだ。
そこからは超特急で整える。取り残した薔薇の棘で指を傷付けたが、そんな事は気にならなかった。
早く花を届けたい一心だった。
向かうのは、草薙の自宅。
―――一時間後…家へ、届けてくれませんか?
彼のその言葉に黙って従った。
自宅へ行く事に抵抗はあった。しかし、会ってみたくなった…彼の奥さんに。
彼の心を奪う事ができた唯一の女性を、一目でいいから見てみたかった。
きっと、二人仲睦まじく出迎えてくれる。その現実に直面すれば、この気持ちにも決着がつけられるだろう。
草薙から聞いた自宅の場所は、店からそんなに遠くは無かった。近くに住んでいる事は聞いていたが、こんなに近いとは思わなかった。
どんなにゆっくり歩いても五分程の道程を、思い切り走り抜ける。
昨年建ったばかりのデザイナーズマンション。その最上階が彼の部屋だという。
初めて訪れるオートロックマンションと、広々としたエントランスに尻ごみしつつも、インターフォンで来訪を知らせる。
一瞬、彼の奥さんが出たらどうしよう…と不安に駆られたが、聞き慣れた男の声に安堵した。ロックが外され、奥に迎え入れられる。そのままエレベーターで二十階まで一気に上がっていく。
その間、適の脳内を巡るのは、携えてきた花の事ばかり。
あの見惚れるほど美しい男には不釣り合いな、可愛い花が揺れる。
奥さんは可愛い花だと、一世一代の告白を秘めたこの花束を喜ぶかもしれない。もしかしたら、秘めた想いを覚るかもしれない。
女性はことのほか、こういう事に敏感なものだ。
けれど草薙はどう思うだろうか、おそらく気付かないだろう。
それでもいい。ここに来る事を了承した瞬間に、すべて覚悟した。万が一、この想いを知られ、露骨な拒絶をされてもいい。
もう二度と会えなくなってもいい。
この想いに、ケジメをつけよう。
不思議と気持ちは落ち着いていた。
部屋の前に立ち、ドアチャイムを押す。
「いらっしゃい、適さん」
出迎えてくれたのは草薙だった。
グレーのコットンTシャツに黒の細身のパンツ、休日のラフなスタイルという感じだ。今朝会った時のスポーツウエアも意外だったが、普段着姿というのもまた意外な感じがした。
(スーツしか着ないのかと…そんなわけないか…)
考えてみれば、草薙の事を何も知らない。
どんな仕事をしていて、どんな休日を送っているのか、好きなものも嫌いなものも…何も知らない。
当たり障りのない世間話をして、草薙の質問に適が答える。毎回、その繰り返しだった。
適から何かを聞いた事は無い。プライベートな事を聞いていいのか遠慮もあったが、何より指輪の存在に気が付いてからは、聞きたくなかった。
彼の口から、最愛の人の話を聞きたくなかった。
(…認めたくなかったんだ…きっと)
彼に永遠を誓った女ひとがいて、幸福な暮らしがある事を。
ほんの数分でもいいから、自分の事だけを見ていて欲しかった。
なんて子供じみた、幼稚な考えだったのだろうか。
(もっとたくさん…色んな話をしておけばよかった…)
後悔したってもう遅い。
今日、すべてにケジメをつけようと覚悟したばかりだ。
適は腹の底から、絞り出すようにして言葉を紡いだ。
「…花を届けに、来た」
差し出した花束を見て草薙は一瞬目を瞠ったが、すぐに鮮やかに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
まただ…どうしてこう一方的に、彼が礼を言い頭を下げるのか。向こうは客でこっちはバイトだ。
「適さん、ついでと言ってはなんですが…お茶でもしていきませんか?」
「え…?っそんな、…せっかくの休みを邪魔しても悪いし」
草薙の予想外の言葉に狼狽してしまう。
いくらなんでも家に上がり込んで、彼と奥さん三人で平然とお茶が飲める神経は持ちあわせていない。
草薙はうろたえる適を見て小さく笑った。
「何も気にしなくていいですよ、どうせ私ひとりなんですから」
「……え?」
草薙の言葉を心の内で反芻する。
(…一人って…奥さんは留守にしてる?)
草薙はわざとらしいため息をつきながら言った。
「久し振りに休みが取れたのですが……情けない事に、何をしていいか自分でも分からず、時間が有り余って…少しだけでいいので、付き合ってもらえませんか…ね?」
草薙に促されるまま、まだ真新しい感じの残る部屋に足を踏み入れる。モノトーンの家具で統一されたスタイリッシュなリビングは、整然としていて生活感の薄い印象を受けた。
夫婦で暮らすには少し寂しい雰囲気だが、草薙の言葉でそれも納得した。
「ここでは持ち帰った仕事をしているか寝るくらいなので…広すぎて寂しい感じがするなっていつも思うんです」
リビングダイニングだけで、適が暮らすアパートの部屋を丸ごと収めても、確実に余るほどだ。
(ウチ、安くて狭いアパートだからな…でもここで仕事してるんなら、自宅は別なのかな…)
それなら、ここに奥さんがいないというのも納得だ。
「だから…あなたが選んでくれた花があると、一気に部屋が華やぐんです」
草薙はそう言いながら、さっそく花瓶に生けた薔薇を、リビングのキャビネットに据えた。甘く濃厚な香りが部屋に発ちこめる。
ふと視線の端に捉えた、ダイニングと対面式になったキッチンカウンターには、数日前に適が選りだしたダリアと桔梗が凛と咲いていた。活き活きと咲き誇る姿から、十分な手入れをされている事が分かって素直に嬉しくなった。
「そう言ってもらえると…嬉しい」
普段なら絶対に言わないであろう言葉が、口をついて出てきた事に自分でも驚いた。けれど最後くらいは素直になってもいいかもしれない、そう思うと自然と口が軽くなっていく。
「草薙は…何の仕事をしてるの?」
「美容関係……姉が経営する『オルガ』というネイルサロンがあるんですが、そこで商品企画、広報や店舗プロデュース等を任されています。体ていよくこき使われているんですよ」
「『オルガ』って…ネイルサロンでは業界一の所だろ。最近はメンズ向けのサロンをオープンして話題になってたよな…経済誌で読んだ」
たまたまレポートの資料に使った経済誌に載っていたのだ。独自の経営手腕と発想の転換で、数多く存在するサロンの中で不動の人気を得た秘訣など、社長のインタビューや経歴が載っていた。華やかな面持ちの、穏やかそうな女性社長だった。
将来、自分の店を持ちたいと考える適には勉強になる記事で、スクラップにして保管してあるほどだ。
「姉はネイリストよりも経営の才があったんでしょう。この部屋も、本来は住宅街の奥さま向けプライベートサロンにするつもりだったようですが…メンズサロンの方が見込みがあるとそちらに乗り換えたんです。残った物件を、私が押し付けられたと言ってもいいかもしれません」
苦笑いを浮かべて肩を竦ませる草薙に、適は思った疑問をぶつけた。
「草薙は…この仕事が好きなの?」
驚いた顔をする草薙を見て、まずい事を聞いたかもしれないと思った。しかし、すぐに彼は微笑み返してくれた。
「私は以前、広告代理店に勤めていたんです。何の目的も夢も無く大学を出て、内定を貰った会社の中で一番好条件の会社に就職しました。けれど、死にそうな顔をしていると言われたんです」
「……お姉さんに?」
「ええ。ただ何となく過ごす毎日があたり前になっていた時でした。いつの間にか感情や感性を押し殺していたんだと思います。だから、姉の傍で仕事を始めてよかったと思っていますよ。自分の好きなものにとことん打ち込む姿は、周りにもいい影響をもたらしてくれます。だから私はあなたが仕事をしている姿を見るのが……とても好きだ」
まるで、囁くように言われた『好き』というフレーズに、と胸が鳴った。
鳶色の瞳に真摯に見つめられ、胸がざわつく、奥のほうでチリチリとした火のようなものが興る。
瞬間、身体が硬直してしまう。男の視線に、肌を撫でられた気がしたからだ。
頬から顎の線を滑っていく、その場所が焼かれたように熱くなる。
嫌ではなかった。ただ腹の底から、むず痒いような何かが湧いてくる。そのむず痒さに耐えられず、小さく適が喘ぐ。
その声を聞いて、急に、無理やり視線を外すように草薙が適からキッチンの方に視線を移した。
「…すいません、お茶も出さずに…話しこんでしまって」
「え…?いや、そんな事…」
キッチンに向かう彼を引き留めようとして、止めた。引き留めたところで、何と言っていいか分からなかった。それにこれ以上話して、彼の口から奥さんの話が出てくるのが怖かった。
無感情な毎日を変えたのは、お姉さんだけじゃないだろう。きっと、奥さんの存在も大きかったに違いない。その証拠が、あの左薬指だ。
自分には出来ない事を、与えられないものを、自然と補ってくれる人に違いない。
(…覚悟、してきたのに…)
適は、中途半端に揺らぐ自分の心が、憎かった。
「…あっ…」
適は、手持ち無沙汰なままソファにかけていたが、キャビネットに並べられた小瓶に目が行った。立ち上がり近づいて、まじまじと眺めてしまう。
色とりどりの細長い小瓶の底から、植物の蔦が立体的に巻き付いているデザインだ。蓋の部分には花があしらわれている。よく見れば、色によって花の種類が違う。
紫陽花、白百合、ダリア、クレマチス、カメリア…色と花を同期させているのだろう。
「新商品のサンプルなんです」
「うわっ!」
真後に立っていた草薙に気が付かないくらい、じっくりと眺めてしまっていた。驚いて、思わず大きな声を出してしまった。
「…あ、勝手に見ちゃって…」
「かまいませんよ」
草薙は小さく笑いながら、適にコーヒーを勧める。
大人しくソファに戻る適の目の前に、草薙は小瓶をいくつか並べて教えてくれた。
「サロンオリジナルで出している、ネイルカラーです」
「…ネイル…?あぁ、マニキュアの事?」
「はい。今はジェルネイルといって、特殊な液体をUVライトで固めるものが主流になってきていますが、仕事や学校の関係でネイルができない人には根強く支持されているんです」
首を傾げてしまう適に、草薙はより丁寧に説明してくれた。
マニキュアは従来からある物で、自分で簡単に塗れて、簡単に落とせるらしい。その代わり、生活の中の些細な事で禿げてしまったりと、長持ちはしないらしい。
それに対してジェルネイルというやつは、UVライトで固めているから長持ちするし、色艶感がとてもよく、人気だそうだ。ただ、自分で塗るのも落とすのも難しいらしい。
そういえば、大学の女子がそんな話をしているのを、漏れ聞いた事がある。その時はちんぷんかんぷんだったし、興味も無かったのでスルーしたが、草薙の説明はすんなりと頭に入った。
「……ふぅん、なるほど。で、これはオリジナルなんだ」
「ええ。発色や質感、もちもいいのですが、値段が高めなんです。今はドラッグストアなどで安く手に入りますからね…なのでデザインを一新して、付加価値を付けようとなりまして…そのアイデアが出たのは、あなたのおかげですよ」
「え?…俺?俺なんにもしてない……」
いけないと思いながらも、口調がだんだんとくだけていく。
「花に囲まれるあなたを見ていて思いついたんです。それからは花について勉強したり、あなたのお店で色々見せていただいたり……適さんがいなかったら思いつかなかった。」
「…んなっ、」
真顔で言われる。からかわれているのかもしれない、と思っていても顔が熱くなるのは止められない。
「あ…、いいんじゃない、か…うん。女子は好きそうだし…プレゼントとかにもいいよな、きっと」
「ええ、確かに。メンズサロンの方に試しに置いてみたんですが、彼女へのプレゼントとして結構買い求める方は多かったですよ」
「……草薙も、こういうのをプレゼントするの…」
―――奥さんに。
無意識に口をついて出た言葉は、最後の一言をかろうじて残して止まった。
二人の間に沈黙が流れる。そんなに長い時間ではないのに、適には永遠にも似た終わりの見えないものに感じた。
ジッと適を見つめてくる、草薙の薄い唇が動く。
「…した事はありません。けれど…贈りたいと思う事はある。……適さん、あなたに」
心臓が止まるかと思った。
「なっ!何、ふざけた事…俺、男だし…そんなの」
「今は男性でもネイルをする方はいますよ。それに、ハンドケアやネイルケアをされる男性は、あなたが思っている以上に多い…」
草薙は手を伸ばし、適の手を握った。とびきり優しく、まるで壊れものを扱うように。
視界に男の指で光るものが飛び込んできて、適の思考を現実に引き戻してくれる。
「…やっ、な…何で…」
「あなたが嫌ならやめます。けれど、この美しい指に、肌に触れてみたいと思っていました…初めて会った時から」
草薙の視線が動く。
手から、適の顔へと。
そして、適の目を覗き込むように見つめてくる。
この部屋には、自分たち以外はいない。二人きりだ…そう思ったとたん、胸がざわついてしまった。
(…なんで、こんな事……)
力いっぱい握られているわけではないのだ、手を払いのける事など簡単にできる。
なのに、払えない。払いたくとも払えないのだ。
適は、目を逸らし、ぶっきらぼうに言った。
「触れたいって…男の手に触って何が楽しいんだよ……」
男は答えない。
視線が動いているのがわかる。
肌の上を動く。手から、腕、肩、首を、頬を顎を撫でていく。
ゆっくりと、草薙は言った。
「触っても…いいですか?」
震えがきてしまった。
なんて言い方をするのだ。
囁くような…いや、口説くような、低く深みのある声で、適の胸を掻き乱す。
ふいに、手の甲に温かなものが触れた。
驚いて視線をあげてしまった。
草薙が適の手に口づけていた。
適は手を引くどころか、身動きひとつとれなかった。それをいいこと草薙は、適の手を掬い上げるように、うやうやしく握り直した。
そして、再び口づける。
「綺麗な手だ。指はまっすぐしなやかで」
「…きっ、綺麗、なんかじゃ……」
狼狽して、まともに声も出せない。
「手だけじゃありませんよ。あなたのすべてが美しい…この絹のような肌も、黒髪も、瞳も…あなたを構成するすべてが美しい」
いたたまれなくて、恥ずかしくて、叫びだしたい衝動に駆られる。
「…そんな、俺、男だし…それに手も傷だらけで…水仕事で荒れてるし…だから、その…」
だから放してくれ、と言おうとしたが、草薙は放してはくれない。
瞳を合わせながら、静かに言う。
「なら、私が…綺麗にして差し上げます」
こんなにも熱く、情熱的に言われては、もう逆らえない。
胸の動悸が煩い。汗が噴き出してくる。
暑さのせいではない。部屋はエアコンが十分に効いていて、心地よい温度だ。
「ねぇ、適さん…手も、肩や足腰のように凝ったりするんです。顔や唇のように乾燥もする…だから定期的にマッサージや保湿は大事なんです」
「…え?」
男の意図する事が適には分からなかった。
「そうすれば手荒れも軽減されるし……傷の治りも早い…」
「…ひゃっ」
指先から生まれた淫媚な感覚に、喉が奇妙な声を出してしまう。
あろうことか、草薙は適の指を口に含んだのだ。指先に舌が絡められ、軽く吸われる。
目の前の光景に、適は叫んだ。
「…な、何してっ、やめろ!」
草薙は目を細めただけで、止めようとはしない。
それどころか、適に見せつけるように、指に舌を這わせた。
指の股を執拗に、舌先で弄られる。
そこには、薔薇の棘でできた新しい傷があった。
微かな痛みと、淫媚な感覚が適の脳を麻痺させる。蕩けてしまいそうになる。
だからすぐに動けなかった。
草薙の手が、適の手から離れ顎に伸び、僅かに持ち上げた。
「適さん…」
草薙の顔が間近に迫ってきた。
仰天している間に、唇に唇が触れる。
瞬間だけ口づけ離れる。そしてまた、唇を奪われる。
そこでようやく適は、キスされている事に気が付いた。
「…んぅ、ん!」
抗議したくとも、草薙に吸い取られて言葉が発せない。
その間も、草薙は適の唇を啄ばみ、軽く甘噛みしてくる。
顎をしっかり掴まれているので、逃げようもない。
角度を変えて、深く口づけてくる。
舌が入ってくる。
熱いその舌の強引さと生々しさに、意識が飛びそうになる。
適は必死に草薙の胸を押すが、びくともしない。それどころか、逞しい腕に適の自由は奪われてしまう。
向いあって座っていたはずなのに、いつの間にか同じソファで、押さえ込まれるようにのしかかられていた。
覆いかぶさっている男は、熱に浮かされたような目で適を見ている。
適が視線を合わせると、切ない表情になった。
「なん、で……こんな…」
男は答えない。
草薙は何を考えているのか。
それを知る事が出来たら、何だってするのに。
「適さん…あなたは……」
草薙は何かを呟いたが、僅かな唇の動きでは何を言ったのかまでは読み取れなかった。
再び、激しい口づけが降ってくる。
熱い唇と身体の上の重み。それが草薙のものだと、まだ信じ切れずに、適は茫然と唇を受け入れていた。
「…適さん…」
「…な、に…?」
無意識に返事をする。
この男は…誰なのだろう。
自分に口づけ、名前を呼ぶ、この男。
草薙、ではないのだろうか。
けれど…彼がこんな事をするはずがない。
草薙が、自分にキスなどするはずがない。
だって…彼には…。
低く、掠れた甘い声が、耳元を掠める。
「適さん…あの花…どうしてあれを選んだの?」
この男は何故そんな事を訊くのだろう。
適は茫然自失のまま、素直に答えそうになったが、かろうじて残る理性がそれを邪魔する。
「…なぜって…だって…」
目をつぶりながら、このまま男の声に酔っていたい、と思った。
夢でも、幻でも何でもいい。このままこの男に口づけてもらい、抱かれてしまいたかった。
男の熱い息が、首筋にかかる。身体ごと、すべてが燃えるように熱い。
「適さん…教えて。何故、あの花だったの?…教えて、あなたの気持ちを…」
なんて声だろう。
情熱的で、熱い。蕩けてしまいそうだ。
言ってもいいのだろうか、この男に。
花に託した…本当の気持ちを、曝け出していいのだろうか。
男の顔が見たくて、適は瞳をあげた。
覆いかぶさっている男は、熱に浮かされたような充血した目で、適を見ている。適と視線があうと、とたんに切ない表情になった。
「あなたの気持ちが知りたい」
「………ぇ?……」
男の指が、再び適の顎にかかる。動かせないように捕え、貪るように口づけてくる。
唇を重ねたまま、男の手は服の中に入り込んでくる。愛おしげに身体をまさぐり、適の中心部までをも、ジーンズの上から軽く撫でた。
「……適さん…あなたが、欲しい」
蕩けきった頭で、考える。
駄目だ。この男には…草薙には家庭があるのだ。
適の身体をまさぐる左手には、彼を所有する女性ひとがいる事を照明する指輪があるのに。
このまま、彼に抱かれるわけにはいかない。
きっと、もう離れられなくなる…その前に、離れなくては。
適は、喘ぐ息で呟いた。
「…だ、め……ダメ…駄目」
「どうして?」
「……どうし、ても…」
言い訳を聞きたくない、とばかりに男は唇をキスで塞ぐ。
「私が…嫌い?」
「そんな…こと…ない」
最初から、草薙が好きだった。きっと、一目見たあの瞬間から。
適をかき口説くように繰り返す男の口づけは、恐ろしいくらいに甘く、熱い。
何度も、何度も、深く浅く繰り返される。
ダメ、駄目。と、適が首を振っても、キスの嵐が止む事はない。
愛おしい男の愛撫は、適の神経をドロドロに溶かしてしまいそうだ。
男に抱き付いてしまいたい。
もう少しで、考える事も何もかもを捨て、男に縋りついてしまう、そのギリギリの時だった。
彼の背後で電話が鳴った。
ソファテーブルの隅に置かれていた固定電話の子機が、けたたましいコール音を響かせている。しかし、草薙はそれを取る事もせず、適の上から退こうともしない。
飛んでしまいそうな意識を、何とか繋ぎとめる。
「で…でん、わ…電話が…」
「放っておきなさい、そんなもの」
まるで適を嘲笑うように、コール音は途切れることなく鳴り続いている。
さすがにそのままにしておけないと思ったのか、草薙が動いた。
適から視線を外す事無く、手探りで電話を引き寄せる。
「……はい」
いらだたしそうに眉を顰めながら通話ボタンを押す草薙は、これでもかというほど低く、不機嫌な声色で対応した。
温厚な彼が、初めて見せる姿だった。
『ケータイに何度かけてもでないし、何をしていたの?』
適にまで聞こえる音量で飛び出してきた声は、明らかな怒気を含んだ女性のものだった。
『慎一っ!聞こえてるの!』
甲高い声が、草薙の名を呼ぶ。
ファーストネームを呼ぶような間柄の女性ひと。それが誰かは、考えずとも分かる。
(…奥さん…だ)
適は笑いだしそうになってしまった。
最悪のタイミングだ。…いや、本当は最高のタイミングだったのかもしれない。
ひどく面倒くさそう顔をした草薙が言葉を返しているが、何を言っているかなど関係無かった。聞きたくもない。
適は立ち上がり、服の乱れを直した。
身体は昂ったままだった。
いったい、何を期待していたのだろう。
この人のものになりたいなど、そんな事を願う資格は無いのに。
堪え切れない涙を見られないようにして、後姿で言い置いた。
「…帰ります……」
「…か、適さん!」
振り返る事もせず、部屋を出てエレベーターに駆け込む。
とにかく早く、ここから立ち去りたかった。
一階に着き一目散に駆け出し、駅まで全速力で走る。
追いかけてくる事はないだろう。どんなに急いであの部屋を出たとしても、もう追いつく事はできないだろう。
それに、草薙は適の住んでいる所は知らない。
もし、追いかけてくれる気があったとしても……無理だ。
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