俺とあなたと指輪の事情

ぷぴれ

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4・行き場の無い想い

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 電車に飛び乗ったものの、真っ直ぐ家に帰る気にはならなかった。

 行先があるわけでもない。転がり込む事ができるような友人もいないし、そんな交遊関係は適には無い。

 あるとしたら川田の所くらいだ。

 そこまで考えて、自分の情けなさにため息がもれた。

 川田の所に行ってどうする。友人に縋り、慰めてもらおうとでもいうのか。

 草薙の代わりに。

(……友人でいたい、なんて思ってるくせに…なんて自分勝手で、ズルイ考え…)

 それをしてしまったら、もう何もかも取り戻せなくなる。友人としても、人としても。



 適はとりあえず、自宅アパートのある駅を乗り過ごし、数駅先で降りた。

 初めて降りる駅は、小さいけれど昔ながらの温かい雰囲気の商店街があり、活気に溢れていた。

 いつしか時間は、昼の二時を過ぎていた。土曜の昼下がり、親子連れやカップルの姿が多く見受けられる。

 人目を避けたかった。幸せそうなカップル、ましてや家族連れなどは見たくもなかった。

 適当に路地に入り、闇雲に曲がる。どこに向かっているのか、どこに着くのかなど分からなかったが、小さな公園に抜ける事ができた。

 鉄棒と砂場だけの公園だった。人の姿は無い。

 そう遠くない所で、子供の笑いさざめく声が聞こえる。きっとこの近くに、もっと大きくて、遊具もたくさんある公園があるのかもしれない。

 今は、この人気の無い公園が有難かった。

 適は目に付いたベンチに座り込んだ。小さく泣き言を呟く。

「……覚悟、決めて行ったんじゃなかったのかよ…」

 今日で最後にするのだ、想いを断ち切るのだ。と息巻いていた自分はどこに行ったのだろうか。

 ―――紅い菊の花束。

 花の勉強をした、と言っていた気がする。商品化を考えていたのなら、花言葉についても調べていたのかもしれない。

 きっと、気が付いたのだろう。

 だから、あんな行動に出たのかもしれない。

 彼は、あれからどうしたのだろうか。

 奥さんからの電話に、何と言ったのだろうか。

「まさか…男と乳繰り合ってました…なんて言うわけないよな…」

 自分で言って悲しくなる。

 今頃、彼は自分の行動を後悔しているだろう。もう二度と、店にも来ないだろう。

 いったい、どうしたらよかったのだろうか…。

 きちんと言葉で伝えていたら、彼の気持ちが聞けたのに。

 気の迷いだったとしても、一度くらいは抱いてもらえたのに。



 適はスマホの電源を入れた。

 昨日の午後から切ったままだった。

 入れた途端、待ってましたとばかりに着信が入る。

「川田…」

 向こうからは、驚きと安堵の入り混じった声が返ってきた。

『若村かっ?お前…昨日から何してたんだよ!授業には来ないし……ずっと電話とメールしてたんだからなっ』

「……うん…悪かった」

『ったく…心配してバイト先覗きに行ってみたら、臨時休業だし。どうなってんだっ、今どこにいる?』

 適は、ポツリと呟いた。

「分かんない……」

 川田は間の抜けた声を出す。

『はぁ~あ?なんだよ分かんないって』

 無性におかしかった。実際は、少しもおかしくなんかなかった、でも笑いたかった。そうじゃないと、哀しくて、泣き叫んでしまいそうだった。

 適はしばらく笑い声をあげていた。

 こんなにも張り裂けんばかりの胸の痛みと、苦しさを抱えているのに、今いる場所も何も分からない、ただの公園なのだ。もう、笑うしかない。

 ふと、笑いを止める。

「………川田」

『あぁ?』

 適はなるべく平静を装い、静かに、一つ一つ確かに言葉を発した。

「ごめん…本当に、ごめん。…………俺、さ…好きな、人がいる」

 川田の相当驚いている様子が、電話越しでもひしひしと伝わってくる。

『おいおいおい、なんだよ。急にさっ』

「……急、じゃ…ない。……ずっと、何とかしないといけない……って思ってた」

 息を飲む音が聞こえた。それからは、しばらくの沈黙。

 重い沈黙を破ったのは、川田だった。

『…………お前……若村は、気付いてたのか……オレの、気持ち』

「……うん………気付いてて、知らない振り…してた。……ごめん…ごめ、ん……俺はこんなに、ズルくて…本当…ズルい…」

 言葉を詰まらせる適に、川田は強い口調で言った。

『馬鹿!謝るな!』

 川田は大きく深呼吸すると、落ち着いた声で訊いてきた。

『…相手……相手はさ…どんな娘こ?』

 また笑いそうになる。

 本当に『女の子』だったら、どんなにいいか。それか、適が女の子だったら…それで、もっと早くに産まれてきていれば、最初から問題など無かった。

「……『どんな娘』じゃ…ないんだ。……男…なんだ」

 絶句されるのも、当たり前の事だ。

『…………オレ……』

「いいんだ。何も言わなくて……完全な片想いだから……しかも、失恋してきたばっかりだ」

『じゃぁ…さ…』

 そこまで言って、川田は黙った。次の言葉を言うか否か迷っているのだろう。

 口火を切ったのは、適だった。

「川田……駄目だ、言っちゃ。……俺、川田の事……友達として、好きなんだ……友達でいたいんだ」

 掠れた苦しげな声が尋ねる。

『…今でも…れから先も?』

「うん」

 しばらく間があった。

『…そう、か』

 適も、すぐには言葉が出なかった。

「…もし…お前が許してくれるなら……友達で、いたい」

『…時間かかるぞ……きっと…引きずるタイプだから……』

「うん。それでも、いい」

 適は呟いた。

「元に戻る事ができるなら……いつまでも待つ」

 今にも泣き出しそうな声で、川田は言った。

『せめて…言いたいんだ…』

「うん」

 何を言うつもりなのかは、分かっていた。

 適があれほど恐れていた言葉を、友人は、友人でいる為に言ってくれた。

『若村。…お前が、好きだった』

 ただ、適は泣いた。

 この友人には何よりも、誰よりも幸せになって欲しいと願った。

 自分などどうなってもいい。

 川田には、川田だけは、幸せになって欲しい。







 月曜になって、適はバイトに向かった。

 店長から、無事に出産が終わり月曜から店を開ける、と連絡がきたのは昨日の朝だった。その前日の草薙との一件、川田とのやり取りのせいで鬱々としていた適には、嬉しい連絡だった。

 しかし、草薙の事が引っ掛かっていた。

 あの男が適の前に現れる事はもう無いだろう。

(あれはたまたま…魔がさしただけ…)

 妻帯者である彼が、同じ男である適にそんな感情を抱くはずがない。あってはいけないのだ。

 近くに仕事用のマンションがあるが、意識していれば鉢合わせる事は無いし、店の外を見なければ彼を視界に捉える事も無い。

 ふと、寂しい気持ちになったが、始めから間違っていた想いで、これが正しい結果なのだ。

 あの時、断ち切ろうと決めたではないか。

 いつまでも未練がましく引きずる自分を叱責すると、仕事の準備を始めた。

 しかし数時間後には、自身の考えが全て甘いものだと思い知る。





 夏本番で連日猛暑続きだが、日が落ちると一気に気温も下がる。

 開け放ったままの店先から、心地良い風が吹き込んでくる。

 店長は、生まれたばかりの愛娘にご執心で、早くも親ばかっぷりを発揮していた。行く先々で惚気ているらしく、配達にいつもの倍以上時間がかかる。

 まだ戻らない店長を、呆れつつも微笑ましく思いながら、のんびりと店の片づけをしていた。

 客の引きも早い、このまま閉店作業に入ってもいいかもしれない。そう思った時だった。

「こんばんは」

 背後からかけられた声に、適は身を固くする。

 聞き慣れた、男の声。

 すぐさま、振り返る事ができなかった。その声の主が誰だか、知っていたからだ。

 ―――草薙…。

 間違えるはずがない。

 背中に、草薙の視線が突き刺さる。

 いったい、何をしに来たのか…この前の事に文句でも言いに来たのか。

(意味深な花を持ってきやがって…って?)

 もう、何を言われたってかまわない。なかばやけくそだった。

 勢いで振り返った。

 そこにいたのは、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべた草薙だった。

「…あっ……」

 途端に心拍数が上がる。

 一気に、この前の事がフラッシュバックして顔が熱くなる。

「すいません。あなたを見かけたものだから、つい声を…お仕事の邪魔をしてしまいましたね」

 申し訳ありません、と丁寧に頭まで下げる男に、自分の目と耳を疑った。

 もしかしなくても今、謝ったのだろうか…この男は。

 男は、似つかわしくない困惑した顔をしていた。文句の一つでも出てくるかと思った男の口からは、予想外の言葉しか出てこなかった。

「少しだけお話をさせて下さい。適さん、水曜日はバイトお休みですよね?」

 訳も分からず、適はただぽかんと草薙を見つめてしまった。

 この男は何をしに来たのか…。

 あまりの事に頭がついていかない。

 黙ったままの適に、草薙は更に続けた。

「違いますか?」

「…違わない、けど…」

 確かに毎週水曜は休んでいる。特に理由は無いが、一週間で比較的暇な日だから、と店長が休みにしてくれているだけだ。

(…よく、知ってるな……)

 一体、それがどうしたというのだろうか。

 曖昧に頷く適を見て、草薙はよかったと小声で呟いた。

「今度の水曜日、一緒に出掛けませんか?代休を取ってるんです」

「…代休って……」

「先日、先々日と休日出勤させられたので、その代わりのお休みです」

 言葉の意味を聞きたかったわけではない。

 知りたいのは、『代休になんで自分が誘われた』かという事だ。

(たまたま水曜に休みを取ったから…?それとも俺が休みなの知ってて…)

 どちらにしたって、この男と二人連れだって出掛ける理由はどこにも見当たらない。

 黙ったままの適に対して、草薙は表情を曇らせた。

「もしかして……予定が?」

「……いいや…でも、さ」

 ―――奥さんと出掛ければいいのに。

 その言葉が出てこない。

「今度は邪魔を入れないように言ってあります。だから…どこか行きましょう?」

「なっ!…今度って!」

 草薙の『今度は』という言葉に過剰に反応してしまう。この前の事を言っているのは明白だった。

 いったい、何を言ったのだ。この男は、自分の伴侶である人に何を言ったのだろう。

 草薙はため息まじりに言った。

「うちの社長にも困ったものです。いくら弟とはいえ、数カ月ぶりのまともな休日に呼び出しをかけるんですから…しかも唐突に。彼女の中で私は、常に暇をしていると思われているようです」

「…あの、電話?」

 草薙は苦笑いを浮かべたまま、頷いた。

(…奥さんじゃなかったんだ…)

 そうだとしても後ろめたい気持ちに変わりは無い。

 この男は、どう思っているのだろうか。

 適をからかって面白がっているのか、それとも…。

「適さん…あの事…」

 草薙の言葉にギクリとしてしまう。

 一気に、嫌な汗が噴き出してくる。

「あ、あの事、って…なんだよ」

「やっぱり、怒ってます?」

 そういう問題じゃない!

 声を荒げて、叫びたかった。

 自分はお前の事など何とも思っていないのだ、と。だから、何を言われたって、されたって平気だ。

 傷付いたり、哀しんだりもしない…。

 だから、早く決着をつけてほしい。いつまでもこの男に振り回されたくない。

 適は唇を噛みしめ、俯いた。今の顔を草薙には見られたくなかった。

 草薙は、落ち着いた調子で言った。

「…お誘いする前に、きちんと話すべきでしたね…」

「な、何をだよ!…だいたいな…」

 つい、強い口調で返してしまう。

 何も聞きたくないし、知りたくない。何事も無く、笑ってお仕舞いにしたいのだ。

 そして、早く忘れてしまいたかった。

 しかし、草薙の次の言葉に適は耳を疑った。

「あの時、あなたの気持ちが嬉しすぎて、舞い上がってしまったんです。年がいもなく先走って…あなたを驚かせてしまいましたね」

「…はぃ?」

「私も、あなたと同じ気持ちです。適さん」

 言葉を理解できなかった。

 この男は今、何と言った?

 適はまっすぐ草薙に視線を据えた。

 草薙は真摯で強い光をその瞳に宿らせ、怖じる事なくそれを受け止めながら、口を開いた。

「私も、あなたが好きです…狂わんばかりに」

 ―――あなたを愛しています。

 適が草薙の為に選んだ花。その花に秘めた想い。

 この男には、全て伝わっていたのだ。

 適は嬉しさよりも、大きな絶望と後悔に苛まれた。

 今ならまだ間に合うだろうか。

 あの花にはそんな意味は無い。そんなつもりは無い。

 そうつき返せば…まだ間に合うのだろうか。

 もう、遅いのだろうか。

「適さん…」

「あ…花……、今日は…」

 草薙の言葉を無かったものとしてしまいたかった。

 焦がれ過ぎた自分の、幻聴だと思い込みたかった。

「花、今日はどんな花を…」

「今日は、あなたを…」

 それ以上、言わないで欲しい。

 適は懸命に平静を装う。

「あのっ、そう!…ひ、ひま、わり…向日葵!…そ、れが、すごく綺麗だから…」

 唇が震え、声が上擦ってしまう。

 今にも、泣きそうになる。

「向日葵ですか…」

 言葉とともに草薙の手が肩に触れる。思わずビクリと身を竦ませた適を、鳶色の瞳が優しく覗き込んでくる。

 瞳の奥に、燃え滾る炎が見えた気がした。

 肩に添えられたままの草薙の左手には、今日も指輪が光を放っていた。

 指輪が、彼を所有する人がいる証があるのに、どうして。

「水曜日にゆっくり話をさせてください。今日は、私の気持ちを伝えたかった」

 どうして。どうして。どうして。

「好きです。適さん」

 好きだなんて、封印された言葉を。

 どうしてそんな事を、平気で言えるのか。

 指輪をしていない自分にも分かりきっているのに。

 永久に口にしてはいけない言葉だと。

 好きだなんて、どうして…。







「水曜日、絶対に空けておいて下さいね」

 草薙は取り出した名刺に、自身のメールアドレスを書き加えて適に差し出した。

 受け取る事を躊躇う適に無理やり握らせると、適からもアドレスを聞きだして帰って行った。

「後で連絡します。水曜日は必ず空けておいて下さい、絶対に」

 そう何度も言い含めて。



 適はその日限りでバイトを辞めた。

 配達から戻るなり突然告げられた店長は、ひどく狼狽しながら引き留めてくれた。産後間もない奥さんから、電話で説得もされた。

 それでも適は頑なに、首を横に振った。

 無理強いしても無駄だと判断したのか、諦めたのか、渋々と店長は承知してくれた。

 なによりこの仕事が好きだった、店も、店長夫妻も。長い事お世話にもなった、良くしてくれた。

 だから自分の我儘で無理を言うのは気が引けたが、背に腹は代えられなかった。

 これ以上、草薙と顔を合わす事はできない。してはいけない。

 彼との接点は全て、消さなければいけない。

 絶対に、もう二度と会ってはいけない。

「もしまたバイトをしようと思う事があったら、いつでも言ってきていいからね」

 そう言ってくれた店長に深々と頭を下げて、慣れ親しんだ花屋に別れを告げた。

 ここと自宅、そして大学は同じ沿線だ。男とは使う電車の時間帯は違うし、自宅の場所も知らない。まさか、一駅先に住んでいるとは思うまい。

 奇跡のような偶然でもない限り、草薙と顔を会わせる事は無い。

 それでいいのだ。もう会うことも思い出す事も、してはいけない。

 草薙には家庭があるのだ。

 それを壊すわけにはいかない。

 同じ男である自分が邪魔をすれば、草薙の将来も奥さんの人生も狂わせ、周りの人たちをも不快にさせ、不幸にするかもしれない。

 世間知らずの学生が面白いように反応するから、少しからかって、楽しんで、それくらいだろう。魔がさしただけ、一時の気の迷い。

 けれど、自分には無理だ。

 きっと本気になってしまう。最後には、捨てるなと縋りついて醜態をさらすに決まっている。

 だから、距離を置かなければ、少しでも離れなければ。

 もう既に、こんなにも本気になっているのだから。

 こうして店を辞め、彼との接点を絶っていく。今できる事は、これくらいしかない。

 あとは…早く忘れなければ。彼の事を。

 あの笑顔も声も、唇の感触も、肌に伝った熱も…何もかも。

 草薙慎一、という存在自体を。
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