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4・行き場の無い想い
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電車に飛び乗ったものの、真っ直ぐ家に帰る気にはならなかった。
行先があるわけでもない。転がり込む事ができるような友人もいないし、そんな交遊関係は適には無い。
あるとしたら川田の所くらいだ。
そこまで考えて、自分の情けなさにため息がもれた。
川田の所に行ってどうする。友人に縋り、慰めてもらおうとでもいうのか。
草薙の代わりに。
(……友人でいたい、なんて思ってるくせに…なんて自分勝手で、ズルイ考え…)
それをしてしまったら、もう何もかも取り戻せなくなる。友人としても、人としても。
適はとりあえず、自宅アパートのある駅を乗り過ごし、数駅先で降りた。
初めて降りる駅は、小さいけれど昔ながらの温かい雰囲気の商店街があり、活気に溢れていた。
いつしか時間は、昼の二時を過ぎていた。土曜の昼下がり、親子連れやカップルの姿が多く見受けられる。
人目を避けたかった。幸せそうなカップル、ましてや家族連れなどは見たくもなかった。
適当に路地に入り、闇雲に曲がる。どこに向かっているのか、どこに着くのかなど分からなかったが、小さな公園に抜ける事ができた。
鉄棒と砂場だけの公園だった。人の姿は無い。
そう遠くない所で、子供の笑いさざめく声が聞こえる。きっとこの近くに、もっと大きくて、遊具もたくさんある公園があるのかもしれない。
今は、この人気の無い公園が有難かった。
適は目に付いたベンチに座り込んだ。小さく泣き言を呟く。
「……覚悟、決めて行ったんじゃなかったのかよ…」
今日で最後にするのだ、想いを断ち切るのだ。と息巻いていた自分はどこに行ったのだろうか。
―――紅い菊の花束。
花の勉強をした、と言っていた気がする。商品化を考えていたのなら、花言葉についても調べていたのかもしれない。
きっと、気が付いたのだろう。
だから、あんな行動に出たのかもしれない。
彼は、あれからどうしたのだろうか。
奥さんからの電話に、何と言ったのだろうか。
「まさか…男と乳繰り合ってました…なんて言うわけないよな…」
自分で言って悲しくなる。
今頃、彼は自分の行動を後悔しているだろう。もう二度と、店にも来ないだろう。
いったい、どうしたらよかったのだろうか…。
きちんと言葉で伝えていたら、彼の気持ちが聞けたのに。
気の迷いだったとしても、一度くらいは抱いてもらえたのに。
適はスマホの電源を入れた。
昨日の午後から切ったままだった。
入れた途端、待ってましたとばかりに着信が入る。
「川田…」
向こうからは、驚きと安堵の入り混じった声が返ってきた。
『若村かっ?お前…昨日から何してたんだよ!授業には来ないし……ずっと電話とメールしてたんだからなっ』
「……うん…悪かった」
『ったく…心配してバイト先覗きに行ってみたら、臨時休業だし。どうなってんだっ、今どこにいる?』
適は、ポツリと呟いた。
「分かんない……」
川田は間の抜けた声を出す。
『はぁ~あ?なんだよ分かんないって』
無性におかしかった。実際は、少しもおかしくなんかなかった、でも笑いたかった。そうじゃないと、哀しくて、泣き叫んでしまいそうだった。
適はしばらく笑い声をあげていた。
こんなにも張り裂けんばかりの胸の痛みと、苦しさを抱えているのに、今いる場所も何も分からない、ただの公園なのだ。もう、笑うしかない。
ふと、笑いを止める。
「………川田」
『あぁ?』
適はなるべく平静を装い、静かに、一つ一つ確かに言葉を発した。
「ごめん…本当に、ごめん。…………俺、さ…好きな、人がいる」
川田の相当驚いている様子が、電話越しでもひしひしと伝わってくる。
『おいおいおい、なんだよ。急にさっ』
「……急、じゃ…ない。……ずっと、何とかしないといけない……って思ってた」
息を飲む音が聞こえた。それからは、しばらくの沈黙。
重い沈黙を破ったのは、川田だった。
『…………お前……若村は、気付いてたのか……オレの、気持ち』
「……うん………気付いてて、知らない振り…してた。……ごめん…ごめ、ん……俺はこんなに、ズルくて…本当…ズルい…」
言葉を詰まらせる適に、川田は強い口調で言った。
『馬鹿!謝るな!』
川田は大きく深呼吸すると、落ち着いた声で訊いてきた。
『…相手……相手はさ…どんな娘こ?』
また笑いそうになる。
本当に『女の子』だったら、どんなにいいか。それか、適が女の子だったら…それで、もっと早くに産まれてきていれば、最初から問題など無かった。
「……『どんな娘』じゃ…ないんだ。……男…なんだ」
絶句されるのも、当たり前の事だ。
『…………オレ……』
「いいんだ。何も言わなくて……完全な片想いだから……しかも、失恋してきたばっかりだ」
『じゃぁ…さ…』
そこまで言って、川田は黙った。次の言葉を言うか否か迷っているのだろう。
口火を切ったのは、適だった。
「川田……駄目だ、言っちゃ。……俺、川田の事……友達として、好きなんだ……友達でいたいんだ」
掠れた苦しげな声が尋ねる。
『…今でも…れから先も?』
「うん」
しばらく間があった。
『…そう、か』
適も、すぐには言葉が出なかった。
「…もし…お前が許してくれるなら……友達で、いたい」
『…時間かかるぞ……きっと…引きずるタイプだから……』
「うん。それでも、いい」
適は呟いた。
「元に戻る事ができるなら……いつまでも待つ」
今にも泣き出しそうな声で、川田は言った。
『せめて…言いたいんだ…』
「うん」
何を言うつもりなのかは、分かっていた。
適があれほど恐れていた言葉を、友人は、友人でいる為に言ってくれた。
『若村。…お前が、好きだった』
ただ、適は泣いた。
この友人には何よりも、誰よりも幸せになって欲しいと願った。
自分などどうなってもいい。
川田には、川田だけは、幸せになって欲しい。
月曜になって、適はバイトに向かった。
店長から、無事に出産が終わり月曜から店を開ける、と連絡がきたのは昨日の朝だった。その前日の草薙との一件、川田とのやり取りのせいで鬱々としていた適には、嬉しい連絡だった。
しかし、草薙の事が引っ掛かっていた。
あの男が適の前に現れる事はもう無いだろう。
(あれはたまたま…魔がさしただけ…)
妻帯者である彼が、同じ男である適にそんな感情を抱くはずがない。あってはいけないのだ。
近くに仕事用のマンションがあるが、意識していれば鉢合わせる事は無いし、店の外を見なければ彼を視界に捉える事も無い。
ふと、寂しい気持ちになったが、始めから間違っていた想いで、これが正しい結果なのだ。
あの時、断ち切ろうと決めたではないか。
いつまでも未練がましく引きずる自分を叱責すると、仕事の準備を始めた。
しかし数時間後には、自身の考えが全て甘いものだと思い知る。
夏本番で連日猛暑続きだが、日が落ちると一気に気温も下がる。
開け放ったままの店先から、心地良い風が吹き込んでくる。
店長は、生まれたばかりの愛娘にご執心で、早くも親ばかっぷりを発揮していた。行く先々で惚気ているらしく、配達にいつもの倍以上時間がかかる。
まだ戻らない店長を、呆れつつも微笑ましく思いながら、のんびりと店の片づけをしていた。
客の引きも早い、このまま閉店作業に入ってもいいかもしれない。そう思った時だった。
「こんばんは」
背後からかけられた声に、適は身を固くする。
聞き慣れた、男の声。
すぐさま、振り返る事ができなかった。その声の主が誰だか、知っていたからだ。
―――草薙…。
間違えるはずがない。
背中に、草薙の視線が突き刺さる。
いったい、何をしに来たのか…この前の事に文句でも言いに来たのか。
(意味深な花を持ってきやがって…って?)
もう、何を言われたってかまわない。なかばやけくそだった。
勢いで振り返った。
そこにいたのは、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべた草薙だった。
「…あっ……」
途端に心拍数が上がる。
一気に、この前の事がフラッシュバックして顔が熱くなる。
「すいません。あなたを見かけたものだから、つい声を…お仕事の邪魔をしてしまいましたね」
申し訳ありません、と丁寧に頭まで下げる男に、自分の目と耳を疑った。
もしかしなくても今、謝ったのだろうか…この男は。
男は、似つかわしくない困惑した顔をしていた。文句の一つでも出てくるかと思った男の口からは、予想外の言葉しか出てこなかった。
「少しだけお話をさせて下さい。適さん、水曜日はバイトお休みですよね?」
訳も分からず、適はただぽかんと草薙を見つめてしまった。
この男は何をしに来たのか…。
あまりの事に頭がついていかない。
黙ったままの適に、草薙は更に続けた。
「違いますか?」
「…違わない、けど…」
確かに毎週水曜は休んでいる。特に理由は無いが、一週間で比較的暇な日だから、と店長が休みにしてくれているだけだ。
(…よく、知ってるな……)
一体、それがどうしたというのだろうか。
曖昧に頷く適を見て、草薙はよかったと小声で呟いた。
「今度の水曜日、一緒に出掛けませんか?代休を取ってるんです」
「…代休って……」
「先日、先々日と休日出勤させられたので、その代わりのお休みです」
言葉の意味を聞きたかったわけではない。
知りたいのは、『代休になんで自分が誘われた』かという事だ。
(たまたま水曜に休みを取ったから…?それとも俺が休みなの知ってて…)
どちらにしたって、この男と二人連れだって出掛ける理由はどこにも見当たらない。
黙ったままの適に対して、草薙は表情を曇らせた。
「もしかして……予定が?」
「……いいや…でも、さ」
―――奥さんと出掛ければいいのに。
その言葉が出てこない。
「今度は邪魔を入れないように言ってあります。だから…どこか行きましょう?」
「なっ!…今度って!」
草薙の『今度は』という言葉に過剰に反応してしまう。この前の事を言っているのは明白だった。
いったい、何を言ったのだ。この男は、自分の伴侶である人に何を言ったのだろう。
草薙はため息まじりに言った。
「うちの社長にも困ったものです。いくら弟とはいえ、数カ月ぶりのまともな休日に呼び出しをかけるんですから…しかも唐突に。彼女の中で私は、常に暇をしていると思われているようです」
「…あの、電話?」
草薙は苦笑いを浮かべたまま、頷いた。
(…奥さんじゃなかったんだ…)
そうだとしても後ろめたい気持ちに変わりは無い。
この男は、どう思っているのだろうか。
適をからかって面白がっているのか、それとも…。
「適さん…あの事…」
草薙の言葉にギクリとしてしまう。
一気に、嫌な汗が噴き出してくる。
「あ、あの事、って…なんだよ」
「やっぱり、怒ってます?」
そういう問題じゃない!
声を荒げて、叫びたかった。
自分はお前の事など何とも思っていないのだ、と。だから、何を言われたって、されたって平気だ。
傷付いたり、哀しんだりもしない…。
だから、早く決着をつけてほしい。いつまでもこの男に振り回されたくない。
適は唇を噛みしめ、俯いた。今の顔を草薙には見られたくなかった。
草薙は、落ち着いた調子で言った。
「…お誘いする前に、きちんと話すべきでしたね…」
「な、何をだよ!…だいたいな…」
つい、強い口調で返してしまう。
何も聞きたくないし、知りたくない。何事も無く、笑ってお仕舞いにしたいのだ。
そして、早く忘れてしまいたかった。
しかし、草薙の次の言葉に適は耳を疑った。
「あの時、あなたの気持ちが嬉しすぎて、舞い上がってしまったんです。年がいもなく先走って…あなたを驚かせてしまいましたね」
「…はぃ?」
「私も、あなたと同じ気持ちです。適さん」
言葉を理解できなかった。
この男は今、何と言った?
適はまっすぐ草薙に視線を据えた。
草薙は真摯で強い光をその瞳に宿らせ、怖じる事なくそれを受け止めながら、口を開いた。
「私も、あなたが好きです…狂わんばかりに」
―――あなたを愛しています。
適が草薙の為に選んだ花。その花に秘めた想い。
この男には、全て伝わっていたのだ。
適は嬉しさよりも、大きな絶望と後悔に苛まれた。
今ならまだ間に合うだろうか。
あの花にはそんな意味は無い。そんなつもりは無い。
そうつき返せば…まだ間に合うのだろうか。
もう、遅いのだろうか。
「適さん…」
「あ…花……、今日は…」
草薙の言葉を無かったものとしてしまいたかった。
焦がれ過ぎた自分の、幻聴だと思い込みたかった。
「花、今日はどんな花を…」
「今日は、あなたを…」
それ以上、言わないで欲しい。
適は懸命に平静を装う。
「あのっ、そう!…ひ、ひま、わり…向日葵!…そ、れが、すごく綺麗だから…」
唇が震え、声が上擦ってしまう。
今にも、泣きそうになる。
「向日葵ですか…」
言葉とともに草薙の手が肩に触れる。思わずビクリと身を竦ませた適を、鳶色の瞳が優しく覗き込んでくる。
瞳の奥に、燃え滾る炎が見えた気がした。
肩に添えられたままの草薙の左手には、今日も指輪が光を放っていた。
指輪が、彼を所有する人がいる証があるのに、どうして。
「水曜日にゆっくり話をさせてください。今日は、私の気持ちを伝えたかった」
どうして。どうして。どうして。
「好きです。適さん」
好きだなんて、封印された言葉を。
どうしてそんな事を、平気で言えるのか。
指輪をしていない自分にも分かりきっているのに。
永久に口にしてはいけない言葉だと。
好きだなんて、どうして…。
「水曜日、絶対に空けておいて下さいね」
草薙は取り出した名刺に、自身のメールアドレスを書き加えて適に差し出した。
受け取る事を躊躇う適に無理やり握らせると、適からもアドレスを聞きだして帰って行った。
「後で連絡します。水曜日は必ず空けておいて下さい、絶対に」
そう何度も言い含めて。
適はその日限りでバイトを辞めた。
配達から戻るなり突然告げられた店長は、ひどく狼狽しながら引き留めてくれた。産後間もない奥さんから、電話で説得もされた。
それでも適は頑なに、首を横に振った。
無理強いしても無駄だと判断したのか、諦めたのか、渋々と店長は承知してくれた。
なによりこの仕事が好きだった、店も、店長夫妻も。長い事お世話にもなった、良くしてくれた。
だから自分の我儘で無理を言うのは気が引けたが、背に腹は代えられなかった。
これ以上、草薙と顔を合わす事はできない。してはいけない。
彼との接点は全て、消さなければいけない。
絶対に、もう二度と会ってはいけない。
「もしまたバイトをしようと思う事があったら、いつでも言ってきていいからね」
そう言ってくれた店長に深々と頭を下げて、慣れ親しんだ花屋に別れを告げた。
ここと自宅、そして大学は同じ沿線だ。男とは使う電車の時間帯は違うし、自宅の場所も知らない。まさか、一駅先に住んでいるとは思うまい。
奇跡のような偶然でもない限り、草薙と顔を会わせる事は無い。
それでいいのだ。もう会うことも思い出す事も、してはいけない。
草薙には家庭があるのだ。
それを壊すわけにはいかない。
同じ男である自分が邪魔をすれば、草薙の将来も奥さんの人生も狂わせ、周りの人たちをも不快にさせ、不幸にするかもしれない。
世間知らずの学生が面白いように反応するから、少しからかって、楽しんで、それくらいだろう。魔がさしただけ、一時の気の迷い。
けれど、自分には無理だ。
きっと本気になってしまう。最後には、捨てるなと縋りついて醜態をさらすに決まっている。
だから、距離を置かなければ、少しでも離れなければ。
もう既に、こんなにも本気になっているのだから。
こうして店を辞め、彼との接点を絶っていく。今できる事は、これくらいしかない。
あとは…早く忘れなければ。彼の事を。
あの笑顔も声も、唇の感触も、肌に伝った熱も…何もかも。
草薙慎一、という存在自体を。
行先があるわけでもない。転がり込む事ができるような友人もいないし、そんな交遊関係は適には無い。
あるとしたら川田の所くらいだ。
そこまで考えて、自分の情けなさにため息がもれた。
川田の所に行ってどうする。友人に縋り、慰めてもらおうとでもいうのか。
草薙の代わりに。
(……友人でいたい、なんて思ってるくせに…なんて自分勝手で、ズルイ考え…)
それをしてしまったら、もう何もかも取り戻せなくなる。友人としても、人としても。
適はとりあえず、自宅アパートのある駅を乗り過ごし、数駅先で降りた。
初めて降りる駅は、小さいけれど昔ながらの温かい雰囲気の商店街があり、活気に溢れていた。
いつしか時間は、昼の二時を過ぎていた。土曜の昼下がり、親子連れやカップルの姿が多く見受けられる。
人目を避けたかった。幸せそうなカップル、ましてや家族連れなどは見たくもなかった。
適当に路地に入り、闇雲に曲がる。どこに向かっているのか、どこに着くのかなど分からなかったが、小さな公園に抜ける事ができた。
鉄棒と砂場だけの公園だった。人の姿は無い。
そう遠くない所で、子供の笑いさざめく声が聞こえる。きっとこの近くに、もっと大きくて、遊具もたくさんある公園があるのかもしれない。
今は、この人気の無い公園が有難かった。
適は目に付いたベンチに座り込んだ。小さく泣き言を呟く。
「……覚悟、決めて行ったんじゃなかったのかよ…」
今日で最後にするのだ、想いを断ち切るのだ。と息巻いていた自分はどこに行ったのだろうか。
―――紅い菊の花束。
花の勉強をした、と言っていた気がする。商品化を考えていたのなら、花言葉についても調べていたのかもしれない。
きっと、気が付いたのだろう。
だから、あんな行動に出たのかもしれない。
彼は、あれからどうしたのだろうか。
奥さんからの電話に、何と言ったのだろうか。
「まさか…男と乳繰り合ってました…なんて言うわけないよな…」
自分で言って悲しくなる。
今頃、彼は自分の行動を後悔しているだろう。もう二度と、店にも来ないだろう。
いったい、どうしたらよかったのだろうか…。
きちんと言葉で伝えていたら、彼の気持ちが聞けたのに。
気の迷いだったとしても、一度くらいは抱いてもらえたのに。
適はスマホの電源を入れた。
昨日の午後から切ったままだった。
入れた途端、待ってましたとばかりに着信が入る。
「川田…」
向こうからは、驚きと安堵の入り混じった声が返ってきた。
『若村かっ?お前…昨日から何してたんだよ!授業には来ないし……ずっと電話とメールしてたんだからなっ』
「……うん…悪かった」
『ったく…心配してバイト先覗きに行ってみたら、臨時休業だし。どうなってんだっ、今どこにいる?』
適は、ポツリと呟いた。
「分かんない……」
川田は間の抜けた声を出す。
『はぁ~あ?なんだよ分かんないって』
無性におかしかった。実際は、少しもおかしくなんかなかった、でも笑いたかった。そうじゃないと、哀しくて、泣き叫んでしまいそうだった。
適はしばらく笑い声をあげていた。
こんなにも張り裂けんばかりの胸の痛みと、苦しさを抱えているのに、今いる場所も何も分からない、ただの公園なのだ。もう、笑うしかない。
ふと、笑いを止める。
「………川田」
『あぁ?』
適はなるべく平静を装い、静かに、一つ一つ確かに言葉を発した。
「ごめん…本当に、ごめん。…………俺、さ…好きな、人がいる」
川田の相当驚いている様子が、電話越しでもひしひしと伝わってくる。
『おいおいおい、なんだよ。急にさっ』
「……急、じゃ…ない。……ずっと、何とかしないといけない……って思ってた」
息を飲む音が聞こえた。それからは、しばらくの沈黙。
重い沈黙を破ったのは、川田だった。
『…………お前……若村は、気付いてたのか……オレの、気持ち』
「……うん………気付いてて、知らない振り…してた。……ごめん…ごめ、ん……俺はこんなに、ズルくて…本当…ズルい…」
言葉を詰まらせる適に、川田は強い口調で言った。
『馬鹿!謝るな!』
川田は大きく深呼吸すると、落ち着いた声で訊いてきた。
『…相手……相手はさ…どんな娘こ?』
また笑いそうになる。
本当に『女の子』だったら、どんなにいいか。それか、適が女の子だったら…それで、もっと早くに産まれてきていれば、最初から問題など無かった。
「……『どんな娘』じゃ…ないんだ。……男…なんだ」
絶句されるのも、当たり前の事だ。
『…………オレ……』
「いいんだ。何も言わなくて……完全な片想いだから……しかも、失恋してきたばっかりだ」
『じゃぁ…さ…』
そこまで言って、川田は黙った。次の言葉を言うか否か迷っているのだろう。
口火を切ったのは、適だった。
「川田……駄目だ、言っちゃ。……俺、川田の事……友達として、好きなんだ……友達でいたいんだ」
掠れた苦しげな声が尋ねる。
『…今でも…れから先も?』
「うん」
しばらく間があった。
『…そう、か』
適も、すぐには言葉が出なかった。
「…もし…お前が許してくれるなら……友達で、いたい」
『…時間かかるぞ……きっと…引きずるタイプだから……』
「うん。それでも、いい」
適は呟いた。
「元に戻る事ができるなら……いつまでも待つ」
今にも泣き出しそうな声で、川田は言った。
『せめて…言いたいんだ…』
「うん」
何を言うつもりなのかは、分かっていた。
適があれほど恐れていた言葉を、友人は、友人でいる為に言ってくれた。
『若村。…お前が、好きだった』
ただ、適は泣いた。
この友人には何よりも、誰よりも幸せになって欲しいと願った。
自分などどうなってもいい。
川田には、川田だけは、幸せになって欲しい。
月曜になって、適はバイトに向かった。
店長から、無事に出産が終わり月曜から店を開ける、と連絡がきたのは昨日の朝だった。その前日の草薙との一件、川田とのやり取りのせいで鬱々としていた適には、嬉しい連絡だった。
しかし、草薙の事が引っ掛かっていた。
あの男が適の前に現れる事はもう無いだろう。
(あれはたまたま…魔がさしただけ…)
妻帯者である彼が、同じ男である適にそんな感情を抱くはずがない。あってはいけないのだ。
近くに仕事用のマンションがあるが、意識していれば鉢合わせる事は無いし、店の外を見なければ彼を視界に捉える事も無い。
ふと、寂しい気持ちになったが、始めから間違っていた想いで、これが正しい結果なのだ。
あの時、断ち切ろうと決めたではないか。
いつまでも未練がましく引きずる自分を叱責すると、仕事の準備を始めた。
しかし数時間後には、自身の考えが全て甘いものだと思い知る。
夏本番で連日猛暑続きだが、日が落ちると一気に気温も下がる。
開け放ったままの店先から、心地良い風が吹き込んでくる。
店長は、生まれたばかりの愛娘にご執心で、早くも親ばかっぷりを発揮していた。行く先々で惚気ているらしく、配達にいつもの倍以上時間がかかる。
まだ戻らない店長を、呆れつつも微笑ましく思いながら、のんびりと店の片づけをしていた。
客の引きも早い、このまま閉店作業に入ってもいいかもしれない。そう思った時だった。
「こんばんは」
背後からかけられた声に、適は身を固くする。
聞き慣れた、男の声。
すぐさま、振り返る事ができなかった。その声の主が誰だか、知っていたからだ。
―――草薙…。
間違えるはずがない。
背中に、草薙の視線が突き刺さる。
いったい、何をしに来たのか…この前の事に文句でも言いに来たのか。
(意味深な花を持ってきやがって…って?)
もう、何を言われたってかまわない。なかばやけくそだった。
勢いで振り返った。
そこにいたのは、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべた草薙だった。
「…あっ……」
途端に心拍数が上がる。
一気に、この前の事がフラッシュバックして顔が熱くなる。
「すいません。あなたを見かけたものだから、つい声を…お仕事の邪魔をしてしまいましたね」
申し訳ありません、と丁寧に頭まで下げる男に、自分の目と耳を疑った。
もしかしなくても今、謝ったのだろうか…この男は。
男は、似つかわしくない困惑した顔をしていた。文句の一つでも出てくるかと思った男の口からは、予想外の言葉しか出てこなかった。
「少しだけお話をさせて下さい。適さん、水曜日はバイトお休みですよね?」
訳も分からず、適はただぽかんと草薙を見つめてしまった。
この男は何をしに来たのか…。
あまりの事に頭がついていかない。
黙ったままの適に、草薙は更に続けた。
「違いますか?」
「…違わない、けど…」
確かに毎週水曜は休んでいる。特に理由は無いが、一週間で比較的暇な日だから、と店長が休みにしてくれているだけだ。
(…よく、知ってるな……)
一体、それがどうしたというのだろうか。
曖昧に頷く適を見て、草薙はよかったと小声で呟いた。
「今度の水曜日、一緒に出掛けませんか?代休を取ってるんです」
「…代休って……」
「先日、先々日と休日出勤させられたので、その代わりのお休みです」
言葉の意味を聞きたかったわけではない。
知りたいのは、『代休になんで自分が誘われた』かという事だ。
(たまたま水曜に休みを取ったから…?それとも俺が休みなの知ってて…)
どちらにしたって、この男と二人連れだって出掛ける理由はどこにも見当たらない。
黙ったままの適に対して、草薙は表情を曇らせた。
「もしかして……予定が?」
「……いいや…でも、さ」
―――奥さんと出掛ければいいのに。
その言葉が出てこない。
「今度は邪魔を入れないように言ってあります。だから…どこか行きましょう?」
「なっ!…今度って!」
草薙の『今度は』という言葉に過剰に反応してしまう。この前の事を言っているのは明白だった。
いったい、何を言ったのだ。この男は、自分の伴侶である人に何を言ったのだろう。
草薙はため息まじりに言った。
「うちの社長にも困ったものです。いくら弟とはいえ、数カ月ぶりのまともな休日に呼び出しをかけるんですから…しかも唐突に。彼女の中で私は、常に暇をしていると思われているようです」
「…あの、電話?」
草薙は苦笑いを浮かべたまま、頷いた。
(…奥さんじゃなかったんだ…)
そうだとしても後ろめたい気持ちに変わりは無い。
この男は、どう思っているのだろうか。
適をからかって面白がっているのか、それとも…。
「適さん…あの事…」
草薙の言葉にギクリとしてしまう。
一気に、嫌な汗が噴き出してくる。
「あ、あの事、って…なんだよ」
「やっぱり、怒ってます?」
そういう問題じゃない!
声を荒げて、叫びたかった。
自分はお前の事など何とも思っていないのだ、と。だから、何を言われたって、されたって平気だ。
傷付いたり、哀しんだりもしない…。
だから、早く決着をつけてほしい。いつまでもこの男に振り回されたくない。
適は唇を噛みしめ、俯いた。今の顔を草薙には見られたくなかった。
草薙は、落ち着いた調子で言った。
「…お誘いする前に、きちんと話すべきでしたね…」
「な、何をだよ!…だいたいな…」
つい、強い口調で返してしまう。
何も聞きたくないし、知りたくない。何事も無く、笑ってお仕舞いにしたいのだ。
そして、早く忘れてしまいたかった。
しかし、草薙の次の言葉に適は耳を疑った。
「あの時、あなたの気持ちが嬉しすぎて、舞い上がってしまったんです。年がいもなく先走って…あなたを驚かせてしまいましたね」
「…はぃ?」
「私も、あなたと同じ気持ちです。適さん」
言葉を理解できなかった。
この男は今、何と言った?
適はまっすぐ草薙に視線を据えた。
草薙は真摯で強い光をその瞳に宿らせ、怖じる事なくそれを受け止めながら、口を開いた。
「私も、あなたが好きです…狂わんばかりに」
―――あなたを愛しています。
適が草薙の為に選んだ花。その花に秘めた想い。
この男には、全て伝わっていたのだ。
適は嬉しさよりも、大きな絶望と後悔に苛まれた。
今ならまだ間に合うだろうか。
あの花にはそんな意味は無い。そんなつもりは無い。
そうつき返せば…まだ間に合うのだろうか。
もう、遅いのだろうか。
「適さん…」
「あ…花……、今日は…」
草薙の言葉を無かったものとしてしまいたかった。
焦がれ過ぎた自分の、幻聴だと思い込みたかった。
「花、今日はどんな花を…」
「今日は、あなたを…」
それ以上、言わないで欲しい。
適は懸命に平静を装う。
「あのっ、そう!…ひ、ひま、わり…向日葵!…そ、れが、すごく綺麗だから…」
唇が震え、声が上擦ってしまう。
今にも、泣きそうになる。
「向日葵ですか…」
言葉とともに草薙の手が肩に触れる。思わずビクリと身を竦ませた適を、鳶色の瞳が優しく覗き込んでくる。
瞳の奥に、燃え滾る炎が見えた気がした。
肩に添えられたままの草薙の左手には、今日も指輪が光を放っていた。
指輪が、彼を所有する人がいる証があるのに、どうして。
「水曜日にゆっくり話をさせてください。今日は、私の気持ちを伝えたかった」
どうして。どうして。どうして。
「好きです。適さん」
好きだなんて、封印された言葉を。
どうしてそんな事を、平気で言えるのか。
指輪をしていない自分にも分かりきっているのに。
永久に口にしてはいけない言葉だと。
好きだなんて、どうして…。
「水曜日、絶対に空けておいて下さいね」
草薙は取り出した名刺に、自身のメールアドレスを書き加えて適に差し出した。
受け取る事を躊躇う適に無理やり握らせると、適からもアドレスを聞きだして帰って行った。
「後で連絡します。水曜日は必ず空けておいて下さい、絶対に」
そう何度も言い含めて。
適はその日限りでバイトを辞めた。
配達から戻るなり突然告げられた店長は、ひどく狼狽しながら引き留めてくれた。産後間もない奥さんから、電話で説得もされた。
それでも適は頑なに、首を横に振った。
無理強いしても無駄だと判断したのか、諦めたのか、渋々と店長は承知してくれた。
なによりこの仕事が好きだった、店も、店長夫妻も。長い事お世話にもなった、良くしてくれた。
だから自分の我儘で無理を言うのは気が引けたが、背に腹は代えられなかった。
これ以上、草薙と顔を合わす事はできない。してはいけない。
彼との接点は全て、消さなければいけない。
絶対に、もう二度と会ってはいけない。
「もしまたバイトをしようと思う事があったら、いつでも言ってきていいからね」
そう言ってくれた店長に深々と頭を下げて、慣れ親しんだ花屋に別れを告げた。
ここと自宅、そして大学は同じ沿線だ。男とは使う電車の時間帯は違うし、自宅の場所も知らない。まさか、一駅先に住んでいるとは思うまい。
奇跡のような偶然でもない限り、草薙と顔を会わせる事は無い。
それでいいのだ。もう会うことも思い出す事も、してはいけない。
草薙には家庭があるのだ。
それを壊すわけにはいかない。
同じ男である自分が邪魔をすれば、草薙の将来も奥さんの人生も狂わせ、周りの人たちをも不快にさせ、不幸にするかもしれない。
世間知らずの学生が面白いように反応するから、少しからかって、楽しんで、それくらいだろう。魔がさしただけ、一時の気の迷い。
けれど、自分には無理だ。
きっと本気になってしまう。最後には、捨てるなと縋りついて醜態をさらすに決まっている。
だから、距離を置かなければ、少しでも離れなければ。
もう既に、こんなにも本気になっているのだから。
こうして店を辞め、彼との接点を絶っていく。今できる事は、これくらいしかない。
あとは…早く忘れなければ。彼の事を。
あの笑顔も声も、唇の感触も、肌に伝った熱も…何もかも。
草薙慎一、という存在自体を。
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