魔法の砂時計

オレンジ方解石

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続・後編

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「懲戒免職…………!? 何故です!? どうして急に!!」

「自分の胸に訊いてみたまえ」

 校長に詰め寄った裕貴に、答えたのは校長ではなく、同席していた老人だった。
 二学期の終盤。期末テストも終えて、いよいよ冬休み。
 裕貴は割り振られた膨大な採点をようやく終えて、一息ついていたところだった。

(さて。クリスマス・イブは、どうしたものか)

 職員室でコーヒーを飲みながら、心躍る悩みとじっくりと向き合う。
『愛人』達は、自分こそがご主人様裕貴とのクリスマス・デートに誘われるものと信じて、なにかにつけて秋波を送ってきている。
 しかし裕貴としては、やはりクリスマス・デートは本命を連れていきたい。
 裕貴が誘いたいのは相変わらず、九条美琴だった。
 だが、その九条美琴は一向になびかない。
「今年のクリスマスはハワイの別荘に」という話も聞き、デートは絶望的だった。

(しかたない。今年はあきらめて、楽しみは来年にとっておくか)

 しぶしぶ、そんな結論を出す。

(他の女達だと、という一人はいないんだよな。…………いっそ三人過ごすか?)

 背徳的な想像に口もとをゆるめていると、校長室に呼び出された。

「失礼します」

 裕貴がノックして入室すると、重厚な校長室には、部屋の主である校長と教頭と学年主任、そして裕貴の知らぬ老人がソファに腰かけて待っていた。
 老人の隣には九条美琴が、白い膝をぴたりとそろえ、ぴんと背筋を伸ばして座っている。

「急に呼び出して悪かったね、大久保君」

 校長が素っ気なく詫び、ソファに座る老人を紹介する。

「こちらは九条グループの会長、九条しげる氏だ。二年の九条美琴さんのお祖父様だ」

 裕貴は驚いてあいさつし、一瞬(俺を認めて、孫娘との結婚話を持ち込みにでも来たか?)という期待がよぎる。
 しかし校長の口から聞かされたのは、裕貴の予想や期待を徹底して裏切る決定だった。
『懲戒免職』という単語に耳を疑う裕貴に、重厚な威厳をまとった老人は「自分の胸に訊いてみたまえ」と、ソファのななめ背後に立っていた秘書に目配せする。
 秘書は持参した大きな封筒を開け、ソファの前のガラステーブルに中身を広げた。
 裕貴は心臓をわしづかみされたような衝撃を味わう。
 テーブルに広げられたのは無数の写真だった。
 それも、裕貴が宮園七海やその他の『愛人』達とブランド店で買い物したり、高級レストランで食事したり、話題のデートスポットをまわったりしている写真である。
 それどころか裕貴が三カ所のマンションに入り、そのマンションから七海達と腕を組んで出てくるものさえあった。

「まさか、教師でありながら、自分の勤務する学園の生徒達を愛人のように囲っていたとは…………それも、判明しただけで三人も!」

 校長や教頭、学年主任も険しい表情で裕貴を見つめる。

「君はずいぶん、経済的にゆとりがあるようだな。調べた限りでは一般的な家庭のようだし、副業をしている報告もなかったが…………まあ、そこはいい」

 九条会長は不審をにじませながらも、裕貴に説明していく。
 いわく、秋頃に孫娘美琴が『大久保という臨時教師から誘われつづけて、困っている』と訴えてきた。似たようなことは何度もあり、「まずは問題の教師の身元を」と調査をはじめたら、三カ所ものマンションに通って、週末には生徒を連れて豪遊していることが判明した。
 もともと、裕貴が借りているマンションは九条グループ系列の不動産が管理する物件であり、裕貴が少女達を連れ回していた高級店も、九条家の『なじみ』の店だった。
 調査はあっという間に進み、九条茂もその息子(美琴の父)も「こんな男を美琴のそばに置けるか!」「いや、学園そのものに置いておけない!」と意見が一致して、会長である祖父が調査報告書をたずさえ、校長室を訪れたのである。
 事態を知った学園側も仰天し、即座に緊急会議を開いて『大久保教諭の免職処分』を決定した。

「お待ちください! これは、その、誤解です!!」

 裕貴は焦りつつも頭を高速回転させる。

「これはつまり、真面目な、真剣な、そう、『支援』です! 僕は、彼女達を助けていただけです!!」

「支援とは?」

 老人の重々しい問いかけに、裕貴は必死で弁解の言葉を重ねていった。

「彼女達は、家庭が経済的な困窮状態にあり、それが理由で成績にも支障をきたしていました! 僕は、彼女達の勉強を見ていただけです!! やましいことは何もありません!!」

「それなら、校内で補習を行えばいいだろう。わざわざ自宅に招く必要はない。もっとも、この三カ所は『自宅』として教員名簿に記載されている住所とは異なるようだが」

「それは、その、彼女達が『校内だと補習が友達にばれて恥ずかしい』と言い出して。だから僕が、それ用の部屋を借りたんです」

「それにしても、この規模と賃料の部屋を借りる必要はないように思えるがね。不動産の説明を聞く限り、どのマンションもだそうだが?」

「それは…………っ」

「それと買い物や食事の件は、どう説明するのかね? 今時の教師は、数十万円の指輪やバッグを生徒に贈るのかね?」

「それは、がんばった『ご褒美』です! 彼女達は努力を重ねて補習をうけ、実際に二学期の成績を上げました! 期末試験の結果を見ていただければ、わかります! 結果を出したのだから、報酬を与えるのは当然です!! 本人達のモチベーションも上がりますし!!」

「それにしても、高額すぎる内容だろう。食事やアクセサリーのみならず、エステや稽古事も支払いは君だろう? さすがに教師の分を越えていると思うが?」

「それは…………っ」

 九条会長は言葉を失った裕貴から視線を外し、校長達を見る。

「あとはよろしく頼む、校長、教頭、主任」

「はい。後日、また改めてご報告に伺います」

 校長達がそろって頭をさげ、会長はソファから立ちあがる。
 最後に、青ざめて立ち尽くす裕貴に、心からの軽蔑の視線を投げつけた。

「まったく、君のような品性下劣の極みのような男が、一時でも美琴に接していたと思うと、免職でも足りん!! 美琴が勇気を出して両親に相談していなければ、今頃どうなっていたかと思うと…………美琴だけではない、他の女生徒達もだ!!」

 はっ、と思い出したように裕貴は九条会長の隣を見やる。
 九条美琴は祖父と共に立ちあがり、無言で裕貴を見つめていた。
 非難と蔑みに彩られた、氷の瞳である。
 そんな表情をしてなお、彼女の美貌や気品は損なわれていなかったが、今の裕貴はそれどころではなかった。

「九条…………君は、俺を売ったのか!? 俺はこんなにも君を…………!」

「やめてください、汚らわしい」

 九条美琴の主張は明確だった。

「わたしは先生の気持ちを受け容れた覚えは、一度たりともありません。ずっと『教師と生徒ですから』『婚約者がいますから』と、お断りしつづけていたはずです。婉曲な表現にはなっていたかもしれませんが、かわしつづけていれば、じきに察してくださるだろうと思っていました。教師の本分に徹してさえいただければ、忘れてさしあげることもできたのに――――」

「俺が悪かったって言うのか!?」

 思わず九条美琴につかみかかろうとした裕貴の手を、秘書が二人の間に割り込むことでさえぎりり、教頭や学年主任が左右から裕貴をとり押さえる。

「それでは失礼する」

 九条会長はもはや裕貴を見ることもなく、堂々とした足どりで校長室を出ていった。
 その背に孫娘がつづく。
 九条美琴もまた、一度も裕貴をふりかえらず、未練も関心も見せずに退室した。

「説明したとおりだ、大久保君」

 校長の苦りきった冷ややかな声が響く。
 裕貴は本日付けで、退職が決定した。





「くそっ!! あの老害どもが!! くたばりぞこないのくせして、この俺に偉そうに!!」

 裕貴は思いきりゴミ箱を蹴とばした。
 実家ではない。借りているマンションのリビングである。
「冬休みまでに引き継ぎを済ませ、荷物をまとめて出ていけ」と校長室を叩き出されたあと、気を静めたくて、こちらに来ていたのだ。
 校長も教頭もとりつく島もなかった。
「くそっ!」と裕貴はもう一度、罵ったが、こうなった以上、やることは一つだった。
 ポケットから財布を抜き出し、常に持ち歩いているペンダントをとり出す。
 金色の輝きを見つめた。

「あと二回か…………」

『愛人』の件が露見して、学園を辞めさせられた。このまま進んでも『負け犬』の人生と未来が待っているだけ。
 この砂時計で時間を巻き戻すしかないのは明白だが、一方で、今この魔法を使ってしまったら、残る使用回数は一回きりとなる。無駄使いはできないのだ。

「あの老害どものせいで、よぶんな魔法を…………くそっ!!」

 ぼやいている暇はない。
 ここで無駄な時間を過ごせば過ごすほど、戻った時の時間的余裕が減ってしまうのだ。
 裕貴はスマホをとり出し、前回同様、メモしていた高額当選番号の暗記をはじめる。
 ぶつぶつと数字を呟いていると、ガチャガチャと鍵が開く音が聞こえた。

「先生!」

 私服姿の宮園七海が飛び込んでくる。ここは七海用のマンションなのだ。

「先生…………裕貴!!」

 七海は裕貴に抱きついた。ぽろぽろと涙をこぼしはじめる。

「裕貴…………裕貴…………良かった…………もう会えないかと思った…………先生も両親達も、みんなひどいのよ。裕貴とは、もう会うなって…………みんな、裕貴がどんなにすごくて、すてきな人か知らないくせに…………!」

 七海はその目に不安と涙をいっぱいにため、それでもまっすぐに裕貴を見あげてきた。

「裕貴――――結婚しよう、裕貴! 私と結婚しよう!!」

「は?」

「私達、ちゃんと婚約して、親にも紹介して、『真面目な交際なんだ』『不純な関係じゃない』って、みんなに証明するの!! 私、お父さんやお母さんに、ちゃんと説明する! 裕貴と真剣に愛し合っているんだって!!」

 七海は言い募った。

「だって、このままじゃ裕貴ばかり悪役だよ!? 裕貴はいい人なのに! 私を助けてくれた王子様なのに! お父さんやお母さんも先生達も、裕貴のこと『とんでもないクズだ』って言うの! 『犯罪者だ』って!! だから結婚しよう!! 『私達は真剣な交際です』って、みんなに証明できれば、そうしたら処分だって…………!!」

「なにを言い出すかと思ったら…………」

 裕貴は頭痛と疲れを感じた。
 今回の顛末については心から納得していないが、裕貴には最強の武器がある。
 時間を巻き戻しさえすれば、今日この時までの二年間は無かったことにできるのだ。
 七海の力など借りるまでもない。
 だが、そこまで七海に説明する理由もメリットもなかった。

「帰ってくれ、七海。一人になりたいんだ」

「でも裕貴…………っ!!」

 七海を引きはがそうとする裕貴の手に抵抗しながら、七海は一心に訴える。

「お願い、裕貴。言うことを聞いて。このままじゃ裕貴が悪人にされちゃう。みんなに誤解されたまま終わっちゃうんだよ!? 私達も会えなくなる!! 裕貴はそれでいいの!? 私は絶対――――」

「いいよ」

 億劫そうに裕貴は答えた。

「君とはここで終わりだ、七海。俺は別のところ人生に行く。さっさと帰れ、荷物を持ち帰りたいなら、明日、あらためて取りに来い」

「裕貴…………?」

 七海は『信じられない』という思いと表情で恋人を見つめる。

「待って、裕貴…………自棄にならないで。私、裕貴を助けるから。絶対に助けるから。あなたを愛してるの、なんでもする。だから自棄にならないで。私は絶対に、なにがあっても、裕貴のそばにいる。ちゃんと結婚して、みんなに認めて…………」

「結婚なんか、するわけないだろ」

 裕貴の答えは明快だった。説明するのも面倒くさい。

「お前達は『愛人』だ。二番手、三番手の存在だよ。お前がちょっと金をやったら即座に食いついてくる手軽な女で、ほんの少し見込みがあったから、拾って磨いてやっただけだ。お前の限界なんて、とっくに見極めている。俺が育ててやったんだ、わからないはずがないだろう。お前には、もう期待できる可能性はない。お前はしょせん、『愛人』どまりの女なんだよ。結婚なんか、するわけないだろう。俺の人生がもったいない」

 凍りついた少女に、裕貴はとどめを刺していく。

「俺が『妻』と認める女はただ一人、九条美琴だけだ。あの女だけが、俺にふさわしい。九条美琴は、俺のために用意された最高傑作だ。あの女を手に入れるために、俺はここまで来たんだ。俺は選ばれた特別な男だ、お前みたいな二番手が限界の女に、どうこうできる存在じゃない。わかったら、さっさと出ていけ。子供の浅知恵に付き合っている暇はないんだ」

「…………っ」

 七海は唇を、指先をふるわせて立ち尽くす。顔が真っ白で、声も出ない様子だ。
 しかし今の裕貴には彼女を気遣うゆとりも必要もなかった。
 どうせ時間を巻き戻せば、七海達との関係は無かったことになる。
 裕貴は一刻も早く魔法を行使する必要があり、目の前の少女は、人生を左右する大事な魔法を阻害する邪魔者でしかなかった。
 七海はよろよろと後退し、低い声をしぼり出す。

「九条美琴…………裕貴は、九条さんが好きなの…………?」

「ああ」

「…………私より?」

「比べものにならないね」

 裕貴は嘲笑した。

「九条美琴は最高の男に約束された、最高の女だ。初めて出会った時にわかった。俺のために用意された、俺の女だと。俺は、こんなところ人生で終わる男じゃない。九条美琴を手に入れ、セレブの仲間入りをする。それが、神が彼に用意した運命なんだ!」

「…………っ!」

「理解したら、いい加減に出ていけ。俺はやることがあるんだ」

 裕貴はとうにこの不毛な口論に飽き、焦れていた。
 もう七海が帰るのを待たず、別室で中から鍵をかけて、砂時計を使おう。
 そう考え、七海に背をむけると、今さらのように七海が裕貴の手の中の輝きに気づいた。

「…………誰のペンダント?」

「ん?」

「裕貴、カフスやタイピンはともかく、ペンダントはしないでしょ!? そのペンダント、誰からもらったの!? それとも誰かにプレゼントするの!?」

「誰でもいいだろ、お前には関係ない」

「…………九条さんへのプレゼント!?」

「だったら、どうなんだ」

 裕貴の返答に意味や意図はなかった。ただ、七海との言い争いから逃れたかっただけだ。
 だが七海にとって『九条美琴』は特別な意味を持つ名前だった。

「九条美琴、九条美琴、九条美琴…………っ」

 七海は呻いた。

「みんな、そう…………みんな、あの女をちやほやする…………先生も、クラスの子も、私が好きになった男子も、みんな、あの女を大事に…………。ズルすぎる…………私だって、好きで普通の家に生まれたわけじゃないのに…………あの人は、運よく九条家に生まれただけなのに…………っ」

 七海は顔をあげ、裕貴をにらんだ。

「裕貴が、他に恋人がいるって、なんとなく知ってた。気づいてたの。でも裕貴は私の王子様だったから…………信じてたから、最後に私のもとに戻ってきてくれるなら、って…………なのに…………!」

 七海は裕貴に飛びかかった。
 裕貴は完全に油断しており、背後から全力でぶつかってきた少女の勢いと体重に、大きく体をふらつかせた。

「何を…………!」

 裕貴が叫んだ時には、七海は彼から離れてリビングの窓まで下がっている。
 その華奢な手には金色の砂時計がにぎられていた。

「!? 返せ!!」

「信じてた…………他に女がいても『愛している』って言ってくれれば…………私と結婚してくれるなら、全部、忘れて許すつもりだったのに…………よりによって、九条美琴!!」

 七海は一瞬の差で窓を開け、裕貴より先にベランダに飛び出した。

「やめろ、馬鹿! その砂時計を返せ!!」

「あの女だけは許せない!! 九条美琴へのプレゼントなんて!!」

 七海は大きくふりかぶって、ペンダントをベランダから放り投げた。
 金色の輝きが弧を描く。

「このクズ!!」

 裕貴は激昂に任せて、宮園七海の頬を平手で叩く。
 宮園七海はベランダの床に打ちつけられるように倒れた。
 七海はしばし呆然し、じわじわと感じてきた頬の痛みに、我が身に起きた出来事を理解すると、「うっ」と涙をこらえて室内に駆け戻った。
 そのまま自分が使っていた部屋に飛び込み、裕貴に買ってもらったブランド物のアクセサリーやら香水やらバッグやら服やらを、泣きながら鞄に詰められるだけ詰め、玄関を飛び出す。
 恋人は最後まで引き止めなかったし、裕貴も七海どころではなかった。

「ちくしょう…………どいつも、こいつも!!」

 裕貴はベランダから身を乗り出し、必死に砂時計をさがす。
 運のいいことに、砂時計は五階のベランダのすぐ目の前まで伸びた、マンションの木の枝の先に引っかかっていた。
 裕貴は手を伸ばす。室内から玄関のドアが閉まる音が聞こえたが、どうでもいい。
 今、このペンダントをとり戻さなければ、裕貴は一生を『教え子に手を出した犯罪者』『人生の敗者』として生きていかねばならなくなるのだ。

「冗談じゃないぞ…………!!」

 免職を宣言され、裕貴には新たな人生の目的、この人生をやり直さなければならない理由ができていた。
 この自分をゴミのように見下してきた、九条の会長をはじめとする、あの老害ども。
 そして九条美琴。
 自分はなんとしても時間を巻き戻し、今度こそ九条美琴を手に入れる。
 神に選ばれたこの自分に軽蔑の視線をむけてきた、あの女を徹底的に屈服させ、身も心も完全に支配下に置き、この大久保裕貴のための存在だという立場を心底から理解させて、わきまえさせてやらねばならない。
 そして、その孫娘の姿をあの老害達に見せつけ、その地位を奪いとってやるのだ。
 これは正統な復讐であり、抗議であり、運命の矯正であり、自分にはその力と権限が与えられているのだ。
 裕貴は必死でペンダントに手を伸ばす。が、折り悪く、冷えた風が吹きつけて枝をゆらし、そのゆれにつられてペンダントもゆれ、指先に触れるのに捕まえることができない。

「このっ…………!」

 裕貴はさらに身を乗り出す。
 指が砂時計のチェーンに届き、反射的にそのままにぎりしめた。

「よし…………!」

 と安堵した、その瞬間。
 裕貴はバランスをくずした。
 体が宙に浮く。





 荒い呼吸、激痛に苛まれる全身、もうろうとする意識。

「くそ…………」

 裕貴はマンションのエントランス前に横たわっていた。
 五階のベランダから落下したのだ。
 幸い、何度も枝に引っかかったため落下速度が大きく衰え、即死はまぬがれた。
 しかし重症だった。
 裕貴はようよう右手を動かし、その指に絡まる金色のチェーンと小さな砂時計を、霞みかける視界の中に確認する。
 神は、まだ自分を見放していない。いや、神が選んだからこそ、あの高さから落ちても死をまぬがれたのだ。
 裕貴は血に汚れた顔で、にやり、と笑う。
 ぐずぐずしてはいられなかった。
 一刻も早く時間を巻き戻して、免職と命の危機を回避しないと。

(戻れ…………戻れ…………二年前に…………戻れ…………!!)

 砂時計を凝視しながら念じる。
 パキン、と小さな音を立てて砂時計が割れた。
 ガラスの破片が飛び散り、さらさらと砂がこぼれて見えなくなる。

「え…………」

 裕貴は自分が見ている光景が理解できなかった。

「どうして…………なんで…………」

 思わず体を起こそうとすると、激痛が全身を貫く。

「どういうことだ…………!!」

 自分は重症のあまり、とんでもない悪夢を見ているのか。

「ああ、壊れましたか」

 驚愕する裕貴の耳に、のんびりした声がすべり込んできた。
 視線を動かすと男が一人、こちらをのぞき込んでいる。
 ラフな格好の、これといった特徴のないどこにでもいそうな男だった。
 男は会釈して名乗る。

「はじめまして。あなたがお使いになった、その砂時計を扱っている店の店長です」

「店長…………!?」

 裕貴は虚を突かれた。
 が、すぐに苛立ちをぶつけるように問う。

「砂時計…………壊れたぞ…………! どうして…………!」

「寿命です」

 男はあっさり答えた。

「その砂時計は三回しか使えません。三回使えば、あとはただのアクセサリーです。それだけです」

「嘘だ…………っ!!」

 自分はこの砂時計を手に入れてから、まだ二回しか使っていない。
 もう一回分、余裕があるはずではないか。
 すると男がとんでもない事実を明らかにした。

「実は、その砂時計は新品ではないんです。すでに一回使用された、中古なんです」

「…………!!」

 裕貴は耳を疑った。男はどんどん説明していく。

「その砂時計ははじめ、藤原花織という女性が購入されました。むろん、時間を戻せることや、三回使用できることも伝えてあります。ご本人は話半分どころか、三分の一も聞いておられませんでしたが。そして砂時計を使わぬまま、最終的に妹尾美優という女性に贈ったのです」

「美優…………!?」

 裕貴は一瞬、男が告げた二つの名前が誰か、本気でわからなかった。

「妹尾美優は一回だけ時間を巻き戻し、その後、この砂時計を落として、回収せずに立ち去りました。そのため『廃棄』、すなわち『所有権を手放した』と見なし、店長である私が引きとって、中古として再度店頭に置いたんです。それを別の方が買っていかれました。『大久保先生にプレゼントするんだ』と言って」

 裕貴の脳裏に、遠い過去の記憶がよみがえる。

――――先生ぇ、これあげる。時間を巻き戻す魔法の砂時計だってぇ――――

(あの時の…………!!)

 情報と記憶のピースが、ぱちり、と頭の中ではまる。
「はじめから説明しますと」と男は人差し指を立てる。

「まず、あなたが忘れている『本当の一回目の人生』があります。あなたが生徒達との関係を暴露されて男子校に異動になった、そのの人生です」

 存在自体を覚えていない、忘れたことさえ自覚することのない、上書きされた時間人生

「一回目の人生では、あなたは藤原花織との結婚が進んでいた。しかし彼女の実家を訪ねたあと、藤原花織を捨てて、妹尾美優と結婚したんです」

(美優と…………!?)

「結婚から一年少しで、妹尾美優は藤原花織の手を借りて、あなたの実家から逃げ出しました。その際、藤原花織はすでに購入していたこの砂時計を、妹尾美優に譲ったんです。そして妹尾美優は両親の事故死を理由に、二年間、時間を巻き戻した。あなたが一回目と思っていた人生は、本当は二回目なんです」

「なんっ…………」

「二年間、時間を巻き戻した妹尾美優は、砂時計を使った本人なので一回目の記憶があります。そのため、以降はずっとあなたを危険視して、あなたからの告白も拒絶します。同時に、あなたと他の女生徒達との写真を撮り、それを藤原花織に見せて、一回目の人生を覚えていない彼女にあなたと別れるよう、忠告しました。写真を見た藤原花織は即座にあなたから離れ、写真をあなたの高校に送ったんです。あなたの異動の原因を作ったのは、藤原花織と妹尾美優なんですよ」

(あの二人が…………!!)

 見下していた存在にしてやられた悔しさと憎悪に、裕貴は一瞬、痛みも忘れる。

「その後、妹尾美優は砂時計を落として、私が回収。中古品として別の女生徒にお売りし、あなたが受けとった、というわけです」

(だが…………それなら何故、あの女は『三回使える』と嘘を…………)

 裕貴が抱いた疑問に、心をのぞいたかのように店長も「うーん」と首をかしげる。

「お断りしておきますが、私はきちんと中古であること、二回しか使えないことをお伝えしました。そこは、売り手として義務を果たしております。――――これは想像ですが、あのお嬢さんは『中古』と伝えるのが嫌だったのかもしれません。中古だからこそ高校生にも手の届く値段になっていたわけですが、大切な方への贈り物を『中古だ』と知られるのは恥ずかしかったのでは? それで『新品同様、三回使える』と言ってしまったのかもしれません」

「…………っ!」

 裕貴は歯ぎしりした。
 それなら、はじめから「二回だけ使える」と言えばよかったのだ。
 最初から二回とわかっていれば、少なくともただのアクセサリーのために、こんな大怪我を負うことは無かったし、もっと慎重に入念に計画を立てていただろう。
 たった一回。その『一回』という数値を偽ったために、とりかえしのつかない事態を招いてしまったのだ、あの、今となっては顔も思い出せぬ頭の悪い女生徒は。
「そうして」と店長はつづけた。

「二回目の人生で砂時計を手に入れたあなたが、男子校に異動後、時間を巻き戻しました。これが三回目。あなたが『やり直した』と思っている二回目の人生のことです。ここであなたは松島玲奈と結婚し、彼女に逃げられてモラハラで訴えられたわけですが、これも妹尾美優が関わっています」

(!?)

「妹尾美優も、この砂時計の持ち主でしたので。同じ砂時計による巻き戻しの場合、自分が巻き戻していなくとも、記憶は残ります。妹尾美優があなたを拒絶したのは、そのためです。彼女は突然、時間が巻き戻ったことに驚愕しつつも、一回目と二回目を覚えていたので、あなたへの警戒は解かなかったのです。そして、あなたが自分から藤原花織と別れて松島玲奈と結婚した時も、あなたの知らないところで松島玲奈に忠告をくりかえし、彼女がかつての自分同様、ドメスティック・バイオレンスを受けていると知ると、彼女に証拠を集めさせてから、あなたの家から逃げ出して実家へ避難する手助けをしたんです」

(美優が…………!!)

 裕貴はにわかには信じられなかった。何度記憶をたぐっても、あの妹尾美優と結婚していた記憶は見つからない。
 しかし男の言葉を信じれば、不可解な出来事すべてにつじつまが合う。

(美優…………それに花織…………っ!!)

「松島玲奈に訴えられたあなたは再度、砂時計を使った。これが三回目の使用であり、本当は四回目の人生です。あとは、あなたも記憶があるとおり。あなたは大金を手に入れて、自分から妹尾美優や松島玲奈達から離れ、今の学園に赴任してこの時に至る、というわけです」

 裕貴は呆然と男を見あげていた。

「それでは、説明も済んだことですし、私は帰りますが、こちらの壊れた砂時計はどうしましょう? さしつかえなければ、破片は私が回収して処分しておきますが」

 地面に転がるどう見ても重症の男を前に、店長を名乗る男はそう訊ねてくる。
 裕貴は「それどころじゃない!!」と怒鳴ってやりたかったが、さらに「それどころではない」事実に思い至った。

「店長…………と、言った、な…………。なら…………」

「はい。この砂時計の在庫は充分ございます」

 男は明るく、当然のように答えた。

「最長二年、三回まで使用できる新品と、使用済みの中古品を扱っております。中古品は数に限りがございますが、代金をお支払いいただければ、どれでもお好きな物をお売りできます」

 裕貴の目が輝く。
 地獄で仏を見た気分だった。

「金なら…………ある…………! 一番いいやつを…………っ」

「新品ですね。それでしたら」

 店長は一つの値段を告げた。
 一万円札を一枚出せば、おつりが帰ってくる程度の金額である。

「それを、早く…………!」

「申し訳ありませんが、当店はいかなる場合でも代金の前払いを徹底しております。なにぶんお客様の中には、商品を受けとった途端に時間を巻き戻して、支払いを踏み倒そうとする方もおられるので…………ご理解ください」

 さも恐縮そうに眉間にしわを寄せた店長に、裕貴は舌打ちする。
 だが先ほどまでとは異なり、希望が湧いていた。
 強烈な希望だ。神はまだ自分を見放していない。
 ここでこの男に会ったのが、その証拠だ。

(財布は…………リビングのテーブルの上か…………!)

「待っていろ…………今…………」

 激痛を意思の力でねじ伏せ、裕貴は立ちあがる。
 金ならいくらでもある。それでこの怪我をなかったことにし、今回のくそったれな人生をやり直すことができるなら、今持っている十億すべてをつぎ込んでも悔いはない。
 裕貴はエントランスにむかって歩き出す。
 彼にもう少し冷静な思考が残っていれば、今ここで購入を焦らずとも、男から店の場所を聞き出して後日の予約を入れ、今は救急車の手配を頼む選択肢もあっただろう。
 しかし裕貴は、目の前にぶら下げられた希望以外の事柄を考えられなくなっていた。
 一歩、二歩と、普段なら五分で済む距離を三十分かけて進んでいく。

(くそ…………目が…………)

 驚異的な生命力だった。
 視界が霞み、思考もまとまりを欠き、なにより間違いなく骨折しているに違いない手足を動かして、裕貴は執念と成功に対する強欲の力で激痛をねじ伏せ、エントランスにたどりつく。
 ちょうど、中から住人の飼い猫と思われる毛並みのいい猫が一匹「にゃーあ」と、なんとも愛らしい呑気な声をあげて出てきて、裕貴がガラス戸を開ける手間を省いてくれた。
 裕貴は猫をさがす住人の声を遠くに聞きながら、エレベーターに乗り込んで、五階のボタンを押す。
 少し気持ちに余裕が生まれる。
 あと一息。エレベーターが五階について扉が開けば、自室はすぐ隣である。

(耐えろ…………ここまで来たら、目標は達成したも同然だ…………)

 エレベーターが停止して、裕貴はよろよろと出る。
 このマンションのこの部屋のドアを目にするのが、これほど歓喜に満ちていた時はない。
 裕貴はすがるようにドアノブにとりつき、手を置いた。
 ドアは開かなかった。

(…………?)

 再度、手に力をこめるが、ドアは開かない。ただ、ガチャガチャと鍵の音が響くだけである。

(…………鍵!!)

 裕貴は閃いた。
 このマンションはオートロックだ。
 ドアが閉まるたび鍵がかかるので、外に出る時はどんなに近くても、鍵を持って出なくてはならない。
 裕貴は室内に入った時、習慣でキーケースを鞄ごとリビングに置いてしまっていた。
 その状態で、部屋の外に出てしまったのである。ベランダから落ちるという形で。
 裕貴は締め出されたのだ。
 先ほどエントランスを鍵無しで入れたのは、内側から猫が出てきたからだった。
 どっと全身に冷や汗が吹き出した。

(冗談じゃない…………!!)

 奇跡は、魔法はすぐ目の前にあるのだ。
 財布を持ってあの男のもとに戻れば、それでまたあの奇跡が、絶対の武器が戻ってくる。
 あの砂時計は、これからの裕貴の人生に欠かせない。
 あれがなければ裕貴はこの先の栄光を、九条美琴を手に入れ、自分を見下した者達を見かえしてやることができない。惨めな敗北者の人生が決定してしまうのだ。

「開けろ…………誰か…………開けろ…………開けて…………くれ…………」

 裕貴は必死にドアを叩く。
 しかし、もはやその音は赤子が叩くよりも弱々しい。

(誰か…………誰かいないのか…………七海は…………中に…………)

 薄れゆく意識の欠片が、砂時計をとろうとベランダで奮闘していた最中に、玄関が閉まる音を聞いたことを思い出すが、それすら霞んで消えていく。

(誰か…………誰か…………)

 おかしい。音が聞こえない。
 こんなに必死に叩いているのに、ドアの音が聞こえないのだ。
 どうしてだ。自分はこんなに、こんなに必死に叩いているのに…………どうして…………どうして…………。





 一階に降りていたエレベーターが戻ってきて、扉を開く。
 店長を名乗った男が出てきたものの、客を待つ必要がことを確認すると、ふたたびエレベーターに乗り込んで一階のボタンを押した。





 大久保裕貴の遺体はマンションの住人に発見された。
 知らせを受けた両親は自慢の息子の突然の死に驚愕し、泣きわめき、聞いたこともない高級マンションで遺体が発見された事実を不思議がる間もなく、葬儀の準備に追われた。
 せめてのもの幸せは、息子が有名校を懲戒免職になった件を知らずに済んだことか。
 突然の死を知らされた学園側も、あえて告げはしなかった。
 マンションや学園から息子の遺品を引きとった両親は、見覚えのないブランド物の高価な衣服や小物、なにより総額十億を越える金額が記された通帳に仰天する。
 さらに、家賃の延滞を知らせる連絡が息子のスマホに来たことで、息子が、遺体が発見されたマンション以外にも二カ所に部屋を借りていたことが判明した。

「いったい、どういうことなんだ…………?」

「銀行は、間違いなく当選金だって言うけど、こんなに頻繁に…………」

 その問いに答えをくれる者はいない。
 その後、多額の遺産が手に入った大久保夫妻は浪費に走った。
 自宅を売って都内の高級マンションに引っ越し、家具も一から上等の物を買いそろえた。
 父親は毎晩、出かけては有名店の高価な料理を食い散らかし、高価な酒をがぶ飲みしては、ホステスやキャバ嬢達に札束をばらまいた。
 そしてある晩、とあるホテルで酔いつぶれると、していた若いキャバ嬢に、持っていた通帳とカードをすべて盗まれ、三億ちかい金額を失ったのだ。
 急性アルコール中毒で事切れた遺体は、ベッドメイキングに来たホテルの人間が発見した。
 たてつづけに息子と夫を失った妻もまた、浪費に沈んだ。
 名だたるブランド店で服を買い、靴を買い、アクセサリーや小物をそろえ、芸能人が出入りするヘアサロンやエステやホストクラブに通って、自由を謳歌した。
 そして二十人を越えるホスト達に毎晩のように札束をばらまいていたある晩、急に倒れて救急車で運ばれると、急性アルコール中毒で夫と息子のもとに旅立ったのである。
 息子が他界して二ヶ月も経たない間の出来事だった。
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