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続・前編
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「あっ!」
公園を抜けようとした少女は通行人とぶつかって、手に持っていたペンダントを落とした。金色の輝きがそばの茂みに吸い込まれて消える。
「もう」と少女は茂みをのぞくが、思いのほか枝がごちゃごちゃして、目当ての物が見つからない。五分ほどさがしていたが、待ち合わせの時間が迫っていることに気づいた。
「ペンダントを返そうと思ってたのに…………でも、待たせると花織さん帰っちゃうかも」
仕方がない、と少女はあきらめ、小走りに公園を出ていった。
数秒後、一人の男が現れ、少女がさがしていた場所から少し離れた茂みに手を突っ込むと、あっさりペンダントを見つけ出し、少し考えてから自分のポケットにしまった。
「先生ぇ、これあげる。時間を巻き戻す魔法の砂時計だってぇ」
頭も尻もかるいその女生徒は、甘える口調と媚びるまなざしでそう言った。
いわく「先生ぇの誕生日プレゼント」だそうだ。
「たしか、二年間、時間を戻せるんだって。三回使える、とか言ってたよ?」
どこか舌足らずな調子で伝えられたその説明を、国語教師の大久保裕貴は信じたわけではない。
ただ『生徒に人気の大久保先生』としては断る理由はなかった、というだけだ。
「ありがとう、大事にするよ」
嬉しそうに笑う生徒に、そう、甘い笑顔と返事を返して。大久保裕貴は、すでにプレゼントが山と積みあげられた職員室の自分の机の上に、その小さな砂時計のペンダントを置いた。
一年半後の、ある晩。
「くそっ! なんでこんなことに…………!!」
同居している両親が寝静まったあと。
裕貴はリビングのテーブルに飲んでいたビールの缶を、だん、と叩きつけた。
前の高校で複数の女生徒達と交際していたことがバレ、今の男子校に異動になって、一年半。
裕貴はすっかり荒れていた。
前の高校は偏差値はそれなりだったが共学で、自分は『授業もわかりやすい、頭のいいイケメン教師』として女生徒達に囲まれていた。
今は底辺手前の男子校勤務。それも担任ではなく非常勤扱いで、周囲にいるのは既婚のお局様か、嫁き遅れのババアだけ。そのくせババア達ときたら、己の分もわきまえずに若いイケメンの自分に群がってくる。
「自分の年齢を考えろ…………! その前に、鏡を見てこい!!」
裕貴は毒づく。
彼は、はじけるように若く無垢な女が好みだった。
女の魅力と美しさのピークは十代から二十代前半と、疑いなく信じている。
その彼にとって、若い娘が一人もいない、それどころか平均点もろくにとれない生徒ばかりの今の生活は『苦痛』などという言葉では表現できるものではなかった。
「ちくしょう…………前の学校にいれば、今頃は美優とか玲奈とか、若い嫁をもらって楽しく暮らしていたはずなのに…………いったい、誰がタレこみやがったんだ!!」
どん、と再度、テーブルに空になったビールの缶を叩きつける。
女生徒達と付き合っている間、裕貴は少女達に「自分達のことは、絶対に他人に言わないように」と念入りに指示していた。それなのに、ある日、校長室に呼び出されたかと思うと、自分と彼女達の写真を突きつけられて、その写真が近所にまで出回っていたのだ。
はめられたとしか考えられないが、『誰に』となると見当がつかなかった。
「ちくしょう、ちくしょう」とくりかえしていると、缶ビールを放した手にチャラ、と、ひんやりした感触が伝わる。
金色の小さな砂時計のペンダントが、手にからんでいた。
たしか、前の学校で取り巻きの一人だった女生徒からもらった物だ。
自分では使わないので母にやったのだが、今日はこのテーブルに置いて、そのまま忘れてしまったらしい。
ペンダントをつまみあげた裕貴の脳裏に、それをもらった時の記憶がよみがえる。
『時間を巻き戻す魔法の砂時計だってぇ。たしか、二年間、時間を戻せるんだって。三回使える、とか言ってたよ――――』
(馬鹿馬鹿しい)と酔眼で砂時計をにらんだ。
裕貴はこの手の迷信は信じない性質だ。
魔法の道具? それが本当なら、今すぐ二年前に戻してほしい。
自分はあんな底辺校で、こんな風に腐っていく人材ではないのだ。
二年前に、あの写真をばらまかれる前に戻りさえすれば、こんな風に苦しむことはない。
今のこの状況こそが、間違っているのだ。
間違いは正されるべきだ、神でも運命でも、お前が本物の魔法の道具というなら、今すぐ時間を巻き戻して見せろ――――!!
目覚ましが鳴っている。
裕貴は跳ね起きた。深酒をしていたはずなのに、目覚めがすっきりしている。
リビングで飲んでいたはずなのに、自室のベッドで横たわっていた。ちゃんと寝間着にも着替えている。
(酔ったまま着替えたのか…………? まあ、そういうこともあるだろう…………)
気にせず、ベッドからおりようとして――――はたと気づいた。
「…………どういうことだ?」
裕貴がいるのは、間違いなく自分の部屋。
ただし、一年半前までの。
女生徒達との交際が近所にもばれたことで、裕貴達家族は白い目で見られるようになり、県外に引っ越した。住み慣れた一軒家を離れて、せまい中古マンションに移ったのだ。
その際、長年使いつづけていたベッドを処分して、布団で寝るようになった。
だが今、裕貴が横たわっているのは、体になじんだベッドの上。
部屋も引っ越した中古マンションではなく、もとの一軒家の自室だった。
「なんで、ここに…………」
事情がわからず、とにかく寝付く前の記憶を反芻する。
昨夜は特にむしゃくしゃして、両親が寝たあとリビングで飲んで…………。
チャラ、と、かすかな音が聞こえた。
毛布をどけると、シーツの上に小さな金色の砂時計のペンダントが輝いている。
「まさか…………」
裕貴はサイドテーブルに置かれた自分のスマホを手にとり、電源を入れる。
しばらく画面を操作したのちに、自室を飛び出して玄関にむかい、サンダルをはいて郵便受けに走った。届いていた新聞をその場でひろげる。
「まさか…………本当に…………」
そこへ、のんびりした声がかけられる。
「あら。おはよう、裕貴君。日曜日なのに早いわねぇ」
犬をつれた隣人が、門の外から裕貴に挨拶してくる。
「おはようございます。あの」
裕貴は思いきって訊ねた。不安と期待と興奮に、胸が高鳴る。
「今は何年でしたっけ…………?」
「え? 今年は二千年の…………」
隣人が告げたのは間違いなく、二年前の年数だった。
(まさか、本物の魔法だったとは!)
裕貴は文字どおり『スキップしたい』気分をこらえて、高校の廊下をずんずん進む。(冷静に)と思うが、口角があがっていくのを止められない。
「おはようございますっ、大久保先生」
「先生ぇ、おはよぉ」
「ああ、おはよう」
はじけるような若さをふりまいて、少女達が裕貴をとりかこむようにあいさつしてくる。裕貴は笑顔でそれらに応じる。
裕貴がいるのは高校の廊下だった。
それも一年半前に異動になったはずの、前の共学校の廊下である。
それを誰も不思議に思わない。
間違いなく、裕貴は二年前に戻ったのだった。
「どうしたのぉ、先生。すっごく、ご機嫌?」
「ああ。昨日、いいことがあってね」
「えー、何ぃ?」
「秘密」
「えー、教えてよぉー」
女生徒とかわす、一年半ぶりのかるい会話にも、しみいるような喜びを味わう。
本当に戻って来た。その現実をしみじみ噛みしめた。
とはいえ、喜んでばかりもいられない。
男子校への異動は半年後だ。それまでに、どうにかしてあの悲惨な未来を回避しなければならない。
時間を巻き戻せたこの奇跡を、無駄にはできなかった。
(このチャンスは最大限に活かすぞ。それには…………)
仕事を終えて帰宅した裕貴は夕食後、自室にこもって、一晩かけて今後の計画を練った。
まず、最優先かつ緊急の使命は、あの底辺校への異動の阻止。
そのためには、尻尾をつかませないこと。
高校側にばれるきっかけとなった、少女達との写真を撮らせないことだ。
(関係がばれたのは、来年の一学期に付き合っていた三人。ばれたのは、夏休み前…………ひとまず来年の夏休みが過ぎるまでは、誰とも付き合わないでおくべきか…………今、付き合っている女達とも全員、別れたほうが無難だな)
どのみち、裕貴には巻き戻る前の二年間の記憶が残っている。
少女達の認識や記憶はどうあれ、彼女らと付き合えばどういう面が見られるか、いわば『すでにリサーチ済み』なのだ。
いわば新鮮味が薄く、その分、惜しむ気持ちも乏しい。
裕貴は早々に、今の時点で付き合っている少女達全員に別れを告げた。
同時に校外の恋人、藤原花織とも別れる。
『旧家の出』と聞き、金持ちの令嬢と判断して付き合った女だが、家は完全に庶民に没落して、数少ない財産も田舎の古い家、すなわち『負動産』だ。結婚するメリットは一つもない。
幸い、時間が巻き戻ったおかげで、今は花織にプロポーズする直前。
裕貴は花織に連絡してデートをキャンセルし、「もう会わない」と伝えた。
花織は急な言葉に驚いたようだったが、特にすがってくるでもなく、「わかった。今までありがとう」とあっさり通話を切られて、それきりとなった。
それから半年間。
裕貴は高価な餌を前に、お預けをくらった犬のような飢餓感に苛まれながらも、我慢に我慢を重ねて禁欲生活を貫いた。
そして迎えた、夏休み。
裕貴はとうとう、問題の日を乗り越えた。
裕貴は相変わらずこの高校の『大久保先生』で、授業を称賛されこそすれ、異動の話など微塵も出ていなかった。
「長かった…………今度こそ、失敗しないぞ!!」
裕貴は自分に宣言し、両親が寝静まった真夜中にうきうき気分で、恋人『候補』のリストを自室の机の上に広げる。
彼の頭に「このまま女生徒との交際をやめる」という選択肢はない。
何故なら裕貴は「三十歳を過ぎたら婚活する」と決めており、彼にとって女生徒達との交際は、その一環だった。
「まずは、二年の妹尾美優だが…………」
さらさらと流れる艶やかな黒髪が印象的な、そこらのアイドルより、よほど清楚可憐な美少女だ。
しかしその妹尾美優は、少し前から裕貴に素っ気ない。
以前は他の女生徒達同様、甘えるように大久保先生を慕ってきたのに、突然、勉強に励みだして、裕貴の誘いにも全然乗ってこない。
まあ、妹尾美優が乗って来ないなら来ないで、第二候補を口説けばいいだけだが。
「となると、一年の松島玲奈か」
すらりと背が高くて大人っぽい顔立ちの、こちらも長いストレートの黒髪が似合う美少女だ。
まずはこの松島玲奈を口説き落とし、並行して妹尾美優にも声をかけて、妹尾美優が乗って来れば松島玲奈を捨て、乗って来なければそのまま松島玲奈に決めてしまえばいい。
裕貴は結論付け、翌日からさっそく行動に移した。
運が向いているというべきか。松島玲奈は国語の成績がふるわず、夏休み中でありながら裕貴は『補習』という口実で、彼女を公然と何度も呼び出す機会に恵まれた。
裕貴は二人きりの教室で時に甘く惑わし、時にさわやかに引きさがり、時に情熱的に、時に「教師なのに、生徒の君にこんな気持ちを抱くなんて…………」と切ない苦悩たっぷりに松島玲奈を口説く。
十六歳の松島玲奈は『女子の人気ナンバー1のイケメン教師』の言葉を真に受け、翻弄され、夏休みが終わる頃には、すっかり頭の中を大久保先生に占領されてしまう。
そして秋の文化祭。校内中が準備に奔走する陰で、裕貴はわざと松島玲奈と小さな喧嘩をして、それがきっかけで「大久保先生の心が玲奈から離れた」ふりをよそおう。
松島玲奈は憐れなほど動揺し、憔悴しきった状態で文化祭に出た。その反応を確認したうえで、裕貴は文化祭の最終日にひそかに彼女を呼び出し、愛の告白をした。
松島玲奈は涙を流して喜び、二人の『交際』はすんなりスタートする。
そして初めてのクリスマス・デートで、裕貴は玲奈を夜景の見おろせる高級レストランに案内し、指輪を贈ってプロポーズしたのだ(けっきょく、第一候補の妹尾美優は素っ気ないままだったので)。
漫画かドラマのような展開に松島玲奈はすっかり感激し、泣きながら「はい」と承諾して、春休みには高校を辞めて裕貴と入籍、彼の実家に住みはじめたのである――――
だが結論からいうと、この結婚は失敗だった。
入籍から一年と経たずに松島玲奈は実家に戻り、裕貴に離婚を要求した。
そして彼と、彼の両親をモラハラとDVで訴えたのだ。
一度目の人生の失敗をとりかえし、手に入らなかった若く美しい妻も得て、勝ち組に加わったと信じていた裕貴にとって、この展開はまさに寝耳に水だった。
誤算はつづき、離婚の調停にあたった裁判官や調停委員達も全員、玲奈の側につく。
玲奈は裕貴や両親からの『注意』のいくつかを録音しており、それを聴いた委員達が「れっきとしたモラハラだ」「DVだ」と決めつけたのである。
裕貴の「ただの注意だ」「何度いっても効果がないので、強い口調になった」「愛情ゆえのお説教だ」という主張は、まったく認められなかった。
さらに玲奈は実家に戻る時、家計簿を持って出ており、中身を確認した委員達に「夫婦二人の毎月の生活費が三万円はあり得ない」「経済DVだ」とまで言われた。
裕貴の「無駄遣いが嫌いなだけだ」という主張も認められなかったのである。
気づけば裕貴は離婚届にサインさせられ、玲奈の両親に罵られ、慰謝料まで払わされることになった。そして事の顛末を玲奈の父親の口から学校に『報告』され、裕貴は懲戒免職が決定したのである。
裕貴は当然、激怒した。
「夫婦のことに、親が首を突っ込んでくるんじゃねぇ! 男と女には作法ってものがあるんだよ!! それくらい察したらどうだ、あのクソ親子が!!」
毒づいたが、深呼吸して頭を切り替える。
この程度なら、まだとりかえしは効く。
なんといっても今の裕貴には奇跡が、魔法の道具が味方についているのだ。
裕貴は自室で一人になると、両親が寝入るのを待って、金色のペンダントをとり出す。
そしてスマホを操作した。
この砂時計の能力を知って以来、次に使う時のことを裕貴はずっと考えていた。
スマホには二年間分の、様々な高額当選番号がメモされている。
裕貴はその番号を覚えられるだけ覚えると、砂時計を手にとり、強く祈った。
(戻れ…………戻れ…………あの時みたいに…………二年前に…………戻れ――――!!)
念じる意識が途切れる。
裕貴は二年前に戻っていた。
時期としては二年前の春。新学期がはじまる直前。
スマホやニュースの日付を確認した裕貴は「よし!!」とガッツポーズをとる。
今回も、まずは前回と同じように禁欲生活をはじめた。
この時点で付き合っている少女達全員と別れ、校外の恋人である藤原花織とも別れて、裕貴の交際を学校側に密告した何者かが付け入る隙を潰す。
並行して番号指定でくじを購入し、ゴールデンウィークが終わる頃には、五億円を越す当選金を手に入れていた。
週末の夜。自室で通帳をながめながら、裕貴は今度の『婚活』について考えをめぐらせる。
今度こそ第一候補の妹尾美優を…………と決意しかけて、はた、と閃いた。
(五億だぞ? この先もまだ数億、いや、十億は手に入る予定なんだ。なら、今までみたいに、そこらの小娘にあくせくする必要はあるか? もっとこの五億を、有効に利用していいんじゃないか?)
裕貴は一から計画を立て直す。
それから数週間後。
裕貴は手に入れた金をあちこちにばら撒いて、都内の有名なお嬢様学園に赴任を果たす。
新天地はまさに『花園』だった。
学園内には大企業の娘だの政治家の孫娘だの、妹尾美優や松島玲奈など足元にも及ばぬ『セレブ』な少女達が当たり前のように行き交い、笑いさざめいて裕貴に挨拶してくる。
裕貴は宝の山にたどりついた冒険者の気持ちで校内を物色し、ほどなくして見つけた。
九条美琴。
セレブが集まるこの学園でも屈指の大企業の会長の孫娘で、成績トップの優等生。最高ランクの美少女。言葉遣いや立ち居振る舞いは洗練されて、賢さと育ちの良さを感じさせ、佇まいには高貴なオーラすらただよう。もはや『美少女』というレベルですらない。
『姫君』や『王女』の気品と清純無垢を備えた、選ばれた存在だった。
長い艶やかな黒髪を風になびかせ、淑やかに目の前を横切って行く彼女を見た瞬間、裕貴の全身には雷が走った。
妹尾美優や松島玲奈にこだわる必要はなかった。
これぞまさしく自分のために用意された、最高級の少女。
裕貴は運命を確信した。
(俺はこの女を手に入れて、セレブとなって成功を収めるために、この世に生まれてきたんだ。それが本当の俺の人生なんだ――――!!)
それから裕貴は奔走した。
美しく優秀な九条美琴は、二年生ながらも多くの取り巻きに囲まれ、後輩達の憧れのまなざしにさらされていた。彼女らの注目をすり抜けて当人に接触するのは、教師というアドバンテージを有していても骨の折れる作業だった。
そのうえ、この学園は高めの偏差値をキープしており、その偏差値に合った授業をするなら、入念な準備やアフターケアは欠かせない。
裕貴はしばらく目まぐるしい日々を送った。
しかし、これもそれも、すべてはあの最高傑作を手に入れる準備と思えば、苦痛ではなかった。
やがて裕貴は、九条美琴に自然に接する機会を得て、少しずつ、自分の好意や情熱を小出しにしていく。
九条美琴はさすがに裕貴が『最高傑作の運命の女』と見込んだだけあって、松島玲奈やその他の少女達のように、即座になびいてくることはなかった。
裕貴の称賛を当たり前のように受けとり、彼の情熱をさり気なく流す。
それでいて、ほほ笑みは蠱惑に満ち、本気で恋も男心も何も知らぬ無垢な少女に見える時もあれば、すべてを知る妖艶な遊女に見える時もある。
裕貴は受け流されれば流されるほど九条美琴にのめり込み、「この女こそ、神が自分に約束した運命の女だ」という確信を深めていく。
そして、気づけば学園は夏休みに入っていた。
教師の仕事をのぞけば、夏休みは暇だった。前回の松島玲奈と異なり、九条美琴は成績も優秀なので、補習を口実に呼び出すことはできない。
焦れる思いで夏休み明けを待っていた裕貴は、ある日、一人の生徒に目をとめた。
補習を受けに登校していた、二年生。前髪で顔を隠すかのように、うつむき加減で背を丸めて歩く、見るからに地味で質素で華のない少女。
明らかに、この学園の華美な雰囲気から浮いていたその生徒は、宮園七海といった。
彼女の担任から聞いた話では、そもそもこの学園に通うような『良家』の出身ではなく、本人もそれを自覚して、クラスでも授業でも部活でもずっと小さくなって過ごしている、半ば忘れられた存在とのことだった。
裕貴も、これまでだったら宮園七海を気にすることはなかったはずだ。
しかし今の彼には、五億を越える預金があった。
そしてあらためて確認すれば、宮園七海は雰囲気こそ地味で姿勢が悪く、立ち居振る舞いも野暮ったかったが、そこそこ可愛らしい顔立ちをしていた。
裕貴は好奇心を刺激された。
「宮園さん、大丈夫かい? 補習、大変だね」
裕貴はさも『一生徒にも気を配る良い教師』の顔で、補習に通う宮園七海に近づき、またたく間に彼女の信頼を得て、心を開かせることに成功する。
そして補習のない日に呼び出すと、誰もが知るおしゃれな地区のおしゃれな店に連れて行き、ブランド物の服を買い、靴を買い、アクセサリーやバッグもそろえて宮園七海に着替えさせた。
七海は当然、驚き、恐縮して遠慮する。
その七海の抵抗を押し切って、裕貴は彼女を有名ヘアサロンに連れていき、流行の髪型にカットさせて、高級化粧品売り場で化粧品一式を購入しながら、店員に七海をメイクさせる。
七海は別人のように見違えた。
鏡に映った己の姿に、宮園七海も目を丸くして言葉を失う。
最後に彼女を高級レストランに案内してフルコースをごちそうして、デートは終了となった。
宮園七海は生まれて初めて体験する贅沢な店や買い物にすっかり酩酊し、すてきな店をたくさん知っていて、高価な買い物を平然と済ませる大久保先生を、完全な尊敬の瞳で見あげるようになった。
そんなデートを何度かくりかえしたあと、裕貴は都内に二人用の高級マンションの一室を借り、そこに宮園七海を案内した。そして大切そうに合鍵を彼女の手ににぎらせる。
「学園だと、なかなか二人きりになれないしね。そもそも僕達の関係を知られたら、一緒にはいられなくなる。これからは学園では普通の教師と生徒のふりをして、会いたい時にはここで会おう。僕が七海に買ってあげた服やアクセサリーも、ここに置くといい。つらいけれど、長い目で見れば、それが二人の愛を守る最善の方法なんだ。七海なら、わかってくれるだろう?」
「はい、先生。じゃない、裕貴…………っ」
宮園七海はぽっと頬を染め、その反応がますます裕貴の自尊心を心地よく満たす。
裕貴はさらに金を出し、高級エステやマナー教室にも七海を通わせ、バレエや楽器といった稽古事も始めさせる。七海も裕貴の期待に応えようと、必死にそれらを習っていく。
七海にとって、それらの習い事は『恋人である裕貴の愛の証』であり、裕貴はなんでも買ってくれて、自分をお姫様へ変身させてくれる『王子様』だった。
(信じられない。まるで漫画みたい。こんなことが、あたしに起こるなんて――――)
地味でちっぽけで平凡だった宮園七海は王子の手によって眠っていた才能を見出され、美しく高貴に成長して、セレブな『大人の女』へと磨きあげられているのだ。
夏休みが終わり、二学期がはじまると、宮園七海はすっかり垢抜けていた。
平凡な成績や平凡な持ち物を恥じて、常にうつむき加減で背を丸めていた地味な少女は消え、背筋を伸ばして上品に歩く変身ぶりが学園内で注目を浴びる。
「見違えたわ、宮園さん。いったい何があったの?」
「ちょっと。夏休みの間に、自分で色々研究してみたの」
七海は、あらかじめ恋人に決められていた説明を返す。
むろん、同級生達は「それだけではないでしょう」といぶかしみ、質問を重ねたが、七海はそのすべてを笑って流した。
夏休み前までは、同級生達からの視線に心底怯えていた少女が、今は、彼女達の注目に笑って流すゆとりすら身につけていたのだ。
(全部、裕貴のおかげだわ。私は今、プリンセスへの階段を登っている。裕貴は私の運命の人、私の王子様。私は誰よりすてきな恋人と、運命の出会いをしたんだわ。これからも、もっと自分を磨いて、裕貴にふさわしい女性にならなくちゃ)
そんな確信が七海にさらなる自信と輝きを与え、一気に学園の表舞台へと躍り出させる。
この結果に、裕貴もおおいに満足した。
古くは『源氏物語』の光源氏。有名どころでは『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ博士が味わった「自分好みの女を一から育てる」という夢。
八億(夏休みが終わり、さらに三億円を手に入れていた)を手に入れた今こそ、試してみるべきではないか。
裕貴はこの『遊び』をいたく気に入り、秋の文化祭が終わる頃にはさらに二人の『人材』を追加して、合計三カ所のマンションに日替わりで『通う』ようになった。
一方で、九条美琴を辛抱強く口説きつづけている。
彼女は想像以上に手ごわく、時には裕貴のほうが激しい飢餓感に襲われるほどで、その飢餓感を静める意味でも、三人の『愛人』達の存在は必須だった。
(そういや光源氏も、初恋の女である藤壺を追い求めながら、身分の低い女達を愛人にして囲まれていたんだっけな…………)
今の自分はまさに、九条美琴という『永遠の女』を追いながら、紫の上や明石の君といった気安い身分の愛人達に囲まれる光源氏だ。
一本三十万円のワインをかたむけつつ、裕貴は高級マンションの窓から真夜中の景色を見おろし、ひそやかに笑う。
自分は奇跡を手に入れた、特別な存在。神に選ばれた人生を送る者。
今となっては、妹尾美優だの松島玲奈だの、あの程度の女達にふりまわされていた事実すら忌まわしい恥だ。この先の未来には、最高の女と最高の人生が約束されている。
あの砂時計は、それを助けるための神からの贈り物だった。
(砂時計の残りは二回。慎重に使うぞ…………)
そう決意を新たにしながら、裕貴はワインを飲み干して『愛人』の眠る寝室に戻った。
公園を抜けようとした少女は通行人とぶつかって、手に持っていたペンダントを落とした。金色の輝きがそばの茂みに吸い込まれて消える。
「もう」と少女は茂みをのぞくが、思いのほか枝がごちゃごちゃして、目当ての物が見つからない。五分ほどさがしていたが、待ち合わせの時間が迫っていることに気づいた。
「ペンダントを返そうと思ってたのに…………でも、待たせると花織さん帰っちゃうかも」
仕方がない、と少女はあきらめ、小走りに公園を出ていった。
数秒後、一人の男が現れ、少女がさがしていた場所から少し離れた茂みに手を突っ込むと、あっさりペンダントを見つけ出し、少し考えてから自分のポケットにしまった。
「先生ぇ、これあげる。時間を巻き戻す魔法の砂時計だってぇ」
頭も尻もかるいその女生徒は、甘える口調と媚びるまなざしでそう言った。
いわく「先生ぇの誕生日プレゼント」だそうだ。
「たしか、二年間、時間を戻せるんだって。三回使える、とか言ってたよ?」
どこか舌足らずな調子で伝えられたその説明を、国語教師の大久保裕貴は信じたわけではない。
ただ『生徒に人気の大久保先生』としては断る理由はなかった、というだけだ。
「ありがとう、大事にするよ」
嬉しそうに笑う生徒に、そう、甘い笑顔と返事を返して。大久保裕貴は、すでにプレゼントが山と積みあげられた職員室の自分の机の上に、その小さな砂時計のペンダントを置いた。
一年半後の、ある晩。
「くそっ! なんでこんなことに…………!!」
同居している両親が寝静まったあと。
裕貴はリビングのテーブルに飲んでいたビールの缶を、だん、と叩きつけた。
前の高校で複数の女生徒達と交際していたことがバレ、今の男子校に異動になって、一年半。
裕貴はすっかり荒れていた。
前の高校は偏差値はそれなりだったが共学で、自分は『授業もわかりやすい、頭のいいイケメン教師』として女生徒達に囲まれていた。
今は底辺手前の男子校勤務。それも担任ではなく非常勤扱いで、周囲にいるのは既婚のお局様か、嫁き遅れのババアだけ。そのくせババア達ときたら、己の分もわきまえずに若いイケメンの自分に群がってくる。
「自分の年齢を考えろ…………! その前に、鏡を見てこい!!」
裕貴は毒づく。
彼は、はじけるように若く無垢な女が好みだった。
女の魅力と美しさのピークは十代から二十代前半と、疑いなく信じている。
その彼にとって、若い娘が一人もいない、それどころか平均点もろくにとれない生徒ばかりの今の生活は『苦痛』などという言葉では表現できるものではなかった。
「ちくしょう…………前の学校にいれば、今頃は美優とか玲奈とか、若い嫁をもらって楽しく暮らしていたはずなのに…………いったい、誰がタレこみやがったんだ!!」
どん、と再度、テーブルに空になったビールの缶を叩きつける。
女生徒達と付き合っている間、裕貴は少女達に「自分達のことは、絶対に他人に言わないように」と念入りに指示していた。それなのに、ある日、校長室に呼び出されたかと思うと、自分と彼女達の写真を突きつけられて、その写真が近所にまで出回っていたのだ。
はめられたとしか考えられないが、『誰に』となると見当がつかなかった。
「ちくしょう、ちくしょう」とくりかえしていると、缶ビールを放した手にチャラ、と、ひんやりした感触が伝わる。
金色の小さな砂時計のペンダントが、手にからんでいた。
たしか、前の学校で取り巻きの一人だった女生徒からもらった物だ。
自分では使わないので母にやったのだが、今日はこのテーブルに置いて、そのまま忘れてしまったらしい。
ペンダントをつまみあげた裕貴の脳裏に、それをもらった時の記憶がよみがえる。
『時間を巻き戻す魔法の砂時計だってぇ。たしか、二年間、時間を戻せるんだって。三回使える、とか言ってたよ――――』
(馬鹿馬鹿しい)と酔眼で砂時計をにらんだ。
裕貴はこの手の迷信は信じない性質だ。
魔法の道具? それが本当なら、今すぐ二年前に戻してほしい。
自分はあんな底辺校で、こんな風に腐っていく人材ではないのだ。
二年前に、あの写真をばらまかれる前に戻りさえすれば、こんな風に苦しむことはない。
今のこの状況こそが、間違っているのだ。
間違いは正されるべきだ、神でも運命でも、お前が本物の魔法の道具というなら、今すぐ時間を巻き戻して見せろ――――!!
目覚ましが鳴っている。
裕貴は跳ね起きた。深酒をしていたはずなのに、目覚めがすっきりしている。
リビングで飲んでいたはずなのに、自室のベッドで横たわっていた。ちゃんと寝間着にも着替えている。
(酔ったまま着替えたのか…………? まあ、そういうこともあるだろう…………)
気にせず、ベッドからおりようとして――――はたと気づいた。
「…………どういうことだ?」
裕貴がいるのは、間違いなく自分の部屋。
ただし、一年半前までの。
女生徒達との交際が近所にもばれたことで、裕貴達家族は白い目で見られるようになり、県外に引っ越した。住み慣れた一軒家を離れて、せまい中古マンションに移ったのだ。
その際、長年使いつづけていたベッドを処分して、布団で寝るようになった。
だが今、裕貴が横たわっているのは、体になじんだベッドの上。
部屋も引っ越した中古マンションではなく、もとの一軒家の自室だった。
「なんで、ここに…………」
事情がわからず、とにかく寝付く前の記憶を反芻する。
昨夜は特にむしゃくしゃして、両親が寝たあとリビングで飲んで…………。
チャラ、と、かすかな音が聞こえた。
毛布をどけると、シーツの上に小さな金色の砂時計のペンダントが輝いている。
「まさか…………」
裕貴はサイドテーブルに置かれた自分のスマホを手にとり、電源を入れる。
しばらく画面を操作したのちに、自室を飛び出して玄関にむかい、サンダルをはいて郵便受けに走った。届いていた新聞をその場でひろげる。
「まさか…………本当に…………」
そこへ、のんびりした声がかけられる。
「あら。おはよう、裕貴君。日曜日なのに早いわねぇ」
犬をつれた隣人が、門の外から裕貴に挨拶してくる。
「おはようございます。あの」
裕貴は思いきって訊ねた。不安と期待と興奮に、胸が高鳴る。
「今は何年でしたっけ…………?」
「え? 今年は二千年の…………」
隣人が告げたのは間違いなく、二年前の年数だった。
(まさか、本物の魔法だったとは!)
裕貴は文字どおり『スキップしたい』気分をこらえて、高校の廊下をずんずん進む。(冷静に)と思うが、口角があがっていくのを止められない。
「おはようございますっ、大久保先生」
「先生ぇ、おはよぉ」
「ああ、おはよう」
はじけるような若さをふりまいて、少女達が裕貴をとりかこむようにあいさつしてくる。裕貴は笑顔でそれらに応じる。
裕貴がいるのは高校の廊下だった。
それも一年半前に異動になったはずの、前の共学校の廊下である。
それを誰も不思議に思わない。
間違いなく、裕貴は二年前に戻ったのだった。
「どうしたのぉ、先生。すっごく、ご機嫌?」
「ああ。昨日、いいことがあってね」
「えー、何ぃ?」
「秘密」
「えー、教えてよぉー」
女生徒とかわす、一年半ぶりのかるい会話にも、しみいるような喜びを味わう。
本当に戻って来た。その現実をしみじみ噛みしめた。
とはいえ、喜んでばかりもいられない。
男子校への異動は半年後だ。それまでに、どうにかしてあの悲惨な未来を回避しなければならない。
時間を巻き戻せたこの奇跡を、無駄にはできなかった。
(このチャンスは最大限に活かすぞ。それには…………)
仕事を終えて帰宅した裕貴は夕食後、自室にこもって、一晩かけて今後の計画を練った。
まず、最優先かつ緊急の使命は、あの底辺校への異動の阻止。
そのためには、尻尾をつかませないこと。
高校側にばれるきっかけとなった、少女達との写真を撮らせないことだ。
(関係がばれたのは、来年の一学期に付き合っていた三人。ばれたのは、夏休み前…………ひとまず来年の夏休みが過ぎるまでは、誰とも付き合わないでおくべきか…………今、付き合っている女達とも全員、別れたほうが無難だな)
どのみち、裕貴には巻き戻る前の二年間の記憶が残っている。
少女達の認識や記憶はどうあれ、彼女らと付き合えばどういう面が見られるか、いわば『すでにリサーチ済み』なのだ。
いわば新鮮味が薄く、その分、惜しむ気持ちも乏しい。
裕貴は早々に、今の時点で付き合っている少女達全員に別れを告げた。
同時に校外の恋人、藤原花織とも別れる。
『旧家の出』と聞き、金持ちの令嬢と判断して付き合った女だが、家は完全に庶民に没落して、数少ない財産も田舎の古い家、すなわち『負動産』だ。結婚するメリットは一つもない。
幸い、時間が巻き戻ったおかげで、今は花織にプロポーズする直前。
裕貴は花織に連絡してデートをキャンセルし、「もう会わない」と伝えた。
花織は急な言葉に驚いたようだったが、特にすがってくるでもなく、「わかった。今までありがとう」とあっさり通話を切られて、それきりとなった。
それから半年間。
裕貴は高価な餌を前に、お預けをくらった犬のような飢餓感に苛まれながらも、我慢に我慢を重ねて禁欲生活を貫いた。
そして迎えた、夏休み。
裕貴はとうとう、問題の日を乗り越えた。
裕貴は相変わらずこの高校の『大久保先生』で、授業を称賛されこそすれ、異動の話など微塵も出ていなかった。
「長かった…………今度こそ、失敗しないぞ!!」
裕貴は自分に宣言し、両親が寝静まった真夜中にうきうき気分で、恋人『候補』のリストを自室の机の上に広げる。
彼の頭に「このまま女生徒との交際をやめる」という選択肢はない。
何故なら裕貴は「三十歳を過ぎたら婚活する」と決めており、彼にとって女生徒達との交際は、その一環だった。
「まずは、二年の妹尾美優だが…………」
さらさらと流れる艶やかな黒髪が印象的な、そこらのアイドルより、よほど清楚可憐な美少女だ。
しかしその妹尾美優は、少し前から裕貴に素っ気ない。
以前は他の女生徒達同様、甘えるように大久保先生を慕ってきたのに、突然、勉強に励みだして、裕貴の誘いにも全然乗ってこない。
まあ、妹尾美優が乗って来ないなら来ないで、第二候補を口説けばいいだけだが。
「となると、一年の松島玲奈か」
すらりと背が高くて大人っぽい顔立ちの、こちらも長いストレートの黒髪が似合う美少女だ。
まずはこの松島玲奈を口説き落とし、並行して妹尾美優にも声をかけて、妹尾美優が乗って来れば松島玲奈を捨て、乗って来なければそのまま松島玲奈に決めてしまえばいい。
裕貴は結論付け、翌日からさっそく行動に移した。
運が向いているというべきか。松島玲奈は国語の成績がふるわず、夏休み中でありながら裕貴は『補習』という口実で、彼女を公然と何度も呼び出す機会に恵まれた。
裕貴は二人きりの教室で時に甘く惑わし、時にさわやかに引きさがり、時に情熱的に、時に「教師なのに、生徒の君にこんな気持ちを抱くなんて…………」と切ない苦悩たっぷりに松島玲奈を口説く。
十六歳の松島玲奈は『女子の人気ナンバー1のイケメン教師』の言葉を真に受け、翻弄され、夏休みが終わる頃には、すっかり頭の中を大久保先生に占領されてしまう。
そして秋の文化祭。校内中が準備に奔走する陰で、裕貴はわざと松島玲奈と小さな喧嘩をして、それがきっかけで「大久保先生の心が玲奈から離れた」ふりをよそおう。
松島玲奈は憐れなほど動揺し、憔悴しきった状態で文化祭に出た。その反応を確認したうえで、裕貴は文化祭の最終日にひそかに彼女を呼び出し、愛の告白をした。
松島玲奈は涙を流して喜び、二人の『交際』はすんなりスタートする。
そして初めてのクリスマス・デートで、裕貴は玲奈を夜景の見おろせる高級レストランに案内し、指輪を贈ってプロポーズしたのだ(けっきょく、第一候補の妹尾美優は素っ気ないままだったので)。
漫画かドラマのような展開に松島玲奈はすっかり感激し、泣きながら「はい」と承諾して、春休みには高校を辞めて裕貴と入籍、彼の実家に住みはじめたのである――――
だが結論からいうと、この結婚は失敗だった。
入籍から一年と経たずに松島玲奈は実家に戻り、裕貴に離婚を要求した。
そして彼と、彼の両親をモラハラとDVで訴えたのだ。
一度目の人生の失敗をとりかえし、手に入らなかった若く美しい妻も得て、勝ち組に加わったと信じていた裕貴にとって、この展開はまさに寝耳に水だった。
誤算はつづき、離婚の調停にあたった裁判官や調停委員達も全員、玲奈の側につく。
玲奈は裕貴や両親からの『注意』のいくつかを録音しており、それを聴いた委員達が「れっきとしたモラハラだ」「DVだ」と決めつけたのである。
裕貴の「ただの注意だ」「何度いっても効果がないので、強い口調になった」「愛情ゆえのお説教だ」という主張は、まったく認められなかった。
さらに玲奈は実家に戻る時、家計簿を持って出ており、中身を確認した委員達に「夫婦二人の毎月の生活費が三万円はあり得ない」「経済DVだ」とまで言われた。
裕貴の「無駄遣いが嫌いなだけだ」という主張も認められなかったのである。
気づけば裕貴は離婚届にサインさせられ、玲奈の両親に罵られ、慰謝料まで払わされることになった。そして事の顛末を玲奈の父親の口から学校に『報告』され、裕貴は懲戒免職が決定したのである。
裕貴は当然、激怒した。
「夫婦のことに、親が首を突っ込んでくるんじゃねぇ! 男と女には作法ってものがあるんだよ!! それくらい察したらどうだ、あのクソ親子が!!」
毒づいたが、深呼吸して頭を切り替える。
この程度なら、まだとりかえしは効く。
なんといっても今の裕貴には奇跡が、魔法の道具が味方についているのだ。
裕貴は自室で一人になると、両親が寝入るのを待って、金色のペンダントをとり出す。
そしてスマホを操作した。
この砂時計の能力を知って以来、次に使う時のことを裕貴はずっと考えていた。
スマホには二年間分の、様々な高額当選番号がメモされている。
裕貴はその番号を覚えられるだけ覚えると、砂時計を手にとり、強く祈った。
(戻れ…………戻れ…………あの時みたいに…………二年前に…………戻れ――――!!)
念じる意識が途切れる。
裕貴は二年前に戻っていた。
時期としては二年前の春。新学期がはじまる直前。
スマホやニュースの日付を確認した裕貴は「よし!!」とガッツポーズをとる。
今回も、まずは前回と同じように禁欲生活をはじめた。
この時点で付き合っている少女達全員と別れ、校外の恋人である藤原花織とも別れて、裕貴の交際を学校側に密告した何者かが付け入る隙を潰す。
並行して番号指定でくじを購入し、ゴールデンウィークが終わる頃には、五億円を越す当選金を手に入れていた。
週末の夜。自室で通帳をながめながら、裕貴は今度の『婚活』について考えをめぐらせる。
今度こそ第一候補の妹尾美優を…………と決意しかけて、はた、と閃いた。
(五億だぞ? この先もまだ数億、いや、十億は手に入る予定なんだ。なら、今までみたいに、そこらの小娘にあくせくする必要はあるか? もっとこの五億を、有効に利用していいんじゃないか?)
裕貴は一から計画を立て直す。
それから数週間後。
裕貴は手に入れた金をあちこちにばら撒いて、都内の有名なお嬢様学園に赴任を果たす。
新天地はまさに『花園』だった。
学園内には大企業の娘だの政治家の孫娘だの、妹尾美優や松島玲奈など足元にも及ばぬ『セレブ』な少女達が当たり前のように行き交い、笑いさざめいて裕貴に挨拶してくる。
裕貴は宝の山にたどりついた冒険者の気持ちで校内を物色し、ほどなくして見つけた。
九条美琴。
セレブが集まるこの学園でも屈指の大企業の会長の孫娘で、成績トップの優等生。最高ランクの美少女。言葉遣いや立ち居振る舞いは洗練されて、賢さと育ちの良さを感じさせ、佇まいには高貴なオーラすらただよう。もはや『美少女』というレベルですらない。
『姫君』や『王女』の気品と清純無垢を備えた、選ばれた存在だった。
長い艶やかな黒髪を風になびかせ、淑やかに目の前を横切って行く彼女を見た瞬間、裕貴の全身には雷が走った。
妹尾美優や松島玲奈にこだわる必要はなかった。
これぞまさしく自分のために用意された、最高級の少女。
裕貴は運命を確信した。
(俺はこの女を手に入れて、セレブとなって成功を収めるために、この世に生まれてきたんだ。それが本当の俺の人生なんだ――――!!)
それから裕貴は奔走した。
美しく優秀な九条美琴は、二年生ながらも多くの取り巻きに囲まれ、後輩達の憧れのまなざしにさらされていた。彼女らの注目をすり抜けて当人に接触するのは、教師というアドバンテージを有していても骨の折れる作業だった。
そのうえ、この学園は高めの偏差値をキープしており、その偏差値に合った授業をするなら、入念な準備やアフターケアは欠かせない。
裕貴はしばらく目まぐるしい日々を送った。
しかし、これもそれも、すべてはあの最高傑作を手に入れる準備と思えば、苦痛ではなかった。
やがて裕貴は、九条美琴に自然に接する機会を得て、少しずつ、自分の好意や情熱を小出しにしていく。
九条美琴はさすがに裕貴が『最高傑作の運命の女』と見込んだだけあって、松島玲奈やその他の少女達のように、即座になびいてくることはなかった。
裕貴の称賛を当たり前のように受けとり、彼の情熱をさり気なく流す。
それでいて、ほほ笑みは蠱惑に満ち、本気で恋も男心も何も知らぬ無垢な少女に見える時もあれば、すべてを知る妖艶な遊女に見える時もある。
裕貴は受け流されれば流されるほど九条美琴にのめり込み、「この女こそ、神が自分に約束した運命の女だ」という確信を深めていく。
そして、気づけば学園は夏休みに入っていた。
教師の仕事をのぞけば、夏休みは暇だった。前回の松島玲奈と異なり、九条美琴は成績も優秀なので、補習を口実に呼び出すことはできない。
焦れる思いで夏休み明けを待っていた裕貴は、ある日、一人の生徒に目をとめた。
補習を受けに登校していた、二年生。前髪で顔を隠すかのように、うつむき加減で背を丸めて歩く、見るからに地味で質素で華のない少女。
明らかに、この学園の華美な雰囲気から浮いていたその生徒は、宮園七海といった。
彼女の担任から聞いた話では、そもそもこの学園に通うような『良家』の出身ではなく、本人もそれを自覚して、クラスでも授業でも部活でもずっと小さくなって過ごしている、半ば忘れられた存在とのことだった。
裕貴も、これまでだったら宮園七海を気にすることはなかったはずだ。
しかし今の彼には、五億を越える預金があった。
そしてあらためて確認すれば、宮園七海は雰囲気こそ地味で姿勢が悪く、立ち居振る舞いも野暮ったかったが、そこそこ可愛らしい顔立ちをしていた。
裕貴は好奇心を刺激された。
「宮園さん、大丈夫かい? 補習、大変だね」
裕貴はさも『一生徒にも気を配る良い教師』の顔で、補習に通う宮園七海に近づき、またたく間に彼女の信頼を得て、心を開かせることに成功する。
そして補習のない日に呼び出すと、誰もが知るおしゃれな地区のおしゃれな店に連れて行き、ブランド物の服を買い、靴を買い、アクセサリーやバッグもそろえて宮園七海に着替えさせた。
七海は当然、驚き、恐縮して遠慮する。
その七海の抵抗を押し切って、裕貴は彼女を有名ヘアサロンに連れていき、流行の髪型にカットさせて、高級化粧品売り場で化粧品一式を購入しながら、店員に七海をメイクさせる。
七海は別人のように見違えた。
鏡に映った己の姿に、宮園七海も目を丸くして言葉を失う。
最後に彼女を高級レストランに案内してフルコースをごちそうして、デートは終了となった。
宮園七海は生まれて初めて体験する贅沢な店や買い物にすっかり酩酊し、すてきな店をたくさん知っていて、高価な買い物を平然と済ませる大久保先生を、完全な尊敬の瞳で見あげるようになった。
そんなデートを何度かくりかえしたあと、裕貴は都内に二人用の高級マンションの一室を借り、そこに宮園七海を案内した。そして大切そうに合鍵を彼女の手ににぎらせる。
「学園だと、なかなか二人きりになれないしね。そもそも僕達の関係を知られたら、一緒にはいられなくなる。これからは学園では普通の教師と生徒のふりをして、会いたい時にはここで会おう。僕が七海に買ってあげた服やアクセサリーも、ここに置くといい。つらいけれど、長い目で見れば、それが二人の愛を守る最善の方法なんだ。七海なら、わかってくれるだろう?」
「はい、先生。じゃない、裕貴…………っ」
宮園七海はぽっと頬を染め、その反応がますます裕貴の自尊心を心地よく満たす。
裕貴はさらに金を出し、高級エステやマナー教室にも七海を通わせ、バレエや楽器といった稽古事も始めさせる。七海も裕貴の期待に応えようと、必死にそれらを習っていく。
七海にとって、それらの習い事は『恋人である裕貴の愛の証』であり、裕貴はなんでも買ってくれて、自分をお姫様へ変身させてくれる『王子様』だった。
(信じられない。まるで漫画みたい。こんなことが、あたしに起こるなんて――――)
地味でちっぽけで平凡だった宮園七海は王子の手によって眠っていた才能を見出され、美しく高貴に成長して、セレブな『大人の女』へと磨きあげられているのだ。
夏休みが終わり、二学期がはじまると、宮園七海はすっかり垢抜けていた。
平凡な成績や平凡な持ち物を恥じて、常にうつむき加減で背を丸めていた地味な少女は消え、背筋を伸ばして上品に歩く変身ぶりが学園内で注目を浴びる。
「見違えたわ、宮園さん。いったい何があったの?」
「ちょっと。夏休みの間に、自分で色々研究してみたの」
七海は、あらかじめ恋人に決められていた説明を返す。
むろん、同級生達は「それだけではないでしょう」といぶかしみ、質問を重ねたが、七海はそのすべてを笑って流した。
夏休み前までは、同級生達からの視線に心底怯えていた少女が、今は、彼女達の注目に笑って流すゆとりすら身につけていたのだ。
(全部、裕貴のおかげだわ。私は今、プリンセスへの階段を登っている。裕貴は私の運命の人、私の王子様。私は誰よりすてきな恋人と、運命の出会いをしたんだわ。これからも、もっと自分を磨いて、裕貴にふさわしい女性にならなくちゃ)
そんな確信が七海にさらなる自信と輝きを与え、一気に学園の表舞台へと躍り出させる。
この結果に、裕貴もおおいに満足した。
古くは『源氏物語』の光源氏。有名どころでは『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ博士が味わった「自分好みの女を一から育てる」という夢。
八億(夏休みが終わり、さらに三億円を手に入れていた)を手に入れた今こそ、試してみるべきではないか。
裕貴はこの『遊び』をいたく気に入り、秋の文化祭が終わる頃にはさらに二人の『人材』を追加して、合計三カ所のマンションに日替わりで『通う』ようになった。
一方で、九条美琴を辛抱強く口説きつづけている。
彼女は想像以上に手ごわく、時には裕貴のほうが激しい飢餓感に襲われるほどで、その飢餓感を静める意味でも、三人の『愛人』達の存在は必須だった。
(そういや光源氏も、初恋の女である藤壺を追い求めながら、身分の低い女達を愛人にして囲まれていたんだっけな…………)
今の自分はまさに、九条美琴という『永遠の女』を追いながら、紫の上や明石の君といった気安い身分の愛人達に囲まれる光源氏だ。
一本三十万円のワインをかたむけつつ、裕貴は高級マンションの窓から真夜中の景色を見おろし、ひそやかに笑う。
自分は奇跡を手に入れた、特別な存在。神に選ばれた人生を送る者。
今となっては、妹尾美優だの松島玲奈だの、あの程度の女達にふりまわされていた事実すら忌まわしい恥だ。この先の未来には、最高の女と最高の人生が約束されている。
あの砂時計は、それを助けるための神からの贈り物だった。
(砂時計の残りは二回。慎重に使うぞ…………)
そう決意を新たにしながら、裕貴はワインを飲み干して『愛人』の眠る寝室に戻った。
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