花魁鳥は夜に啼く

北大路美葉

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第二十話「光翼」

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 龍泉寺琴律《りゅうせんじことり》は下腹部の不快感を堪えきれずに目を覚ました。
 ずん・・と重い疼痛が止まらない。
「……」
 辺りは暖かく、明るく、遠くから鳥の声も聴こえてきていた。
 身を起こして周囲を見回す。屋内であった。箱やら書物やらが所狭しと積まれている。琴律はこの場所に覚えがあった。
「ここは……もしや」
 引き戸をごろりと開けて外に出る。思った通り、根之國《ねのくに》の『春』の部屋——散々迷って化物に追われた挙句に逃げ込んだ、屋敷の庭園であった。横たわって寝ていたのは、蔵の中だったのだ。
 以前六人で見て回った通り、庭の蔵の外には手水場《ちょうずば》と木造の便所がある。ぴったりと閉じた扉には護符《おふだ》が貼られ、押しても引いても開くことはなかった。
 屋敷の周囲には塀が巡らされ、門も設えられていたが、こちらもぴったりと閉ざされて、琴律の力を以ってしても全く開く気配がない。
 閉じ込められているのか——と琴律は悟る。禁錮あるいは軟禁であろうか。
 自らの所業を振り返るまでもなく、それくらいは至極当然の仕置であろう。罰として命を奪われてもおかしくない程の罪を重ねたのである。そう考えれば優しいくらいだとも思えた。
 歩くと、尻と太腿を伝って、血が流れた。どうやら、止まらずずっと出血し続けているようであった。不快感の正体を知っても、処置のしようがない。仕方なく琴律は、手水鉢の水を使って汚れた脚や尻を洗い流した。
 このままここに閉じ込められ、一生を終えるのだろうか。ここは死後の世界であるから、もう自分の一生は終わったことになっているのか。それとも、誰か訪ねてきて、別の罰でも受けさせられるのだろうか……。
 そんなことを考えながら、琴律は再び蔵の中へ足を踏み入れた。
 思わず、はっと息を呑む。
 蔵の中には、夥しい数の、紅くひらひらしたものが舞っていた。
 金魚の群れであった。
「これは……!」
 紅く小さな鮒魚《さかな》の群れが、蔵の中の空間を水槽に見立てて泳ぎ回っている。
 格子の嵌まった明り採り窓から日光が差し、蔵の中に埃の線が描かれる。まるでここが閉じ込められた水中であると錯覚してしまいそうなほど、金魚たちはのびのびと身を翻しながら泳ぐ。
 以前やってきたときにも見たが、この世のものとは思えぬほどの、絢爛にして雅やかな光景であった。——尤《もっと》も、ここは“あの世”であるが。
 暫し琴律は、息をするのも忘れて、この万華鏡の如き絶景に見入っていた。
(……縦《よ》しんば、二度とここから出られぬのならば)
 琴律は金魚に手を伸ばし、一匹に指を触れた。
(私はこの金魚《きんとと》たちと変わらないのだな)
 金魚はひらりと身を躍らせて琴律の指から逃げる。琴律はそれを追いかけ、無理に金魚を捕まえた。
 金魚は紙に化けることなく、琴律の手の中でもがく。
「……」
 琴律はしばらくそれを見つめていたが、だんだんと手に込めた力を強くしていった。金魚は琴律の手の中で、びくびくと身を震わせている。このまま力を入れ続ければ、潰れてしまうのであろう。
 小さな命の生殺与奪の権を握っていることを自覚し、琴律は快感を覚える。
 自分は、またも死後の世界・根之國に於いて、命あるものを殺めてしまうのだ。自分はそれが出来得る、能力《ちから》を与えられた存在なのだ。
 今度はどのような罰を受けるのであろうか。また別のどこかへ連れてゆかれるのか。手酷い責苦を受けるのか。額の彫り物には一画《いっかく》加わるのか。
 そんなことを考えながら、琴律は思い切り手を握り締めようとした。そのとき。
「——ほう。汝《うぬ》か」
 扉を開け放したままだった蔵の入り口から、覚えのある声が聞こえた。
 振り向けば、そこには忘れようもない、女の姿。
「橋姫《はしひめ》……」
 白装束を纏い、長い髪を後ろで束ねた格好——寺の地蔵の炎から現れ琴律らと初めて相対したときと同じ姿で、死女橋姫は蔵の中に入ってきた。
 ただ二点、以前と異なる処があった。
 橋姫の左の頬に、大きな火傷の痕《あと》ができている。高温の炎に焼かれた傷は痛々しく、白き美貌を穢《けが》している。
 そして額に、片仮名の「ナ」の文字が刻まれている。
 黥《げい》か——と、琴律は己の身を顧みながら思う。少なくともこの点において、琴律は橋姫と“同じ”であるのだ。
「斯様な処で、何をしておる」
 琴律は手を広げた。ひらひらひら——と金魚が逃げる。
「……何も」
「ふん」
 橋姫は蔵の中で琴律と向き合っていたが、やがて上を向いた。吹き抜けの蔵は二階までを見上げることができる。橋姫は蔵じゅうを舞う金魚たちを眺めると、目を細めた。
「見たところ、汝も罰当たりの罪人か。……奇縁じゃわ」
 上に手を伸ばすと、金魚たちが一斉にやってきて橋姫を取り囲み、その顔を啄ばみ始めた。橋姫はそれに身を任せていたが、そのうち金魚たちが一匹、また一匹と姿を消し始め、とうとう橋姫だけが残った。
 琴律は、以前この蔵で見た春画《にしきえ》のことを思い出していた。
 あれに画《えが》かれていたのが橋姫であったならば、この金魚どもこそ、橋姫の残留思念そのものではないか。
 橋姫の顔からは火傷の痕がきれいさっぱり消え、手には黒い煙管が握られていた。
「妾に着いて、外《おもて》へ出《いで》よ」
 振り返りざまに橋姫が促す。琴律は橋姫に続き、無言で蔵の外へ出た。
 三枚歯の下駄の跡をそのまま真似るように踏み、琴律は橋姫に着いて歩く。やがて手水場の前にやって来た。
 橋姫は板造りの便所の、扉の前に立つ。
「此れじゃな」
 橋姫が手を出して扉に触れると、
「まだまだ。まだまだ」と可愛らしい声がした。
 扉に貼られた護符が返事をしたのを目の当たりにして、琴律は少し驚く。
「ふん。案内《あない》役の小娘がくだらぬものを貼って行きおった所為で、門扉が閉ざされておるらしい。妾も汝も、いずれ此の垣内《かいと》より外には出られぬ」
「……」
 橋姫は呆れたように薄く笑い、琴律の顔をじっと見た。
「よもや、汝らの助けなど請わぬ心算《つもり》であったが」
 そう言って、手に持った煙管をぶん・・と振る。橋姫の右手を琴律が見れば、それは一振りの黒い打刀に変わっていた。
「それは……」
「汝が罰当たり刀、借り受けるぞ」
 橋姫は便所の扉に半身を向けて立ち、鞘から抜いた刀を上段に振りかぶる。
 その様子を見て、琴律は目を背ける。自らの産み出した呪わしき刀が疎ましかった。
「……護符を斬るつもりですか」
「如何にも。これを破らねば、永劫《えいごう》の褻衣《けころも》を時《とき》、この門塀の中で過ごす事になる。汝と共にじゃ」
「その符《ふだ》を破ることは、奨めません」
「なに?」
 琴律の言葉を訝しんで、今しも刀を振り下ろそうとしていた橋姫は、手を止めた。
「今更、何を抜かす」
「其女《あなた》が中津國《あちら》で死に果ててこの根之國《ねのくに》に居るということは、やがて黄泉《よみ》送りになるべき身です。犯した罪業から考えれば、閻魔《えんま》裁きも無いのでしょう。それならば——我らにとって憎き仇とはいえ、せめてこのまま」
 琴律は橋姫の顔を見ることなく、静かに言葉を紡いだ。
「汝が何を言うておるのか、妾には分かりかねる。それに、死に果てて此処に居《お》るのは、汝も類同《おなじ》ではないか」
 橋姫は横目で琴律を見ると、舌舐めずりをした。
 手にした刀の抜身から黒い焔が立ち昇る。
 それを目にした琴律は、じり——と半歩後ずさる。
「此の囲い——結界と云うのか——此れを破ったれば、妾にも霊力が戻ろう」
 橋姫は再び刀を振り上げ、
「或いは、汝如きを喰らうて血肉《しし》を得ることくらいは!」
 叫ぶと同時に、琴律の刀で護符を斬り払った。そして琴律に向き直ると、獣の如き形相で掴みかかった。口からは多量の涎が飛び散った。
 真っ二つに斬られた護符が便所の扉から剥がれ、ひらりと地に落ちる。
 琴律が身を翻して橋姫の牙を躱そうとした瞬間。轟音とともに便所の扉が開かれ——否、噴き飛ばされ、中から髪の化物が躍り出た。
 化物は最も近くにあった餌——橋姫を捉えると、その胴に髪を伸ばして絡め取った。
「おお——」
 橋姫は予想もしなかった存在《もの》の襲撃に対し、なんの対策も持たなかった。
 手からは刀が取り落とされ、無造作に結わえた髪はざんばらに解かれる。
 髪の化け物は、逆さに吊り上げた“娘の部分”を橋姫《えさ》に近付けると、ばくりと大口を開いた。
「あなや——何ぞ! 此れは何ぞ!?」
 化物の口は橋姫の足を、そして下腹部を呑み込んでゆく。
「おお——おお」
 苦悶に呻く橋姫を、琴律は灯籠の陰からじっと見ていた。
「おのれおのれぇ——」
 妖怪変化の穢《きたな》らしい歯で肉も骨も噛み砕かれ、美しかった顔を歪ませる橋姫を、琴律はただ黙って見つめる。
「憂き世じゃ……実《げ》に……憂き世じゃ……」
 やがて橋姫は頭のてっぺん、長い髪の毛まで全てを化物に齧り取られ呑み込まれてしまった。
 化物は猶《なお》も腹を空かせた様子で、涎を垂らしながら屋敷の塀を打ち破り、どたどたと敷地の外へ出て行ってしまった。
「……」
 あたりに静寂が戻ったことを確かめると、琴律はばらばらに破壊された便所に近づいてみた。
 残骸の中に、一管の黒い煙管が落ちている。
 琴律はそれを、手に取ってしばらく眺めていたが、やがて吸口を口に咥えて吸い込んでみた。
 真新しい畳のような、草の濃い匂いがした。
 『春』と銘打たれた空間は暖かく、静かで、空気が凪いでいる。
 琴律はずん・・と重い腹を堪えながら美しい庭に腰を下ろし、やわらかく吹く風に身を任せた。
 温度を含んだ風はすうっと琴律の頬を撫で、髪を揺らして通り過ぎる。



 夏海《なつみ》景《けい》は自室に仰向けで横たわり続ける河津《かわつ》聖亞《せいあ》の顔をじっと見詰めていた。
 午後一時。橋姫《はしひめ》をなんとか斃《たお》してから、一昼夜が経過した。しかし、聖亞が目を覚ます気配はない。
(死んだんじゃねえだろうな)
 よもやと思いながら顔に近づいてみると、ちゃんと息をする音が耳に入る。同時に聖亞の鼻息の匂いが己の鼻をくすぐり、なんとなく気恥ずかしい思いすらした。
(顔だけなら、めちゃカワイイんだけどなあ)
 呆れた顔をしながら、景は聖亞の頬を平手でぴたぴたと叩いた。やはり、聖亞は目覚めない。
 景にしてみれば決して好きな先輩ではないが、それでも、死ねば良い——とまでは思わない。
 蓬莱《ほうらい》姉妹は、別れを告げて帰っていった。どこへ帰ったのかは聞いていない。根之國《あちら》なのだろうか、それとも中津國《こちら》のどこかなのだろうか。
 まあ関係ねえわ——と、思考を脳から追い出しながら、景は聖亞の顔を眺め続けた。
 白い手に擦り傷や痣を付けられ、汚れたセーラー服を着たまま寝茣蓙で眠っている聖亞を、このままいつまでも自室に置いておくわけにはいかない。夏休みはもうじき終わってしまうし、何より河津の家族が心配するではないか。
 病院にでも連れて行こうかとも思ったが、経緯《いきさつ》をどう説明するのか、という問題がクリアできず、なんとなく放置してしまっていた。琴律《ことり》ほど弁の立つわけではない自分が大人達から色々と問われれば、ボロを出す可能性が大いにあった。
 そんなことを考えながら、なんとか起きてくれないかと聖亞の身体を揺すっていると、景の鼻に異臭が届いた。それが聖亞の便臭であると気付き、景は頭を抱える。
「おいおいおいおい」
 慌てて窓を開けると、外の熱気がわっ・・と流れ込んできて、急激に発汗する。エアコンを止めてから、景はしばらく立ちすくんだ。
 意識のない人間の下《しも》の世話など、景には経験がない。
(寝てたって生きてるんなら、そりゃ糞《クソ》だって垂れるわなぁ)
 自分の下穿きを引っ張り出して着替えさせようとするが、手順もなにも分からない。
 大便だけでなく、小便までもが漏れ出し、寝茣蓙に広がっていた。
 手を汚しながらも無理やりに脱がせ、下半身を汚す屎尿を拭いてやらねば着せられないという至極当然の事にはたと気付き、階下へ降りて雑巾を絞って、再び部屋に帰ってくる。
 そこで、窓からの闖入者と目が合った。
 蓬莱《ほうらい》姉妹であった。
「わあ、お前ら何やってんだよっ」
 景の部屋の窓枠を跨ぎながら勝手に入り込もうとする二人は、例によって白黒のロリイタドレスを着込んでいる。
「夏海《なつみ》ちゃんこそ、何やってるの!」
「へっ」
 またも靴のまま畳に上がりこんだ萵苣《れたす》が、顔を真っ赤にしながら詰め寄ってくる。
「この子を、下だけ脱がせて!」
 景はそこで初めて寝ている聖亞に目を遣り、下半身を裸にしたままだったことを思い出した。
「はあっ!? いや、違う」
やらしい・・・・ことしてたのかな! 最低!」
「違うわいっ」
 後に続いた蕃茄《とまと》も部屋の汚れを眺めてから、詰《なじ》るような目つきで景を見て、
「これは流石に。マニアックすぎる」と呟いた。
「……お前ら、勘弁してくれよ。この状況、見たら分かるだろ」
 半泣きの景の手から濡れ雑巾を引ったくるように取り、蕃茄は聖亞の身体を拭き始めた。
「冗談」
「くっそ。こんな時にふざけやがって」
 景は姉妹の頭を順番に小突いた。

 こんな昼日中《ひるひなか》に、通りに面した家屋の窓、しかも二階から入り込むところを誰かに見られたら、どうするのだ。姉妹に対する景のぼやきは清掃中にも続いた。
 汚れは茣蓙にも及んでいたが、水洗いと天日干しで済ませることができた。冬の布団でなくて本当に良かった、と景は胸を撫で下ろす。
 消臭スプレーを振り撒き、どうにかこうにか形を整えたが、人が居られる程度に匂いが取れるまで、もうしばらくは窓が閉められない。そうするとエアコンも使えない。残暑の午後、景の全身からは汗が止まらない。
 どこか涼しいところに待避しよう、と景が提案し、三人は連れ立って外出した。
 件のショッピングモールは、その広大な敷地の周囲にポールが立てられ、ロープが張られて立入禁止とされており、その内外には多くのパトカーやら警察官やらが犇《ひしめ》き合っていた。その様子を横目に見ながら、景たちは近くのファミリーレストランに入る。
 ほとんど客のいない店内は冷房が効いており、奥の席に腰かけた三人は、同時に喟《ためいき》を吐き出した。
「——それで、お前ら何しに戻ってきたんだよ」
 炭酸ドリンクを一杯あおって景が切り出すと、姉妹はそこで顔を見合わせた。
「そうだった!」
「ヰ子《こ》さんから。続報があった」
「ああ?」
 景は思わず身を乗り出して、ガラスのコップを倒しそうになる。
「早く言えよっ」
 萵苣がアイスティーのグラスから口を離して頭を掻く。
「ごめん! バタバタしてたから!」
「……んで、なんて?」
 蕃茄がコーラのグラスを置いて、景の顔をじっと見ながら、口を開いた。
「天美《あまみ》さんは。龍泉寺《りゅうせんじ》さんと争った後。此方《こちら》へ向かっている」
「そうか。やっぱ無事で、帰ってくるんだな。——それであの、あいつ……」
 もうひとり、共にエトピリカになった友人の顔と名前が咄嗟に出てこず、一瞬口籠もる。
「……コト、については、なんか言ってたか?」
 なんとか脳味噌にこびり付いて残っていた友人の一名《いちみょう》を刮《こそ》げ取るようにして思い出した景は、話の先を促して誤魔化した。
 景の顔を見たまま、蕃茄はゆっくりと言葉を続ける。
「龍泉寺さんは。根之國《ねのくに》に拘留されることになった。らしい」
「は? 拘留だ!?」
 思わず大声を出してしまってから、景は周りの目を気にして肩をすくめる。拘留というのは、いわゆる監獄のようなところに押し込めて出られなくすることか——と景は怖気《おぞけ》立《だ》つ。
「それは、どれくらいの間だ!?」
「分からない。聞いていない」
「コトリちゃん、根之國《あっち》で悪いことしたらしいからね! 捕まって、閉じ込められちゃうんだって!」
「わ、悪いことって、なんだよっ」
 刃物を担いで狂奔に及んだ者がやらかす“悪いこと”というのは、限られている。しかし景は、そこに考えを至らせることが怖かった。目を固く閉じて、景は言葉を待った。
「龍泉寺さんは。根之國の賽河原《さいのかわら》に於いて。殺人の罪を犯した。らしい。しかも。五千にも及ぶ人数を。斬殺している。らしい」
「ごっ——」
 蕃茄の言葉を聞いて、景は思わず目を見開いた。その数字が、あまりに現実味を帯びておらず、二の句が継げなかったのだ。
「その罪によって。根之國のある場所に。その身柄を確保され。拘留される。という報せだった」
「……あの、莫迦《バカ》ッタレが……」
 血が出そうなほどに唇を噛み、景はコップを握り締めた。
 幼い頃から親しく交わり共に遊び学んだ友が——長じてのちは密《みそ》かに同じ女性として見倣うべき目標とすらしていた琴律《ことり》が——大勢の人を殺めたのだという。
 ぎしりという手応えの後、ガラスの安コップは派手な音と共に割れて砕けた。
 店内にいた数少ない客が一斉に視線を向け、店員がすっ飛んでくる。
 姉妹が店員に謝るのも、己の手から出血するのも目に入らぬ様子で、景はテーブルに突っ伏す。
「くそっ……莫迦があ……!」
 景の目からだくだくと涙が流れる。
 三人の座るテーブルを、ガラスの破片と涙と血とで汚しながら、景はうおんうおんと咽び泣いた。

 店員に侘びて早々に退店し、ドラッグストアでガーゼや絆創膏やらを買い込んだ景と姉妹は、夏の屋外で傷の手当をした。幸いにして景の手の切創は浅く、素人の処置でもなんとか形になったようだった。
 ペットボトルの水を浴びるようにして飲み、熱の息を吐き出した景は、改めて姉妹に向き直る。
「お前らさ、橋姫にムチャクチャやられた傷も、あたしの知らん間に手当してくれたんだろ。あんなん治せるくらいなら、こんなくだらん傷に手間掛けて、どうすんだよ」
「えっ! 私ら、傷を治せるわけじゃないよ!」
「あ? じゃああたしの怪我って——」
「エトピリカは。変身状態で生きている限り。細胞が蘇り。組織の補修が行なわれ。肉体が修復される」
 蕃茄が景の顔を見つめて目を動かさぬまま、ぽつぽつと説明する。
「修復? 要するに、勝手に傷が治り続けるわけか」
「そう。もともと人体には。そういった機能が備わっている。ただしエトピリカは。その速度が異常に速い」
「化けもんと闘《バト》って負傷《ケガ》しても、放置しときゃ済みますってか。じゃあ、なんで今のあたしには、こんな手当が要るんだよ」
「だって! 変身してないでしょ! 今はエトピリカじゃないよ!」
 萵苣があっけらかんと言う。
「……ああ。分かったよ」
 エトピリカなるものは、そこまで戦闘に特化した仕組《つくり》になっているのか——と、景は呆れた。
 景は一瞬、(自宅に戻って変身して、怪我の治りを待ってやろうか)と考えた。しかし、阿吽がいない今、変身する手立てそのものがないのだった。
「とりあえず、あたしん家《ち》に帰るか……」
 景は姉妹を促して、再び歩き始めた。
 暑気と怪我の痛みのせいで鈍った脳を無理やり回転させて、小柄な友人の顔を思い起こす。
 空子は無事で、こちらへ帰ってくるのだという。
 少し気を鎮めて考えてみると、あの大人びた、鬼気迫る様子の、しかも刃物を持っている女に、ちび・・の空子が言うことを聞かせた・・・・・・・・・わけであるから、その点は成功という外《ほか》あるまい。戻ってきたら、褒めてやろう。自分の小遣いで、焼肉を奢ってやってもいい。
 その一方、あの——自分の同級生は、大勢の人を殺した挙句、罰として死後の世界に閉じ込められるのだらしい。こちらは大失敗だ。
 悪い夢を見たくらいで、あれだけ狂えるあいつ・・・はおかしい。異常だ。
 景は顔も名前も薄《うす》ぼんやりとしてきた友人を、心の中で罵り続けた。
 物も言わず歩き続ける景の後ろを、季節外れの服を着込んだ姉妹が、とぼとぼと着いて歩く。声をかけられる空気ではない——と流石の萵苣も感じ取った様子で、表情の無い妹の顔と、夏の青空とを、交互に見ていた。

 自宅の階段を上がり、自室に戻った景は、まず驚き、そして呆れた。
 自分のベッドに横たわらせていた河津聖亞《かわつせいあ》が、エトピリカに変身したまま・・・・・・・・・・・・、横臥していた。
「なんじゃこれは……」
 姉妹も目を丸くして、部屋の入口に立ち尽くしている。
 景らが空子《そらこ》と揃って変身したときとはまた異なる可愛らしい装束を着込み、聖亞はすうすうと寝息を立てている。
 その寝顔にぐったりとした様子はなく、景らが出かける前と較べてもはっきりと分かるほどに、規則的で安らかな寝息であった。しかし出かける前と同じく、聖亞が目を覚ます気配はない。
 あれだけきつかった便臭も、完全に消え失せていた。
「どういうことだッ!? おい! 阿吽《あうん》!」
 窓の外に向かって、景は声を張り上げた。
「おいッ」
 だが、小さな男たちが飛来する様子はない。返事すらない。
「……こりゃ、一体どういうことだよ……あいつら、なに考えてンだ」
 景は頭を掻きながら、サッシの窓を閉めて冷房を入れた。
「なんなんだよ、こいつのこの格好《カッコ》はよ……ふざけてンのか」
 景は床に胡座をかいて、聖亞の纏っている装束を眺めたりめくったりしてみた。染めた頭髪のピンク色に合わせたような、少女趣味の濃い意匠である。
 蓬莱姉妹もその傍らに座り込み、聖亞の姿をしげしげと眺める。
「この子、河津さんだっけ! エトピリカになっても可愛いねー!」
「そういう話じゃねえっ」
 呑気に目を輝かせる萵苣の頭を叩《はた》き、景は眉根を寄せて舌打ちをする。
「夏海さん。これは恐らく。阿吽の計らいに因るもの」
「ああ、分かってる。他にいねえだろ」
「生身の体を操られて激しい闘いをさせられたことと。無理な出産による。創傷の治癒と体力回復の為。阿吽はこの子を。エトピリカにした」
「さっきの、怪我の治る説明聞いてたからな。お陰さんで、よく分かる話だよ」
 景は苦々しい顔で、聖亞の顔を見つめる。
「だけどそれは、こいつの意思のないうちに、ってことだよなあ! まったく彼奴等《あいつら》は、いつもいつもこうだ。女をなんだと思ってやがる」
 聖亞の可愛らしいスカートをつまんで引っ張りながら、景はぶつくさと呟く。
「こいつも、イオマンテだかに駆り出されるんかな。んで、女性機能とやらを削って、闘わされるんかな」
「分からない。尸澱《シオル》の目の前で変身したわけではないのだし。闘うかどうかは。この子次第だから」
「……夏海ちゃん、やっぱり優しいね!」
「うるっせえ」
 相も変わらず表情の見えない蕃茄《とまと》と、一人にこにことしている萵苣《れたす》の声に、景は憎まれ口を叩いて返した。



 空子《そらこ》は独り、来た道を走って戻った。白い河原を抜け、寝殿造の建物を通過するが、当然乍らヰ子《こ》もゑ鯉《り》も、その姿を見せることはなかった。
 空子はふと、ゑ鯉の云う「琴律《ことり》をここから出られないようにして、居てもらう」という言葉が気にかかった。
 一体どこに居させて、いつまで帰らせないというのだろう。……まさに今、琴律をどこかへ連れて行って、閉じ込めているところなのだろうか……。
 そんなことを考えながら、里山の道を駆け抜け、大門をくぐる。
 長い坂道が細く続き、そこを抜けると道反《ちがえし》の岩戸——おとろしのいた場所に差し掛かった。
 空子は思わずひっくり返りそうなほど驚いた。ここへ来るとき、あれだけ見る影もなく破壊されていた岩戸が、破片ひとつを残すことなく元に戻っている。
 注連縄《しめなわ》も、長い黒髪までもが以前見たときと変わりなしに、狭い隧道を塞いで、巨岩が座っていた。
「ええっ、これっておとろし・・・・さんだよね……? 大丈夫なの……?」
 空子が近寄り、恐る恐る手を当てるが、古き岩戸はなんの反応も返さない。
「どうすりゃいいんだこれ……拝んだらいいのかな」
 空子は両手を合わせて目を閉じる。
「か、かしこみかしこみ……なんまいだぶなんまいだぶ。なんみょうほう、れんげっきょ」
 訳も分からず、ごちゃ混ぜの題目を口にする。
「お願いでございます、ここを通してくだしやんせ……かしこみ申す」
 必死に目を瞑って手を摺り合わしていると、岩が大きな口を開いた。
 ——鳥か。
「ふはっ」
 空子は驚いて目を開き、
「と、鳥か——?」と言葉を鸚鵡返しにしてしまう。
 岩——おとろしは長い前髪の間からぎょろりと目を覗かせ、空子を見つめている。その形相といい、大きさといい、空子はまるで取って食われそうな威圧を感じてしまう。
「あ、そ、そうです。鳥……です」
 おそらくエトピリカのことを言っているのだろう、と空子は解釈し、答えた。
 ——何か。
 空子がこれまで聞いたこともないほどに低い声。
「あの、おとろしさん。ここへ来るとき、私の友達が、その、おとろしさんに乱暴して、無理やりここを通っちゃったと思います。それでその、そのことを、謝りたくてですね」
 彼女なりに言葉を選んで、必死に友の所業を謝罪しようとする空子をじっと見詰め、おとろしはまるで河馬《かば》のように、大きく口を開いた。
 ——射干玉《ぬばたま》の鴉《からす》奴《め》には、為《し》て遣《や》られた。
「からす?」
 ——睡《ねぶ》る儂《わし》を、嘴《はし》で突いた。趾《あし》で蹴り付けた。儂は、砕かれた。
「コトちゃんのことか……。あの、そ、それで」
 ——如何《どう》やら鴉は捕《とら》まえられたか。其れならば好し。
「それで私、急いでですね」
 ——鳥よ。此処を通り征《ゆ》くか。
「は、はいっ。ここを通してもらって、えーと何だっけ、中つ国へ帰らなきゃならないんです。ここを逃げたシオルと、私の友達が、闘ってるの」
 おとろしは、大きく開いた口を更に開いた。
 ——儂が連れよう。乗れ。
 そう言うと、きょとんとしている空子の見ている前で、おとろしは長い髪の毛を巻き上げ、腕のように伸ばして、空子の手脚に絡みつけた。
「わ! わあ!?」
 あっという間に空子は、触手のような髪の毛に持ち上げられて、おとろしの頭上に乗せられてしまった。
「えええ……」
 轟々《ごうごう》という地鳴りを響かせて、おとろしの巨顔が移動し始めた。
 よく見れば、おとろしには顔だけでなく、爪の生えた腕のようなものが生えている。これを使って、地を這うように移動しているのであろう。
 このまま、中津國へ連れて行ってくれようというのか。
 空子はおとろしを信じ、任せて捕まっていることにした。
 暗い隧道をとっくに抜け、周囲は木々の生えた杜《もり》になっている。
「外に出ちゃってる!」
 実際、彼の移動速度はかなり速く、中津國までの距離を空子が走るよりも、余程楽に帰り着けそうに思えた。
 などと考えていると、おとろしが急停止した。
「うわ」
 空子は振り落とされそうになり、反射的に髪の毛を掴む。
 前方に、白い着物を纏った人が倒れている。おとろしと同様、長く黒々とした髪の毛を持っているが、どうやらこちらは女のようであった。
「こ、この人——」
 女の顔を見た空子が思わず息を呑み込むのと同時に、おとろしは髪の毛を伸ばし、女を絡め取って、頭上に掲げた。
「橋姫《はしひめ》っ!?」
 一年越しに見る、憎《にっく》き仇敵の顔であった。弟を死なせ友を傷つけた張本人。
 橋姫は根之國《こちら》を勝手に抜け出し中津國《あちら》に舞い戻って、河津聖亞《かわつせいあ》の肉体に取り憑き、 勝手に振舞っていたはずである。実際に、橋姫を名乗る聖亞から、自分も乱暴を働かれたではないか。
 その橋姫がここ根之國《ねのくに》に居るということは、景《けい》らが討ち倒し、聖亞を救ったということなのだろうか?
 しかし今居るここは根之國に入る前の道であり、いわゆる此《こ》の世と彼《あ》の世のはっきりしない境目の場所である。——否、岩戸であるおとろしよりも中津國《なかつくに》により近い場所である。ということは——
 空子の乗っているおとろしの全身が、倍ほどにも膨れ上がった。黒髪に覆われた頭上が、女ふたりが乗るには充分なスペースにまで大きく広がる。
 ——鳥よ。
 おとろしが口を開き、空子を呼んだ。
「は、はいっ」
 ——儂は此れを、再び黄泉國《よもつくに》へ連れねば為らぬ。呉越同舟ではあるが、暫し共に儂《わ》が上に居れ。
「えっ!?」
 そう言うと、おとろしは短い腕だか脚だかを踏ん張って、垂直に跳躍した。
「うわああ」
 空子はまたも慌てて、おとろしの長い髪にしがみ付く。恐ろしい勢いで、地上はみるみる遠ざかってゆく。まるでロケットに乗せられて宇宙へ打ち上げられるかのような勢いであった。空子の眼下には滝やら河やら、白い河原やらが目に入った。
 急ぐ空子を送り届けるよりも、橋姫を黄泉へ還す方が大事であるらしい。(まあ、そうかもしれないよな)と空子は納得した。
 いつ暴れ出さぬとも知れぬ罪人を護送する方が優先されるのは、どの世界でも同じことなのだろう。
 なにより、景たちが頑張って無事にイオマンテを遂げたからこそ、橋姫がここに居るのだ。それならば急いで帰ることもない。空子はそう考えることにした。
 ぐんぐんと空高く跳び上がり続けるおとろしの上で、空子は目を閉じたまま動かないでいる橋姫の顔を改めて見つめた。
 見れば、冷たいながらも美貌であったはずの橋姫には幾つもの孔《あな》が空いて、数え切れないほどの場所から血が流れ出している。また、額には漢字の「大」の文字が黒々と刻まれている。
 右腕の手首から先が、もぎ取られたように失われている。反対の左手には、黒い色の喫煙道具——煙管が握られている。
 またどういうわけか、萵苣が着ていたはずの白いドレスを裸身に巻き付けており、それもまたあちらこちらが赤黒い血に染まり、汚らしく乾いている。そこから覗く腕にも脚にも、孔やら切傷やらが穿たれ、その全身が見るも無惨なずたぼろ・・・・になっている。
 激闘の痕にしては、不自然に人為的な傷だ——と空子は感じた。
 白い頸《くび》、手足、腰を黒い髪の毛に絡みつかれて、橋姫はぐったりと項垂《うなだ》れている。
 死んでいるのだろうか。
 死んだから——肉体を破壊されたからこそ、根之國《こちら》へ来たのだろう。それなら、取り憑かれ弄ばれていた河津聖亞は、景たちに肉体を破壊されてしまったのだろうか……?
 厭な考えが次々と頭の中を過《よ》ぎる。
 まっすぐ上昇するおとろしの頭上で、空子の胸中は穏やかではなかった。
 いつの間にか、橋姫の目が開き、空子を見据えていた。
「——!」
 声も出せず、ただ息を呑む。
「憂き……世じゃ……」
 醜い嗄《しわが》れ声であった。
「……汝《うぬ》は……エトピリカ、の……童女《わらわめ》か……。我が咒詛《まじない》で、釘付けには……ならなんだ、か……」
「お、お前ええ……」
 空子の頭の中に、肚《はら》の中に、握り拳に、憎悪の炎がちろり・・・と灯る。それは小さな炎であったが、やがて一気に燃え上がり、めらめらと全身を灼《や》いた。
 歯を食いしばり、眉をしかめて、空子は吼えた。
「橋姫ええ!」
 小さな身体で、おとろしの頭上に立ち上がり、髪で巻かれた首根っこを捕まえた。力任せに引っ張り、おとろしの頭上に橋姫の身体を叩きつける。空子は仰向けになった胴体に馬乗りになって、橋姫の顔を引っ叩き、両手で掴んで揺さぶる。
「返せ! 大《だい》ちゃんを——私の弟を返せよおお!」
 声を涸らさんばかりに、空子は叫ぶ。
「ひひ。ひひひひ」
 橋姫は左手に握っていた黒檀の煙管をよろよろと振りかざし、気味の悪い笑みを浮かべた。
「このっ——」
 空子はその左手を捻じ上げ、橋姫から煙管を奪い取った。
 橋姫は抵抗しなかった。もはや抵抗などできる力は残っていなかったのであろう。
 以前対峙したときとは打って変わって、橋姫は力無く弱々しかった。それでも、その喉からは薄気味の悪い、冷たく不快な笑い声が漏れ続けている。
 空子の手の中で、煙管が大きく太く膨れ上がった。
「!」
 空子の身長の半分を超える長さにまでなったそれは、見覚えのある形と色をしていた。
 それは——龍泉寺琴律《りゅうせんじことり》の打刀《うちがたな》であった。
 琴律が産み落とし、携え、振るい、多くの命を奪った刀——幼馴染の友が、人を斬り殺すために股座《またぐら》から放《ひ》り出した凶器《まがもの》。
 自ら焔《ほのお》を発し燃えて無くなった筈の黒い刀が何故、今ここにこうして現れたのか——。それを考える心の余裕はみるみるうちに消えて無くなっていった。
 多くの血を吸い、もはや禍々しき妖刀とすら呼べる刀《それ》は、空子の手の中でずっしりと重く存在感を増してゆく。
 琴律と相対したときと同じように、空子の頭の中に靄《もや》がかかる。鼻息が荒くなる。体温が上がる。
 悪意の塊とさえ呼べるそれを空子は目の高さに掲げ、少しの間見つめた。そして柄を握り、鞘を一気に抜き捨てた。
 空子の左手から離れた鞘はおとろしの上から地へと落ちてゆき、やがて見えなくなった。
 真っ黒な刀身が、陽光を受けて鈍く閃く。
「……」
 空子は刀の柄を逆手に持ち直し、頭上に振り上げた。
 おおおおお、と声を上げ、橋姫の眉間を狙って思い切り突き立てる。
 包丁でキャベツでも刺したかのように、鋭い刃は頭部を簡単に貫通し、おとろしの頭にまで至り、橋姫を串刺しにしてしまった。
 ええいっと気魄を込め、空子は体重を掛けて更に深く刀を差し込む。おとろしの頭にまでも突き通してしまったことになど、もはや頓着しない。
「どうだっ」
 吐き出す息も荒く、空子は橋姫の顔を睨みつける。
 橋姫はそれでも、ひひぃ、ひひぃ、という笑い声を漏らし続けている。
 両目にいっぱいの涙を溜めて、空子は仰向けの橋姫の腹を殴った。重いはずの殴打は、べちっという濡れた音とともに威力を失う。
「これでもか! くたばれ! このお!」
 何発も何発も、白いドレスの上から女の腹を殴り続ける。溜まった涙が両瞼から溢《こぼ》れ跳ね散る。
 空子とて、こんなことが復仇になるなどとは思っていなかった。死んだ弟がほんとうに還ってくるなどと——況《ま》してや手にかけた当人が元どおり還してくれるなどと思い込んでいるわけではなかった。
 ただ、小学校に入学したばかりで、ランドセルを背負うことにさえ慣れないまま、理不尽に殺された弟を思うと、その念《おも》いをぶつけずにはいられなかったのだ。それをよく分かっているからこそ、空子は泣くのだった。
 おとろしは、まだぐんぐんと高度を上げてゆく。空の雲さえ通り過ぎ、天蓋を突き破らんばかりの勢いで、ふたりの女を乗せた巨大な妖怪は上へ上へと昇ってゆく。
「返せ! あたしの弟を! 大地を返せ! 返してぇ……」
 橋姫の髪を掴み、唾《つば》と涙《なみだ》と洟《はな》を飛ばして空子は哮《たけ》った。
 顔面に刀を突き立てられた橋姫は、笑いながら、目だけで空子を見た。
「ひひ。童《わっぱ》が……欲しいか。乞《こ》いしいか。ひひひひ」
 橋姫は左手を胸元に入れ、何かを掴んで差し出した。
「ほれ。……此処に居《お》る」
 その掌には、鈍くぼんやりとした光を放つもの——エトピリカに変身する際の霊珠《れいじゅ》が乗せられていた。
「あっ!?」
 霊珠は橋姫の手の中でひときわ大きく光を放つと、人の——小児《こども》の形に変わった。
 天美大地《あまみだいち》の姿であった。
 大地は、いなくなった夜と同じパジャマを着て、目を閉じていた。意識は無い様子で、橋姫に首根っこを掴まれている。生きているのか死んでいるのか、それすらも分からなかった。
「大ちゃんっ」
 空子は思わず、それに飛び付く。両目から、大粒の涙が飛び散った。
 空子の小さな手が届く寸前で、橋姫はその腕を思い切り振った。
 勢いがあまり、橋姫の左腕は肩から捥《も》げ、骨から肉が離れ、ぼろぼろと腐って朽ちた。
 崩れた手から離れ、大地の身体が宙に舞った。
 最後の力を振り絞って、橋姫はおとろしの上から大地を投げ落としたのであった。
「ああーっ!」
 空子は身を乗り出して、おとろしから下を覗き見た。
 大地はぐったりと身動《みじろ》ぎせぬまま、まっすぐに落下してゆく。
 空子はおとろしの上で立ち上がった。
 橋姫の手にしていた霊珠は紛れもなく、死んだ天美大地の念《おもい》を抽出したものだったのであろう。
 空子は橋姫を見もせずに、言い放った。
「お前は、とっくに死んでるんだ。だから、このまま地獄に、黄泉《よみ》の国に行けっ。あたしは——あたしと大地は、帰る! 生きて帰る!」
 そして、おとろしの上から飛び降りた。
 橋姫は、なんの躊躇いもなく宙に身を躍らせた空子に視線を向けていたが、やがて力無く笑った。
「童《わっぱ》を追うあまりに……疾《と》う疾《と》う、己《おの》が身を……棄てたかや……。痴れたこと……よ……」
 両腕を失くし、頭を串刺しにされ、虫のように這い蠕《うごめ》くことすら能わぬ女——否、意識があるだけで、もはやその肉は、自ら動こうとする意志を持たなかった。これはもはや、辛うじて女の形、人の形を留めただけの、穢《きたな》らしく哀れな肉塊であった。
「……坊よ」
 橋姫が口を開いた。
「妾の坊よ。妾を……非道の母を、怨むか」
 橋姫の顔の真ん中に突き立てられた黒い刀が、すっすっと短く小さくなり始め、やがて黒檀の煙管に戻ってしまった。
 額の傷から抜け落ち、顔の上に倒れた煙管を、橋姫は口で受け止めた。
 草も詰めていない、火も付いていない煙管を咥え、橋姫は息を深く深く吸い込み、また深く深く吐き出した。
「憂き世じゃ……憂き……世じゃ……」

 ——もう泣かないで。

 橋姫の潰れた耳に、はっきりと声が聴こえた。
 おとろしは何も言わず、まだまだ上昇を続けている。
 死んだ者の逝《ゆ》く黄泉國《よもつくに》というのは、地の底などではなく、天高くに在ると云う——。



 落ちてゆく空子《そらこ》の目に入る景色は、すでに中津國——空子の暮らしていた現世《・・》のようであった。
 神社の杜《もり》を通り抜けることもなく、いつの間にやら戻ってきていたものと見え、雑然とした建物やら道路やらが、空子に迫ってきている。エトピリカという特殊な身分にとっては、此の世と彼の世の境が本当に曖昧になってしまうようであった。
 大地《だいち》は未だ、空子の手の先である。
 スカイダイビングなど空子には経験が無いが、パラシュート無しでこのまま落ち続ければ、地面に叩きつけられてしまうことだけは自明であった。二人仲良く根之國《あのよ》へ逆戻りである。
「大ちゃんっ!」
 空子は必死に短い手足をばたつかせ、空《くう》を掻いた。お蔭で大地との距離は縮まり、とうとうパジャマの裾を指で引っ掴むことができた。
「こっち来いっ」
 そのまま力一杯引っ張り、胸に抱き留める。
 暖かい。
 一年以上も見《まみ》えなかった、弟の顔。腕に抱いた身体。匂い。誰よりも会いたかった。
「大ちゃーんっ!」
 空子は目を閉じたままの大地の顔に、己の顔を擦り付けて叫ぶ。
「大ちゃん、お姉ちゃんだよ。起きて! 目ぇ覚ましてっ」
 耳元でいくら呼びかけても、大地は目を開かない。
「お願いだ、目を覚ましてよ! 一緒に帰ろうよ、大ちゃん! 大地!」
 涙がどんどん溢れて飛び散る。
(やっぱり、あたしは死んじゃうんだな)
 もっと子供の頃の夏の夜、回転灯籠《まわりとうろう》なんてものを空子は見たことがあるが、いざこうして死んでしまうと思っても、両親も友達の顔も、脳裡を過《よぎ》ることはなかった。
(ちびで馬鹿なあたしは、チャンスが何度あっても、弟が死ぬのを助けてあげられないんだ。大地ごめんね、ダメなお姉ちゃんで、ごめんね)
 二人はどんどん落ちてゆく。地方都市の低いビルやら橋やらが、もう肉眼で見える位置にまで迫っている。
 空子の腹が、くうう——と鳴った。
 はっと顔を上げて、空子は大地を抱く腕に力を込めた。
「いいや……こんなんであきらめてたら、ケイちゃんたちに笑われる! ……それに!」
 地面を睨んで、空子は吼える。
「生きてみんなで帰らないと! 焼肉食べ放題行けないから! ケーキバイキングも行きたいし!! ムリでも、最後まであがいてやるからなーっ!」
 空子は手足を広げ、全身で大地を抱き込んだ。そして、身を丸めた。
「レッドガル! フレイムアターック!!」
 自分の身体をクッションにすれば、最悪、大地だけでも助かるかもしれない——空子はそう考え、大地をすっぽり包み込む姿勢を取った。
 空子はきつく目を閉じた。
「——それ、レッドフレイムでしょ。お姉ちゃん」
 耳にその声が届いた瞬間。
 空子の背から、光が伸びた。
 光は翼の形に変わり、羽撃《はばた》く。
 落下スピードが急激に緩み、二人は一瞬だけふわりと宙に留まる。そして、ゆっくりと降りてゆく。
 空子の足が、未舗装の地面に着いた。
 見覚えのあるそこは、空子がいつか夜の散歩をしていた——蓬莱《ほうらい》姉妹と初めて出会った史跡公園であった。
 音も無く、背の光翼が消える。
 どうやら今は夜であるらしく、あたりは闇に包まれていたが、無数の星のおかげで真っ暗ではなかった。
 丘陵に拓かれた公園の地面に弟の身体を横たえ、腕で背中を支えてやる。前髪を撫でてやり、空子は微笑みながら泣いた。
「……大ちゃん、おかえり」
「うん。……お姉ちゃん、前にもレッドガルの必殺技の名前、間違えてたよね」
「カタカナだと、なかなか憶えられないんだよぉ。ごめん、ちゃんと番組みて、勉強するよ」
 鼻汁を啜り上げて、空子は弟──大地の顔をよく見る。大地も空子の顔を見ながら笑っていた。
「今度、問題出すからね。ちゃんと答えられるようになっててね」
「うん、わかった」
「約束だよ」
 大地が小指を差し出した。
 空子はそれに自分の小指を絡める。
 ぐっと強い力で引っ張られ、空子は同じように力を込めて指切りをした。



 風に乗って耳に届く鶯《うぐいす》の声と小川のせせらぎが、『春』の部屋の静けさをより強めていた。
 もはや自分以外に、人の気配は感じられない。龍泉寺《りゅうせんじ》琴律《ことり》は、誰が手入れしたのかも知れない小綺麗な庭で、置かれた野面《のづら》の景石の上に、黙って腰掛けていた。
 髪の化物のお陰で、琴律を閉じ込めていた塀は打ち壊され、穏やかな花畑や川が瓦礫の向こうに遠く見えている。琴律次第で、ここからいつでも出てゆけるものと思われた。
 死後の世界である根之國《ねのくに》に於いて人が死ぬると、如何《どう》なるのか。自ら発したその問いにも、思いがけぬ形で答えが見えかけた。
 しかし琴律は、その後を追い結果を見ることをしなかった。
 火を点けるでもなく、橋姫《はしひめ》の煙管《きせる》を通して、琴律はゆっくりと息を吸ったり吐いたりしていた。
 何百年か前に死んだ女の匂いを吸い込み、体内に入れる。それは恰《あたか》も持ち主の息そのものを吸うこと、呼吸を重ね合わせることのような気がしてきて——琴律はなんとなしにどうでもいいような、ぽかんと浮世離れしたような、不思議な気持になった。感情が空っぽである。
 橋姫への憎悪を忘れたわけではなかった。ただ、私の内に憎悪があったなと思うだけであった。
 やわらかな日差しの中、おだやかな風に吹かれながらそうしていると。
 琴律の目頭から小鼻へ、つ、つ、つっ——と涙が流れて落ちた。
 はっ、と琴律は自らの顔に手をやる。
 額の黥《いれずみ》からの出血などではなかった。
 何故、涙などが出たのか。琴律には全く理由がわからなかった。
 ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ——。涙の粒はぽろぽろと瞼《まぶた》からこぼれ、鼻筋を伝い、顎から滴り、座っている地面に垂れ落ちる。
「ふう——うっ」
 ひしゃげた声が喉から漏れた。思わず手で口を押さえるが、自分のものでないような声はそれを押し退けて外へ出てくる。
 涙が後から後から流れ出てきて、琴律の顔をぐしゃぐしゃに濡らす。
 琴律は口から煙管と大量の涎《よだれ》を落とし、地面に手を突いて、這い蹲《つくば》った。
 何度も咽《むせ》び、呼吸《いき》が詰まる。目も鼻も口も大きく開く。己の中に有るものすべてを、そこから体外へ出してしまわんとするかのように。
「ふ……ああああああ」
 一度大声を上げて泣き始めると、もう止まらなかった。



「ゆーび切った!」
 声を合わせて、姉弟は指切りを交わす。
 空子《そらこ》の腕に抱かれたままで、大地《だいち》は手を下ろした。
 空子はもう一度、強く大地《おとうと》の身体を抱きしめる。
 大地は微笑んで目を閉じた。
 空子の腕の中で茫《ぼう》と光り、やがて一個の勾玉《まがたま》へと姿を変える。
 空子はそれを掌に乗せてしばらく見つめていたが、やがて力を込めて、両の掌を擦り合わせた。
「しばらくばいばいだ、大ちゃん」
 勾玉は掌の中で、さりさりという音とともに粉微塵の石粒へと姿を変え、空子の立っている足元の地面に落ちてゆく。
「お姉ちゃん、大ちゃんの分まで生きるからね。大人になって結婚して、元気な子どもを産んで、育てて、そんでその子が大人になって、また子どもを産んで——お姉ちゃんがお婆ちゃんになっちゃっても、生きていくから。ずっと見ててね」
 星の光を乱反射して輝く光の粒は、地面に降り注ぎ、やがて吸い込まれるように消えてゆく。
 空子は洟《はな》を啜りあげて夜空を見上げ、変身を解くと、自宅へ向かって走り出した。
 友らと交わした焼肉バイキングの約束を思い出すと、ぐるぐると腹が鳴った。

(終)
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