花魁鳥は夜に啼く

北大路美葉

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第十九話「罪咎」

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 アスファルトの地面に落ちた煙管《きせる》を這いつくばって口に咥え、橋姫《はしひめ》はゆっくりと身を起こした。
 夜の闇の中、炎に照らされ、激闘の痕《あと》が浮かび上がる。
 三人の少女が、弱々しく痙攣しながら転がっている。
 釘打ち鬼と化していたはずの霊女は、精も根も尽き果てたものか、立ったままで少女らの様子をしばらく眺めていた。
 左頬の火傷が、めらめらと燃え続ける炎に炙られ、疼いた。
 やがて覚束無い足取りで、ゆっくりと三人に向かって歩み寄る。
 景《けい》の傍に立つと、橋姫は裸足でその胴体を蹴り起こし、仰向けにさせた。
 全身に無惨な孔《あな》を空けられ傷だらけになった景が、激しく咳き込む。それすらも痛みに変わり、景は呻いた。
「ほほ。矢張り蝮《マムシ》の如き岩乗《しぶと》さじゃわ。滅多な事で死にはせなんだな」
 にい——と笑うと、橋姫は咥えた煙管を左手に落として持ち、振り上げた。
 景が薄っすらと目蓋《まぶた》を開き、橋姫の顔をなんとか捉えた瞬間。
 ぶつっ——と音がして、橋姫の右目から血が噴き出した。
「ぐわああッ」
 橋姫はその場に倒れ、目を押さえて転げ回る。
 先刻、自身に起こったのと全く同じ現象を目《ま》の当たりにし、景は声も出せない。
 橋姫の全身——萵苣のドレスを巻きつけた身体に、びっしりと孔《あな》が穿たれ、赤い血が噴き出してゆく。
 凡《あら》ゆる箇所から血が流れ出し、純白のドレスが真っ赤に染まる。肉体が捻れ、歪む。左手からは再び煙管が取り落とされる。
 音を立てて、黒檀の煙管の長い羅宇《らお》が、真っ二つに折れた。
 人が人を咒《のろ》ったとき、例外無く、咒った当人には同じ結果が返る。それだけのリスクさえも構わじとする強き念《おも》いを以て仕掛けることこそが咒詛《まじない》なのである。その覚悟無き者が、人を咒うことは赦されない。
 そのことを知ってか知らずか、橋姫は幾人もを一緒くたに咒い、釘付けにした。
 それが女ひとりの一身に返ると——釘の打処《うちど》は無くなり、余り、然《しか》し乍《なが》ら肉体から食《は》み出す訳にはゆかず——傷痍《きず》と痛みは行場を求めて荒れ狂ったのだ。
「おお……おお……彼《あ》れが——妾の今生最期の一服であったか。憂《う》き世《よ》じゃ——」
 狼の如き唸り声をあげ、橋姫は竟《つい》に動かなくなった。
 景はその様を——細い視界の中に捉えた狂逸異常なる光景を、瞬《まばた》きもせずにじっと見ていた。
「手前ェみたいな、くそ女でも、血は、赤いんだなア」
 己の血でいっぱいの喉から、なんとか声を絞り出す。苦しいが、呪詛を吐きかけずにはいられなかった。
 そして東の空から、朝陽が差す。
 みるみる明るくなってゆく駐車場に、いくつかの自動車と、未だ燻り続ける炎と、四人の女の姿が照らし出され、長く長く影を引く。
 ひとつの影が、ぼろぼろと崩れ始める。
 橋姫《はしひめ》——かつては己を殺し、怨みを抱いて少女らや幼児《おさなご》らを殺し、名も知らぬ多くの人をなぶり殺し食い荒らした女鬼が、清浄なる太陽の光によってその肉体を焼かれ喪い、いま黄泉《よみ》へと舞い戻ってゆく。
 地面に落とされ、雁首も吸口も折れた黒壇の煙管も、持ち主と共に今度こそ崩れ、やがて無に還った。
 景はそれらを見届けると、息を吐き出して再び目を閉じ、失神と同義の眠りに身を任せた。



「ファラデー神影《みかげ》店で火災 死傷者、行方不明者多数」
 神影市にある4階建て大型ショッピングセンター(SC)「ファラデー神影店」で29日午後9時頃、火災が発生し、少なくとも17人が死亡、負傷者は40人以上にのぼった。30日までに4人の子供を含む24人の行方が分かっていないとされ、警察・消防が救出作業を急いでいる。
 30日未明までに約1600平方メートルが焼けて鎮火したが、建物の一部で崩落の恐れがあり、現場での作業は難航している。
 食品売場・雑貨店の入居する1階の焼失が大きく、捜査当局は出火原因について、放火や電気配線の異常を視野に調べを進めている。
 被害は駐車場にも拡がっており、遺体の損壊がとくに大きいこと、また火傷の跡のない遺体もみられることから、出火後になんらかの事件が起きたものとの見方もあり、警察は事態の究明を急いでいる。
 産土《うぶすな》神影市長は30日午後、遺族に弔意を示し、関係当局が救出作業と遺族の支援に全力を尽くすよう指示した。
 現場のSCは同市中心部で20××年から営業しており、スーパーマーケットや各種店舗のほか、映画館やアミューズメントフロアなどの娯楽施設が入居している。出火当日の閉店前には家族連れでにぎわっていた。
『神影中央新報二千××年八月三十一日朝刊一面より抜粋』



 目を開いたとき、蕃茄《とまと》の真っ黒な瞳が見えた。
 やっぱり黒曜石《オブシディアン》みたいだ——と景は思う。
「おはよう! 夏海《なつみ》ちゃん!」
 耳には能天気な声も飛び込んでくる。萵苣《れたす》のテンションが、景にはなんだか懐かしくさえ感じられた。
 橋姫《はしひめ》に叩き壊され、身体のあちこちを失ったはずの姉妹が、五体満足で微笑んでいる。萵苣に至っては、獲られたはずの白いドレスまで纏っていた。
「どこだ。ここは」
 まともな声を出せた自分に驚き、景は大きく瞬きをした。
「夏海《なつみ》ちゃんのお部屋だよ!」
「なに?」
 慌てて身を起こす。どこも痛くなかった。見回すと、確かに自室のベッドの上であった。嗅ぎ慣れた空気の匂いがしていた。
 体に馴染んだベッドに再び寝転がり、景はぐんと背を伸ばす。全身がぽきぽきと鳴った。
「良かった。目を覚ました。もうお昼近くになっている」
 相変わらずぽつぽつと言葉を紡ぎながら、蕃茄が壁の掛時計を指した。『11:41』。
 ゆっくりと、景の髪を蕃茄が撫でる。景はそれをどうにも恥ずかしく思い、冠《かぶ》りを振って蕃茄の手を払い除けた。
「どうなった? なんで怪我が治ってる? 橋姫は? お前ら、なんで無事だ? どうやってあたしを」
「あはは、一度に訊きすぎだね! そんなに答えられないよ!」
「橋姫は。滅せられた」
「……やったんか。まじで、今度こそやったんか」
「そう! 私ら、強いからね!」
 萵苣がにぱっ・・・と笑う。
「いやあ、そう言うお前ら二人とも、まじでグロかったぜ。見てたのが、あたしだけで良かったと思えよな」
 景も笑いながら毒突くと、姉妹が居心地悪げに顔を見合わせる。
「まあ、あたしらが倒したっつうか、自滅してくれた恰好だよな……」
「むしろ。お天道《てんと》様のお蔭《かげ》」
「ああ。本当《ほんと》だよなア」
 景は過去最大の溜息を吐き出した。ゆっくりと身を起こすが、やはり身体のどこも痛まなかった。何らかの不思議パワー・・・・・・で治癒回復の術を施された——とでも云うのであろうか。
 しかしそれよりも、景には気になることがあった。
「……あたし、確認しときたい事があるんだけどな。もう死んだかも知れんけどよ」
「それなら」
「うん?」
 蕃茄の視線の先に、もう一人、少女の姿があった。藺草《いぐさ》の寝茣蓙《ねござ》シートに横たえられて、すうすうと寝息をたてている。
「あっ」
 河津聖亞《かわつせいあ》であった。
「無事だったか! 良かった!」
 景はベッドから飛び降り、小柄な先輩の顔を覗き込む。そして、思わず息を呑んだ。
 左の頬に、大きな火傷《やけど》の痕《あと》ができている。隆起した蟹足腫《ケロイド》が痛々しく、美少女の顔を陵辱していた。
 いつぞやの天美《あまみ》家付近での激闘の中、萵苣の炎にぶつけた結果できてしまったものであろう。ショッピングモールの駐車場でも目にしたが、明るい部屋で見る火傷は殊更に痛々しく見えた。景は目を閉じ、心の中で詫びた。
 着たままのセーラー服も汚れ、破れ乱れていたが、元々の容貌が整っているせいか、黙って眠っている聖亞の顔はあどけなく可愛らしく見えた。
「こいつも、酷い目に遭わせちゃったよなア。お前ら、よくここまで連れてきてくれたよ」
「あのモールの駐車場は。今頃。警察や消防で一杯のはずだから。早く逃げないと。面倒なことになる」
「蕃茄が夏海ちゃんとその子を抱えて、ここまで走ったんだよ!」
「そっか。……阿吽《あうん》がいたら、もっと楽だったンかな」
 派手な桃色に染められた髪を景が撫でてやると、聖亞は薄っすらと目を開いた。
「あっ」
「……」
 何かを言いたげに、口をぱくぱくと開く。
 景はその手を取り、両手で握ってやった。
「……りゅう、せ、んじ」
「えっ」
 聖亞の口から、ようやく声が洩れ出た。その口に景が耳を近づけると、
「龍泉寺《りゅうせんじ》。顔、叩いて、唾までかけて、悪かったね」
 やっとの事でそれだけ言い、聖亞は再び目を閉じる。
「コトと、あたしを間違えてやがる。……しかも、顔叩かれたの、あたしなんだけどな」
 景は握った手を下ろし、呆れ顔で自分の目の下を擦った。



 川のせせらぎの中に、人の足音が混じって聞こえた。河原の玉石を踏む音が、空子《そらこ》の傍らで止まる。
「おい。起きろコラ」
 お行儀が良いとはお世辞にも言えない口調で、女が空子を突《つつ》いた。
「ほ」
 間の抜けた声を出しながら目を開くと、髪の長い着物の女が脚を大きく広げてしゃがみ込んで、空子の顔を覗き込んでいた。
「ふへ」
 まともに返事をする余裕も無かったが、なんとか声を絞り出す。
「お前、天美空子《あまみそらこ》やんな」
「は、はひっ」
 名前を呼ばれて、空子は大きく目を開けて、女の顔を見た。少し怖いが、綺麗だ——と思った。
「……お前、ハ行しか喋られへんのか」
 少し呆れたような顔をして、女は着ているエプロンの裾で、空子の顔をごしごし拭く。
「ゑ鯉《り》さん姉さん。琴律《ことり》さん、息してはりますわ」
 今度は、聞き知った声も聞こえた。
 着物の上にエプロンを纏い、髪をポニーテールに結ったヰ子が、膝を突いて琴律の様子を見ていた。
「おおっ、ヰ子《こ》さんだっ」
 空子は跳ね起きた。と同時に、跳ね起きる元気が残っていたことに自分で驚いた。
「まあまあ空子さん、ご無事で。この度は琴律さんのことで、大変どしたなあ」
 ヰ子が立ち上がり、眉を寄せた顔で空子の手を取る。
 よく見れば、もう一人のしゃがんだ女も、ヰ子と同じ格好の衣服を着ていた。お着物でヤンキー座りとはなんとも行儀が悪いなあ——と空子は肚《はら》の中で呆《あき》れる。
「ヰ子お前、そんな他人事《ひとごと》みたいな言い方すんなや」
 女は舌打ちをし、ヰ子と琴律の方を向く。
「根之國《ねのくに》で人殺しして、エトピリカ同士で殺し合いして、挙句《あげく》自殺未遂や。枉惑《わやくそ》やんけ……そんな奴《ガキ》、放《ほ》っといたったらええねん」
「もう、そんな意地悪《いけず》言わはらんと」
 意識無く倒れ臥している琴律も、どうやら生きていたらしい、無事で良かった——と空子は胸を撫で下ろす。
「えーと、ヰ子さん、とお姉さん。コトちゃんが、ご迷惑おかけしたみたいで。すみませんしたっ」
 空子は二人の方へ向き直ると、深々と頭を下げる。目が覚めてから、体が不自然なほどよく動くことについても、この二人がなんらかの回復術を施してくれたに違いない、と思った。
「それと、なんかあたし助けてもらっちゃったみたいで。ありがとうございまっす。……お姉さんのお名前って」
「おう、あたしか。ゑ鯉《り》ちゃんや」
 ヰ子とは好対照に切れ長の目をした美人が、腰に手を当てて胸を張った。
「お前の連れのこのガキ、根之國の大門で大暴れしやがってよ。あたしら二人掛かりでも取り押さえられへんかってん」
「そ、そんなにっすか……?」
「そやねん。ほんま可愛い顔しやがって、ろくでもないクソ——」
「姉さん。その辺で」
「おう、すまん」
 ヰ子がゑ鯉を窘め、空子の傍へ歩み寄る。
「堪忍えぇ。ゑ鯉さん姉さんは、少ぉしお口の方が過ぎますのんで」
 空子がふとゑ鯉の足元に目をやると、左足だけ足袋を履いておらず、裸足に包帯がぐるぐる巻かれ、その上から草履を履いていた。白い包帯から赤いペディキュアが鮮やかに覗いていた。
「あのこれ、もしかして、コトちゃんが怪我させたんすか」
 空子はゑ鯉の顔を見て問う。
「お、おう」
「刀で……?」
「うん、まあな」
 ゑ鯉は答えにくげに、空子から目を逸らす。
「ごめんなさいっ」
 がば・・と河原の地面に這い蹲り、空子は頭を下げる。
「コトちゃん、ここの人たちにすっごい迷惑かけましたっ。刀で人を刺したり斬ったり……でも、でも、ほんとはこんなことするような子じゃないんです。なんか怖い夢見たみたいで、どうかしてただけなんです。あたしの大事な友達なんで、どうかどうか、許してやってくださいっ。悪い子じゃないんです、悪い子じゃ」
 空子は友人の倫《みち》を外れた行いについて、必死に謝った。何度も頭を下げるうちに目からは涙が溢れ、口からは嗚咽が漏れる。
「……いやそんな、お前が泣かんでもええやん……」
 ゑ鯉は動揺し、助けを求めるようにヰ子を見上げる。
「空子さん。琴律さんも、お考えあってのことや思います。私《うち》らそんな、これを怒ってやしまへんさかい、お手を上げておくれやす」
 ぼろぼろ流れ続ける涙を何度も手で拭い、空子はヰ子に抱きついた。
「あらあら」
 ヰ子は優しく、児童のような空子の髪を撫でる。
「まあ、ただ」
「えっ」
「この根之國《ねのくに》で、これだけ狼藉《いけず》してくれはった琴律さんを、黙ってお返しするいう訳にはゆかへんのどす。私《うち》らも、職務《おやくめ》でっさかいなぁ」
 笑顔を湛えながら、ヰ子はきっぱりと告げた。それを継いで、ゑ鯉も言葉を続ける。
「ほんで、あたしらが連れに来たいうわけや。なんせ、こいつはもう」
「ゑ鯉さん姉さんっ」
「おっと」
 ヰ子にきつく制止され、ゑ鯉が口を噤む。
「つ、連れに来たって……」
「こいつの身柄を、あたしらが確保さしてもらう、いうことやな」
「ええっ」
 空子は慌てて、ヰ子から身を離す。
「んで、出られへんように、居《お》ってもらうことになんねん」
 そう言うとゑ鯉は立ち上がり、意識の無い琴律を抱えて、荷物のように肩に担いだ。
「そんなあ、それってそれって、牢屋《ろうや》に入れちゃうってことですかっ」
 空子は焦ってゑ鯉に飛びついた。長身の琴律を軽々と担いだゑ鯉の上背は更に大きく、空子の頭など胸の下までしか届かない。
「そこまではせえへんけどよ。そもそも、根之國に牢屋なんて無いし」
 ゑ鯉が空子の頭に手を置く。まるで動物でも愛玩するかのように撫でるゑ鯉の手に身を預け、空子は目を閉じた。
「空子さん。えらいすんまへんけど、琴律さんは、私《うち》らが預かることになりますよって。諸々、味良《あんじょ》う宜しゅうに」
 ヰ子は着物の懐から数枚の護符を取り出すと、掌《てのひら》全体を覆うように巻きつけた。その手で足元に落ちていた打刀と鞘を拾い上げると、その黒い刀身を鞘に納める。
 刀に素手で触れぬよう、ヰ子が細心の注意を払っていることが空子にも分かった。やはり、余程恐ろしい刀なのであろう。
 そして更に十枚以上の護符を取り出し、刀全体に巻きつけ貼ろうとする。その瞬間、刀全体から黒い焔《ほのお》が立ち昇った。
「ひゃ」
 ヰ子は思わず刀と護符から手を離してしまう。
「!」
 ゑ鯉が慌ててヰ子に駆け寄って、刀との間に割って入り、細い妹分の盾となる。
 ヰ子に手を離された刀は、自ら発した黒焔に焼かれ、地面に落下するまでの間に、ぼろぼろと燃え尽きてしまった。やがて煙も消え失せ、もともとからそうであったかのように、何も無くなってしまった・・・・・・・・・・・
 しばらく、誰も口を開かなかった。
 人事不省の琴律は無論のこと、元気になった空子も目を見開いたままでいた。
「……いややわ。刀、無《の》ぅなってしまって……」
 ヰ子は足元に落ちた護符を拾い上げると、再び懐に仕舞い込んだ。
「あんなクソファッキンソード、無い方がええわぃ。消えてもうて良かったんや」
 吐き捨てるように言い、ゑ鯉が歩き出した。肩に担いだ琴律の尻を、平手で叩く。ぱぁんと派手な音がし、空子は思わず首をすくめたが、琴律は目を覚まさなかった。
「ほんで空子さん。この後、私《うち》らと一緒にお出《い》ではりますか?」
「ううん」
 ヰ子が促したが、空子は頭《かぶり》を振った。
「あたし、帰らないと。あっちでケイちゃんたちが、橋姫《はしひめ》を探してるはずなんで。もし見つけたら、一緒に闘わないとやばいし。……ほんとは、コトちゃんにも闘ってほしかったんすけどね」
「そうですか……すぐに帰らはるんどすな」
 ヰ子が寂しげに微笑んだ。
「あっ、そうだ!」
 空子は大きな声を出して、ヰ子の手を取る。
「ここに大ちゃん——あたしの弟がいるんなら、会いたいっ。顔見て、お姉ちゃん元気だよって言いたいですっ」
 期待と不安の入り混じった目で、空子は二人の美女の顔を見比べる。
「そうだよっ、なんでもっと早く思い付かなかったんだ。エトピリカなら、こっちに来て、死んだ人にも会えるんじゃん。おばあちゃんとか、あと、いろいろ有名な人とかにも。前に来た時にでも、お願いできたのに。あたしって間抜けだなあ」
 が、
「それについては、すんまへん」
 ヰ子が深々と頭を下げた。
「そういうのんは……あかんのどす。亡くならはったお人いうんは、生きてはったときのまんまのお姿とは違《ちゃ》うのんどっせ」
 飛び跳ねんばかりにテンションを上げていた空子は、そのままの姿勢で、すっと両腕を下ろす。
「そ、そうなんだ……なんか、ごめんなさい……あたし、勝手なこと言って」
 空子はしょんぼりと顔を伏せた。そして再び顔を上げ、ヰ子の手を取る。
「そうだ、今度こそ良いこと思いついたっ。逆に、ヰ子さんたちがあっちへ着いてきて、闘ってもらうってことできませんか!? 橋姫、超強いし」
「それも……すんまへん。私《うち》ら、この根之國を離れるやなんて、絶対にでけへんのどす」
「すまんな」
 ゑ鯉も空子を振り向いて謝った。
 空子は再びぶんぶんと頭《かぶり》を振って、ぺこりと最敬礼した。
「二人とも、ありがとうございましたっ。あたし、あっちへ帰ります。コトちゃんを、どうかどうか、よろしくお願いしますっ」
 空子はそのままの姿勢で、しばらく頭を上げなかった。涙が零れ落ち、河原の石を濡らした。そして振り向いて、一気に駆け出す。
 ゑ鯉はその背中を見送ると、天に向かって声を張り上げた。
「おい、阿吽《あうん》!」
 間を置かず上空から、一対の小さな仁王像がひらりと舞い降りる。
「はい」
「ここに」
「『ここに』と違《ちゃ》うわボケっ」
 気絶したままの琴律をまっすぐ放り上げ、ゑ鯉は空いた手で、阿吽たちに拳を叩き込んだ。
 人形のような大きさの二人は、宙に身を翻すこともできず、河原の地面に落ちる。
 落下してきた琴律を受け止め再度抱き抱えたゑ鯉は、転がった阿吽たちを踏みつけた。
「お前ら、このクソガキとあのちび・・が喧嘩してた間、飛んで逃げてたやろ。お見通しやねんぞ」
 体重をかけると、阿吽らは顔を歪めて苦しがった。
「も」
「申し訳ございません」
「あの場はお二人の問題と弁《わきま》え」
「我々は控えておりました故」
「黙らんかいボケカス共。長《なが》脇差《ドス》振り回した阿呆《アホ》に、ちびが殺されかけてたやろが。なにを手をこまねいてボサッと見てんねん。このままブッチュウ踏み潰したろか。ああ!?」
「ははっ」
「恐れ入りましてございます」
 ゑ鯉の後ろから、ヰ子も声をかける。
「お二人には、他にも言うておきたいことが仰山ありますのえ」
 ゑ鯉の足の下から阿吽を拾い上げ、
「ほな参りましょかあ」
 精巧な仏像《スタチュウ》のような二人を両の手に握って、ヰ子は歩き出した。琴律を担いだゑ鯉も、鼻から息を噴き出してその後に続く。



「なあ。あたし、ずっと気にしてんだけどよ」
 販売機で買ったアイスバーをかじりながら、景《けい》が姉妹に向き直る。
「お前らふたり、あたしと一緒に、あの女に釘打たれたんだろ。なんで無事だった?」
 夜もじわじわじわと鳴き続ける蝉の声。自動販売機の前の舗装道路からは、昼間に熱せられた名残のアスファルトの匂いがする。
 姉妹に向かって二本のアイスを突き出すと、萵苣《れたす》がそれを受け取って、一本を妹に渡した。
「ありがと夏海《なつみ》ちゃん! いただきます!」
 萵苣がにこにこ顔でアイスを受け取り、早速大口を開けてかぶり付いた。
 夏の盛りだというのに相変わらずのゴシックロリイタ服を着込んだ、顔の変わらぬ蕃茄《とまと》が返答する。
「私達は。橋姫《はしひめ》の咒詛《まじない》を。そのままは受けていない」
「……あ?」
 萵苣もアイスバーを咥えながら答える。
「そうだよ! 私ら、人形だからね! ああいう呪いみたいなものに、まともにはかからないんだ!」
 ぽかんと口を開けて、景はその言葉を頭で反芻する。“そのまま”——受けていない?
「そ、それじゃあのとき、橋姫にやられたときって、お前ら、なんで」
「正しく言うと。釘を打たれてはいない。傷は付けられていない」
「どういうことだ」
「卒塔婆《そとば》に。戒名《かいみょう》を書かれていないから。けれど痛みだけは。受けている。念が。とても強かったから」
 景の顔をじっと見たまま、蕃茄はぽつぽつと言葉を紡ぐ。
「すまん。ちょっと、意味がよく分からんのだが……痛いのは、痛かったんだな?」
「そうだよ! 泣いちゃうくらい痛かったんだから!」
「あれが、泣いちゃうで済むんかよ」
 太い釘を全身に打たれた痛み苦しみと、橋姫の鬼のごとき形相を思い起こした景は、夏だというのに凍りつくような気分になる。
「その代わり。釘を打たれた傷などは。全く付いていない」
「体が壊れちゃった訳じゃないからね! 頑張れば立って動けたんだよ!」
「打たれてすぐは。無理だったけれど」
「頑張ればって、お前ら……」
 姉妹の話を聞いていると、内容が非常識すぎて、理解に時間がかかってしまう。
 受けたのは痛覚のみで、肉体の損壊にまでは至らなかった——ということのようだ。そしてどうやら、それは二人が“人形であるから”という理由らしい。
 あまりそこには触れたくないな——と思い、景は不自然に話を変えた。
「なあ。昼間に言ってた『今度こそ』ってのは、真実《まじ》なんだろうな? あのくそ女《あま》、去年もぶっ倒したのに、今年また出てきやがったんだぞ。何度もしつっこく出やがるんなら、ぶっ飛ばせるかどうか、あたし自信無いぜ?」
 姉妹は顔を見合わせて、頷き合った。
「大丈夫だよ! 今度は、キセルが残ってないんだって!」
「あ? キセル……? なんだそりゃ」
 意外な単語が飛び出してきて、景は間の抜けた顔を晒してしまう。咥えていたアイスバーを落としそうになり、慌てて手で持ち直す。
 確かに橋姫は、黒い喫煙道具を携えていた。自分たちの全身を苛んだ忌まわしき大釘も、あの煙管を使って打たれたのを憶えている。
「橋姫の念《おもい》は。根之國《ねのくに》に於いて。金魚《きんぎょ》と錦絵《にしきえ》の容《かたち》になっていた。それと同じように。彼女の持っていた煙管《きせる》が。中津國《なかつくに》に於いての。依代《よりしろ》だった」
「……またお前はそうやって、専門用語ばっか使って煙《けむ》に巻きやがってよ。あたしにも分かる言葉で喋りやがれ」
 呆れ顔で景はアイスの残りをかじり取った。残った棒を口に咥えて、二人の顔の前でぷらぷら揺らす。
 萵苣《あね》の言葉はシンプルすぎるし、蕃茄《いもうと》の言葉は難解である。姉妹の説明では、要領を得ない。
 あの小さな二人の男——阿吽はいけ好かないおしゃべり役人であったが、知らないことの説明役としてはだいぶ増《まし》であったのだろう。
「あのね! 死んだ人の念《おもい》は、生きてたときの物に宿るんだって! あの橋姫の場合、キセルが中津國《こっち》に残ってると、また出てくるための道しるべになっちゃうみたい!」
 アイスの残りをしゃくしゃくと音を立ててかじりながら、萵苣が暢気《のんき》な顔つきで話した。
「……それが、そのヨリシロってもんかよ」
「一年前。あなた達が闘って。真蛇《しんじゃ》と化した橋姫を。滅《めっ》したとき。橋姫の持っていた煙管が。壊されずに残った。それが。再び彼女を。こちらへ導く役目をした。と思われる」
 景は話を聞き咎めて、アイスの棒をぷっと吹き捨てた。
「なに?」
 小さな木の箆《へら》がアスファルトの地面に落ち、乾いた音を立てた。
「ってことは、あのクソ死人が今年また化けて出てきやがったのは、あたしらがそのキセルを残してたからってか?」
「そう」
「——そりゃあたしらの所為か? ああ!?」
 ぎらついた目を無遠慮に向け、蕃茄の胸倉を掴んで引き寄せる。鼻先がくっ付くほどの距離で、景は蕃茄の黒い目を睨む。
「そんなもん教えてもらってりゃ、その場で叩ッ壊しとるわ! くそが!」
「夏海ちゃん! 落ち着いて!」
 萵苣が慌てて二人に駆け寄り、景の腕にしがみつくようにして引き剥がす。
「ああ……悪《わり》ぃ」
 景は蕃茄の服から手を離し、俯いて頭を下げた。動揺と激昂のせいで、息が切れていた。
 蕃茄は表情を変えることなく、
「あなた達の所為ではない。ミスしたのは。阿吽」と静かに言った。
 そして、景の頭にそっと手を置く。
「あの、くそ莫迦どもが……」
 景は俯いたまま、涙を落とした。
「怒ったり泣いたり、夏海ちゃんは忙しいね!」
 景が道に落としたアイスの棒を、萵苣が拾ってゴミ箱に捨てる。
「うるっせえ」
 顔を見せたくなくて、景はしばらく下を向いて泣いた。



「——根之國《あっち》に行ったコトとクウコは、どうなったんかな」
 景は目の前のふたりに目を向けたまま、男二人から女二人へと、話題を移すことにした。
「もしもなんかトラブってんならよ、あたしらも加勢《てつだい》に行った方がいいんじゃねえんか?」
 少しの間をおいて、蕃茄が口を開いた。
「実は先刻《さっき》。阿吽《あうん》に問い合わせてみた」
「問い合わせ、だ?」
「そう! でもね! あの二人からは返信が無いの!」
「なんだ、お前ら通信機能まで付いてんのかよ」
 景は軽い呆れ顔である。
「阿吽が揃って何も言ってこないなんて。初めてのこと」
「ふうん、あんだけお喋りな男達《あいつら》がかい。なんぞあったんかな……」
「その代わり。ヰ子《こ》さんが。『空子《そらこ》さん無事です』とだけ。伝えてきた」
「えっ! それは私も初めて聞くよ蕃茄!」
「たった今だったから」
「まじか! じゃクウコ帰ってくるんだな? ……コトは?」
「分からない。龍泉寺《りゅうせんじ》さんについては。何も言及されていない」
「どうなってんだ」
「でもさ! クウコちゃんはコトリちゃんを追いかけて、迎えに行ったんだよね! クウコちゃんが帰ってくるなら、コトリちゃんも一緒に戻ってくるんじゃないのかな!」
「……」
 景は何やら胸騒ぎがしていた。さっきから琴律《ことり》の顔を思い浮かべようとするが、どうにも思い出すことができないのだ。……あのスタイルのいい美人の同級生は……どんな顔をしていた?
「今すぐに会えなくてもさ! 私ら、エトピリカなんだから! 根之國へ行けば、すぐに会えるよね!」
 萵苣がからからと笑った。
「莫迦たれ。エトピリカやら根之國やらのこと知ってるのは、あたしらだけなんだ。親やら学校のやつやらは、会えんだろうが。それくらい考えたれよ」
「あっ! そうか! ごめん!」
「それに」
 妹も、姉の額を突つきながら口を挟む。
「根之國は。そんなに簡単に。往き来する処ではない」
「……手続きも要るしなア」
 景はうんざりした顔で舌を出す。
「というかよ、『無事です』なんて言ってくるのは、あの二人、無事じゃ済まんことに関わったわけだろ。真面目《まじ》な話、どうなってんだかはっきり知りてえよなあ。現在の状況ってやつをよ」
「私らも、根之國へ行ってみよっか!」
「姉さま。今の私の話を。聞いていたの」
「阿吽も居らんのに、どうやって行くんだよ。あの岩戸とか塞がってンだろ」
「あーん! もどかしいよー!」
 言いながら、三人はひたすらにアイスクリームを舐め続けた。
「……あーあ。早いとこ、みんな揃って焼肉食いに行きたいよなあ。クウコの食いっぷり、お前らにも見せてやりてえわ」
「うん! 楽しみにしてるよ!」
 半袖シャツから伸びた景の腕を汗が伝って、肘から滴って落ちた。



 龍泉寺琴律《りゅうせんじことり》は水の中で目を開いた。
 辺りは明るくも暗くもなく、自分が呼吸をしているのかいないのか、それすらもはっきりとはしなかった。が、とくに苦しいわけでもなかったので、考えないことにした。
 琴律はただ澱んだ水の底に身を丸めていて、身動きが取れない。
 遠くから、人の呼吸のような、或いは脈動のような音が一定のリズムを保って響いてくる。
(なんだ此処は。……私は何をしている)
『知らずともよい』
 耳に声が——というより、頭の中に直接認識と理解が届いた。
 琴律も口は開かずに、頭の中で言葉を紡ぐ——何者かも知れぬ相手に届けと。
(私は、賽河原《さいのかわら》で死んだのか)
 多くの血を流した。自分も、河原の女たちも。如何なエトピリカと雖《いえど》も、あれだけの量の血を失えば、やはり死ぬのか。
(そうか、死んだのかもしれないな)と琴律は思った。——これが死後の世界なのか。
 いいや、死後の世界なら、つい先程まで滞在していたではないか。ここは違う。
(私はまだ生きているのか。ならば……此処《ここ》は何処《どこ》だ。此《これ》は何《なん》だ)
『人が死んだ後に往《ゆ》く処に於いて、龍泉寺琴律は心神を喪失した。然《しか》れども、龍泉寺琴律は生きておる』
(禅問答のような言葉で誤魔化すつもりか)
『否。理解が及ばぬのならば、身を振り返ってみよ。抑《そも》、死んだ者にふたたび死を齎そうとしたのは龍泉寺琴律であろう』
(それは……そうだ。その通りだ)
『いま龍泉寺琴律が置かれている態《ざま》は、動《やや》もすれば天美大地《あまみだいち》が置かれるところであった。天美大地は龍泉寺琴律の所為《せい》で、其《そ》の儘《まま》二度と産まれることができぬ・・・・・・・・・・ところであったのだ』
(産まれることが……?)
 琴律は、見えぬ相手の言葉を噛みしめる。今の己の状態は、何だ・・
(……中津國で人を殺すことは罪なのであろうな。しかしながら、その裏側に在る根之國や黄泉國で人を殺せば、人が死ねば、その死んだ者は再び生きることが、中津國で生き直すことができるのではないのか。——そう思って、私は刀を振るったのだ)
『思い込みで、天美大地に刃を向けようとしたのだな。幼児《おさなご》にのみならず、河原の婆《ばば》にまで』
(前例無きこと故《ゆえ》に、私が行《おこな》ってみる外《ほか》なかったのだ)
『ならば教えておこう。一度死んだ児《こ》が根之堅州國《ねのかたすくに》にて再び死んだからといって、決して豊葦原中津國《とよあしはらのなかつくに》へ生き戻りはせぬ。児の手を引いて根之堅州國より連れ出すということならまだしも』
(まだしも……?)
 琴律は水の中にいて、周囲が氷に変わってしまったかのように、身を固まらせた。背筋が、手足が一気に冷えた。
 つまり、より穏やかな方法のほうが有効であったというのか。自らの思い込みの浅はかさに、琴律は慄然とする。
『仮に連れて出ようとしたところで、実際には岩戸や大門に阻まれて、決して出ることなど適わぬがな』
(……)
 琴律を包んだ水は揺ら揺らとさえ動くことなく、彼女の全身に入り込み満たしている。
『此れより、龍泉寺琴律は罰を受ける』
(罰? 私は全身に傷痍《きず》を受けたのた。あれ以上の罰を受けるのか)
『釘を穿たれた事を申しておるのか。彼《あ》れは、罰などではない。亡者の咒詛《まじない》が届いたに過ぎぬ』
(橋姫《はしひめ》、か……)
 琴律は目を開かぬまま、瞼の裏に、憎き女の顔を思い描いた。
(……それならば何故《なすれぞ》、天美空子《あまみそらこ》には傷痍《あな》が穿《うが》たれなんだのか。私と共にあの場に居り、私と共に橋姫からは咒《のろ》いを受けるべき対象《てき》であったろうに。……扨《さて》は私だけを咒うたものであったか)
『天美空子。彼《か》の童女は姿を変える際に、死者の念を食らうた。何事も、身に纏うよりも体内に取り込んだ方が効く・・ものだ。其うせなんだ龍泉寺琴律は、亡者の咒詛《まじない》をまともに被った』
(それだけの事なのか。思ったよりもくだらぬ理由だったのだな)
『嘗《かつ》て根之堅州國《ねのかたすくに》に於いて鳥の戦乙女エトピリカが作られた際には、皆ああして亡者の念を食らうて胎内に摂り込み、姿を変えておったのだ』
(それで、あれの背にも光翼が生じたものか)
 阿吽すら識《し》らなかったことを、この者はよく識っている——と琴律は感心する。
『抑々《そもそも》、遠く離れた人の世——豊葦原中津國《とよあしはらのなかつくに》にて執り行われた咒詛事《まじないごと》如きが、根之堅州国まで届きはせぬものだ。根之堅州國に来ておった龍泉寺琴律と天美空子に、釘が届く道理は無い』
「……」
『然《しか》も。件《くだん》の死女の咒詛《まじない》は見様見真似の不出来《できそこない》であった。生者の名を卒塔婆《ストゥーパ》に記して、死んだことにしただけのものである。見立ての咒詛が、離れておっても効いた・・・龍泉寺琴律は、最早《もはや》』
(言わずともよい)
 琴律は姿の見えぬ相手の言葉を真似て、遮った。
(分かっている)
 中津國と根之國の境界の岩戸——道反《ちがえし》の大神《おおみかみ》たるおとろし・・・・を砕き“生から死へ向けて”くぐることができたのは、琴律が“尸澱《シオル》に限りなく近しいもの”になってしまった証左である。それは琴律自身もとっくに自覚していた。
『虫を食らわば虫に、犬を食らわば犬に生まれ変わる。然れど、人を食らえば——二度と人には、生まれられぬ』
 琴律の額、横一文字《よこいちもんじ》に、刃物で斬りつけられるような痛みが奔った。
(痛《つ》っ——!)
 琴律は水の底で、顔を歪め額を押さえた。
 恐る恐る目を開き、掌を見る。
 額が切れ、赤い血が流れ出ていた。
(これは……)
 痛みを堪えきれず、琴律は呻き声をあげる。
『額《ぬか》に刻まれしは横一文字の黥《げい》。龍泉寺琴律に与えられし罰である』
(死ぬまで背負うべき刺青《いれずみ》か……)
『否。“死ぬるまで”などではない』
(死ぬまで、ではない……?)
 琴律は訝しんで眉をひそめる。
 考え、そしてある帰結に至る。
(よもや、永劫か。死んで終わり、というわけではないと?)
『其れも亦《また》否。龍泉寺琴律は死んだわけではない……然れども、中津國に戻ることは罷《まか》りならぬ。閻魔《えんま》にそう裁かれたのだ』
(そう……閻魔に……)
 琴律は、以前阿吽から聞かされた、根之國の閻魔裁きの制度について思い出す。その閻魔というのは——
(私は地蔵《クシティ》菩薩《ガルバ》ではなく、焰摩《ヤマ》羅闍《ラージャ》にしかなれなかった——といったところかな)
 琴律は自嘲気味に口だけで笑う。
『龍泉寺琴律。其のように案ぜずともよい。地蔵と閻魔は一《いつ》、であろう。龍泉寺琴律の口から出た言葉でもある』
(閻魔は、ずっと地獄に居らねばならないのだろうか。産まれ直すことは……できないのだろうかな)
『骨に肉がつき、其処《そこ》に血が通う。全ては其うして出来ておる』
 声の主の姿が、琴律の頭の中に浮かんだ。
 尽十方無碍光《じんじっぽうむげこう》阿弥陀《あみだ》如来《にょらい》であった。
 琴律は、いつぞやの夏の日にその首を蹴り飛ばしてしまった罰当たりを、肚《はら》の中で詫びた。
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