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悠生ゆう

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season1-5:ふたりきりの夜(viewpoint満月)

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 大学からの友人である雅は「満月の曇った眼では真実を見付けることなんてできないよ」と言った。それを聞いて私は、雅は相変わらず塩対応だなと思った。だから、その言葉は半分程度にしか聞いていなかった。
 しかし、雅の言葉は正しかった。私の目は曇っている。雅は「思い込みを捨てて」というアドバイスもくれた。その通りだと思いながら、私は思い込みを捨てられなかった。結局私は思い込みの中で、自分の見たいものだけを見たいように見ていただけだった。
 合宿研修二日目、地獄のオリエンテーリングのペアが矢沢さんだと分かって警戒した。一連のいたずらの犯人を矢沢さんだと思い込んでいたからだ。
 オリエンテーリングがスタートした直後、矢沢さんと地図を見ながら方針を決めた。でも、私はまったく地図が読めない。自分でもここまで地図が読めないとは思っていなかった。というか、地図を読む機会なんてこれまでなかったような気がする。
 トンチンカンな方向を指した私のことを矢沢さんは呆れているようだった。だから私は意見を言わず、すべて矢沢さんに従おうときめたのだ。下手に意見を言って間違っていたら矢沢さんの機嫌を損ねてしまう。そうしたらどんな仕打ちをされるか分からない。そう考えたのだ。
 そこからはとにかく矢沢さんの背中を追って歩くことだけに専念した。
 小さな体からは想像できないくらいの脚力でスイスイと進んでいく矢沢さんを追いかけながら、山中に置き去りにするつもりではないかと疑った。そんなことをされたら自力で合宿施設に戻れる自信はない。だから、息を切らしながらも必死で食い下がったのだ。
 だが、そんな心配は杞憂だと分かった。私が遅れ気味になっていることに気付いた矢沢さんは歩くペースを落とし、休憩を多く挟んでくれるようになった。
 そこで気付けばよかったのに、私はまだ矢沢さんへの疑いを抱き続けていた。
 チェックポイントを順調に回れていたとき、私は矢沢さんに「ちゃんとコースが分かるなんてすごいですね」と声を掛けた。少しでも矢沢さんの機嫌を取っておこうと思ったからだ。
 それに対して矢沢さんは「たいしたことではありません」とだけ言ってそっぽを向いた。それを見て私は苛立ちを感じた。横柄な態度だと思ったし、少しでも歩み寄ろうとした私の手を振りほどかれたような気がした。
 でも今ならば分かる。あの態度は照れ隠しだ。矢沢さんはかなりシャイで不器用で口下手なだけだったのだ。
 チェックポイントが見つからなくなってしばらく経って取った休憩で、矢沢さんが「遭難したかもしれません」と言ったとき、今にも泣きそうに見えた。それでようやく私は重大なミスに気付いたのだ。
 私は地図を読めない。矢沢さんの機嫌を損ねないようにしたい。そんなことを言い訳にして、すべての責任を矢沢さんに押し付けていた。チェックポイントが見つからなかったとき、矢沢さんはひどく焦ったはずだ。懸命に考え、悩んだはずだ。それでも私を不安にさせないように、それまでと変わらない態度を押し通した。遭難の可能性を告げるそのときまで――。
 オリエンテーリングがはじまってから、私はまったく矢沢さんに協力しようとはしなかった。もしも協力しようとする態度を見せていたら、矢沢さんはおかしいと感じたときに、そのことを伝えてくれただろう。結果が今と同じであったとしても、矢沢さんが一人で悩むことはなかったはずだ。
 地図を読む上では全く役に立たないから、協力する態度を見せることは難しかったかもしれない。それでも、雑談でも軽口でも、それこそ「疲れた!」「もう足が動きません!」といった弱音でも矢沢さんに投げかけていたら、矢沢さんはもっと早く私に異常事態を伝えられただろう。
 三歳も年下の先輩なんてやりにくいと愚痴をこぼしていたくせに、私はすっかり忘れていた。私より何倍も仕事ができて、しっかりしていたとしても、矢沢さんはまだ二十歳の女の子なのだ。
 今は仕事の場ではない。こういうときこそ、年上の私がしっかりしなければいけなかったのだ。
 現に、簡単な会話をしながら向かった山小屋までの道程はそれまでと全く違っていた。体はヘトヘトだったし遭難しているかもしれないという不安もあった。それでも矢沢さんに声を掛け、矢沢さんがそれに返しながら歩く道は、それまでよりもずっと楽に感じた。
 体は重たく足は棒のようで体中に痛みも感じたけれど、前に進もうという気持ちになれた。それはきっと矢沢さんも同じだったと思う。
 三年も余分に生きてきたのに、私はそんなことにも気付かずに矢沢さんに負担をかけ続けたのだ。
 山小屋に着いて本部に連絡をとり、この遭難が廃棄予定の地図を渡されていたためだと判明した。
「……ごめんなさい」
 本部との電話が終わったとき、矢沢さんは小さな体をさらに小さくして謝った。この状況がすべて自分のせいだというように、本当に辛そうな顔をしていた。
「なんで矢沢さんが謝るんですか? そもそも地図が間違っていたのがいけないのであって……」
 そこまで言って私はようやく気が付いた。
 なぜ間違った地図が私たちの手元に来たのだろう。偶然起こってしまったミスなのか、それとも故意なのか。
 故意だったとすれば、これまで私にいたずらを仕掛けてきた犯人の仕業だろう。つまり矢沢さんは私のせいでこんなトラブルに巻き込まれてしまったのだ。
 矢沢さんはいたずらの犯人ではない。
 私が途中で言葉を切ってしまったせいか、矢沢さんが心配そうな顔で私を覗き込むように見つめていた。
「でも、野宿にならなくてよかったじゃないですか。一応屋根も壁もあるし。えーっと、不幸中の幸いってやつですかね」
 私は無理やり笑顔を作って言う。ここまで矢沢さんに頼りっきりだったのだ。これからは私が年上としてリードしていこう。
「そう、ですね」
 矢沢さんはそう返事をしたが表情は晴れない。
 ずっと矢沢さんのことを、無表情で何を考えているのか分からない不気味な人だと思っていた。でも、こうして見ると色々な表情を浮かべる。とても分かりづらいけれど、さっきから辛そうだったり、泣きそうだったり、申し訳なさそうだったり、そんな表情を見せている。
 私が気付かなかっただけで、仕事中もこんな風に微かに表情を変えていたのだろう。それなのに九割九分いたずら犯に違いないと決めつけるなんて、私は本当にバカだ。雅にケチョンケチョンにけなされたとしても言い返すことはできない。
 それにしても、このいたずらはシャレにならない。なんとか山小屋までたどり着けたし、本部にも連絡が取れたからよかったが、一歩間違えば大変なことになっていたかもしれない。
 なんだか無性に腹が立ってきた。私に言いたいことがあるのならば、こんな真似をせず直接ぶつければいいのに。
 あまりに腹立たしくて「チッ」と舌打ちをすると、矢沢さんが「ごめんなさい」と再び謝った。矢沢さんは今にも泣きそうだ。
 いけない。今はいたずら犯のことではなく矢沢さんのことを考えよう。
「あ、違いますよ。これは地図に対してであって、矢沢さんに対してじゃないです」
「でも、私がもっと早く気付いていれば……」
「それは私も同罪ですよ。ずっと矢沢さんに任せっきりで……。というか、地図が読めないポンコツな私がダメなんですから」
 そうだ。私はポンコツだ。でも、ポンコツなりにこの一夜を乗り切ってみせよう。せっかくだから、こんな泣きそうな表情じゃなくて笑顔の矢沢さんも見てみたい。
「矢沢さんはすごいですよ。地図は完ぺきに読めてたじゃないですか。正しい地図だったら、一位も狙えたかもしれませんよ」
「ふ、普通です」
「いやいや、地図なんてあんまり見る機会ないでしょう? 私なんてこんなにじっくり地図を見たのなんてはじめてですよ」
「旅行が好きなので」
「旅行? こんな地図使います?」
「一人だし、実際には行けないから、地図を見て……」
「妄想旅行!」
 思わず大きな声で言うと、矢沢さんが恥ずかしそうに顔を伏せた。新しい矢沢さんの表情を見られたことがなんだかうれしい。
「それじゃあ、実際に行ってみたい場所はどこですか?」
「えっと……高千穂とか……」
「たかちほ? それって、どこですか?」
「宮崎にある場所で……」
「あ、牛タン?」
「それは宮城ですね……」
 そんな風の私のバカさを露呈させながらたわいもない会話をした。懐中電灯の明かりを頼りに、支給品のビスケットを摘まみながらする会話は楽しかった。
 矢沢さんは言葉が多い方ではない。それでも穏やかにゆっくりと話す時間は、山小屋で一夜を明かさなければいけないという不安を拭うには十分だった。
 話を続けるほどに、矢沢さんに対して苦手意識を持って疑いの目で見続けていたことを後悔した。「年下の先輩はやりにくい」そんな先入観で本当の矢沢さんを見ようとしてこなかった。


 唐突にブルっと体が震える。
 特殊な状況で気が張っていたから気付かなかったが、気温がかなり下がっているようだ。晩春と初夏のはざまの季節。日中は少し動けば汗ばむような暖かさだが、日が落ちれば急激に冷え込む。しかもここは山の中だ。
「なんだか寒くなってきましたね」
「毛布がありましたよね」
 私たちはナップサックから毛布を引きずり出して体に巻く。だが、少し厚めのストール程度しかないミニ毛布ではないよりはマシというくらいでしかない。寒さを一度意識してしまうと余計に寒く感じてしまう。
「これじゃ凍えちゃいますよ」
 思わずぼやくと矢沢さんは少し考える仕草をしてから、自分がまとっていた毛布を私に差し出した。
「これも使ってください」
「いやいや、それじゃあ矢沢さんが凍えちゃうじゃないですか」
「寒さには強いので大丈夫です」
 そう言う矢沢さんは小刻みに震えている。私を気遣っているのだろう。それとも会社の先輩としての責任感だろうか。はたまたこの状況に対する自責の念がそうさせているのか。いずれにしても、素直にその毛布を受け取って私だけが温まることなんてできるはずがない。
「ちょっと運動すれば温かくなるかな?」
 そうして立ち上がろうとした瞬間、筋肉と関節が悲鳴を上げる。
「ウギャッ」
 私は奇妙な中腰で動きを止める。そしてゆっくりと体を起こした。ギシギシと音が鳴っているような感覚まである。
「大丈夫ですか?」
「全身が痛いです」
「そうですよね」
「矢沢さんは大丈夫なんですか?」
「痛みはありますけど、一年目からずっと鍛えてきたので」
「地獄レク、三年目ですもんね。私もこれから運動しないとダメですね」
「それがいいと思います」
 そうして話している間も矢沢さんは毛布を差し出す格好のままだ。
「運動は無理そうなので、毛布いいですか?」
 私が言うと矢沢さんは頷いた。手を伸ばして毛布を受け取ると、矢沢さんはちょっとホッとしたように表情を緩める。
 私は受け取った毛布と自分の毛布を重ねて体にまとう。先ほどよりは幾分か温かく感じた。
「んじゃちょっと失礼します」
 私はそう断って、痛む体をギシギシと動かして矢沢さんの背後に回り込んだ。いい具合に空いていた壁と矢沢さんの隙間に入り込む。そして体をギシギシ軋ませながら膝を開いてしゃがみこんだ。矢沢さんは何をしているんだという顔で私を見上げている。ちょうど膝の間に矢沢さんをセットする形で座ると、腕を伸ばして矢沢さんをホールドした。薄い二枚毛布を私がまとい、矢沢さんには私を毛布代わりにまとってもらおう。
「え? え?」
 矢沢さんは慌てて逃げようとしたが、私はそれをガッチリと抑え込む。
「大人しくして下さい。この寒さをしのぐにはこうするしかないでしょう?」
 私は極めて冷静を装って言う。
「そうかもしれませんけど……」
「これなら二人とも温かいでしょう」
「確かに……でも、恥ずかしい、です」
「私も恥ずかしいのを我慢しているんです」
「汗臭いですし」
「多分、私の方が汗臭いですよ」
「でも……」
「矢沢さんは先輩ですけど、私の方がお姉さんなんですよ。だから今はお姉さんの言うことに従ってください」
「あ……はい」
 矢沢さんは抵抗をやめるように体の力を抜いた。だがすぐ体を動かす。逃げようとするのではなく、体勢を変えようとしているようだ。そして少し横を向いて私の顔を見上げる。
 ちょっと顔が近いからこっちを向くのは止めてほしい。本当に恥ずかしい。多分顔が赤くなっていると思うけれど、今は山小屋の暗さに感謝だ。
「野崎さん、ありがとうございます」
「い、いえ」
 次の瞬間、矢沢さんが「あっ」と言って遠くを見た。つられて私も同じ方向を見る。
「今日は満月(まんげつ)なんですね」
「本当だ。小屋の中が結構明るいとは思ってたんですけど」
 少し離れた場所にある窓から大きくてまん丸な月が見える。満腹とは言い難い状態で月を見ると、やけにおいしそうなパンケーキに見えてくる。合宿が終わったらパンケーキを食べに行こう。
「ミツキ」
 矢沢さんに突然名前を呼ばれて思わずビクッとした。
「ミツキって名前、満月(まんげつ)って書くんですよね?」
 びっくりした。突然心臓に悪いことを言うのは止めてほしい。
「はい、そうです」
「ずっと、野崎さんは満月(まんげつ)よりも太陽だと思っていました」
「へ?」
「明るくて太陽みたいだと思っていました」
「そ、そうですか……」
「だけどやっぱり満月(まんげつ)ですね。暗闇を明るく照らす満月(まんげつ)は野崎さんによく似合っています」
 心の奥がザワザワする。くすぐったいような、うれしいような、恥ずかしいような感覚。
「今日も野崎さんの笑顔に何度も助けられました」
 跳ね上がる鼓動と胸のざわつきを飲み込んで、私は明るい口調を作って言う。
「いやいや、そんないいモノじゃないです。友だちからは能天気なバカだって言われてますよ」
「友だち?」
「大学からの悪友です」
「ああ、前に居酒屋に一緒にいた?」
「はい、そうで……え?」
「あ……」
 矢沢さんは両手で口を押えて目を伏せる。これは、矢沢さんに対する不満を雅にぶちまけていたあの居酒屋のことを言っているのだろう。それ以外には考えられない。
「もしかして……私が愚痴ってるの、聞きました?」
「あの、偶然、聞こえて。でも、全部じゃないです。多分」
 やはりあの日見た後ろ姿は矢沢さんだったんだ。
「すみません。あの頃は全然矢沢さんのこと知らなくて、勝手なことばっかり言って」
「あ、いえ、私が未熟なのがいけなくて」
 矢沢さんがあの話を聞いていたと知っても、いたずらの犯人が矢沢さんだと疑う気持ちは少しも浮かばない。それは、地図のすり替えに矢沢さんが一緒に巻き込まれているからではない。矢沢さんとこうして話をしたことで、矢沢さんがいたずらをするような人ではないと分かったからだ。
「いや、私の方が悪いです。お酒が入っていて調子に乗ったというか、気を悪くしましたよね」
「そんなことはないです。反省して色々直そうと思ったんですけどうまくできなくて……」
 そこから、私が気付けなかった矢沢さんの奮闘を聞いた。
 気付かなかっただけで矢沢さんはずっと笑顔で対応しようとしてくれていたこと。ランチに誘ったとき無視されたのは、誘われたこと自体に気付いていなかっただけ。昼休み前や終業時間前に視線を感じたのは、矢沢さんから食事に誘おうとしてくれていたから。スリッパが紛失したとき、私の足元をジッと見ていたのは、実はあの猫のスリッパを気に入っていたから。借りていたボールペンをジッと見ていたのも、猫のシールがかわいかったからというだけだった。
「矢沢さんは猫が好きなんですか?」
「はい。好きです」
 私に対して言った言葉ではないのに思わずドキっとしてしまう。矢沢さんがそれまで思っていたような人ではないと分かってから、どうにもおかしい。
 私の好きなタイプは、目がクリッとしていてモフッと愛嬌のあるハムスターのような感じだ。
 矢沢さんは確かに小さいがハムスターっぽくない。感情表現が不器用なところが逆に愛嬌があるように思えるが、ハムスターっぽくはない。
 例えるなら痩せこけた野良猫みたいな感じだ。人への警戒心が強くて、人と接することが下手くそで、どこか凛としている。
「野崎さんも猫が好きなんですよね?」
「はい。猫、好きなんですよ……」
 この好きは動物の猫に対する好きであって、人としてはハムスターの方が好きで、人として猫が好きなわけではなくて……って、何を考えてるのか分からなくなってきた。
「あっ、で、でも、猫アレルギーなんです」
「だから色々な猫グッズを集めているんですか?」
「そうです。あの猫スリッパ、うちの近所で買ったんですけど、よかったら買ってきましょうか?」
「いいんですか?」
「もちろん。会社で履きます?」
「恥ずかしいので、家で履こうかと……」
 矢沢さんは少し照れたように、そして少しうれしそうに笑みを浮かべて顔を伏せた。
 ダメだ。なんだか、矢沢さんが妙にかわいく思えてしまう。


 まぶしさを感じて目を開けた。
 どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。太陽の光が山小屋の中を明るく照らしている。
 体にかかる重みと温もりを感じて、ずっと矢沢さんを抱きしめていたことを思い出した。
 まだ静かな寝息を立てている矢沢さんの顔を覗き込む。明るい場所でじっくりと見ると、昨夜とはまた違う感覚が襲ってくる。そして、どうしていいのか分からなくて、なんとなく「あーっ」と叫びたい衝動に駆られる。
 試しに少しだけ腕に力を込めて矢沢さんを抱きしめてみた。胸の奥がムズムズする。
 私は頭をブンブンと振った。これはアレではなくてアレだ。なんとか効果ってヤツで、特殊な環境下で勘違いしてしまうアレだ。
「ん……」
 あまりに激しく頭を振ったせいで矢沢さんを起こしてしまったようだ。寝ているフリをしようかと思っているとき、矢沢さん目がスッと開き私の顔を見上げた。
「おはようございます」
 矢沢さんが寝ぼけた様子で言う。
「お、おはよう、ございます」
 脈がいつもより早い。でも、この脈はあくまでもアレではなくてアレなのだ。
「体、痛くないですか?」
 眠そうな目のまま矢沢さんが言った。
「えっと……」
「ずっと野崎さんに寄り掛かっていたみたいで……」
 そう言いながら矢沢さんは体を離す。ほんの数十センチ離れた体が少し名残惜しい。
「その前から全身が痛いので何が何やら分かりません」
 私が笑顔を作って答えると矢沢さんも小さく笑った。目を凝らさなければ分からないような小さな表情の変化は、きっと今までの私なら気付けなかっただろう。
 ドンドンドン
 山小屋のドアが叩かれる音に体がビクッとする。
 私たちは一瞬目を見合わせると慌てて立ち上がった。慌ててといっても体中が軋んでいるため、かなりぎこちなくスローな動きだが、それでも最速で山小屋のドアに向かった。
 私よりも矢沢さんの動きの方が速い。
 ドアを開けると草吹主任が飛び込んできた。そして私たち姿を見ると安心したような笑みを浮かべた。
「陽ちゃん、大丈夫だった? 心配したよ」
 そう言うや否や草吹主任は矢沢さんをギュッと抱きしめた。
 その様子に何故かお腹の底がギリリと痛む。無事を確認したのだから、ハグをして喜ぶくらいのことはあるだろう。だけど、草吹主任は矢沢さんのことを「陽ちゃん」と呼んだ。それが引っかかったのだ。
 抱きしめられている矢沢さんは苦しそうにもがいていた。そして、草吹主任の肩をバンバンとタップする。
「光恵(みつえ)さん、苦し……」
 それでも草吹主任は矢沢さんを離そうとはせず、肩を叩く矢沢さんの手に力が無くなっていく。そのとき、背後から用賀さんが現れ「主任、そろそろ解放してあげないと落ちますよ」と言った。
 草吹主任の腕から逃れた矢沢さんはグッタリした様子で肩を落としている。
 そんな矢沢さんを以前も見たことがある。草吹主任にミーティングルームに呼ばれた後だ。
 あのときは矢沢さんがいたずら犯だと思っていたので、草吹主任に注意されたからだろうと思っていた。だが、この様子から見ると、あの日もこうして草吹主任に抱きしめられていたということだろう。
 しかも、矢沢さんは草吹主任のことを「光恵さん」と呼んでいた。
 草吹主任は矢沢さんのことをペットように溺愛している。それはずっと前から知っていた。だから草吹主任が矢沢さんのことを「陽ちゃん」と呼んだとしてもちょっとの違和感でしかない。
 だが矢沢さんは違う。矢沢さんが十歳以上年上の上司をファーストネームで呼ぶということは、そこに特別な関係を疑わざるを得ない。
「野崎さん、大丈夫ですか?」
 呆然としていた私に用賀さんが声を掛けた。
「あ、はい」
 私の返事に軽く笑みを浮かべたあと、用賀さんはすぐに表情を硬くして深々と頭を下げた。
「この度は私たちの落ち度ですみませんでした」
「あ、いえ、何ともなかったので大丈夫です」
 用賀さんと話しつつ横目で草吹主任と矢沢さんの様子を伺う。
 にこやかに話しをしながら、草吹主任は矢沢さんの頭を撫でたり頬を撫でたりしている。矢沢さんもどこかうれしそうに見える。またお腹の底がギリリと痛んだ。
 これではまるで嫉妬しているようではないか。一晩ともに過ごして、確かに矢沢さんに対する印象は変わったけれど、それだけのことであってアレではないし、嫉妬するようなことではない。
 私は頭を強く降って邪念を振り払う。
「それにしてもお迎え、早かったですね」
「ええ、そこまで車で来たから」
 用賀さんはこともなげに言う。
「車?」
「ええ。この場所、施設方面は山だけど反対側は意外と街に近いんですよ」
「それなら、夜のうちに迎えにこれたんじゃ……」
「それも考えたんですけど、道とは言えないような細い林道なので、慣れない私たちが運転するのは危険だと判断しました。この山小屋については私たちも調査して知っていましたし」
「なるほど……」
 何はともあれこれで合宿も終了だ。
 まだイチャイチャとじゃれ合っている草吹主任と矢沢さんの姿を視野の端から追い出すように、私は先ほどまで矢沢さんとくるまっていた毛布を見つめた。
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