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悠生ゆう

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season2-1:居酒屋(viewpoint輝美)

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 オフィスビルが建ち並ぶ都市部から電車で二十分程度。各駅停車しか停まらない駅の東側には商店街があり、西側には雑居ビルが並んでいる。そして駅を取り囲むようにアパートや住宅があった。
 駅周辺の大小のお店をぐるっと回れば必要なものは一通り手に入る。この町には派手さはないが住み心地はいいと思う。
 と言っても、私が住んでいるのはここから二駅隣で、この町にはアルバイトに来ているだけだ。もしも一人暮らしをするならこんな町がいいな、と密やかに考えている程度である。
 私がバイトをしている居酒屋は商店街の端にあり、一応チェーン店だが商店街の街並みにもよく馴染んでいる。繁華街ではなく住宅街に近い場所にお店を構えているため、店長は「つい『ただいま』と言いたくなる居酒屋」をお店のスローガンとして掲げている。
 大学一年の半ばからはじめたここのバイトを二年半以上も続けられている要因のひとつは、このアットホームな雰囲気だと思う。
 そして、もうひとつの要因を、私は今日も待っている。
 夕方にお店がオープンすると最初に店内に増えるのは学生おぼしき若いお客様だ。
 そして太陽がすっかり顔を隠し、辺りが暗くなってくると居酒屋の店内は一気に活気づく。早い時間から飲みはじめていたお客様はすっかりでき上って盛り上がり、仕事を終えた会社員がリラックスした表情で入り口をくぐる。
 この店は一人や二人といった少人数での来店が多く家族連れも多い。そして半数以上が常連客で、本当に仕事帰りに「ただいま」と言って入店してくる人もいる。
 来店を知らせるチャイムが鳴り、私は勢いよく振り返りながら「いらっしゃいませ」と声を出す。
 入口には中年男性の姿が見えた。私は気付かれないように小さくため息を付き水とおしぼりを用意する。
 入口の近くにいたスタッフは入店してきた中年男性に笑顔で話し掛けていた。
「いらっしゃいませ。山田さん、久しぶりじゃないですか」
「あー、実はこの間、健康診断でちょっと怒られちゃってね」
 山田さんは苦笑いを浮かべる。
「そうなんですか? じゃあ今日は唐揚げを我慢しておきますか?」
「今日まで控えてたから、たまに食べるのが心の健康にいいんだよ」
 そう言って山田さんは笑いながらスタッフの後についてテーブルに向かった。
 私は人影の見えない入口に視線を移す。
「輝美(てるみ)ちゃん、どうかした?」
 背後から声を掛けられて少しビクッとした。声の主は店長だ。
「いえ、なんでもありません」
 私は笑顔を浮かべて返事をするとフロアを見回す。そして、立ち上がって帰るお客様の姿を見付けた。店長を見るとレジの方へと移動をはじめたため、私は空のお盆を持って片付けに向かう。
 テーブルを片付けながら、私は未練がましく再び入口を見た。
 いつもならばそろそろあの人が姿を現す時間だ。
 私はあの人の姿を木曜日から見ていない。今日で六日目になる。
 普通ならば居酒屋に一週間や二週間顔を見せなくても気にならないだろう。先ほどの山田さんは多分一月半ぶりくらいだと思う。
 だが、私が待っているその人はほとんど毎日この店に来ていた。だから、こんなに姿を見ない日が続くと心配になる。
 その人は、矢沢陽(やざわよう)さんという名前で私よりもひとつ年下の会社員だ。
 飽き性の私がバイトを続けてこれたもう一つの要因は、毎日居酒屋にやってくる陽さんと仲良くなりたいということだった。
 私は実家暮らしなので、一人暮らしをしている友人たちのように必死でアルバイトをしなくてはいけないということはない。
 それでも遊んだり洋服を買ったりするためにはお金が必要だ。勤労意欲が高いわけでもなかったので、バイトをはじめた当初は週一日か二日のシフトだった。
 大学二年になって少し経った頃、居酒屋に一人で現れた女の子の姿が目に留まった。せいぜい高校に入学したばかりの年齢に見えた女の子こそが陽さんだ。
 そのときはまだ名前も知らなかったし、居酒屋にはちょっと不釣り合いな女の子だなと思っていたくらいだ。お店に来てもお酒はオーダーせずにご飯とお味噌汁、料理を一品頼む。
 この居酒屋は少人数でくつろぎながら食事やお酒を楽しむ雰囲気だ。だから一人でふらっと現れて軽く夕食を食べながら晩酌をするお客様も多い。それに、女性が一人で来店するのも珍しいことではなかった。
 陽さんは幼く見えるけれどお酒をオーダーするわけでもないし、迷惑になるような行為をするわけでもない。だから、一度や二度、その姿を見ただけならば、私はそれほど気にすることもなかっただろう。
 だが、陽さんの姿はアルバイトに入るたびに見掛けたのだ。毎週同じ曜日に入っていたわけではないのに、なぜかいつでも陽さんの姿を見掛ける。
 ちょこちょこと様子を伺っていると、見た目は幼さとは裏腹に食事の所作は洗練され大人びていることに気が付いた。そのアンバランスさがやけに気になって私の好奇心に火が付いた。
 どれくらいの頻度でお店に来ているのかが知りたくなって、アルバイトに入る曜日をコロコロと変更した。しかし、それでは埒が明かなくて、アルバイトに入る日を一日、また一日と増やしていったのだ。
 バイトの日数を増やして一月もしないうちに陽さんがほぼ毎日お店に来ていることは分かった。知りたかったことを知れたのだけれど、私はバイトの日数を減らさなかった。
 今ではバイトの出席率が大学の出席率を上回るのではないかというまでになっている。
 それは私の好奇心が収まらなかったからだ。今度は陽さんがどんな人なのかを知りたくなった。
 毎日お店に来ている陽さんとの接触回数を増やすならばバイトの日数が多い方がいい。
 それでも、大人しく来店して静かに食事をとりそっと帰っていく陽さんと話す機会なんてほとんどなかった。
 だから私はまずお客様に名前を憶えてもらうためにスタッフが付けている名札を『るぅみぃ』から『輝美ちゃん』に変えた。
 女性スタッフは本名が分かりづらいニックネームを付けていることが多かったので、私もそれに習って『るぅみぃ』にしていた。正直ちょっと恥ずかしいニックネームだったが、週一日程度だから覚えられることもないだろう、という軽い気持ちで付けていた。
 だが、大人しそうな陽さんがいきなり『るぅみぃ』と呼んでくれるとは思えない。『輝美ちゃん』の方が幾分か呼びやすいだろうと思ったのだ。それに名前を憶えてもらえれば話もしやすくなるはずだと考えた。
 そしてオーダーや配膳で積極的に陽さんに近づくようにした。
 だが「いらっしゃいませ」や「オーダーを繰り返します」なんて言葉を何回掛けても距離が縮まるはずがない。
 そしてあるとき私は勇気を出して、オーダーを取りに行ったときにひと言だけ付け加えた。
「いつもありがとうございます。もしかして学生さんですか?」
 できるだけさり気なく聞いたつもりだけど緊張して少し声が上ずっていたかもしれない。
 だが陽さんはそれを気にする様子もなく、私の顔を見上げると「いえ、会社員です」と答えてくれた。
 そうして少しずつ陽さん情報を仕入れ、私のことも伝えていくようになった。ゆっくりゆっくり陽さんのことを知っていくプロセスはとても楽しかった。
 陽さんの年齢を知ったのは昨年の十月三日のことだ。
 その日もいつものように仕事を終えた陽さんが来店してカウンター席に座った。
 丁度他のテーブルに料理を運び終えてバックヤードまで戻ってきていた私は、他のスタッフに合図をして陽さんのテーブルにオーダーを取りに行った。
「おかえりなさい。今日もお疲れ様でした」
「あ、はい。ただいま」
 この頃には「いらっしゃいませ」ではなくこんな挨拶をかわすようになっていた。
「今日はどうしますか?」
「えっと、定食と……ビールを、グラスで」
「……」
 陽さんのオーダーに思わず沈黙してしまう。すると、陽さんが少し不安そうな顔で私を見上げた。
「定食とグラスビールですね」
 オーダーを繰り返しながら私は必死で考えていた。ここはどう対応するのが正しいのだろうか。陽さんはすっかり常連さんだがお酒類を頼んだのはこれがはじめてだった。そして、私は陽さんの年齢を知らない。
 私はひとつ息をつく。
「陽さん、申し訳ないんですけど、一応年齢確認をさせていただいていいですか?」
「年齢確認……」
 陽さんは少し俯いた。気を悪くしただろうかと様子を伺っていると陽さんはパッと顔を上げる。
「免許証でいいですか?」
 年齢を証明できるものを持っていたか考えていただけのようだ。
「はい、免許証で大丈夫です」
 私の返事を聞いて陽さんはバッグに手を伸ばしたが、少しだけ気まずそうな顔をしたように見えた。
 陽さんはあまり表情豊かだとは言えない。だけどそれは表現するのが苦手なだけだということはこれまでの会話の中で分かっていた。
 まさか陽さんが年齢をごまかしているとは思えない。ならばなぜ気まずそうな顔をするのだろう。そんなことを考えていると陽さんは免許証をカウンターの上に置いた。
「失礼します」
 私はひと言断って免許証を覗き込む。
「え?」
 それを見て私は思わず言葉を無くした。
「今日、誕生日で二十歳になったので……」
 陽さんは小さな声で言いながら俯く。気まずさと照れだろうか。
「それは……おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「では、お料理とビールを用意しますね」
 私は笑顔でそう伝えると慌ててバックヤードに飛び込んだ。
「店長、大変です」
 私はフロアの巡回に出ようとしていた店長の腕を引っ張った。
「どうしました?」
「陽さんがビールを注文しました」
 陽さんの名前は私だけでなく、長く勤めているスタッフならば誰もが知っている。それほど陽さんはこの居酒屋の常連客だということだ。
「ビール? あの子、お酒を頼んだことはなかったよね。年齢確認は?」
「しました。二十歳でした」
「うん、それなら問題ないよ」
「大問題です!」
「何が?」
 店長はいぶかし気な顔をして腕を組む。
「今日が誕生日なんです。今日二十歳になったんです」
「そうだったのか。それはめでたいね」
「そうです、めでたいんです。それなのに、こんな居酒屋で一人きりの誕生日だなんて……」
「こんなって……。でもそうだね、常連さんだし、せっかく今日来てくださったんだから何かお祝いをしてあげたいね」
 この居酒屋は規模の小さいがチェーン店だ。チェーン店としての一定のルールはあるが店長の裁量も大きい。そのため店舗によってかなり雰囲気が違う。この店がアットホームな雰囲気を大切にしているのも店長の意向だ。
 だから、店長が陽さんのお祝いをしたいと言えば、お祝いをすることに何の問題もない。だが、問題はどうやってお祝いをするかだ。
「私、今からケーキを買いに行っていいですか?」
「この辺りにケーキ屋はないよ。コンビニケーキ?」
 そのとき厨房スタッフがヒョイと顔をだして口を挟んだ。
「ケーキはないけど、チーズオムレツを誕生日用に飾り付けることはできるよ。たしかあの子、チーズオムレツ好きだったでしょう」
 陽さんは子の店のスタッフに顔や名前を憶えられているだけではなく、マスコット的な存在にもなっていた。特に厨房スタッフは、陽さんがとてもきれいに料理を食べてくれるのを喜んでいる。
 お酒を飲まずに夕食を食べる陽さんは夜定食をオーダーすることが多い。それでもたまに単品を選ぶことがある。そんなときチーズオムレツをオーダーする頻度が高い。夜定食にチーズオムレツが出ることがないからだろう。
 陽さんのチーズオムレツ好きを把握している厨房スタッフは、かなり陽さんのことを気に入っているようだ。なんとなく警戒心が高くなる。
「よし。じゃあ陽さんの夜定食を誕生日スペシャルのチーズオムレツ仕様に変更しようか」
 店長が言うと、厨房スタッフはニッコリ笑ってサムズアップした。
「店長、ビールのオーダーは取り消して、私に付けてもらっていいですか?」
 厨房スタッフにだけいい格好をさせるわけにはいかない。たいしたことはできないけれど少しでもお祝いをしたい。そして、陽さんの人生初のビールは私がおごるのだ。
「オッケー。ならグラスじゃなくて瓶にしなよ。一杯だけなら輝美ちゃんも一緒に飲んでいいよ。乾杯してあげなよ」
「はい」
 しばらく仕事をしながら待つと厨房スタッフが少し鼻の穴をふくらませて自慢気な顔で私を見た。陽さん用のスペシャル夜定食が仕上がったようだ。
 私は検査官のような気持ちで料理が並んだお盆を見下ろす。
 ご飯とお味噌汁、メイン料理の皿の中央にはふっくらとしたチーズオムレツ。しかもそこにはオリジナルソースでハートマークが描かれていた。私は思わず厨房スタッフを睨みつける。
 ケチャップならば『おめでとう』とでも書いたのかもしれないが、デミグラスベースのソースではそれができなかったためだろう。聞かなくてもそのことは分かったけれど妙に腹立たしい。
 さらにチーズオムレツの周りはトマトやブロッコリーで飾られておりカットフルーツまで添えられていた。さらにお盆の端にはお子さま用のミニゼリーも置いてある。
 見た目だけではわからないが、チーズオムレツのチーズも増量されていることだろう。
 厨房スタッフの自慢気な顔と陽さんに対する熱意が気に入らないけれど、陽さんをお祝いするためだからとグッと飲み込む。そしてビール瓶と二つのグラスを持って陽さんの席に向かった。
「お待たせしました」
 そう言って陽さんの前にお盆を置くと、その料理を見た陽さんが「え?」とつぶやいて固まってしまう。
「お誕生日の特別定食です」
 私の言葉に陽さんはバックヤードの方に目を向けた。すると陽さんの様子を遠くから伺っていた店長や隙間から顔をだしていた厨房スタッフが小さく手を振る。
 陽さんは恥ずかしそうに小さく頭を下げた。
 それを見届けて私は陽さんの隣の席に座る。そして二つ並べたグラスにビールを注いだ。
「それから、これは私からです」
 そして一つのグラスを陽さんに差し出す。陽さんは少しぎこちなくグラスを受け取ってくれた。
「ささやかなお祝いで申し訳ないんですけど。お誕生日おめでとうございます」
 そうしてグラスを軽く上げると、陽さんもグラスを出してカチンと合わせる。
 私はビールをグビリと喉の奥に流し込んだ。これまで飲んだどのビールよりもおいしく感じる。それは仕事中の一杯だからなのか、陽さんが目の前にいるからなのか分からない。
 少しの間私を見ていた陽さんも、意を決したようにビールグラスに口を付けた。
「はじめてのビールの味はいかがですか?」
「少し、苦いです」
 陽さんは俯き加減で照れたように、そしてうれしそうに微笑んで言う。
 その表情を見た瞬間、ズキュンと来た。
 漫画なんかで恋に落ちた瞬間を『ズキュン』と表現しているのを見たことがあるけれど、実際にそんなことはないと思っていた。だが、そのとき、本当にズキュンという音が響いたような気がしたのだ。
 今思えば、陽さんのことを恋愛的な意味で気になっているのだと自覚したのがこの瞬間だったと思う。
 だが、それから半年以上経った今も、陽さんとの関係は変わっていない。少しずつ続ける会話で陽さんの情報が少し増え、その分だけ陽さんのことを好きになった、それだけだ。
 私と陽さんは店員とお客様の関係以上ではないし、連絡先すら知らない。
 だから数日間陽さんが店に顔を出さない、その理由を知るすべがないのだ。
 単に仕事が忙しくて店に来る時間がないだけかもしれない。少し前に新入社員の指導担当をすることになったと言っていた。その新入社員が使えないヤツで苦労をしているのかもしれない。
 もしも風邪をひいて寝込んでいるならば心配だ。陽さんはずっと一人暮らしをしている。ご家族の話を聞いたことはないが、近くに住んでいるのだろうか。
 それともこの店以外にお気に入りの店ができてそちらに通っているのだろうか。そうすると、今後もこの店への足は遠のくだろう。
 最悪なのは恋人ができたというケースだ。陽さんは恋人も好きな人もいないと言っていた。だけどそれがいつまでも続くとは限らない。なにせ陽さんは小さくてカワイイ。一見無表情にも見えるけれど、それが不器用さと照れが織り成す表情だと分かれば、むしろ魅力的に感じる。私が居酒屋で仕事をしている間に、陽さんは自宅で恋人に料理を作っているなんて想像もしたくない。
 私は不吉な予想を消すように、皿を片付け終えたテーブルを力強く拭く。
 大丈夫。きっと忙しい日が続いているだけだ。陽さんはまたいつものように店のドアをくぐってくれるはずだ。
 そのとき入店を告げるチャイムが鳴る。
「いらっしゃいませー」
 条件反射で威勢よく挨拶をして視線を向けた先には、待ちに待った姿があった。
 片付けなんてそっちのけで駆け寄りたい気持ちだったが、それを抑えて最速でテーブルを片付ける。
 いつもならばすぐにカウンター席に案内されるはずの陽さんが、なぜか今日は入り口で店員と話をしていた。対応していたのはバイトに来るようになって半年程度の子だったが、それでも陽さんのことは知っているはずだ。不思議に思って入り口を覗き込むように少し背伸びをしてみると、陽さんのすぐ後ろに見慣れない女の姿があった。
 どうやら今日は一人ではなく二人で来店したようだ。その女が何者なのかが気になる。
 バックヤードに戻る途中も私はさりげなく陽さんの姿を目で追う。
 スタッフに案内されながらゆっくりとテーブルに向かう陽さんは、なぜだか同伴した女性を気遣う様子で手を差し伸べていた。その女も陽さんのやさしい行動にだらしなく頬を緩めている。
 私は、陽さんたちの案内を終えた後輩を捕まえて「陽さんと一緒に来た人、誰?」と問い詰めた。
「え? そんなの知りませんよ」
 戸惑った様子の後輩に苛立ったが、私以上に陽さんのことを知っているはずがない。
「オーダーは私が聞きに行くから」
 そう宣言するとスタッフたちは頷いてそれぞれの仕事に戻っていった。私は水とおしぼりをお盆に乗せて、営業スマイルで武装を固めると、はやる気持ちを抑えながら陽さんのテーブルに向かう。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
 私は通常のお客様に対する声掛けをした。陽さん一人なら「おつかれさまです」とか「おかえりなさい」と言うところだが、今日は謎の女がいる。
 陽さんは私の姿に気付くと、顔を上げて微かな笑みを浮かべた。この遠慮深い感じの笑顔がいいのだ。
「私、モスコー・ミュール」
 陽さんと一緒に来た女がそう言ったとき、私はその女のことを思い出した。以前、ひたすらモスコー・ミュールを飲み続ける女がいた。同席していたのは、ひたすらホッケを食べ続ける女だ。
 はじめて見る顔だったが、それを覚えていたのは周囲の迷惑になるような大声でしゃべっていたからだ。そしてそのとき陽さんの様子が少しおかしいと感じたからだ。あのとき陽さんがギクシャクしていたのは、この女と顔見知りだったからのようだ。
「矢沢さんはどうしますか?」
 モスコ女は陽さんのことを「矢沢さん」と呼んでいる。それならばそれほど親しい間柄ではないのだろう。私は少しだけホッとした。
 だが次の瞬間、陽さんが「えっと、私はビールを……」と言ったのを聞いて、思わず「えっ?」と言ってしまう。
 すると陽さんは私を見上げて少し不思議そうな顔をした。
 陽さんはあの誕生日からときどきお酒を飲むようになった。だが、それは何か特別な日に限られている。
 例えば大切な仕事を任されたとか、心配をしていた事案が上手く解決したとかだ。「何かいいことがあったんですか?」と尋ねれば、陽さんは少しだけ頬を緩めてその理由を教えてくれた。
 今日のビールにはどんな理由があるのだろう。単に知り合いと一緒だからなのか、それともこのモスコ女と一緒なのが特別なことだかなのか。
 少しだけ首を傾げた陽さんはすぐに私が声をあげた理由に気付いてくれたようだ。
「会社の研修が無事に終わったので」
「研修?」
「先週末から合宿研修だったんです」
 先週末から居酒屋に来なかった理由が判明した。今日お酒を飲むのは、モスコ女が特別な相手だからではなく、研修が終わった打ち上げだからに過ぎない。
「そうだったんですね。最近見掛けなかったんで風邪でも引いたんじゃないかって心配してたんですよ」
「あ、すみません」
「いえいえ、勝手に心配していただけですから。じゃあ、こちらの方は会社の同僚の方ですか?」
「はい」
 私が視線を移すとモスコ女がペコリと頭を下げた。なんだかとてもムカつく顔をした女だ。
 それからいくつかつまみの品のオーダーを受けて席を離れる。
「矢沢さん、店員さんと仲がいいんですね」
「はい。よく来ているので」
 そんな会話が背中越しに聞こえてきた。その席に混ざりたい気持ちをグッと堪えて私は厨房にオーダーを通す。
「陽さんの席の料理は私が全部運ぶから」
 そう宣言すると、私の気迫に押されたのか、他のスタッフたちは意義も唱えず黙って頷いた。
 まずはモスコー・ミュールと生ビール、お通しの小皿二つを用意して陽さんたちのテーブルに向かう。
「お待たせしました」
 そう言って陽さんの前にビールを、モスコ女の前にモスコー・ミュールを置く。モスコ女は下品なスピードでグラスを持ち上げた。
「では、研修お疲れ様ということで」
 モスコ女の声を聞き、陽さんは上品にビールジョッキを持ち上げて遠慮がちにグラスを合わせた。
 乾杯を終えると、待ちきれないという様子でモスコ女はグビグビとグラスの液体を半分程減らして「プハー」とだらしなく頬を緩めた。
 テーブルにお通しを置くとその場にいる理由が無くなってしまう。だが、丁度いい具合に近くのテーブルのお客様が帰って行った。私はそのテーブルに向かい、ゆっくり丁寧に片づけをしながら陽さんたちの会話に耳を傾ける。
「研修はホントに災難でしたよね」
「はい」
「矢沢さん、疲れていませんか?」
「しっかり休んだので」
「私、筋肉痛がスゴイですよ。やっぱり鍛えた方がいいですね」
「そうですね」
 はじめての人が見ると、モスコ女が一方的にしゃべっているように見える。だが、私には陽さんがモスコ女にかなり気を許しているのが分かる。無口な陽さんがモスコ女の言葉に間髪を入れずに返事をしているのがその証拠だ。同じ会社に勤めているのならば接する機会は私よりも多いはずだ。だから、打ち解けていているのも納得できる。それでもムカつくのは止められない。
「矢沢さんには迷惑を掛けっぱなしで、本当にすみませんでした」
 モスコ女は陽さんに迷惑をかけたのか? だったら、一緒に飲みに来るなんてことをせずに大人しく反省していればいいものを。私は歯ぎしりしながら空になった皿を重ねていく。
「いえ、迷惑を掛けてしまったのはむしろ私の方です。野崎さんにたくさん助けてもらいました……」
 陽さんがたくさんしゃべっている! 私はまだそんなにたくさんしゃべってもらったことはない。ぽっと出のモスコ女に先を越されたようで非常に腹が立つ。重ねた皿をお盆に置き、グッと手を握りしめた。
「私は何もしてないですよ」
「でも、夜……」
「ああ、あれはあれしかなかったっていうか……」
 ちょっと待って、夜? 何があったの? 気になる、聞きたい、話に混ざりたい。私はゆっくりとテーブルを拭きながらさらに聞き耳を立てる。
「あの……野崎さんのお酒って……」
 残念ながら「夜」の件については終わってしまったようだ。
「モスコー・ミュールですか?」
「おいしいですか?」
「飲んだことありませんか?」
「はい。お酒はあまり知らなくて」
「ちょっと味見してみます?」
 私はビックリして陽さんの方を見た。すると、陽さんは差し出されたモスコ女のグラスに手を伸ばして口に運んでいた。私はめまいを感じて倒れるかと思うほどの衝撃を受けた。そもそも陽さんはこの店にいつも一人で来ているので他の人とどのように接しているのかは知らない。だけど、人が飲んでいたグラスに手を付けるようなイメージはなかった。
「あ、おいしいです」
「甘すぎないし、さっぱりしてておいしいですよね」
 モスコ女は自慢気に言った。もしや、陽さんに慣れないお酒を飲ませて酔ったところでよからぬことをしようと考えているのではないだろうか。私は布巾をギュッと握りしめてさらに念入りにテーブルを拭く。
「でも、ビールよりアルコール度数が高いから、お酒に慣れていないならこういうお酒は気を付けた方がいいですよ」
「そうなんですか」
 念入りな片付けも終わってしまったが、モスコ女が比較的良識人だったことに安心してバックヤードに戻った。
 下げてきた皿を洗い場に渡しながら、なぜ私はバイトなんてしているんだろうという思いに駆られた。
「あの……、輝美さん」
 少しビクビクした様子で声が掛けられた。声を掛けたのは陽さんたちをテーブルに案内した後輩だった。もしかしたら怖い顔をしていたのかもしれない。
「ごめん、何だった?」
 私はバイトリーダーとしての笑みを浮かべて答える。
「あの、陽さんのテーブルの料理が上がりましたけど……」
「そう、ありがとう。運ぶね」
 気の利く後輩に満面の笑みで答えると早速出来上がった料理をお盆に乗せてフロアに出る。
 すると、陽さんとモスコ女が顔を近づけて話している様子が視界に入った。駆け寄ってモスコ女の頭を張り倒したい気持ちを抑えて、最速で歩き陽さんのテーブルに近づいた。
「マジですか!」
 顔を上げてモスコ女が叫ぶ。本当にこの女は声がでかい。陽さんは目を丸くしている。
「はい……えっと……」
 陽さんは戸惑っているようだ。一体何を話していたのだろう。気になるが「何があったんですか?」なんて割って入ることはできない。
「お待たせしました」
 私は料理をテーブルに置いた。陽さんは私を見て小さく頭を下げる。一方のモスコ女は、私など視界に入っていない様子で頭を掻きながら「そうだったのか」などとつぶやいていた。
 そのときモスコ女の背後に近づいてくる人影があった。その人影は無表情でモスコ女の頭を軽く叩く。
「イタっ! あ、雅」
 モスコ女はその人物を見上げてつぶやく。以前、モスコ女と一緒にこの店に来ていたホッケ女だ。ホッケ女はあの日以降も時々この店に来ている。一人で来るときはいつも夜定食を食べていたはずだ。
「こんなところで何してるの?」
 ホッケ女はそう言ったところで陽さんの存在に気付き小さく頭を下げた。
「あ、矢沢さん、大学からの友人の立花雅(たちばなみやび)です。で、こちらは会社の先輩の矢沢陽さん」
 陽さんは表情を少し硬くして頭を下げ、ホッケ女は無表情に「ああ、年下の先輩」と言いながら頭を下げた。
「よかったらご一緒に」
 そう言ったのは陽さんだ。ホッケ女は遠慮する素振りも見せずにモスコ女の隣に座った。そして「ライスとホッケ」と私の方を見ることもなく注文する。
「雅はまだホッケブームなの? あ、ホッケもう一つ」
 モスコ女はチラリとホッケ女を見た後、私に向かって笑顔を浮かべて言った。なんだか媚びたような笑顔が腹立たしい。
「ホッケ、二つも食べないよ」
「私が食べるの。雅、自分のホッケひと口も私にくれないでしょう」
「ふーん」
 ホッケ女はそう言いながらも視線は陽さんに向かっていた。
 私だってこのテーブルに混ざりたい。
「ホッケ二つとライスですね」
 私はそう言い残し、後ろ髪を引かれる思いで厨房にオーダーを伝えに戻ったのだった。
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