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4章

60 李昭視点

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 二胡の音色が今夜も宮に響き渡る。

 ゆったり紡がれるその音色に、李昭は扉の前で聞き入った。

 昨日までの音色と比べて、どこか明るく力強くなったように感じるのは、李昭の気のせいだろうか。


 切りの良いところで扉を叩いて入室すれば、いつものように寝台に腰掛けて二胡を弾く紅凛の姿がある。

 昨晩までは願うように一心不乱に二胡を弾き、時に辛そうに、時に涙を流していた彼女は、穏やかにまるで愛する人がそばにいるような優しげな表情をしている。

 今夜は陛下が宮の別室に渡る日だ。音色を通して陛下へ想いを伝えているのだろう。


 しばらく戸口に立っていると、一曲を弾き終えた紅凛がこちらを振り返りふわりと微笑んだ。このような笑顔を、李昭は久しぶりに見た気がする。

「李昭には礼を言わねばならないわね」

 二胡を大切そうに傍に置いた紅凛は李昭に向き直ると、穏やかな顔で微笑んだ。


 そんな彼女の顔を見て、李昭は泣きたい気分になる。


「礼など……もっと……もっとまともな案をご提案できたら良かったのに……お役に立てず申し訳ありません」

  李昭の絞り出すような言葉に、紅凛は柔らかく微笑んで首を振る。

「それくらいの事をしなければ、あの貴妃達は納得しないでしょうし、私を忘れる事はしないわ。あなたが提案しなければ、私が提案していた。辛い役目をさせてしまってごめんなさい」


「っ、時々お顔を拝見にうかがいます」

  近づいて紅凛の前に膝をつけば、彼女は一度驚いたように目を見開くと、すぐに柔らかく微笑んで首を横に振る。


「だめよ、李昭。陛下の寵妃となる貴方が私と仲がいいのは不自然だわ。」

「そう、ですが……」

紅凛の言う事は最もなことであるが、しかし李昭が紅凛と接触しないとなるならば、ここへ来て間がない紅凛は本当に一人きりになってしまう。

一人きりで孤独に10年も……いくら深い愛があろうとも耐えられるとは李昭は思わない。

「っ、せめて、私の見繕った者をお側に置いてください!  でなければ、私が出向きます!」


 縋るように、そう告げれば紅凛は少し困ったように眉を下げた。

「こんな日陰者になる側室に添いたいと思う者はいるかしら。後ろ指を指されるのでしょう? 可愛そうではない?」

「主人の栄誉を笠に来て喜ぶような者は最初から選びません! 私の手のものを付けます! 御身の安全も確保せねばなりません故」

  説得するように強く告げれば、紅凛は「そうね……任せるわ」と呟いた。
どうやらそこには一切の頓着はないらしい。李昭の頭の中ではすでに親族や部下達の姿が浮かび選定が始まっていた。


  紅凛自身がここに残ることを望んでいることは、随分と早い内から見て取れていたものの、主人である皇帝との話し合いで、離れる事を彼女自身も望んで結論を出したと思っていた。

  それが、皇帝の独りよがりだと知り、紅凛の希望を聞くよう助言した時、おそらくこうした運命選ぶだろうとは予想はついていた。

  だから、方法は考えていた。

  しかしそれはとても辛い事を紅凛に強いる事になる。その時は少しばかり抜け道を作る事も考えていた。それなのに……当の当事者達がそれを許さなかった。

  危惧となる事は冒さない。そのためにとても厳しく自分達を律しようとするのだ。


  ひと月の後に、紅凛は皇帝の逆鱗に触れ、悲鳴宮と不名誉なふたつ名を持つ離宮に移される事となる。

  もともと西楼宮は後宮の中でも本殿から一番遠く、ゆえに紅凛が入宮するまでは最低限度の手入れのみで使われる事は無かったのだ。
そしてその更に奥に小さな離宮があるのだが、それを実際に目にした事のある者は少ない。

  最初の皇帝となった愁蓮の父が作らせたもので、戦乱の最中、生かして捕らえた敵国の元首の妻を療養のために置いていた宮だ。その妻は、先帝と再従姉妹の間柄で、敵軍の城に乗り込んだ際に火に巻かれているのを保護して、治療を受けさせ、臨終まで面倒を見たのだと言う。

  もともとは親族ゆえ、丁重に扱ったものの、夜になると疼き出す火傷の痛みに耐えきれず泣き叫ぶ女の声が後宮中に響くこととなったそうだ。

 そのため他の宮から離れた場所に離宮を設け、そこに身を置かせたのだという。

 本当の名を離明宮と言うらしい。現在の後宮の中では特に寂しい場所に立ち、忘れ去られたように空き家と化しているそこへ入れられると言う事は、歴々の後宮事情でいえば、冷宮に幽閉されるようなものである。


 愁蓮と、紅凛、李昭で練った策では、皇帝が紅凛の宮に通う中、紅凛と仲の良い李昭に興味を持つようになり、通い出す。それに嫉妬した紅凛が李昭と皇帝の寝屋に踏み込み狼藉を働き、皇帝の怒りに触れて離宮に幽閉される事になる。

 皇帝が通っている側室の側女に目をつけて手を出す事など、よくある話だ。桜貴妃と桃妃はさぞ喜んでその話をするだろう。

「ほ~ら、やはり若いだけだったわね。陛下を繋ぎ止めるほど魅力があるとは思えませんでしたものねぇ」

「まことに。結局同じ若い娘に簡単に鞍替えされて……お気の毒に」

  二人が茶を飲みながら、扇子を仰いで笑い合う姿が容易に想像できる。

  そして、李昭を気に入った皇帝は李昭を寵妃として通うようになる。
 西楼宮の端の部屋ならば、離宮で紅凛が弾く二胡の音色は聞こえるのだ。

 2年もすれば、紅凛の存在など後宮から消えるだろう。代わりに李昭が皇帝の寵愛を受けている事で、皆の関心は李昭に移る。

「李昭への、彼女達の当たりが強くないといいのだけど」

 心配そうに見上げてきた紅凛の手を握って首を振る。

「そんな事、大した問題ではありません。彼女達に煮湯を飲ませて、紅凛様のことなど忘れるほどに振り回して差し上げますから!」

明るい口調でそう告げれば、紅凛は少し眉を下げながらも「頼もしいわね」と笑った。


 主二人がそれほどまでの覚悟で臨むならば、代々彼等に仕える李昭も全力でサポートするつもりだ。それがもし、暗殺される事になろうとも。

 あの日、愁蓮に「紅凛の意見を聞くべき」と助言したあの時から、いずれこうなる事は覚悟していたのだ。



『良いか、李昭よ。我家は一度、主達を守れなんだ。あのような事、もう2度と許されぬ。言葉の通り命を賭してお仕えしてまいれ』


 家長の命で入宮する前夜に、祖父に呼ばれた時のことを思い出す。
 祖父と父は、あの城が焼け落ちた夜。城にいたのだ。

 当時の当主……先帝から「有事があれば、持ち出して欲しいものがある」と当初は意味のわからぬ命を受けていたのだ。
  そして起こった有事の際に、何とかそれを持ち出したものの、多くの妃嬪や嫡子達を助ける事が出来なかった。

   仕える主人である愁蓮はもちろんであるが、あの夜、父と祖父が助け出せなかったうちの1人である紅凛にも、李昭は命を賭して仕えるのだ。
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