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(38)生徒指導と金髪
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金髪生徒×生徒指導教師
三者面談を行うべく、不良生徒、水仲 柚雨(みなか ゆう)の家へ訪問した教師、桜南 颯(おうな はやて)。そこでまんまと睡眠薬を飲まされた桜南が目を覚ましたときには――。
桜南 颯(おうな はやて):生徒指導を任された教師。真面目。
水仲 柚雨(みなか ゆう):金髪の少年。家が金持ち。
水橋 瑞玖(みずはし みずく):桜南 颯の婚約者。女。幼い頃に彼を救った。
NL表現が少しあります。
年上がまんまと襲われるのが好きです。無理やりから始まって徐々に愛を育んでいく感じが好きです。実は幼い頃に出会ってましたっていうベタオチが好きです。
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「おい水仲! その髪、やめろと言っただろうが!」
「チッ。またアンタかよ」
早朝の校門で、呼び止められた少年が忌々しそうに舌打ちをする。その髪は遠くから見ても目立つほど明るい金色。明らかに校則違反だ。
『わ~。桜南まじヤベーわ』
『ほんとほんと。水仲に注意するとか、命知らずっしょ』
通り過ぎてゆく生徒を睨みつける。
『お、おはようございま~す』『ざいま~す』
睨まれた途端、先ほどまで笑っていた生徒たちが顔を青くして逃げてゆく。
俺、桜南 颯(おうな はやて)はどうも生徒たちに嫌われている。同僚に言わせると、“厳しすぎる”らしい。だが、生徒指導を任されたからには、厳しくなって当たり前だ。風紀の乱れは心の乱れ。生徒たちの健全なる高校生活のためには、秩序を守らなければならない。
「おい、もう行っていいだろ?」
目の前の少年が詰まらなさそうに欠伸をする。
「駄目に決まっている。お前は何回私に注意させれば気が済むんだ」
「うっせーな」
全く聞く耳を持たないこの少年、水仲 柚雨(みなか ゆう)に俺はほとほと困っていた。
態度の悪さもさることながら、制服を着てその髪で出歩かれると、わが校の評判にも関わる。事実、数件の問い合わせが来ているので早急な解決が望ましい。
「これ以上言うことを聞かないのならば、親御さんと面談になるぞ?」
「いいよ。何なら今日でもどうぞ」
「今日って……。親御さんの都合は大丈夫なのか?」
「ああ。アイツら暇だからさ。今日は早く帰ってくるってよ」
「そ、そうか……」
「ま、アンタが偉そうにしてんのも今の内だ。どうせ親にはそんな態度できねぇだろ」
あっさりと約束を取り付けられたことに驚いていたら、思いっきり見下した顔で挑発される。
「それじゃあ放課後に車で送るから。逃げるんじゃないぞ?」
「アンタこそな」
可愛くない。男子高校生に可愛さを求めるのは間違っているのだろうが、馬鹿にしたような態度があまりにも酷い。どうにか彼の軌道を修正してやらないと……。
放課後になり、約束通り水仲と車で家に向かう。
「ハイ、到着。ここがオレの家」
「え……。本当にここなのか?」
案内を終えた水仲が、あっさりと指し示した家を見て呆然とする。
目の前に佇むのは豪邸。自分のマンションよりも大きい一軒家がそこにあった。
「なんだ。アンタ知らねえの? オレの家、金持ちなんだよ」
「し、知らなかった……」
「馬鹿じゃん。めっちゃ突っかかって来るな~とは思ってたけどさ。納得だわ」
「どういう意味だ?」
「わかんねーのかよ。権力だよ。オレん家に目ぇつけられるのが怖いから他の教師はオレに甘いんだよ」
そんな話をしている間に、メイドが出てきて家の中へと招かれる。
「まさかそんな……」
教師が権力に屈するなんて。教育の場は平等であってはならない。
「ま、裏じゃオレのこと煙たがってるだろうけどな。だからアンタに教えなかったんじゃね? アンタがオレを恐れずに躾けてくれれば万々歳。できなくても、アンタが切られるだけだしな」
「は……?」
「こっちに来て早々大変だねぇアンタも。ま、教えてやったんだ。お前の立場はわかっただろう?」
「……それでも。それでも私はお前を正しく導かねばならない」
「ハァ? アンタ、今の話聞いてた?」
「聞いていた。だが、それならば尚更だ。私がお前を変えてみせる」
「うっわ~。イマドキ熱血教師とか流行んねぇよ?」
応接室に通され、促されるままに座ると目の前にコーヒーが出される。
「それで、親御さんは?」
「んー? まぁ、それ飲んで待っとけよ」
「……」
「一般庶民には落ち着かない?」
「……お前はよく落ち着いていられるな」
「まぁ、オレがグレるのもわかるだろ?」
「自分で言うな」
「それでもアンタ、オレに楯突く?」
「ふん。教師を嘗めるなよ」
「ふ~ん。アンタ、ホント馬鹿だな」
「教師に向かって、ん……?」
急に瞼が重くなったので、目を擦る。だが、それで眠気が収まるわけでもなく、ついには目を開けているのが辛くなり……。
おかしい。今まで眠気など感じていなかった。むしろ、緊張してたせいで神経が昂ぶっていたはずなのに。
ふいに目の前のコーヒー見る。
まさか……。
水仲の顔を見つめると、彼の口端がにやりと上がる。
「っ!」
慌てて椅子から立ち上がろうとするが、足が縺れて椅子ごと倒れる。
「そんなところで寝たら風邪引きますよぉ? それとも、庶民は床で寝るのかな?」
「っ……」
言葉を紡ごうとするが、怠さが勝って口すら碌に動かせない。
駄目だ……。眠い……。
「しょうがないなぁ。特別ですよ?」
視界の端で、水仲が歪む。手を取られ、抱きかかえられて。抵抗しようとするのに、体は全く動かない。
あったかい。水仲の奴、体温高いなぁ。ああ、駄目だ。もう、眠い……。
「んんっ……」
意識が朦朧とする。これは夢なのか……?
手足を動かそうとして、縛られていることに気づく。
どうして……?
「んっ、あ……」
熱い。快感が押し寄せては遠ざかり、呼吸を荒くさせる。
あれ。今、何の夢を見ているんだ……?
ざあっと血の気が引いて、瞼を開く。
「あ、やっと起きた」
「え……?」
ベッドに括りつけられた手足。脱がされた服。俺の上に伸し掛かる水仲。悪魔のような微笑みを湛えた彼がねっとりと指を動かし、それを撫で上げる。
「は……。なに、してんだ、お前……? なんで、そんなとこ、触って……」
受け入れがたい現実に汗がぶわりと流れ出す。必死になって手足の紐を外そうと動いても、ぎっちり結ばれてあってびくともしない。
「逃げられると思ってんの?」
「ん……、だ、誰か……」
「ここ、防音だから。メイドにもしばらく入らないよう言ってあるし」
「く……」
「オレに楯突いたこと、後悔してる?」
「お前こそ……こんなの犯罪だぞ! 人間として恥ずかしくないのか!?」
「この場合、恥ずかしいのは先生でしょ?」
「言わせておけばお前は……!」
「ハイ、チーズ」
かしゃり。
「は……?」
水仲がおもむろに取り出したスマホをこちらに向けて写真を撮る。
「ああ、駄目だろ。ほら、目ぇ瞑ってる。んじゃもう一回な」
「や、やめろ……!」
「はい。撮れた。ほら見ろよ。桜南センセ。よく撮れてるでしょ?」
「っ……!」
目の前の画面には、さっきの分だけでなく、眠っている時の写真も映っている。そのどれもが裸で、至る所を水仲に触られていて……。
「ね。どれも気持ちよさそうな顔してるだろ?」
「け、消せ……! こんなもの、今すぐに……っあ!?」
冷たい目をした水仲が、胸に顔を埋めた瞬間、歯を立てる。
「ね、気持ちいいでしょ?」
「そ、んな、わけ……っ、あっ……ん、舐め、るな……!」
そんなわけない。こんな、女みたいに感じるわけ……。
「はっ。アンタ、女みたいだな」
「そんな、はずっ……」
「そうだよな。ここも気持ちいもんなぁ?」
「っああ、だ、め、触るなって……クソ!」
「汚い言葉遣いだな。アンタの今の姿、学校の奴らが見たらなんて言うかなぁ?」
「お前……正気か?」
「それはアンタだろ?」
「っあ!」
「男に触られて気持ちいいかよ、変態教師」
「な……」
色んな感情がないまぜになって、言葉を紡げないまま口をぱくぱくさせることしかできない。
どうして俺がこんな目に……。そう思った途端、涙がぶわりと溢れ出る。
「え、まさか泣いてんのかアンタ」
「ち、違う!」
ぶるぶると体を震わせながら精一杯叫んでみるが、情けないことには変わりない。
「はっ。可愛いとこあんじゃん。いいね、その調子でオレを楽しませてみろよ」
「っ! やめろっ!」
「すげー。睨んでんのに可愛く見える」
「っ……、馬鹿にしやがって……! いい加減に……ッ!」
「急かすなよ。変態教師のアンタにはじっくり教えてやんねえとな」
「は……? こ、これ以上はやめ……、あッ!」
「教師なんだから、これくらいちゃんと覚えられるだろ? オレに逆らったらどうなるのか。ちゃ~んと学んで帰れよ?」
『い……先生……』
ん……。誰かが呼んでいる……。誰が……? 俺は確か、水仲の家に行って……それで
……。それで……。
『……桜南先生!』
「は、はいっ!」
肩を叩かれて飛び起きる。目の前にいたのは校長先生。どうやら、デスクで転寝をしてしまっていたらしい。
『大丈夫かね? 君が居眠りだなんて、らしくもない』
「す、すみません……」
とりあえずは謝ったものの内心、校長さえもを恨みたい気持ちだった。昨日、水仲が言っていたことを思い返してみると、どうもこの人を信用する気にはなれなかった。
『疲れているところを悪いんだがね。実は水仲くんがまた不用品を学校に持ち込んでいたらしくてね。放課後、生徒指導室に来てもらうことになっているから、頼んだよ。彼の更生は生徒指導である君の手に掛かっているからね』
如何わしい雑誌を押し付けて、足早に去っていく校長を見て確信する。俺は本当に水仲を押し付けられているらしいな。ここに来て早々に生徒指導を交代させられたことに、もう少し疑問を持つべきだった。
まぁ、そんなことを考えてももう遅い。
全身の怠さに睡眠不足。何より一番精神的に参ってしまった今、休まずこうして授業をしているだけでも褒められるべきだというのに。
「桜南センセー。調子はどうですか?」
「水仲……」
放課後さっそく悪魔が茶化すような笑みを浮かべて現れる。
「こっちに来い……。お前な、その……。こんな雑誌、学校に持ってくるな。読みたいんなら、家で読んで……」
水仲と視線がかち合った瞬間、昨日のことがフラッシュバックする。触れ合う肌。頬に伝う汗。荒い息遣い。
「アンタさ、意外とタフなんだね。あんなに泣いてたのに、もうオレに逆らえちゃうんだ?」
「これは、お前のためを思った注意で……」
どっ。
「っ!」
言い終わらないうちに胸倉を掴まれ、壁に突き飛ばされる。
「これ以上指図すんな」
「私は、生徒指導として……!」
ずるずると壁を伝って、座り込む。それを追うようにして水仲が片手を壁について見下ろしてくる。
「……まだ足りないんだ?」
品を定めるような瞳がぎらりと輝く。その瞬間、せり上がってくる感情を飲み込んでから目を逸らす。
「お前は、間違ってる……!」
「アンタは間違ってないのかよ」
「私はただ、校則の話をしているだけであって……」
「じゃあ舐めろ」
「は……?」
水仲の手が頬に触れ、艶めかしく撫で動く。
「アンタが持ってくるなって言ったんだ。雑誌の代わりぐらいやれよ」
「そんなこと、できるわけないだろ!」
「じゃあ選べよ。オレに突っかかってくんのを無しにするか、ここでオレのを舐めて機嫌を取るか」
「後者は明らかに犯罪だろうが……」
「んじゃ、そっちの方を頼もうか」
意地悪く微笑んだ水仲の手が口内に侵入してぐちゃぐちゃとかき回す。
「んぐ……」
噛み千切ってやる……。そう思った瞬間、水仲がもう片方の手を俺の目の前に出して何かを突きつける。
「アンタさぁ、婚約者がいるらしいじゃん。その人にコレ見せたらどうなるかな」
目を凝らして見たその写真は、思い出したくもない昨日の記録。
「か、返せ……! っわ!」
とっさに水仲の手を払って、写真を掴もうとする。しかし、寸前のところで避けられ、床に倒れ込んでしまう。
「返せだなんて。別にアンタのモンじゃないでしょ」
「それ、明らかに盗撮だろうが……!」
「さてな。でも……」
水仲は、まるで見せびらかすようにひらひらと目の前で写真を振ったかと思うと、ひたと写真で頬を弾く。
「桜南センセーがオレの機嫌を良くしてくれるんであれば、返してあげてもいい」
「お前が本当に返すとは思えん」
「そうだな。だってデータはここに残ってるもん」
「消せ!」
水仲がポケットから取り出したスマホに勢いよく飛びつく。が、水仲はそれを難なく躱してから画面を目の前に突き付ける。
「言うこと聞かないなら、今すぐ送ってやってもいいんだぜ?」
「は……? 何で、お前が彼女の連絡先、知って……」
画面に映った文字列は、確かに彼女のメールアドレス。
「この写真、彼女が見たら何て返事くれるかな」
その目は本気で歪んでいた。脅すというよりも本気で彼女の反応を望んでいるような狂気を帯びていた。
「っ……。わかった。お前の望むとおりにするから。だから、頼むから彼女を巻き込むのだけはやめてくれ……」
「へぇ。よっぽど大事なんだ。彼女のこと」
促されるがままに水仲のモノを咥え込む。吐き気がする。こんなこと、するべきじゃないとわかっているのに。
「は……。こんなとこ、見られたら一発でクビですね。センセ」
「っ……」
「クソ真面目なアンタがオレに穢されてんだって思うとさぁ、すっげー気分いいよ」
「む、ぐ……」
「アンタならもっと上手く逃げるかと思ってたのに。よっぽど焦ったんだな。生徒指導室でこんなことしちゃうなんてさ」
「う……」
「おい、もっと本気でやれよ。誰か来ても知んねえぞ」
「っは、もう、いいだろッ……んぐ!」
「よくねえっての。ほら、ちゃ~んと生徒の世話してくれよ」
噛み千切ってやろうかとも思った。けど。
「は……。そうそう。中々上手いじゃん……。桜南……」
熱の籠もった吐息。掠れかかった声。快楽に浮かされた顔。そのどれもが、いつもの生意気で凶悪な少年とかけ離れていて。
「ん……。もう、出るから、放せっ……」
「……」
「おいっ。桜南! っ、あ……、ばっ……」
口の中に水仲の液がたっぷりと流し込まれる。
「ん……」
苦い。だらだらと口から零れ落ちるそれをハンカチで拭い取る。
「アンタ、何考えてんだよ……」
「お前がやれと言ったんだろうが」
「いや、そうだけど……」
急に口ごもる水仲に釣られるようにしてこちらも押し黙る。
自分でも何を考えているのかわからなかった。でも、水仲のあんな顔を見てしまったら夢中で……もっと見たいと思って……。
「ほんと、何なんだよ……」
ため息交じりに近づいてきた水仲の顔は赤い。ああ、可愛いところがあるじゃないか。
「何にやけてんだよ、変態」
「に……。いや、お前の顔真っ赤なの可愛いなって……」
「ハァ?! オレが可愛いとか頭おかしいんじゃねえの?!」
「ああ、そうかもな……」
「認めんなっての。つうか、アンタだって人のこと言えねえからな」
「ん? 水仲も頭がおかしいってことか?」
「ちげえよ。そっちじゃなくて。……アンタの顔も真っ赤だし。オレなんかよりずっと可愛いだろ」
「は……?」
水仲がゆっくりと口づける。水仲の両手に挟まれた頬は確かに熱を帯びていた。
「あ~。これ駄目なやつだわ。完全に。オレはアンタを脅せればよかったのに……。こんな……」
再び口ごもった水仲は、結局最後まで言わなかった。その言葉の続きは一体何か。
彼から解放されて家に帰っても尚、頬の熱は収まらなかった。
『颯さん、顔色が悪いようですけど……』
「ああ。大丈夫です。少し疲れているだけで……」
『お疲れなのに、ワタシったら颯さんにお会いしたいだなんて我儘を』
「いえ、本当に大丈夫ですよ。最近は瑞玖さんとお会いする機会もなかったですし」
『颯さん……』
「瑞玖さん……」
久々に会った彼女と久々のキスをする。それは待ち焦がれた約束の証明。幼い頃から変わっていない情熱の証。のはずなのに。
どうしてだ……?
彼女から唇を離し、そっと身を戻す。
普段ならば、もっと甘く込み上げてくるものがあるはずなのに。それなのに、今はどうか。全くもってときめきもしない。
そこにあるのは罪悪感と疑念だった。
彼女は誰もが羨むような出来た女性だった。花のように美しく、小鳥のように可愛らしい。お嬢様という言葉がぴったりと似合う婚約者だった。
それなのに。
どうしても彼のことがチラつく。
人間とは、禁を破りたくなるものだ。強い刺激を味わってしまった今、無意識に彼女と彼を比べてしまっているのではないだろうか。
でも、そんな言い訳じゃあ、説明できない。
あれから何度か、水仲に迫られた。その都度抵抗はしてみたものの、あまり意味をなさなかった。それに自分自身、どこかそれを受け入れている節もあった。
「どうしてお前はこんなことをするんだ?」
水仲の腕に抱き留められたまま、ぽつりと疑問を零す。零してからハッとする。そんなことを聞いてしまえば、後にはもう戻れないことぐらいわかっているはずなのに……。
「オレにもわかんないけど、多分……」
わかっているのは水仲も同じはずだ。その瞳は熱を含んでゆらゆらと揺れている。
「水仲、待て……。言わなくていい。こんなことが聞きたかったんじゃなくて……」
水仲の手を振り切り一歩後ろに下がるが、それしきのことで水仲から逃げられる訳がない。
「アンタのことが好きなんだよ」
もう一度体を抱き寄せてから、水仲は大まじめな顔でそう言った。
「本気か?」
「アンタはどうなんだ? 最近、抵抗薄いよな?」
全てを見透かしたような瞳に見つめられた途端、体がカッと熱くなる。
「っ、お前みたいな不良、こっちから願い下げだ!」
あらん限りの力で叫び暴れて、水仲の腕から何とか逃げる。
そして、またすぐにでも捕まえられるのだろうと思ったが……。
「そうかよ……」
ふいとそっぽを向いたかと思うと、水仲は静かに去って行った。
「……なんでそんな寂しそうな顔するんだよ」
水仲が去り際に見せたその顔は、まるで不貞腐れた子どもがするみたいな混じりっ気のない感情だった。
それから水仲はすっかり変わった。女の子と遊ぶのもやめたし、サボりがちだった授業もちゃんと受けるようになった。悪かった態度も一変、目立たず大人しく、真面目になった。最悪だった水仲の評判も生徒の間では回復し、教師たちもその豹変ぶりを認めざるを得なくなってきた。
『なんでも、本命ができたらしいよ?』『え~。今の水仲くんならアタシが付き合いたい~!』『本命って、誰だろうね~』
廊下で話す女子の会話に耳を疑う。
本命って……。この前の告白を思い出す。まさか。俺が不良だと理由をつけて断ったからか……?
自意識過剰。いくらなんでも、水仲がそんな健気な真似する訳が……。
「どうですか? 最近のオレ」
「どうって……」
水仲の澄んだ瞳に、言葉が詰まる。
「いい子でしょ?」
その裏に自分へのアピールが潜んでいるのかと思うと、心臓が煮え切りそうになる。
「……金髪はそのままか?」
変に思われない程度に指摘を加える。
「あぁ、これ。地毛だから」
愛想のない俺に苦笑した水仲が、自分の髪を掴んで見せる。その髪は確かに根本も色褪せていない、万遍なく綺麗な金色だった。
「まさか、本当に……?」
「オレ、ハーフでさ。昔は結構、揶揄われたんだよ」
そう言われて見ると、やたら形の良い顔立ちも目の色が少し薄いのも、外国の血が混じっているからだと思うと納得できる。
「なんで言わないんだよ」
「え?」
「だから、最初のチェックのときに言ってくれれば……」
「あぁ。だって信じてもらえないかなって。アンタにってより、今までずっとそうだったからさ」
そう言った水仲は、それがさも当たり前だと言うように平気な顔をしていた。
俺は何だかそれが悔しかった。この少年は、ずっとそうやって誤解されてきたんじゃないだろうか。もしかして、それが原因でグレてしまったのではないか。
「馬鹿……」
「せんせ?」
気づいたら、水仲のことを抱きしめていた。
「そのままのお前を否定したりするものか」
「はは。やっぱ先生は優しいな。だから……」
好き。そう耳元で呟いた水仲があっさりと唇を奪ってゆく。
「お前……」
「オレさ金持ちだから、アンタやアンタの婚約者を酷い目に遭わせることだってできるんだよね。誘拐だって殺しだって。それこそ金を積めば簡単なんだよね」
「……」
「だけどさ、それをやったらアンタはオレを嫌いになるだろう?」
「水仲……」
「だからオレは何にもしない。いや、何にもできないんだよ」
その哀愁を帯びた表情を瞳に映した途端、胸がずきりと跳ね痛む。まるで、彼の悲しみがまるごと移ってしまったみたいだった。
ここまで来てしまったのならば、本当に考え直さなければならない。この毒が幸せを脅かしてしまうその前に。
俺の幸せは瑞玖さんと一緒になることだ。それはもう随分昔に決めた夢。
あれはまだ十五ぐらいのときだった。夜の海。そのぞっとする静けさの中、俺は水の中を静かに進んでいった。
その頃は、溺れて死ぬことが苦しいだなんて知らなかった。ただ、美しい死に方ができるだろうと、ぼうっとした思考のままに自ら死を望んだ。
あの頃は辛かった。親は家に帰ってこない。学校に居場所などない。そんな中で生きていることに意味があるのだろうか、と思った。死んだ方がマシなのでは、と本気で思っていた。心は錆びついて、乾いて。気づいたら、海に浸かっていた。
夜の海は冷たかった。想像していたよりもずっと。恐ろしく。怖くなった。引き返そうと思った。でも。そう思った瞬間、体が波に攫われた。パニックになり、泳ぎ方を忘れて沈んだ。もがいて水を打って暴れたけれど、口からどんどん水が入ってきて。息が出来なくなって。苦しかった。息ができないことがこんなに苦しいなんて知らなかった。誰でもいいから助けてくれ。そんなことを願った。そのとき。
一筋の光が俺の瞳を照らした。
その方向を見つめると、そこには人魚がいた。人魚は、俺の手を取った。そして、そのまま海の上へ優しく誘った。
意識が朦朧とする中で、その自分より小さい手をしっかりと握った。まだ生きていたい。そして、この人魚にきっとお礼がしたいと思った。
結局、その後病院に送られて。そこで具合を見に来てくれた瑞玖さんが人魚……命の恩人だったことを知って。
その日、俺は彼女に恋心を伝えた。助けてもらって惚れたなど、男らしくないし情けなくもあったけれど、でも、それでもあの人魚を離したくなかった。
彼女は微笑んで告白を受けてくれた。その笑顔はどこまでも楽しそうで、俺の目には眩しく映った。
俺には勿体ないほどの女性。それが、今までこうして長い時間付き合ってくれている。そしてこのまま行けば結婚も遠くはない未来。幸せへの道はしっかりできている。それなのに。
「俺はどうしたんだ……?」
夜。防波堤から海を見つめる。海に映った月以外にはこれといった明かりはない。
『何かお困り事でも?』
心配そうに問いかける瑞玖さんが隣に寄り添い、そっと腕を絡めてくる。
どうしてもここに来たかった。あの日感じた運命をもう一度確かめたかった。
「瑞玖さん……」
『何でも言ってくださいな。恋人同士ですもの』
「瑞玖さんはどうして俺と婚約してくれんですか?」
『いきなりどうしたんです?』
「いえ、だって。俺が貴女に惚れたのは、助けられたからですけども。貴女が俺に惚れる理由がないような気がして」
『なんだ、そんなこと。……一目惚れなんです。水に濡れた貴方はとても綺麗でしたから』
「俺が綺麗……?」
『ええ。何だかびびっときたんです。これは運命なんだって』
「運命……」
頭に鈍痛が走る。運命……。確かに俺もそう思ったはず。だけど、何かが歪んで……。
『颯さん?』
彼女の茶髪が月に照らされて輝く。でも……。違う……。そうだ……。違うんだ……。
ぐらり。
視界が揺れる。
『颯さん?!』
あれ……。足が動かない……。
どぷん。
眩暈がしてバランスを失った俺は、気づいたら水の中に体が叩きつけられていた。
冷たい。体が動かない。息ができない。
ああ。懐かしい。
ゆらりと水面が煌く。
苦しい。苦しい……。
どっ。
何かが水に落ちた衝撃で体が揺れる。
何……?
薄目を開けてみると、伸ばされた手。
ああ。人魚だ。
迷わずにその手を取る。
ざば。
「っは。んとに、何してんだよ……。アンタ……」
「あ、れ……。水仲……?」
濡れた金髪が月に照らされて輝く。
あ……。これだ。
脳が震えた。全てが繫がった。
水仲の真っすぐな瞳を見て、安堵にも似た息を漏らす。
「……ったんだな」
「ん?」
俯いて呟く俺を水仲が覗き込む。その目をもう一度見つめると、色んな感情がごちゃ混ぜになって言葉が漏れ出す。
「お前が、人魚だったんだ……」
「おい。大丈夫かよ」
怪訝そうな顔。そうだろう。感極まった感じで、人魚だなんて言われたら誰だって戸惑うよな。
「ん。多分大丈夫だ。もう、わかった」
「は? わかったって、何が……」
『颯さん……!』
瑞玖さんが駆けてくる。その顔にあるのは、安堵というよりも……。
「瑞玖さん。貴女は嘘をつきましたね」
『っ……』
ただでさえ悪かった彼女の顔色が、さあっと一気に青くなる。
「え、なに? これってオレ、いったん消えるべき?」
「いや。水仲も聞いてくれ」
「瑞玖さん、貴女はあの時俺に言いましたよね。「貴方を助けたのはワタシだ」って」
「助けた……?」
『や、やめてください……』
「でも。思い出しました。俺を助けてくれたのは貴女じゃない。確かに貴女は素晴らしい人です。俺には勿体ないぐらいの女性だ。でも。俺が貴女を好きになった理由はそれではない」
『やめて……!』
絶叫する彼女に構わず言葉を紡ぐ。
「貴女は人魚姫じゃあない」
図らずも冷たく響いた声に、彼女はその場にしゃがみこむ。
『ああ……』
「人魚姫……?」・
「本当の命の恩人、人魚姫は……」
『だ、駄目……』
「水仲。お前なんだ」
「え……。オレ?」
きょとんとした表情で、水仲が自分を指す。どうやらやはり覚えていないらしい。
「水仲。俺はお前に惚れているんだよ。もうずっと昔から」
「は……?」
「救ってくれて、ありがとう」
ずっと言いたかった言葉。生きる意味を与えてくれた人魚。その手をもう一度握りしめる。それは、あのときのように小さくはなかったけれど、確かに自分を救ったあの温もりがあった。
「そういえば……。あのとき助けた綺麗な人。結局、救急車に乗せてもらえなくて、そのままわかんなくなって……。ああ、何だ。道理でこんなにアンタのことが愛しいわけだ」
「水仲……?」
「オレだって、あのときのアレが初恋なんだよ」
『ま、待ってよ! ワタシは……! ワタシの方が柚雨のことを好きなの! それこそ、柚雨が貴方を助ける前から、ずっと、ずっと……!』
「瑞玖さん……。やはり貴女は……」
「水橋 瑞玖。名字は違うがオレの従姉だ。だから連絡先も知ってたってわけ。まぁ、先生と婚約してるって知ったときはびっくりしたけど」
『ち、違うの……。ワタシはこの人が好きなわけじゃないのよ……。柚雨……わかるでしょう……?』
「ちっちゃい時からずっと瑞玖はオレに惚れてんだよ。先生、アンタ騙されてんだよ。この女に」
「ああ。そうみたいだな。瑞玖さんが俺に嘘を吐いて婚約を持ちかけたのは……」
『ええ。そうよ。ワタシの柚雨が、貴方に取られるのが我慢ならなかったのよ! 柚雨はワタシを従姉としか見てくれない。それなのに。男である貴方に惚れただなんて。許せなかった。だから、貴方たちの運命なんて消してしまえばいいと思ったのに……』
「運命ってのは簡単に消えないらしいな」
水仲がぽつりと漏らした言葉に、彼女の肩が可哀想なほど過敏に震える。
「瑞玖さん……」
『ワタシだって、本当はわかってたの。この行動がどんなに浅ましいものか。確かにワタシの愛も本物だったのよ。貴方たちが高校で再び出会ったと知って、ワタシがどんなにやきもきしたかわからないでしょうね。お互いの記憶もなかったくせに貴方たちは再び惹かれ合って。どうしてワタシは恨まずにいられるかしら』
「瑞玖。オレは昔と変わらない。お前のことは従姉としてしか見られない」
『ええ。分かってるわよ。もう十分なほどにね。ワタシだって、とっくに潮時だって分かってたんだから』
「瑞玖さん……」
『颯さん、今までごめんなさい。柚雨、愛しているわ』
静まり返った水面を見つめる。月の明るさはあの頃と変わらない。
「人魚姫、か……。あの頃はオレ、髪伸ばしてたからな~。女と見間違えるのもわかるけど。先生も随分とメルヘンチックな例えをするんですね」
「……精神的に参っていた時期だったんだ。それぐらい運命的にお前が映ったんだよ」
「その運命とやらは、まだ継続可能?」
「……でも、俺はお前と結婚はできない。瑞玖さんを選んだ方がまだまともだ」
「法律に縛られたぐらいじゃ、オレたちの運命は揺るがないでしょ?」
「ああ。なんせ二度もお前に恋をしてるんだ。観念した方がいいかもな」
「ええ。泡になるなんて勿体ない。想いを殺すなんて到底無理だ」
色を纏った水仲の瞳がゆらりと揺れたかと思うと、熱い口づけが降り注ぐ。
「若干順序を間違えた気もするけど。愛しの王子様。オレと運命を共にしてください」
「馬鹿。まずは高校を卒業してから言え。それまでは色々とお預けだ」
「え~? そんなの今更だろ。それに、オレから手を出す分にはセーフだろ?」
「よく舌の回る人魚姫だ」
「オレの声を奪えるのなんて、先生ぐらいのもんですから」
再び唇が重なる。
「っは……。お前のロマンチックな台詞も中々人のことは言えないぞ」
「そんじゃあ。黙ってオレに溺れてろ」
二人の影が一つになって、海に映りこむ。それを照らす月は、やはりあの頃と変わらなく綺麗なままで。
この先の人生で何が起こっても、きっとこの月の光に照らされて思い出すのだろう。枯れることのない二人の運命を。
三者面談を行うべく、不良生徒、水仲 柚雨(みなか ゆう)の家へ訪問した教師、桜南 颯(おうな はやて)。そこでまんまと睡眠薬を飲まされた桜南が目を覚ましたときには――。
桜南 颯(おうな はやて):生徒指導を任された教師。真面目。
水仲 柚雨(みなか ゆう):金髪の少年。家が金持ち。
水橋 瑞玖(みずはし みずく):桜南 颯の婚約者。女。幼い頃に彼を救った。
NL表現が少しあります。
年上がまんまと襲われるのが好きです。無理やりから始まって徐々に愛を育んでいく感じが好きです。実は幼い頃に出会ってましたっていうベタオチが好きです。
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「おい水仲! その髪、やめろと言っただろうが!」
「チッ。またアンタかよ」
早朝の校門で、呼び止められた少年が忌々しそうに舌打ちをする。その髪は遠くから見ても目立つほど明るい金色。明らかに校則違反だ。
『わ~。桜南まじヤベーわ』
『ほんとほんと。水仲に注意するとか、命知らずっしょ』
通り過ぎてゆく生徒を睨みつける。
『お、おはようございま~す』『ざいま~す』
睨まれた途端、先ほどまで笑っていた生徒たちが顔を青くして逃げてゆく。
俺、桜南 颯(おうな はやて)はどうも生徒たちに嫌われている。同僚に言わせると、“厳しすぎる”らしい。だが、生徒指導を任されたからには、厳しくなって当たり前だ。風紀の乱れは心の乱れ。生徒たちの健全なる高校生活のためには、秩序を守らなければならない。
「おい、もう行っていいだろ?」
目の前の少年が詰まらなさそうに欠伸をする。
「駄目に決まっている。お前は何回私に注意させれば気が済むんだ」
「うっせーな」
全く聞く耳を持たないこの少年、水仲 柚雨(みなか ゆう)に俺はほとほと困っていた。
態度の悪さもさることながら、制服を着てその髪で出歩かれると、わが校の評判にも関わる。事実、数件の問い合わせが来ているので早急な解決が望ましい。
「これ以上言うことを聞かないのならば、親御さんと面談になるぞ?」
「いいよ。何なら今日でもどうぞ」
「今日って……。親御さんの都合は大丈夫なのか?」
「ああ。アイツら暇だからさ。今日は早く帰ってくるってよ」
「そ、そうか……」
「ま、アンタが偉そうにしてんのも今の内だ。どうせ親にはそんな態度できねぇだろ」
あっさりと約束を取り付けられたことに驚いていたら、思いっきり見下した顔で挑発される。
「それじゃあ放課後に車で送るから。逃げるんじゃないぞ?」
「アンタこそな」
可愛くない。男子高校生に可愛さを求めるのは間違っているのだろうが、馬鹿にしたような態度があまりにも酷い。どうにか彼の軌道を修正してやらないと……。
放課後になり、約束通り水仲と車で家に向かう。
「ハイ、到着。ここがオレの家」
「え……。本当にここなのか?」
案内を終えた水仲が、あっさりと指し示した家を見て呆然とする。
目の前に佇むのは豪邸。自分のマンションよりも大きい一軒家がそこにあった。
「なんだ。アンタ知らねえの? オレの家、金持ちなんだよ」
「し、知らなかった……」
「馬鹿じゃん。めっちゃ突っかかって来るな~とは思ってたけどさ。納得だわ」
「どういう意味だ?」
「わかんねーのかよ。権力だよ。オレん家に目ぇつけられるのが怖いから他の教師はオレに甘いんだよ」
そんな話をしている間に、メイドが出てきて家の中へと招かれる。
「まさかそんな……」
教師が権力に屈するなんて。教育の場は平等であってはならない。
「ま、裏じゃオレのこと煙たがってるだろうけどな。だからアンタに教えなかったんじゃね? アンタがオレを恐れずに躾けてくれれば万々歳。できなくても、アンタが切られるだけだしな」
「は……?」
「こっちに来て早々大変だねぇアンタも。ま、教えてやったんだ。お前の立場はわかっただろう?」
「……それでも。それでも私はお前を正しく導かねばならない」
「ハァ? アンタ、今の話聞いてた?」
「聞いていた。だが、それならば尚更だ。私がお前を変えてみせる」
「うっわ~。イマドキ熱血教師とか流行んねぇよ?」
応接室に通され、促されるままに座ると目の前にコーヒーが出される。
「それで、親御さんは?」
「んー? まぁ、それ飲んで待っとけよ」
「……」
「一般庶民には落ち着かない?」
「……お前はよく落ち着いていられるな」
「まぁ、オレがグレるのもわかるだろ?」
「自分で言うな」
「それでもアンタ、オレに楯突く?」
「ふん。教師を嘗めるなよ」
「ふ~ん。アンタ、ホント馬鹿だな」
「教師に向かって、ん……?」
急に瞼が重くなったので、目を擦る。だが、それで眠気が収まるわけでもなく、ついには目を開けているのが辛くなり……。
おかしい。今まで眠気など感じていなかった。むしろ、緊張してたせいで神経が昂ぶっていたはずなのに。
ふいに目の前のコーヒー見る。
まさか……。
水仲の顔を見つめると、彼の口端がにやりと上がる。
「っ!」
慌てて椅子から立ち上がろうとするが、足が縺れて椅子ごと倒れる。
「そんなところで寝たら風邪引きますよぉ? それとも、庶民は床で寝るのかな?」
「っ……」
言葉を紡ごうとするが、怠さが勝って口すら碌に動かせない。
駄目だ……。眠い……。
「しょうがないなぁ。特別ですよ?」
視界の端で、水仲が歪む。手を取られ、抱きかかえられて。抵抗しようとするのに、体は全く動かない。
あったかい。水仲の奴、体温高いなぁ。ああ、駄目だ。もう、眠い……。
「んんっ……」
意識が朦朧とする。これは夢なのか……?
手足を動かそうとして、縛られていることに気づく。
どうして……?
「んっ、あ……」
熱い。快感が押し寄せては遠ざかり、呼吸を荒くさせる。
あれ。今、何の夢を見ているんだ……?
ざあっと血の気が引いて、瞼を開く。
「あ、やっと起きた」
「え……?」
ベッドに括りつけられた手足。脱がされた服。俺の上に伸し掛かる水仲。悪魔のような微笑みを湛えた彼がねっとりと指を動かし、それを撫で上げる。
「は……。なに、してんだ、お前……? なんで、そんなとこ、触って……」
受け入れがたい現実に汗がぶわりと流れ出す。必死になって手足の紐を外そうと動いても、ぎっちり結ばれてあってびくともしない。
「逃げられると思ってんの?」
「ん……、だ、誰か……」
「ここ、防音だから。メイドにもしばらく入らないよう言ってあるし」
「く……」
「オレに楯突いたこと、後悔してる?」
「お前こそ……こんなの犯罪だぞ! 人間として恥ずかしくないのか!?」
「この場合、恥ずかしいのは先生でしょ?」
「言わせておけばお前は……!」
「ハイ、チーズ」
かしゃり。
「は……?」
水仲がおもむろに取り出したスマホをこちらに向けて写真を撮る。
「ああ、駄目だろ。ほら、目ぇ瞑ってる。んじゃもう一回な」
「や、やめろ……!」
「はい。撮れた。ほら見ろよ。桜南センセ。よく撮れてるでしょ?」
「っ……!」
目の前の画面には、さっきの分だけでなく、眠っている時の写真も映っている。そのどれもが裸で、至る所を水仲に触られていて……。
「ね。どれも気持ちよさそうな顔してるだろ?」
「け、消せ……! こんなもの、今すぐに……っあ!?」
冷たい目をした水仲が、胸に顔を埋めた瞬間、歯を立てる。
「ね、気持ちいいでしょ?」
「そ、んな、わけ……っ、あっ……ん、舐め、るな……!」
そんなわけない。こんな、女みたいに感じるわけ……。
「はっ。アンタ、女みたいだな」
「そんな、はずっ……」
「そうだよな。ここも気持ちいもんなぁ?」
「っああ、だ、め、触るなって……クソ!」
「汚い言葉遣いだな。アンタの今の姿、学校の奴らが見たらなんて言うかなぁ?」
「お前……正気か?」
「それはアンタだろ?」
「っあ!」
「男に触られて気持ちいいかよ、変態教師」
「な……」
色んな感情がないまぜになって、言葉を紡げないまま口をぱくぱくさせることしかできない。
どうして俺がこんな目に……。そう思った途端、涙がぶわりと溢れ出る。
「え、まさか泣いてんのかアンタ」
「ち、違う!」
ぶるぶると体を震わせながら精一杯叫んでみるが、情けないことには変わりない。
「はっ。可愛いとこあんじゃん。いいね、その調子でオレを楽しませてみろよ」
「っ! やめろっ!」
「すげー。睨んでんのに可愛く見える」
「っ……、馬鹿にしやがって……! いい加減に……ッ!」
「急かすなよ。変態教師のアンタにはじっくり教えてやんねえとな」
「は……? こ、これ以上はやめ……、あッ!」
「教師なんだから、これくらいちゃんと覚えられるだろ? オレに逆らったらどうなるのか。ちゃ~んと学んで帰れよ?」
『い……先生……』
ん……。誰かが呼んでいる……。誰が……? 俺は確か、水仲の家に行って……それで
……。それで……。
『……桜南先生!』
「は、はいっ!」
肩を叩かれて飛び起きる。目の前にいたのは校長先生。どうやら、デスクで転寝をしてしまっていたらしい。
『大丈夫かね? 君が居眠りだなんて、らしくもない』
「す、すみません……」
とりあえずは謝ったものの内心、校長さえもを恨みたい気持ちだった。昨日、水仲が言っていたことを思い返してみると、どうもこの人を信用する気にはなれなかった。
『疲れているところを悪いんだがね。実は水仲くんがまた不用品を学校に持ち込んでいたらしくてね。放課後、生徒指導室に来てもらうことになっているから、頼んだよ。彼の更生は生徒指導である君の手に掛かっているからね』
如何わしい雑誌を押し付けて、足早に去っていく校長を見て確信する。俺は本当に水仲を押し付けられているらしいな。ここに来て早々に生徒指導を交代させられたことに、もう少し疑問を持つべきだった。
まぁ、そんなことを考えてももう遅い。
全身の怠さに睡眠不足。何より一番精神的に参ってしまった今、休まずこうして授業をしているだけでも褒められるべきだというのに。
「桜南センセー。調子はどうですか?」
「水仲……」
放課後さっそく悪魔が茶化すような笑みを浮かべて現れる。
「こっちに来い……。お前な、その……。こんな雑誌、学校に持ってくるな。読みたいんなら、家で読んで……」
水仲と視線がかち合った瞬間、昨日のことがフラッシュバックする。触れ合う肌。頬に伝う汗。荒い息遣い。
「アンタさ、意外とタフなんだね。あんなに泣いてたのに、もうオレに逆らえちゃうんだ?」
「これは、お前のためを思った注意で……」
どっ。
「っ!」
言い終わらないうちに胸倉を掴まれ、壁に突き飛ばされる。
「これ以上指図すんな」
「私は、生徒指導として……!」
ずるずると壁を伝って、座り込む。それを追うようにして水仲が片手を壁について見下ろしてくる。
「……まだ足りないんだ?」
品を定めるような瞳がぎらりと輝く。その瞬間、せり上がってくる感情を飲み込んでから目を逸らす。
「お前は、間違ってる……!」
「アンタは間違ってないのかよ」
「私はただ、校則の話をしているだけであって……」
「じゃあ舐めろ」
「は……?」
水仲の手が頬に触れ、艶めかしく撫で動く。
「アンタが持ってくるなって言ったんだ。雑誌の代わりぐらいやれよ」
「そんなこと、できるわけないだろ!」
「じゃあ選べよ。オレに突っかかってくんのを無しにするか、ここでオレのを舐めて機嫌を取るか」
「後者は明らかに犯罪だろうが……」
「んじゃ、そっちの方を頼もうか」
意地悪く微笑んだ水仲の手が口内に侵入してぐちゃぐちゃとかき回す。
「んぐ……」
噛み千切ってやる……。そう思った瞬間、水仲がもう片方の手を俺の目の前に出して何かを突きつける。
「アンタさぁ、婚約者がいるらしいじゃん。その人にコレ見せたらどうなるかな」
目を凝らして見たその写真は、思い出したくもない昨日の記録。
「か、返せ……! っわ!」
とっさに水仲の手を払って、写真を掴もうとする。しかし、寸前のところで避けられ、床に倒れ込んでしまう。
「返せだなんて。別にアンタのモンじゃないでしょ」
「それ、明らかに盗撮だろうが……!」
「さてな。でも……」
水仲は、まるで見せびらかすようにひらひらと目の前で写真を振ったかと思うと、ひたと写真で頬を弾く。
「桜南センセーがオレの機嫌を良くしてくれるんであれば、返してあげてもいい」
「お前が本当に返すとは思えん」
「そうだな。だってデータはここに残ってるもん」
「消せ!」
水仲がポケットから取り出したスマホに勢いよく飛びつく。が、水仲はそれを難なく躱してから画面を目の前に突き付ける。
「言うこと聞かないなら、今すぐ送ってやってもいいんだぜ?」
「は……? 何で、お前が彼女の連絡先、知って……」
画面に映った文字列は、確かに彼女のメールアドレス。
「この写真、彼女が見たら何て返事くれるかな」
その目は本気で歪んでいた。脅すというよりも本気で彼女の反応を望んでいるような狂気を帯びていた。
「っ……。わかった。お前の望むとおりにするから。だから、頼むから彼女を巻き込むのだけはやめてくれ……」
「へぇ。よっぽど大事なんだ。彼女のこと」
促されるがままに水仲のモノを咥え込む。吐き気がする。こんなこと、するべきじゃないとわかっているのに。
「は……。こんなとこ、見られたら一発でクビですね。センセ」
「っ……」
「クソ真面目なアンタがオレに穢されてんだって思うとさぁ、すっげー気分いいよ」
「む、ぐ……」
「アンタならもっと上手く逃げるかと思ってたのに。よっぽど焦ったんだな。生徒指導室でこんなことしちゃうなんてさ」
「う……」
「おい、もっと本気でやれよ。誰か来ても知んねえぞ」
「っは、もう、いいだろッ……んぐ!」
「よくねえっての。ほら、ちゃ~んと生徒の世話してくれよ」
噛み千切ってやろうかとも思った。けど。
「は……。そうそう。中々上手いじゃん……。桜南……」
熱の籠もった吐息。掠れかかった声。快楽に浮かされた顔。そのどれもが、いつもの生意気で凶悪な少年とかけ離れていて。
「ん……。もう、出るから、放せっ……」
「……」
「おいっ。桜南! っ、あ……、ばっ……」
口の中に水仲の液がたっぷりと流し込まれる。
「ん……」
苦い。だらだらと口から零れ落ちるそれをハンカチで拭い取る。
「アンタ、何考えてんだよ……」
「お前がやれと言ったんだろうが」
「いや、そうだけど……」
急に口ごもる水仲に釣られるようにしてこちらも押し黙る。
自分でも何を考えているのかわからなかった。でも、水仲のあんな顔を見てしまったら夢中で……もっと見たいと思って……。
「ほんと、何なんだよ……」
ため息交じりに近づいてきた水仲の顔は赤い。ああ、可愛いところがあるじゃないか。
「何にやけてんだよ、変態」
「に……。いや、お前の顔真っ赤なの可愛いなって……」
「ハァ?! オレが可愛いとか頭おかしいんじゃねえの?!」
「ああ、そうかもな……」
「認めんなっての。つうか、アンタだって人のこと言えねえからな」
「ん? 水仲も頭がおかしいってことか?」
「ちげえよ。そっちじゃなくて。……アンタの顔も真っ赤だし。オレなんかよりずっと可愛いだろ」
「は……?」
水仲がゆっくりと口づける。水仲の両手に挟まれた頬は確かに熱を帯びていた。
「あ~。これ駄目なやつだわ。完全に。オレはアンタを脅せればよかったのに……。こんな……」
再び口ごもった水仲は、結局最後まで言わなかった。その言葉の続きは一体何か。
彼から解放されて家に帰っても尚、頬の熱は収まらなかった。
『颯さん、顔色が悪いようですけど……』
「ああ。大丈夫です。少し疲れているだけで……」
『お疲れなのに、ワタシったら颯さんにお会いしたいだなんて我儘を』
「いえ、本当に大丈夫ですよ。最近は瑞玖さんとお会いする機会もなかったですし」
『颯さん……』
「瑞玖さん……」
久々に会った彼女と久々のキスをする。それは待ち焦がれた約束の証明。幼い頃から変わっていない情熱の証。のはずなのに。
どうしてだ……?
彼女から唇を離し、そっと身を戻す。
普段ならば、もっと甘く込み上げてくるものがあるはずなのに。それなのに、今はどうか。全くもってときめきもしない。
そこにあるのは罪悪感と疑念だった。
彼女は誰もが羨むような出来た女性だった。花のように美しく、小鳥のように可愛らしい。お嬢様という言葉がぴったりと似合う婚約者だった。
それなのに。
どうしても彼のことがチラつく。
人間とは、禁を破りたくなるものだ。強い刺激を味わってしまった今、無意識に彼女と彼を比べてしまっているのではないだろうか。
でも、そんな言い訳じゃあ、説明できない。
あれから何度か、水仲に迫られた。その都度抵抗はしてみたものの、あまり意味をなさなかった。それに自分自身、どこかそれを受け入れている節もあった。
「どうしてお前はこんなことをするんだ?」
水仲の腕に抱き留められたまま、ぽつりと疑問を零す。零してからハッとする。そんなことを聞いてしまえば、後にはもう戻れないことぐらいわかっているはずなのに……。
「オレにもわかんないけど、多分……」
わかっているのは水仲も同じはずだ。その瞳は熱を含んでゆらゆらと揺れている。
「水仲、待て……。言わなくていい。こんなことが聞きたかったんじゃなくて……」
水仲の手を振り切り一歩後ろに下がるが、それしきのことで水仲から逃げられる訳がない。
「アンタのことが好きなんだよ」
もう一度体を抱き寄せてから、水仲は大まじめな顔でそう言った。
「本気か?」
「アンタはどうなんだ? 最近、抵抗薄いよな?」
全てを見透かしたような瞳に見つめられた途端、体がカッと熱くなる。
「っ、お前みたいな不良、こっちから願い下げだ!」
あらん限りの力で叫び暴れて、水仲の腕から何とか逃げる。
そして、またすぐにでも捕まえられるのだろうと思ったが……。
「そうかよ……」
ふいとそっぽを向いたかと思うと、水仲は静かに去って行った。
「……なんでそんな寂しそうな顔するんだよ」
水仲が去り際に見せたその顔は、まるで不貞腐れた子どもがするみたいな混じりっ気のない感情だった。
それから水仲はすっかり変わった。女の子と遊ぶのもやめたし、サボりがちだった授業もちゃんと受けるようになった。悪かった態度も一変、目立たず大人しく、真面目になった。最悪だった水仲の評判も生徒の間では回復し、教師たちもその豹変ぶりを認めざるを得なくなってきた。
『なんでも、本命ができたらしいよ?』『え~。今の水仲くんならアタシが付き合いたい~!』『本命って、誰だろうね~』
廊下で話す女子の会話に耳を疑う。
本命って……。この前の告白を思い出す。まさか。俺が不良だと理由をつけて断ったからか……?
自意識過剰。いくらなんでも、水仲がそんな健気な真似する訳が……。
「どうですか? 最近のオレ」
「どうって……」
水仲の澄んだ瞳に、言葉が詰まる。
「いい子でしょ?」
その裏に自分へのアピールが潜んでいるのかと思うと、心臓が煮え切りそうになる。
「……金髪はそのままか?」
変に思われない程度に指摘を加える。
「あぁ、これ。地毛だから」
愛想のない俺に苦笑した水仲が、自分の髪を掴んで見せる。その髪は確かに根本も色褪せていない、万遍なく綺麗な金色だった。
「まさか、本当に……?」
「オレ、ハーフでさ。昔は結構、揶揄われたんだよ」
そう言われて見ると、やたら形の良い顔立ちも目の色が少し薄いのも、外国の血が混じっているからだと思うと納得できる。
「なんで言わないんだよ」
「え?」
「だから、最初のチェックのときに言ってくれれば……」
「あぁ。だって信じてもらえないかなって。アンタにってより、今までずっとそうだったからさ」
そう言った水仲は、それがさも当たり前だと言うように平気な顔をしていた。
俺は何だかそれが悔しかった。この少年は、ずっとそうやって誤解されてきたんじゃないだろうか。もしかして、それが原因でグレてしまったのではないか。
「馬鹿……」
「せんせ?」
気づいたら、水仲のことを抱きしめていた。
「そのままのお前を否定したりするものか」
「はは。やっぱ先生は優しいな。だから……」
好き。そう耳元で呟いた水仲があっさりと唇を奪ってゆく。
「お前……」
「オレさ金持ちだから、アンタやアンタの婚約者を酷い目に遭わせることだってできるんだよね。誘拐だって殺しだって。それこそ金を積めば簡単なんだよね」
「……」
「だけどさ、それをやったらアンタはオレを嫌いになるだろう?」
「水仲……」
「だからオレは何にもしない。いや、何にもできないんだよ」
その哀愁を帯びた表情を瞳に映した途端、胸がずきりと跳ね痛む。まるで、彼の悲しみがまるごと移ってしまったみたいだった。
ここまで来てしまったのならば、本当に考え直さなければならない。この毒が幸せを脅かしてしまうその前に。
俺の幸せは瑞玖さんと一緒になることだ。それはもう随分昔に決めた夢。
あれはまだ十五ぐらいのときだった。夜の海。そのぞっとする静けさの中、俺は水の中を静かに進んでいった。
その頃は、溺れて死ぬことが苦しいだなんて知らなかった。ただ、美しい死に方ができるだろうと、ぼうっとした思考のままに自ら死を望んだ。
あの頃は辛かった。親は家に帰ってこない。学校に居場所などない。そんな中で生きていることに意味があるのだろうか、と思った。死んだ方がマシなのでは、と本気で思っていた。心は錆びついて、乾いて。気づいたら、海に浸かっていた。
夜の海は冷たかった。想像していたよりもずっと。恐ろしく。怖くなった。引き返そうと思った。でも。そう思った瞬間、体が波に攫われた。パニックになり、泳ぎ方を忘れて沈んだ。もがいて水を打って暴れたけれど、口からどんどん水が入ってきて。息が出来なくなって。苦しかった。息ができないことがこんなに苦しいなんて知らなかった。誰でもいいから助けてくれ。そんなことを願った。そのとき。
一筋の光が俺の瞳を照らした。
その方向を見つめると、そこには人魚がいた。人魚は、俺の手を取った。そして、そのまま海の上へ優しく誘った。
意識が朦朧とする中で、その自分より小さい手をしっかりと握った。まだ生きていたい。そして、この人魚にきっとお礼がしたいと思った。
結局、その後病院に送られて。そこで具合を見に来てくれた瑞玖さんが人魚……命の恩人だったことを知って。
その日、俺は彼女に恋心を伝えた。助けてもらって惚れたなど、男らしくないし情けなくもあったけれど、でも、それでもあの人魚を離したくなかった。
彼女は微笑んで告白を受けてくれた。その笑顔はどこまでも楽しそうで、俺の目には眩しく映った。
俺には勿体ないほどの女性。それが、今までこうして長い時間付き合ってくれている。そしてこのまま行けば結婚も遠くはない未来。幸せへの道はしっかりできている。それなのに。
「俺はどうしたんだ……?」
夜。防波堤から海を見つめる。海に映った月以外にはこれといった明かりはない。
『何かお困り事でも?』
心配そうに問いかける瑞玖さんが隣に寄り添い、そっと腕を絡めてくる。
どうしてもここに来たかった。あの日感じた運命をもう一度確かめたかった。
「瑞玖さん……」
『何でも言ってくださいな。恋人同士ですもの』
「瑞玖さんはどうして俺と婚約してくれんですか?」
『いきなりどうしたんです?』
「いえ、だって。俺が貴女に惚れたのは、助けられたからですけども。貴女が俺に惚れる理由がないような気がして」
『なんだ、そんなこと。……一目惚れなんです。水に濡れた貴方はとても綺麗でしたから』
「俺が綺麗……?」
『ええ。何だかびびっときたんです。これは運命なんだって』
「運命……」
頭に鈍痛が走る。運命……。確かに俺もそう思ったはず。だけど、何かが歪んで……。
『颯さん?』
彼女の茶髪が月に照らされて輝く。でも……。違う……。そうだ……。違うんだ……。
ぐらり。
視界が揺れる。
『颯さん?!』
あれ……。足が動かない……。
どぷん。
眩暈がしてバランスを失った俺は、気づいたら水の中に体が叩きつけられていた。
冷たい。体が動かない。息ができない。
ああ。懐かしい。
ゆらりと水面が煌く。
苦しい。苦しい……。
どっ。
何かが水に落ちた衝撃で体が揺れる。
何……?
薄目を開けてみると、伸ばされた手。
ああ。人魚だ。
迷わずにその手を取る。
ざば。
「っは。んとに、何してんだよ……。アンタ……」
「あ、れ……。水仲……?」
濡れた金髪が月に照らされて輝く。
あ……。これだ。
脳が震えた。全てが繫がった。
水仲の真っすぐな瞳を見て、安堵にも似た息を漏らす。
「……ったんだな」
「ん?」
俯いて呟く俺を水仲が覗き込む。その目をもう一度見つめると、色んな感情がごちゃ混ぜになって言葉が漏れ出す。
「お前が、人魚だったんだ……」
「おい。大丈夫かよ」
怪訝そうな顔。そうだろう。感極まった感じで、人魚だなんて言われたら誰だって戸惑うよな。
「ん。多分大丈夫だ。もう、わかった」
「は? わかったって、何が……」
『颯さん……!』
瑞玖さんが駆けてくる。その顔にあるのは、安堵というよりも……。
「瑞玖さん。貴女は嘘をつきましたね」
『っ……』
ただでさえ悪かった彼女の顔色が、さあっと一気に青くなる。
「え、なに? これってオレ、いったん消えるべき?」
「いや。水仲も聞いてくれ」
「瑞玖さん、貴女はあの時俺に言いましたよね。「貴方を助けたのはワタシだ」って」
「助けた……?」
『や、やめてください……』
「でも。思い出しました。俺を助けてくれたのは貴女じゃない。確かに貴女は素晴らしい人です。俺には勿体ないぐらいの女性だ。でも。俺が貴女を好きになった理由はそれではない」
『やめて……!』
絶叫する彼女に構わず言葉を紡ぐ。
「貴女は人魚姫じゃあない」
図らずも冷たく響いた声に、彼女はその場にしゃがみこむ。
『ああ……』
「人魚姫……?」・
「本当の命の恩人、人魚姫は……」
『だ、駄目……』
「水仲。お前なんだ」
「え……。オレ?」
きょとんとした表情で、水仲が自分を指す。どうやらやはり覚えていないらしい。
「水仲。俺はお前に惚れているんだよ。もうずっと昔から」
「は……?」
「救ってくれて、ありがとう」
ずっと言いたかった言葉。生きる意味を与えてくれた人魚。その手をもう一度握りしめる。それは、あのときのように小さくはなかったけれど、確かに自分を救ったあの温もりがあった。
「そういえば……。あのとき助けた綺麗な人。結局、救急車に乗せてもらえなくて、そのままわかんなくなって……。ああ、何だ。道理でこんなにアンタのことが愛しいわけだ」
「水仲……?」
「オレだって、あのときのアレが初恋なんだよ」
『ま、待ってよ! ワタシは……! ワタシの方が柚雨のことを好きなの! それこそ、柚雨が貴方を助ける前から、ずっと、ずっと……!』
「瑞玖さん……。やはり貴女は……」
「水橋 瑞玖。名字は違うがオレの従姉だ。だから連絡先も知ってたってわけ。まぁ、先生と婚約してるって知ったときはびっくりしたけど」
『ち、違うの……。ワタシはこの人が好きなわけじゃないのよ……。柚雨……わかるでしょう……?』
「ちっちゃい時からずっと瑞玖はオレに惚れてんだよ。先生、アンタ騙されてんだよ。この女に」
「ああ。そうみたいだな。瑞玖さんが俺に嘘を吐いて婚約を持ちかけたのは……」
『ええ。そうよ。ワタシの柚雨が、貴方に取られるのが我慢ならなかったのよ! 柚雨はワタシを従姉としか見てくれない。それなのに。男である貴方に惚れただなんて。許せなかった。だから、貴方たちの運命なんて消してしまえばいいと思ったのに……』
「運命ってのは簡単に消えないらしいな」
水仲がぽつりと漏らした言葉に、彼女の肩が可哀想なほど過敏に震える。
「瑞玖さん……」
『ワタシだって、本当はわかってたの。この行動がどんなに浅ましいものか。確かにワタシの愛も本物だったのよ。貴方たちが高校で再び出会ったと知って、ワタシがどんなにやきもきしたかわからないでしょうね。お互いの記憶もなかったくせに貴方たちは再び惹かれ合って。どうしてワタシは恨まずにいられるかしら』
「瑞玖。オレは昔と変わらない。お前のことは従姉としてしか見られない」
『ええ。分かってるわよ。もう十分なほどにね。ワタシだって、とっくに潮時だって分かってたんだから』
「瑞玖さん……」
『颯さん、今までごめんなさい。柚雨、愛しているわ』
静まり返った水面を見つめる。月の明るさはあの頃と変わらない。
「人魚姫、か……。あの頃はオレ、髪伸ばしてたからな~。女と見間違えるのもわかるけど。先生も随分とメルヘンチックな例えをするんですね」
「……精神的に参っていた時期だったんだ。それぐらい運命的にお前が映ったんだよ」
「その運命とやらは、まだ継続可能?」
「……でも、俺はお前と結婚はできない。瑞玖さんを選んだ方がまだまともだ」
「法律に縛られたぐらいじゃ、オレたちの運命は揺るがないでしょ?」
「ああ。なんせ二度もお前に恋をしてるんだ。観念した方がいいかもな」
「ええ。泡になるなんて勿体ない。想いを殺すなんて到底無理だ」
色を纏った水仲の瞳がゆらりと揺れたかと思うと、熱い口づけが降り注ぐ。
「若干順序を間違えた気もするけど。愛しの王子様。オレと運命を共にしてください」
「馬鹿。まずは高校を卒業してから言え。それまでは色々とお預けだ」
「え~? そんなの今更だろ。それに、オレから手を出す分にはセーフだろ?」
「よく舌の回る人魚姫だ」
「オレの声を奪えるのなんて、先生ぐらいのもんですから」
再び唇が重なる。
「っは……。お前のロマンチックな台詞も中々人のことは言えないぞ」
「そんじゃあ。黙ってオレに溺れてろ」
二人の影が一つになって、海に映りこむ。それを照らす月は、やはりあの頃と変わらなく綺麗なままで。
この先の人生で何が起こっても、きっとこの月の光に照らされて思い出すのだろう。枯れることのない二人の運命を。
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網谷凛(あみやりん)には付き合って半年の恋人がいるにもかかわらず、一度もお泊まりをしたことがない。それは彼自身の悩み、おねしょをしてしまうことだった。
ある日の会社帰り、急な大雨で網谷の乗る電車が止まり、帰れなくなってしまう。どうしようかと悩んでいたところに、彼氏である市川由希(いちかわゆき)に鉢合わせる。泊まって行くことを強く勧められてしまい…?
エレベーターで一緒になった男の子がやけにモジモジしているので
こじらせた処女
BL
大学生になり、一人暮らしを始めた荒井は、今日も今日とて買い物を済ませて、下宿先のエレベーターを待っていた。そこに偶然居合わせた中学生になりたての男の子。やけにソワソワしていて、我慢しているというのは明白だった。
とてつもなく短いエレベーターの移動時間に繰り広げられる、激しいおしっこダンス。果たして彼は間に合うのだろうか…
昭和から平成の性的イジメ
ポコたん
BL
バブル期に出てきたチーマーを舞台にしたイジメをテーマにした創作小説です。
内容は実際にあったとされる内容を小説にする為に色付けしています。私自身がチーマーだったり被害者だったわけではないので目撃者などに聞いた事を取り上げています。
実際に被害に遭われた方や目撃者の方がいましたら感想をお願いします。
全2話
チーマーとは
茶髪にしたりピアスをしたりしてゲームセンターやコンビニにグループ(チーム)でたむろしている不良少年。 [補説] 昭和末期から平成初期にかけて目立ち、通行人に因縁をつけて金銭を脅し取ることなどもあった。 東京渋谷センター街が発祥の地という。
赤ちゃんプレイの趣味が後輩にバレました
海野
BL
赤ちゃんプレイが性癖であるという秋月祐樹は周りには一切明かさないまま店でその欲求を晴らしていた。しかしある日、後輩に店から出る所を見られてしまう。泊まらせてくれたら誰にも言わないと言われ、渋々部屋に案内したがそこで赤ちゃんのように話しかけられ…?
怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人
こじらせた処女
BL
幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。
しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。
「風邪をひくことは悪いこと」
社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。
とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。
それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?
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