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第四章 Bay City Blues (ベイシティ ブルース)
58. パープル・レイン
しおりを挟む■ 4.58.1
ハバ・ダマナンに向かう間、ハファルレアは「心の壊れた」エイフェを甲斐甲斐しく世話をし、常に娘と共にいた。
バディオイは「あの女は俺達を捨てて出て行った」と言ったが、俺にはハファルレアがとてもそんな女には見えなかった。
俺はそのことをハファルレアに問うた。
「そんな。私がそんなことをする訳が無い・・・と言っても、あなた達には分からないわよね。」
彼女が発した最初の一言と表情で、それは多分バディオイの勝手な思い込みだったのだろう、と理解出来た。
エイフェと対面した時の反応も、今のバディオイに対する発言の抑揚や表情も、バディオイが言っていたような自分勝手で情けの無い女のものとはとても思えなかった。
「私はあの人の罪を少しでも軽くしようと駆け回っていた。あの人が軍と政府の依頼で仕事をしていたことは知っていたし、辞めさせてもらえなかったことも聞いていた。それを少しでも証明したくて。あの人に汚い仕事の罪を全て押しつけて、自分たちはまるで正義の代弁者だとでも言うように彼の罪状を次々と挙げつらう役人達が許せなかった。おかしいわよね。私も役人だったのに。いえ、だからこそ、かも知れない。
「彼の元々の仕事が人に言えたようなものではないことは知っていたわ。でも、それは彼だけじゃない。辞めたいと訴え続ける彼を無理に働かせて、悪事を働かせ続けた連中もそれなりの報いを受けなければ納得行かなかった。」
ハファルレアは再び沸き起こってきた怒りを静めるかのように一旦言葉を切った。
何かを思いめぐらすような表情をして、そしてまた一つずつ思い出すように話し始めた。
「拘留期間中に、面会の時間さえ会いに行けない事があった。あの人がそれを酷く不満に思っていたのは知っているわ。自分に残された時間は少ない、出来るだけ長く一緒にいたい、と言われたわ。
「彼の言いたいことは理解は出来たけれど、何もかも諦めてしまったあの人の態度が気に入らなかった。私はまるで彼のその言葉に反発するかのように寝る間も惜しんで証拠集めに奔走した。
「何度目かの面会の時に酷い口論になってね。私もついかっとなって売り言葉に買い言葉でかなり酷い事を言ってしまったのよ。『人の気も知らないで。あんたなんてもう知らない。独りで好きに奴隷になっていれば良いでしょう』って。余りに頭にきてて、ドアを叩き付けて面会室を出たわ。次の彼との面会時にたまたま探偵との面会が入っていて行けなかったら、その後はもう会ってもらえなくて。その次も。
「結局、あの人が正しかったのよ。政府と軍警が仕組んでいるのだから、刑が軽くなる筈なんて絶対に無いのに。死ぬまで自由意志を奪って口を塞ぎ、全てを闇に葬ろうとしているのだから。
「私がバカだったわ。後になって気付くなんて。彼の言うとおり、少しでも長く一緒に居れば良かった。」
ハファルレアは視線をダイニングテーブルの上に落として話し続けた。彼女の前には紅茶の入ったカップが置いてあったが、殆ど口を付けていないその紅茶はもう冷め切っているだろう。
「エイフェの親権を失ったのは?」
悲しげなハファルレアの表情がさらに曇る。
自分でも嫌な質問をしていると自覚している。
目の前に座っているこの母親が、娘を不幸にするような親には見えないが、しかしバディオイから得た否定的な情報に対してそれを消し去るだけの情報と確信が必要だった。
「今から思えば、あれは政府の警告だったのよ。『この件から手を引かなければ、次はもっと酷いことになる』って。
「ある時、家に帰ると見知らぬ男が家の前に立っていたの。表情の無い、嫌な喋り方をする男だった。その男はこう言ったわ。『余計なことをしなければ、幸せに暮らせたものを』と。
「次の日の朝、メッセージでいきなり港湾管理局からの解雇通知が送られてきた。意味が分からず職場に連絡を取ろうとしていると来客があった。この非常時に、と出迎えてみると、それは強制執行令状を持った教育省の児童保護官だった。
「私は夫が居なくなったことを良いことに、娘を放置して遊び歩いている親権不適格者という事になっていた。児童保護官はそのまま泣き叫ぶエイフェを連れ去った。そうなるともう、バディオイのことよりもエイフェを取り戻す事に全力を傾けるしか無かった。
「政府は、目的を達成した訳よね。私はそれ以上バディオイの事に時間を割く余裕は無くなったのだから。」
そう言ってハファルレアは、膝の上に抱いた無表情のエイフェの黒い髪を撫でた。彼女の表情は深く沈んだままだったが、エイフェを撫でるその指先には明らかに優しさが籠もっている様に見えた。
「心が壊れてしまった」エイフェは、彼女が知る以前の自分の娘と比べて変わり果てた姿だろうと思うが、彼女の娘に対する愛情には何の変化も無いようだった。
しかし愛情を注がれる娘の眼には何の感情も浮かんでおらず、そして俺の心の中には何か痼りの様につかえるものが残った。
「どうやっても取り戻せなかった。この子も、あの人も。どれだけあがこうと、どれだけ証拠を揃えようと、毎日のように役所に行こうとも、誰も取り合ってくれない。最後には、話も聞いてくれず、会ってさえくれなくなった。
「当然よね。最初から全て仕組まれていたのだから。」
ハファルレアの眼から涙が溢れ、頬を伝ってテーブルの上に水滴がぱたりと落ちた。
目を覚ましてから今までの彼女の振るまいと、今この場での告白から、気丈で行動力のある女だという印象を受けていた。
しかしその彼女の眼から一度落ち始めた涙は止まることがなかった。
「この子は、スペゼにある評判の良くない孤児院に収容されたと聞いたわ。私は半狂乱になって、どうにかこの子を手元に取り戻そうとした。
「タイミングを見計らったかのように、私はアパートメントを追い出された。都市部には、就労者以外は居住出来ない法律があるのよ。それにしても対応が早すぎた。これも、手を回されたのね。
「何をするにもお金が必要だった。殆どスラム街に近いような所の安宿に泊まって、何でもやったわ。それでも、どんな仕事に就いても必ず数日でクビになった。もう分かっていたわ。奴らが手を回しているのだと。他の街に行って同じ様に仕事を探した。やっぱり駄目だった。私が行く先々に奴らは必ず手を回してくる。まるで私に全てを諦めて惨めに死ねと言うように。」
涙を流すハファルレアの眼に、当時を思い出したのか強い力が浮かんだ。
「あれはどこの街だったかもう覚えていないわ。またあの男がやってきたの。
「よく覚えているわ。私の姿を見るなり笑ったのよ。『随分苦労している様だな』ってね。誰のお陰で、と殺してやりたくなったわ。奴は言ったの。『これ以上余計な事を嗅ぎ回らないというなら、今後は干渉しないし、仕事も紹介してやる』と。
「思わず男に掴みかかった。簡単に避けられたけれどね。その時、泊まっている安宿の壊れかけた入口に映った自分の姿が見えた。ぼさぼさの髪に、まるで狂人の様な眼、薄汚れてあちこち擦り切れた服と、とても女とは思えない身体の動き。余りに酷い自分の姿を見て呆然と立ちすくんでる所に、あいつが後ろから囁いたのよ。『もう良いでしょう。あなたは頑張った。しかしこの努力が報われる事は絶対に無い』と。
「狂ったように泣き叫んだのだけ覚えているわ。薄々感づいていたことを最悪のタイミングで言われて、絶望して、悲しくて、悲しくて。でも何が出来る訳でもなくて。」
彼女はそこで少し言葉を切った。
また涙が頬を伝って落ちる。テーブルの上には、彼女が落とした悲しみの跡が幾つも小さな円を作っていた。
「その後はもう死人も同然だった。連れられるままにどこかの宿に放り込まれ、言われるがままに船に乗った。気が付けば、ビロルナエに着いていて、嫌な笑いを顔に張り付かせた男に出迎えられていた。
「何でこんなところで働いているのだろう、と思ったわ。生きている理由なんて無いのに。でも、死ぬ理由を考える気力もなくて。
「あなた達から連絡がくるまでは。」
ゆっくりとハファルレアの頬を伝って落ちるだけだった涙が、急にその量を増した。
低く小さな声で嗚咽を漏らす彼女は、胸に抱いたエイフェの小さな肩に顔を埋めて泣き続けた。
しばらく経って彼女は顔を上げ、赤く濡れた眼でこちらを見た。
「私はこの子を守って生きていくわ。そのためであればどんなものでも犠牲に出来る。もう二度とこの子を放さない。あの人には逢いたいけれど、それがこの子の安全を脅かす事に繋がるのであれば、もう諦めるしかないわ。」
それが、俺が最後に彼女に尋ねるはずの質問の答えだった。
ハファルレアの膝に乗ったエイフェがゆっくりと母親の方を振り向いて、まるで何かを掴もうとするかのように手を伸ばした。
涙の筋が付いたハファルレアの頬にエイフェが手を触れ、ぎこちない手つきでその涙を拭こうとする。
ハファルレアはまだ涙を溜めた眼で少し歪んだ笑顔を浮かべてエイフェの小さな手を握りながら、テーブルの上のナプキンを手にとって涙を拭いた。
「少しずつ自分の意思を見せてくれるようになっているの。」
そう言って彼女は娘の顔を見てまだ陰の残る笑顔を浮かべた。
俺の心の中の思い固まりが取れることはなかった。
■ 4.58.2
ハバ・ダマナンに接近したレジーナは港湾管理の誰何を受け、アマレ船籍の「ピナリタ」と名乗った。
入国管理のかなり甘いハバ・ダマナンではそれ以上の追求を受ける事はない。そもそも、銀河のあちこちで日々新造される船の帰属の真偽など、この汎銀河戦争の中で確認することなど出来はしない。
レジーナの姿を見知った者が港湾管理に密告でもしない限りばれることはないし、その様な何の儲けにもならないことをわざわざする奴が居るとも思えなかった。
唯一、バペッソか或いはジャキョセクションの息がかかった者がレジーナの姿を見かけたときにはばれてしまうのだが、毎日数千隻という船が訪れては旅立っていくこの星で、運悪く有視界範囲内にそのような者が居て、たまたまレジーナを見ている可能性はかなり低い。
人間のIDの方については、ハバ・ダマナンの場合は船籍帰属申告と同時に乗員乗客リストを港湾管理に送信するだけで完了する。
国によっては、港湾管理か入国管理から直接各個人に誰何がある事もあるが、ここではそんな事は無い。
とは言え、パイニエ人のハファルレアとエイフェの名前をそのまま出してしまうのはいかにも危険であった。
ハファルレアの希望で姓名はそのままとし、出身地をゼホ星という星間国家イエヴンに所属する辺境の星とした。
バイオチップに登録されているこの手のID情報を改竄するのは当然違法と見なされる国家が殆どであるが、彼女達の安全の為にはその様な事を言っている場合ではなかった。
また、自分たち程の腕があれば改竄の痕跡を残す様な事もないため、後になってばれる事もないとブラソンは言い切った。
レジーナはハバ・ダマナンの環状軌道ステーションであるエレホバには留まらず、そのまま惑星の大気圏に進入していった。
地上で荷物の受け降ろしをする事はそれほど珍しいことでもないので、目立つ行動ではない。
そのままレジーナは高度を下げて行き、首都ダマナンカス郊外の海沿いにある、とある小さな離着陸床に落ち着いた。
離着陸床の東側の端は海に面しており、殆ど使われる事はない海洋港の埠頭が雨に霞んで見えている。希に着水型の宇宙船があるのと、ダマナンカス周辺のごく近距離の輸送に海洋船を利用するための施設だと聞いている。
外は珍しく雨が降っており、雨を避けてレジーナの貨物室ハッチから地上に降りた俺達は、呼び寄せた地上走行型のビークルに乗り込んだ。
分厚い雨雲が低く垂れ込めており、まだ陽の高い時間だというのにまるで夕闇が迫っているかのような薄暗さだった。
俺とブラソンが並んで座る前席シートの後ろには、ビークルに乗り込むときに濡れてしまった娘の髪の毛を小振りなタオルで拭いてやるハファルレア達親子が座っている。
俺達の間に会話はなかった。ただ雨粒が、窓と車体を叩く音だけが車内に響いていた。
ビークルは他に船の姿もない雨に煙る離着陸床を斜めに横切り、離着陸床脇に並ぶ倉庫の間を抜け、少し離れた十階立て程の小さなビルの前に泊まった。
俺達はビークルを降り、リフトに乗って最上階に降り立った。リフトホールを囲む壁の中に一つだけある「ボスロスローテ・インターロジスティクス」と書かれたドアに近付くと、ドアは音もなく開いた。
「マサシだ。社長は居るか?」
誰もいない受付のデスクに向かって喋る。
程なくして受付脇の扉が開き、中から老年に差し掛かった男が一人顔を出した。
「あれがお前の自慢の新造船か。美しい船だ。思わず見とれてしまったよ。テラの船も悪くないな。」
白いものがかなり混じる赤みがかった茶色の髪を短く刈り込んだ強面の男が、顔に似合わない台詞を吐いた。
「『Regina Mensis II』という。前の船と同じ名前だ。覚えやすくて良いだろ?」
「テランは船に随分入れ込むからな。まあ、おかげで仕事を任せるこっちとしては、積み荷を良い状態のまま運んでくれるので助かるが。
「で、その二人が?」
挨拶と言うには余りにそれらしくない言葉ばかり並んだ挨拶を交わし、男はまるで今初めて気づいたとでも云うかの様にハファルレアとエイフェを見た。
「そうだ。大筋は話した通りだ。面倒をかける。」
「ご面倒をおかけします。他に頼れる所もありません。お願いします。」
ハファルレアも俺の横で頼み込んでいる。
男は母娘二人を交互に何度か見回した後に再び口を開いた。
「うちも相変わらずでな。人手が足りなくて困っていたところに渡りに船、と云うやつだ。気にするな。田舎ヤクザの五人や十人、やって来た所でどうと云う事は無い。
「ここの社長のアレマド・ボスロスローテだ。港湾管理局で働いていたんだって? 頼りにさせて貰おう。住居はとりあえずここのビルの四階を使えば良い。一通りのものは揃っているはずだ。五階は私の住居だ。何かと頼ってくれて構わない。」
俺の横で、押し殺してはいるが、ハファルレアが深い安堵のため息を吐いたのが聞こえた。
■ 4.58.3
三十分後、ブラソンと俺は雨の中、ボスロスローテ・インターロジスティクスまで乗ってきた地上走行ビークルに再び乗り込んで、ダマナンカス中心部を目指していた。
雨は相変わらず降り続いており、分厚い雲に覆われた空は夕闇迫る時間となってより暗さを増していた。
ハファルレア親子をアレマドの会社まで送り届け、一応の安全を確保したことで今回の件は取り敢えずの完了と云う事になる。
依頼者であるブラソンが一杯奢るというので、慣れたダマナンカスで呑もうと云う事になった。
「懐かしいな。もう随分昔の事に思える。」
ダマナンカスに海側から、即ち東側から進入したため、俺達の行く手には暗闇の中に沈みつつある高層ビル群の中にマジェスティック・ホテルが見えていた。
感慨にふける俺の台詞に、ふふんと鼻で笑った様な相槌を打ったブラソンは、では懐かしいあの店に行ってみるか、と提案してきた。
雨を避けるために、ビークルを店の前に横付けにする。
少し薄汚れた金色のドアは相変わらずだった。
まだ夜も早い時間だからか、薄暗い店の中は席が半分も埋まってはいない客の入りだった。
前回来た時には気付かなかったが、まだ比較的静かな店内には明らかに地球のものであると分かるゆっくりとした曲が流れており、改めて見回してみると思いの外落ち着いた雰囲気の店である事が分かった。
「ギムレットをくれ。あと煙草はあるか?」
バーカウンターの中に居るバーテンダーに注文を伝えながら、俺はスツールに腰を下ろした。
「こっちはマルガリータだ。」
ブラソンが俺の右隣に座る。
最近ブラソンはピナ・コラーダを卒業して、今度はマルガリータにはまっている様だった。グラスに塩を乗せるという発想に興味を引かれ、そして次にその味を気に入ったのだと言っていた。
テーブル席の客達が会話する低く静かな音と、静かに流れるスローで気怠いブルースにバーテンダーが振るシェイカーのリズミカルな音が混ざる。
僅かに濁る液体の入った逆三角形のグラスがカウンターの上を滑る様に押し出され、その横にマルボロのパッケージが添えられた。
続けてブラソンのグラスが押し出されてくる。
「母と娘の再会に乾杯だ。今まで苦労をし過ぎてきたあの二人の将来が明るい事を祈ろう。」
「メイエラの幸運も祈ろうか。」
一息にグラスの半分程を飲み、マルボロのパッケージを開けて煙草を一本取出し、添えられていたマッチに似た着火具で火を点ける。
ただ煙を吐いただけとも溜息ともつかない息を吐き出し、俺は天井を見上げた。
「テランは本当に色々と訳の分からない嗜好を持っているな。」
ブラソンが火の付いた煙草を見ながら言った。
「気分を入れ替えて頭の中を整理するためと、溜息を隠すためには最適だ。」
いつも煙草を吸っている訳では無い。取り分けレジーナの船内では、ルナとレジーナが部屋に匂いが付くのを嫌うので吸わないことにしている。
上陸して酒を飲む時などにたまに思い出した様に吸うことがある。その程度だ。
特に今のような気分の時に。
色々な事があった。
暗い天井にゆっくりと舞い上がる煙を目で追いながら、思い返す。
罠にかかり俺が死ぬ寸前まで行った事もあった。軍艦並みの武装をした船と撃ち合い、レジーナが酷く傷ついた事もあった。
あれだけ嫌っていたアデールとの間にある種の信頼関係の様なものが出来たり、普段調理と配膳をしているルナが実は闇に紛れた暗殺術に長けていると言う事も分かった。
メイエラはエイフェの身体と共に居るが、レジーナにもその分身を置いている。レジーナにまた一人、新たな乗員が加わった。
そう。メイエラ。
俺はいつの間にかグラスの脇に置かれていた灰皿に煙草を押し付け、ブラソンはマルガリータの二杯目を注文した。
俺もグラスに半分程残ったギムレットを全て煽り、グラスをカウンターの内側に押し出す。
「俺は今でもまだ納得できていない。いや、違うな。今でもまだ迷っている。エイフェは本当にあれで良かったのか。」
空になったグラスがバーテンダーに下げられていくのを見送りながら俺は言った。
要するに、母親であるハファルレアを騙しているに等しい。依頼者が彼女ではない事だけがせめてもの救いだ。
ハファルレアが、バディオイが言った通りの酷い女であれば割り切り様もあっただろう。
だがそれは、バディオイの思い込みと独りよがりでしかなかった。
よく考えれば、時間を凍結されたバディオイの中では、口論の末にハファルレアが飛び出して行ったのは僅か十日ほど前のことでしかない鮮烈な記憶だったのだ。
気持ちの整理も付いていないであろうし、落ち着いて冷静に考える暇さえ無かったのかも知れない。
しかし現実の彼女は、まるで正しく理想的な母親を絵に描いた様な女だった。
ろくに反応さえ示さなくなった娘の世話を甲斐甲斐しく焼き、娘が示した僅かな反応に一喜一憂し、哀しい運命に見舞われた娘のために泣き、その娘を守れなかった自分の不甲斐なさに泣いた。
それは決して弱さから流れ落ちた涙ではなく、自分の力及ばず愛する者を護ることが出来なかった事に対する悔しさの涙だった。
「テランは優しすぎる。お前と一緒にいて分かった。銀河中で恐れられるテランは、怒れば悪鬼の様で、しつこさはまるで悪霊の様だ。その実、ひどく優しくてそして情に厚い。お前達は感情に溢れすぎている。テランはまだ若い種族だ。
「確かにエイフェの中にはメイエラが居て、ハファルレアはそれを知らない。しかし、例え虚偽の命でも、娘が死んでいるよりは遥かにましだ。そうだろう? メイエラが維持しなければ、エイフェの肉体は活動を停止する。ハファルレアは娘に再び会えることは無く、今も死体と変わらない人生を歩んでいるだろう。
「それに較べれば、少なくとも本物の娘の肉体はそこにあり、彼女は再び生者の人生を歩み始めた。メイエラも徐々にエイフェの役割に馴染む。いつかは普通の娘と同じ様に笑って、泣いて、自分なりの人生を進み始める。
「前よりまし、ゼロよりましと割り切れ。それ以外無い。」
新しいマルガリータを受け取ったブラソンが、まるで縁に付いた塩の結晶を万華鏡よろしく光にかざして楽しんでいるかのように、テーブルの上でグラスをゆっくりと回しながら言った。
「百万年先輩の種族からの忠告、か?」
俺の半ば皮肉の様な返答に、ブラソンは口元を歪めて笑った。
新しいギムレットのグラスが俺の手元に置かれた。
雨の音が聞こえる。店の入口の扉が開き、新たな客が入ってきたのだろう。
俺はパッケージから煙草をもう一本取出し、火を点けた。
紫色の煙が、ゆっくりと渦を描く様に立ちのぼる。
「次の仕事を受けよう。他に考える事があれば、悩まなくて済む。」
考えなければならないことは山ほどある。
ミスラの故郷のこと、ホールドライヴ貸与条件のこと、ニュクスが指摘したレジーナの武装強化のこと、そしてこの先レジーナの行く先々で遭遇するであろう追跡者と襲撃者のこと。
そしてまだ決まってさえいない次の仕事。
後ろから近づく足音に気付いた。明らかにこちらに向かってきている。
最近おかしな仕事ばかりしているからか、妙にこういうことに敏感になってしまっている。
足音のリズムから、女である事が分かった。
不意に左肩に重さを感じ、女物の香水のまとわりつく様な甘い香りが鼻をくすぐった。
衣擦れの音が俺の身体の周りを移動する。
「久しぶりね。美味しい儲け話があるのだけれど? 今夜は逃がさないわよ。」
派手なコバルトブルーのドレスに身を包んだ女が、ふわりと巻いた金髪を揺らせながら俺の左側のスツールに腰掛け、闇夜に咲いた色鮮やかな華の様に艶然と笑っていた。
今夜は英語で会話が始まる様だった。
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