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追いつく気持ち 寄り添う心
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アマリアはふぅっと大きなため息をついて、読んでいた本を閉じた。
お茶会でもらった『強き獅子と赤い薔薇』は評判通りとてもおもしろくて、一気に読んでしまった。
そして、もう何度も繰り返し読んでいるところだった。
物語は、とある女性が盗賊に襲われたところをたくましい騎士が救出。その女性は、実は隣国の姫君で、身分と立場などの障壁を越えて愛し合うというものだった。
まさに王道のラブストーリーといった内容で、主人公達がすれ違ったり、ライバルがいたり、自分たちの想いとは裏腹に物事が進んだりするところがページをめくる手を止められなくさせた。
そして、アマリアはとあることに気づいて、ため息をつかずにはいられなかった。
「どうしてヘンドリック様は私と…キスをしてくださらないのかしら…」
口にしてしまってから、誰かに聞かれてはいないかと慌てて周りを見回して、頬に手を当てる。
な、なんてはしたないの、私ったら…
すっかり触れ合いには慣れてしまったけれど、何かを自分からヘンドリックにしてほしいと思うようになった自分の変化が恥ずかしく、一人で顔を覆っていたたまれなさと戦っていた。
そして、もうひとつのことが頭に浮かび、気持ちが沈んでしまう。
お茶会を終えてから3週間後に、公爵家の家臣と派閥の者だけを招いたアマリアのお披露目パーティーがあった。
ヘンドリックは、漆黒の礼服にブルーのポケットチーフ、金色のカブスボタンとアマリア一色になっていて、アマリアも淡いブルーのドレスに金糸で刺繍をほどこされ、イヤリング、ネックレス、ブレスレットと指輪がアルバートン公爵家の証のオニキスが刻まれた揃いのアクセサリーをつけており、正に二人の婚約を見せつけるかのような装いだった。
そこでも、アマリアは歓迎の言葉を並べられ、温かく迎えられた。
先日お茶会で知り合った夫人たちとは話も弾み、とても楽しい時間を過ごすことができた。
しかし、とある男性の言葉を耳にして、胸が締め付けられるように苦しくなったのだ。
「社交界のレディー達を虜にしてきた公爵様がご結婚なさると聞いて、涙にくれた者は数知れないですな。そして、今や婚約者殿に虜にされるようになるとは、想像もできませんでしたな」
ヘンドリックは27歳であり、デビューしてから10年ほど経っていれば、色々な方との結婚や婚約の話が出ていたとしても全く不思議ではない。
むしろ、27歳という年齢まで結婚していなかった方が奇妙なくらいなのだ。
ヘンドリック様は私と婚約される前にどなたかを好きになったことがあるのかしら…
どなたかとあのような触れ合いを…
そう頭に思い浮かべると、涙が出てきてしまう。
想像したくない。胸が苦しい。
でも、考えるのをやめられない…
アマリアはポロポロと零れる涙を必死に手で拭う。
しかし、次から次へと溢れて、自分ではどうしても止めることができないでいた。
ようやく涙がおさまった頃、部屋の扉がノックされ、返事をするとエルザが紅茶と軽食を持ってきたところだった。
アマリアは何事もなかったように微笑み、いつものように「ありがとう」と言うと、紅茶を口に含んだ。
エルザはアマリアの様子をじっと観察したが、特に言及はしなかった。
「今晩は、クリスティ様は会合でいらっしゃいませんが、ヘンドリック様が晩餐をご一緒できるそうです。今からお支度をなさいますか?」
「ええ、そうね。この紅茶を頂いたら早速お願いするわ」
涙は拭いたものの、お化粧も崩れてしまっただろうし…と目線を落として、また物思いに耽ってしまう。
お披露目パーティーが終わってからはずっとこの調子で、アマリアとしてもどうにかしなければと思うのに、いつも同じところで考えがぐるぐると巡ってしまうのだ。
侍女達が用意してくれていた湯にさっと浸かり、目の赤みを引くために念入りにむくみとりをされ、美しくお化粧をし、髪を結い上げ、晩餐用のドレスを着た。
そして、鏡の中の自分に懸命に微笑みかけ、やっとヘンドリックの待つ食堂へと向かった。
ヘンドリックはいつも、晩餐に間に合うように帰ってきてくれる。忙しくて帰宅が深夜になることもあるが、それでもできるだけ二人の時間を持てるようにいつも心を配ってくれる。
顔を合わせると必ず、変わりはないか、不都合はないか、不足しているものはないかとアマリアのことを気にかけて、何かあると全力でそれに対処してくれようとしている。
それなのに、私ったら、こんなことをいつもいつも考えてしまうなんて…
笑顔で晩餐を囲んでいるのに、ふとした瞬間に気持ちが落ち込んでしまう。
ヘンドリックの優しさに触れるたびに、自分の狭量さが嫌になって仕方ない。
小さくため息をつくアマリアの前に、デザートが運ばれてくる。
「まぁ、苺のタルトだわ…!」
目を輝かせてタルトを見つめるアマリアを見て、ヘンドリックが微笑む。
「アマリアは苺のタルトが好きなんだろう?料理長が腕をふるったから、ぜひ食べてやってくれ」
「わぁ、ありがとうございます。以前、お母様とお出かけしたときに食べたカフェでのタルトが忘れられなくて。まぁ、すごい…あの時と同じ味…」
一口食べて、アマリアは感動してその味をゆっくりと堪能した。
また一口、一口と、口に入れては感動の声を上げるので、ヘンドリックも食堂に控えている使用人たちもその様子を温かい目で見つめていた。
ヘンドリックはそっと執事の一人に、今夜はアマリアの飲む紅茶に薬草を入れないように指示を出し、このアマリアの不調に、どう話を切り出したものかと考え始めていた。
晩餐が済み、アマリアの夜の身支度を整え、紅茶を出すと、エルザ達は挨拶をして退室した。
アマリアはソファに腰かけながら、深いため息をついた。そろそろヘンドリック様のお部屋に行かないと、また迎えに来させる手間をとらせてしまう…と思いながらも、笑顔が保てそうにもなく、動けずにいた。
紅茶がすっかり冷めきってしまった頃、続きの扉からヘンドリックが静かにやってきた。音もなく、足音を消してアマリアに近づいていたことと、また物思いに耽っていたために、ヘンドリックに全く気づかなかった。
ぽろぽろと涙がこぼれてしまい、それを手で拭おうとしたら、その手を捕まれ、驚いて顔を上げた。
そこには見たこともないような不安げな顔をしたヘンドリックがいた。
「どうしたんだ、アマリア…何か辛いことがあったのか…?」
ソファの隣に座り、アマリアを引き寄せて、そっと指で涙を払ってくれる。
アマリアはふるふると首を横に振るが、涙は止まらない。
「大丈夫、大丈夫だよ、アマリア。私がついている。何も心配することなんてない。アマリアを困らせることは、私が取り払ってあげるから」
アマリアの頬を両手て包み、目元に口づけその涙を受け止めてくれる。ヘンドリックの優しさに胸が震える。
アマリアはぎゅっとヘンドリックに抱きついた。それを何も言わずに、強く抱きしめ返してくれる。
「愛しているよ、アマリア」
そのいつもと変わらない優しい声に、アマリアは頭をよぎる自分の愚かな考えに息が苦しくなる。
これまでにも、同じ言葉をどなたかにおかけになったの…?
ヘンドリック様の腕の中を、どなたかも知っていらっしゃるの…?
静かに涙を流し続けるアマリアに、ヘンドリックは辛抱強く、背中をさすり、抱きしめ続けた。その表情はアマリアには見えなかったが、痛みをこらえるように歪んでいた。
ここしばらくのアマリアの変化には気づいていたし、エルザ達からの報告も受けていた。
しかし、根掘り葉掘り聞くのがいいこととは思えず、アマリアが話せるように安心できる空気を作ろうとこれまでも努めてきたが、全て空振りだった。
何がそこまでアマリアを苦しめているのか、何が原因なのか、優秀な公爵家の使用人達の力と観察眼をもってしても見当がつかなかった。
待とうとは思っていたが、今日のアマリアの報告と晩餐での様子を見ると、もうこれ以上長引かせることはできないと思った。
ヘンドリックの精神衛生上もこれ以上引き伸ばせなかった。アマリアのことが気になって、執務中であっても気になってしまい、仕事に手がつかなくなってしまうほどになっていたからだった。
本心を言えば、仕事など放り出してしまいたかったし、アマリアのそばに四六時中ついて、何がアマリアの心を悩ませているのかつぶさに観察してそれを取り払いたかった。
何もできない自分にほとほと嫌気が差していた。
「アマリア…もし、私にも言えないことがあるなら…一度、ご両親のもとに帰るかい…?」
それは、ヘンドリックにとって断腸の思いで切り出した話だった。
一時たりともアマリアをそばから離したくはない。しかし、アマリアが落ち込んでいて、自分が役に立たないのなら、アマリアを優先したいと、揺れ動く心と戦ってようやく口にすることができた。
しかし、アマリアは涙でいっぱいの瞳でまっすぐにヘンドリックを見つめ
「私…私…ヘンドリック様のおそばにいたいです…おそばに置いてください…」
か細い消え入りそうな声でそう言ったのだ。
ヘンドリックはもう一度きつくアマリアを抱きしめ、このこみ上げる愛おしさが伝わればいいと願っていた。
しばらくして、ヘンドリックは静かに体を離し、アマリアの手を包み込むと、まだ涙に濡れている瞳を覗き込み言った。
「わかった。大丈夫だよ、アマリア。私に話すことができるまで、私は待つよ。アマリアの心がそれを望むまで、私はいくらでも待つ。私たちにはそれだけの時間はあるからね。未来永劫、君のそばにいるのは私だよ」
未来…ヘンドリック様と私の未来…
それを思い描いたとき、アマリアは自然と言葉が涙と共にこぼれ落ちてきていた。
「お慕いしております、ヘンドリック様」
ヘンドリックはまさに狐につままれたような顔をして固まった。
そして、アマリアの発した言葉の意味を正しく理解すると破顔して、小さく震える体を抱きしめようとした。しかし、その後に続いた言葉に凍りついた。
「ヘンドリック様のことを考えると…辛いのです…」
顔を覆ってしくしくと泣き出してしまったアマリアに、いつもの余裕など無くし、おろおろとしつつも、そっと抱き寄せた。
「アマリア…私との結婚が…嫌に…なったのかい…?」
ヘンドリックにとって絶望に近いその言葉をなんとか口にした。
アマリアが首を振ると、ようやくヘンドリックは呼吸を再開でき、安堵の息を大きく吐いた。
「私…私…こんなにヘンドリック様に大切にしていただいているのに…どなたかをヘンドリック様がお好きになったことがあるかと思うと、胸が締めつけられるんです…苦しくて、苦しくて…」
「私がアマリア以外の誰かを…?一体、誰がそんなことを。我が家の者が言うはずもない。まさか、お茶会やパーティーでそんなことを言う者がいたのか?」
「いいえ、いいえ。皆様、本当に良くしてくださっています。こんなに未熟な私も温かく受け入れてくださって。ただ、ヘンドリック様は社交界のレディーの憧れと伺って…」
ヘンドリックはアマリアをすっと膝の上に抱き上げ、その頬を包んで目を合わせた。
「アマリア、よく聞いてほしい。私はね、確かに様々なご令嬢を紹介されたり、婚約を申し込まれたりしてきた。噂になったご令嬢もいる。しかし、それは公爵家を継ぐ者として、政略的に婚姻を結ぶことも仕方ないと思っていたからだ。まるで自分の気持ちなどそこにはなかった。でも、私は気づいたんだよ。確かな自分の気持ちに。アマリアしかいないんだ。私がこうして愛をささやけるのも、私自身をさらけだすことができるのも」
「私だけ……?」
「そうだよ、アマリア。信じてほしい。私が愛を告げる相手は生涯、君一人だ」
「で、でも…」
アマリアは言いかけて、はっとしたようにやめてしまう。こんなにまっすぐに愛を告げてくれるのに、まだこれ以上何を言うことがあるのかと自分を戒める。
「なんでも言ってごらん?胸に何か秘めたまま夫婦になるのは辛いだろう?」
温かく大きな手が、アマリアの背中を優しく撫でる。
アマリアは意を決して、震える声で心の内を吐露した。
「ヘンドリック様と触れ合った女性がいらっしゃるのでしょう…?」
ヘンドリックは目を丸くして、口元を隠すように手で覆った。アマリアはその様子を見て、やっぱり…と目線を落とした。
「アマリア、その、誤解しないでほしい。これは、アマリアが嫉妬してくれたことが嬉しくて、顔が…おさまらないんだ…」
そう言って、何度か咳払いをすると、姿勢を正してアマリアに再び向き合った。
「全てを打ち明けてしまうとね、私は公爵家での閨の教育を受けている。女性の扱いを学ばなければならなかったから、そういうことも経験した。しかし、結局それもご令嬢選びの時と同じだよ。なんの感情も湧かなかったんだ。本当に虚しいことのように思っていたよ。こんな上辺だけのことが、生涯続くのかと絶望さえしていた。だから、今こうしてアマリアと触れ合って喜びを共にできることが何よりも嬉しいんだよ」
アマリアの涙は止まっていたが、ヘンドリックはその目尻にキスをした。
「私のために涙を流してくれてありがとう。アマリアのためなら、私はこれからの生涯、アマリア以外を抱くことはないとここに誓うよ。もちろん、元々婚約を申し出た時点から、アマリア以外とどうなることも想像もしなかったけれどね」
微笑みかけると、ようやくアマリアの口もとが綻んだ。
そして、今度は頬を赤く染めて、視線をそらしながら小さな声でつぶやいた。
「あの…では、なぜ…ヘンドリック様は私にその…」
あまりに小さくて聞こえず、ヘンドリックは体を更に密着させて、聞き取ろうとした。
「キスをしてくださいませんの…?」
唐突に胸を射抜かれたような衝撃が走った。腕の中の存在は儚ささえ感じるほどに小さいのに、心臓を鷲掴みにされている。
このまま押し倒したい衝動を必死に抑え、懸命に言葉を紡ぐ。
「二人の初めては、結婚式にするのが良いのだろうと思っていたんだ…きっとアマリアはそれに憧れているだろうと思って…」
思いもよらない返事が返ってきて、今度はアマリアがあっけにとられてしまった。そして、ヘンドリックの耳がうっすらと赤くなっている気づいて、こみ上げる愛おしさに思い切りその胸に抱きついた。すぐに温かい腕がアマリアを包み込んでくれる。
「すまない。そんなことでまで君を不安にさせていたなんて、考えもしなかった」
「いいえ。私こそ、ヘンドリックさまがいつでも私のことを思ってくださることなんて、わかりきっていましたのに…」
「でも、私は嬉しいよ。アマリアの気持ちを聞くことができて」
「はい…私、ヘンドリック様が好きです」
「あぁ、アマリア…」
喜びに満ちた声でそう言うと、アマリアの目元や頬に甘いキスを落としていく。
そして、ゆっくりと二人は目を合わせ、何かを確かめるように見つめ合った後、瞼を閉じて唇を重ねた。
お茶会でもらった『強き獅子と赤い薔薇』は評判通りとてもおもしろくて、一気に読んでしまった。
そして、もう何度も繰り返し読んでいるところだった。
物語は、とある女性が盗賊に襲われたところをたくましい騎士が救出。その女性は、実は隣国の姫君で、身分と立場などの障壁を越えて愛し合うというものだった。
まさに王道のラブストーリーといった内容で、主人公達がすれ違ったり、ライバルがいたり、自分たちの想いとは裏腹に物事が進んだりするところがページをめくる手を止められなくさせた。
そして、アマリアはとあることに気づいて、ため息をつかずにはいられなかった。
「どうしてヘンドリック様は私と…キスをしてくださらないのかしら…」
口にしてしまってから、誰かに聞かれてはいないかと慌てて周りを見回して、頬に手を当てる。
な、なんてはしたないの、私ったら…
すっかり触れ合いには慣れてしまったけれど、何かを自分からヘンドリックにしてほしいと思うようになった自分の変化が恥ずかしく、一人で顔を覆っていたたまれなさと戦っていた。
そして、もうひとつのことが頭に浮かび、気持ちが沈んでしまう。
お茶会を終えてから3週間後に、公爵家の家臣と派閥の者だけを招いたアマリアのお披露目パーティーがあった。
ヘンドリックは、漆黒の礼服にブルーのポケットチーフ、金色のカブスボタンとアマリア一色になっていて、アマリアも淡いブルーのドレスに金糸で刺繍をほどこされ、イヤリング、ネックレス、ブレスレットと指輪がアルバートン公爵家の証のオニキスが刻まれた揃いのアクセサリーをつけており、正に二人の婚約を見せつけるかのような装いだった。
そこでも、アマリアは歓迎の言葉を並べられ、温かく迎えられた。
先日お茶会で知り合った夫人たちとは話も弾み、とても楽しい時間を過ごすことができた。
しかし、とある男性の言葉を耳にして、胸が締め付けられるように苦しくなったのだ。
「社交界のレディー達を虜にしてきた公爵様がご結婚なさると聞いて、涙にくれた者は数知れないですな。そして、今や婚約者殿に虜にされるようになるとは、想像もできませんでしたな」
ヘンドリックは27歳であり、デビューしてから10年ほど経っていれば、色々な方との結婚や婚約の話が出ていたとしても全く不思議ではない。
むしろ、27歳という年齢まで結婚していなかった方が奇妙なくらいなのだ。
ヘンドリック様は私と婚約される前にどなたかを好きになったことがあるのかしら…
どなたかとあのような触れ合いを…
そう頭に思い浮かべると、涙が出てきてしまう。
想像したくない。胸が苦しい。
でも、考えるのをやめられない…
アマリアはポロポロと零れる涙を必死に手で拭う。
しかし、次から次へと溢れて、自分ではどうしても止めることができないでいた。
ようやく涙がおさまった頃、部屋の扉がノックされ、返事をするとエルザが紅茶と軽食を持ってきたところだった。
アマリアは何事もなかったように微笑み、いつものように「ありがとう」と言うと、紅茶を口に含んだ。
エルザはアマリアの様子をじっと観察したが、特に言及はしなかった。
「今晩は、クリスティ様は会合でいらっしゃいませんが、ヘンドリック様が晩餐をご一緒できるそうです。今からお支度をなさいますか?」
「ええ、そうね。この紅茶を頂いたら早速お願いするわ」
涙は拭いたものの、お化粧も崩れてしまっただろうし…と目線を落として、また物思いに耽ってしまう。
お披露目パーティーが終わってからはずっとこの調子で、アマリアとしてもどうにかしなければと思うのに、いつも同じところで考えがぐるぐると巡ってしまうのだ。
侍女達が用意してくれていた湯にさっと浸かり、目の赤みを引くために念入りにむくみとりをされ、美しくお化粧をし、髪を結い上げ、晩餐用のドレスを着た。
そして、鏡の中の自分に懸命に微笑みかけ、やっとヘンドリックの待つ食堂へと向かった。
ヘンドリックはいつも、晩餐に間に合うように帰ってきてくれる。忙しくて帰宅が深夜になることもあるが、それでもできるだけ二人の時間を持てるようにいつも心を配ってくれる。
顔を合わせると必ず、変わりはないか、不都合はないか、不足しているものはないかとアマリアのことを気にかけて、何かあると全力でそれに対処してくれようとしている。
それなのに、私ったら、こんなことをいつもいつも考えてしまうなんて…
笑顔で晩餐を囲んでいるのに、ふとした瞬間に気持ちが落ち込んでしまう。
ヘンドリックの優しさに触れるたびに、自分の狭量さが嫌になって仕方ない。
小さくため息をつくアマリアの前に、デザートが運ばれてくる。
「まぁ、苺のタルトだわ…!」
目を輝かせてタルトを見つめるアマリアを見て、ヘンドリックが微笑む。
「アマリアは苺のタルトが好きなんだろう?料理長が腕をふるったから、ぜひ食べてやってくれ」
「わぁ、ありがとうございます。以前、お母様とお出かけしたときに食べたカフェでのタルトが忘れられなくて。まぁ、すごい…あの時と同じ味…」
一口食べて、アマリアは感動してその味をゆっくりと堪能した。
また一口、一口と、口に入れては感動の声を上げるので、ヘンドリックも食堂に控えている使用人たちもその様子を温かい目で見つめていた。
ヘンドリックはそっと執事の一人に、今夜はアマリアの飲む紅茶に薬草を入れないように指示を出し、このアマリアの不調に、どう話を切り出したものかと考え始めていた。
晩餐が済み、アマリアの夜の身支度を整え、紅茶を出すと、エルザ達は挨拶をして退室した。
アマリアはソファに腰かけながら、深いため息をついた。そろそろヘンドリック様のお部屋に行かないと、また迎えに来させる手間をとらせてしまう…と思いながらも、笑顔が保てそうにもなく、動けずにいた。
紅茶がすっかり冷めきってしまった頃、続きの扉からヘンドリックが静かにやってきた。音もなく、足音を消してアマリアに近づいていたことと、また物思いに耽っていたために、ヘンドリックに全く気づかなかった。
ぽろぽろと涙がこぼれてしまい、それを手で拭おうとしたら、その手を捕まれ、驚いて顔を上げた。
そこには見たこともないような不安げな顔をしたヘンドリックがいた。
「どうしたんだ、アマリア…何か辛いことがあったのか…?」
ソファの隣に座り、アマリアを引き寄せて、そっと指で涙を払ってくれる。
アマリアはふるふると首を横に振るが、涙は止まらない。
「大丈夫、大丈夫だよ、アマリア。私がついている。何も心配することなんてない。アマリアを困らせることは、私が取り払ってあげるから」
アマリアの頬を両手て包み、目元に口づけその涙を受け止めてくれる。ヘンドリックの優しさに胸が震える。
アマリアはぎゅっとヘンドリックに抱きついた。それを何も言わずに、強く抱きしめ返してくれる。
「愛しているよ、アマリア」
そのいつもと変わらない優しい声に、アマリアは頭をよぎる自分の愚かな考えに息が苦しくなる。
これまでにも、同じ言葉をどなたかにおかけになったの…?
ヘンドリック様の腕の中を、どなたかも知っていらっしゃるの…?
静かに涙を流し続けるアマリアに、ヘンドリックは辛抱強く、背中をさすり、抱きしめ続けた。その表情はアマリアには見えなかったが、痛みをこらえるように歪んでいた。
ここしばらくのアマリアの変化には気づいていたし、エルザ達からの報告も受けていた。
しかし、根掘り葉掘り聞くのがいいこととは思えず、アマリアが話せるように安心できる空気を作ろうとこれまでも努めてきたが、全て空振りだった。
何がそこまでアマリアを苦しめているのか、何が原因なのか、優秀な公爵家の使用人達の力と観察眼をもってしても見当がつかなかった。
待とうとは思っていたが、今日のアマリアの報告と晩餐での様子を見ると、もうこれ以上長引かせることはできないと思った。
ヘンドリックの精神衛生上もこれ以上引き伸ばせなかった。アマリアのことが気になって、執務中であっても気になってしまい、仕事に手がつかなくなってしまうほどになっていたからだった。
本心を言えば、仕事など放り出してしまいたかったし、アマリアのそばに四六時中ついて、何がアマリアの心を悩ませているのかつぶさに観察してそれを取り払いたかった。
何もできない自分にほとほと嫌気が差していた。
「アマリア…もし、私にも言えないことがあるなら…一度、ご両親のもとに帰るかい…?」
それは、ヘンドリックにとって断腸の思いで切り出した話だった。
一時たりともアマリアをそばから離したくはない。しかし、アマリアが落ち込んでいて、自分が役に立たないのなら、アマリアを優先したいと、揺れ動く心と戦ってようやく口にすることができた。
しかし、アマリアは涙でいっぱいの瞳でまっすぐにヘンドリックを見つめ
「私…私…ヘンドリック様のおそばにいたいです…おそばに置いてください…」
か細い消え入りそうな声でそう言ったのだ。
ヘンドリックはもう一度きつくアマリアを抱きしめ、このこみ上げる愛おしさが伝わればいいと願っていた。
しばらくして、ヘンドリックは静かに体を離し、アマリアの手を包み込むと、まだ涙に濡れている瞳を覗き込み言った。
「わかった。大丈夫だよ、アマリア。私に話すことができるまで、私は待つよ。アマリアの心がそれを望むまで、私はいくらでも待つ。私たちにはそれだけの時間はあるからね。未来永劫、君のそばにいるのは私だよ」
未来…ヘンドリック様と私の未来…
それを思い描いたとき、アマリアは自然と言葉が涙と共にこぼれ落ちてきていた。
「お慕いしております、ヘンドリック様」
ヘンドリックはまさに狐につままれたような顔をして固まった。
そして、アマリアの発した言葉の意味を正しく理解すると破顔して、小さく震える体を抱きしめようとした。しかし、その後に続いた言葉に凍りついた。
「ヘンドリック様のことを考えると…辛いのです…」
顔を覆ってしくしくと泣き出してしまったアマリアに、いつもの余裕など無くし、おろおろとしつつも、そっと抱き寄せた。
「アマリア…私との結婚が…嫌に…なったのかい…?」
ヘンドリックにとって絶望に近いその言葉をなんとか口にした。
アマリアが首を振ると、ようやくヘンドリックは呼吸を再開でき、安堵の息を大きく吐いた。
「私…私…こんなにヘンドリック様に大切にしていただいているのに…どなたかをヘンドリック様がお好きになったことがあるかと思うと、胸が締めつけられるんです…苦しくて、苦しくて…」
「私がアマリア以外の誰かを…?一体、誰がそんなことを。我が家の者が言うはずもない。まさか、お茶会やパーティーでそんなことを言う者がいたのか?」
「いいえ、いいえ。皆様、本当に良くしてくださっています。こんなに未熟な私も温かく受け入れてくださって。ただ、ヘンドリック様は社交界のレディーの憧れと伺って…」
ヘンドリックはアマリアをすっと膝の上に抱き上げ、その頬を包んで目を合わせた。
「アマリア、よく聞いてほしい。私はね、確かに様々なご令嬢を紹介されたり、婚約を申し込まれたりしてきた。噂になったご令嬢もいる。しかし、それは公爵家を継ぐ者として、政略的に婚姻を結ぶことも仕方ないと思っていたからだ。まるで自分の気持ちなどそこにはなかった。でも、私は気づいたんだよ。確かな自分の気持ちに。アマリアしかいないんだ。私がこうして愛をささやけるのも、私自身をさらけだすことができるのも」
「私だけ……?」
「そうだよ、アマリア。信じてほしい。私が愛を告げる相手は生涯、君一人だ」
「で、でも…」
アマリアは言いかけて、はっとしたようにやめてしまう。こんなにまっすぐに愛を告げてくれるのに、まだこれ以上何を言うことがあるのかと自分を戒める。
「なんでも言ってごらん?胸に何か秘めたまま夫婦になるのは辛いだろう?」
温かく大きな手が、アマリアの背中を優しく撫でる。
アマリアは意を決して、震える声で心の内を吐露した。
「ヘンドリック様と触れ合った女性がいらっしゃるのでしょう…?」
ヘンドリックは目を丸くして、口元を隠すように手で覆った。アマリアはその様子を見て、やっぱり…と目線を落とした。
「アマリア、その、誤解しないでほしい。これは、アマリアが嫉妬してくれたことが嬉しくて、顔が…おさまらないんだ…」
そう言って、何度か咳払いをすると、姿勢を正してアマリアに再び向き合った。
「全てを打ち明けてしまうとね、私は公爵家での閨の教育を受けている。女性の扱いを学ばなければならなかったから、そういうことも経験した。しかし、結局それもご令嬢選びの時と同じだよ。なんの感情も湧かなかったんだ。本当に虚しいことのように思っていたよ。こんな上辺だけのことが、生涯続くのかと絶望さえしていた。だから、今こうしてアマリアと触れ合って喜びを共にできることが何よりも嬉しいんだよ」
アマリアの涙は止まっていたが、ヘンドリックはその目尻にキスをした。
「私のために涙を流してくれてありがとう。アマリアのためなら、私はこれからの生涯、アマリア以外を抱くことはないとここに誓うよ。もちろん、元々婚約を申し出た時点から、アマリア以外とどうなることも想像もしなかったけれどね」
微笑みかけると、ようやくアマリアの口もとが綻んだ。
そして、今度は頬を赤く染めて、視線をそらしながら小さな声でつぶやいた。
「あの…では、なぜ…ヘンドリック様は私にその…」
あまりに小さくて聞こえず、ヘンドリックは体を更に密着させて、聞き取ろうとした。
「キスをしてくださいませんの…?」
唐突に胸を射抜かれたような衝撃が走った。腕の中の存在は儚ささえ感じるほどに小さいのに、心臓を鷲掴みにされている。
このまま押し倒したい衝動を必死に抑え、懸命に言葉を紡ぐ。
「二人の初めては、結婚式にするのが良いのだろうと思っていたんだ…きっとアマリアはそれに憧れているだろうと思って…」
思いもよらない返事が返ってきて、今度はアマリアがあっけにとられてしまった。そして、ヘンドリックの耳がうっすらと赤くなっている気づいて、こみ上げる愛おしさに思い切りその胸に抱きついた。すぐに温かい腕がアマリアを包み込んでくれる。
「すまない。そんなことでまで君を不安にさせていたなんて、考えもしなかった」
「いいえ。私こそ、ヘンドリックさまがいつでも私のことを思ってくださることなんて、わかりきっていましたのに…」
「でも、私は嬉しいよ。アマリアの気持ちを聞くことができて」
「はい…私、ヘンドリック様が好きです」
「あぁ、アマリア…」
喜びに満ちた声でそう言うと、アマリアの目元や頬に甘いキスを落としていく。
そして、ゆっくりと二人は目を合わせ、何かを確かめるように見つめ合った後、瞼を閉じて唇を重ねた。
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肌を重ねても去ってしまう彼女の居ない日々を過ごしていたが、実の兄のクーデターによって命の危険に晒される。
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ジルダールは彼女の愛を手に入れるために我慢しないことにした。
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