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本編
第189話
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4月。
陽光はすっかり春めいている。咲き誇る桜を見上げながら、チカルは手に提げていたスーパーの袋を抱きかかえ、公園のベンチに座った。
赤ん坊の泣き声がどこか遠くから聞こえる。それに混ざって、子どもたちの鈴の音のような笑い声があちらこちらで響いていた。ブランコを取り合って揉めている子、真剣な表情で砂遊びに興じている子もいる。
チカルはぼんやりと辺りを眺めながら、わずか数日後に迫ったシュンヤとの交際記念日のことを思った。本来なら喜ばしいことだが、彼女は憂鬱だった。
シュンヤと過ごした日々が、ひっきりなしに頭の中をめぐる。
彼が生まれてすぐにチカルが誕生し、ふたりは乳児のころからいつも一緒だった。記憶にはなくとも、実家にあるアルバムには幼い自分がシュンヤと写っているものが大量にある。
チカルの母マリはシュンヤの母ツヤコを大雑把で気品に欠けると内心バカにしてはいたが、嫌悪しているわけではなかった。他県の小さな町から嫁いできたツヤコが、村の者たちと早く馴染めるようになにかと世話を焼いていたくらいだ。
周囲から家の跡継ぎとなる男児を望まれ、それぞれにプレッシャーを受けていたふたりは、仲間意識のようなものを互いに感じていた。だからこそマリは、男児を産み周囲から祝福されている彼女を目の当たりにしても妬んだりせず、良好な関係を続けたのだ。マリが顔をくしゃくしゃにして無邪気に笑うのも、他人に対する優しさと慈悲を見せるのも、ツヤコとの関わり合いの中でだけである。
チカルとシュンヤが恋人同士だと知ったとき、マリは明らかな嫌悪感を示した。きょうだいみたいに育ったのに気味が悪い、と唇を歪ませた彼女の顔を、チカルは今でもときどき思い出す。確かに、両家の親族はふたりを双子のように扱った。個人のショットよりもシュンヤと写っているものの方があきらかに多いことからも、当時の大人たちの思いがうかがい知れる。
誕生日、七五三、クリスマス、ひなまつり、端午の節句、祭、盆に正月。幼いふたりは家族の垣根を越えてあらゆる行事を共にし、同じフレームに収まった。成長したチカルが自分の容姿を気にしてカメラを避けるようになり、大勢の集まりに顔を出すことすら厭うようになるまで――両家の親密な交流は続いていたのだ。
出会いから、もうじき40年。この年月の重さがチカルを苦しめる。
人生の大半を彼と過ごし、紡いできた数えきれないほどの思い出。それを足枷に感じるようになったのはいつからだろう。風になぶられ乾いた音をたてているビニール袋を抱え込み、チカルは足元の地面に視線を落とした。その顔を暗い影が覆う。
別れを選ぶべきだ。そう思う。しかしこれまでの人生、いつも共にあった存在と袂を分かち、ひとりきりの未来を選ぶことを彼女は恐れている。
シュンヤと歩む人生にピリオドを打つということ。それは同時に、彼の実家との関係をも壊すことになるだろう。結婚し孫が生まれることを何年も前から心待ちにしていた彼の両親や――彼にとっては祖父、自分にとっては合気道の師であるヤスケに失望されたら、もうあの地を踏む勇気はない。
失うものの大きさを思い、チカルは震えた。シュンヤ自身が、そして彼と共に育ったあの村が、自分のルーツであるのだ。それを捨てて生きていく覚悟が果たしてあるだろうか……
そのとき鞄の中のスマホが鳴った。見れば、古い友人からだ。
「あ、那南城?サエキだけど。久しぶり」
「お久しぶりです」
緊張の面持ちで、スマホを持ち直す。
「所用で高円寺に来たから連絡したんだけどさ。こんな時間に電話に出るってことは暇してんだろ?お茶でもしよ」
「すみません先輩……高円寺のアパートからは引っ越したんです」
「そうなの?ったく……転居はがきくらいよこしなさい。で、どこにいんの?田舎に帰ったの?」
「……中目黒に住んでます」
「あの銀行員の彼氏と?へー、ずいぶんいい暮らししてんじゃん」
なんとも応えられずにいると、サエキは溜息まじりに言った。
「ちょっと仕事で悩んでることあんだよね……。この時期みんな忙しくて話せる人が周りにいなくてさ……悪いんだけど、相談に乗ってくれない?中目黒まで行くから。頼むよ」
サエキの願いを聞き入れたチカルは、新宿駅で待ち合わせることを提案し通話を切った。そして一度マンションに戻り、先ほど買ってきた物の荷ほどきもせぬまま急いで最寄り駅へと向かう。
陽光はすっかり春めいている。咲き誇る桜を見上げながら、チカルは手に提げていたスーパーの袋を抱きかかえ、公園のベンチに座った。
赤ん坊の泣き声がどこか遠くから聞こえる。それに混ざって、子どもたちの鈴の音のような笑い声があちらこちらで響いていた。ブランコを取り合って揉めている子、真剣な表情で砂遊びに興じている子もいる。
チカルはぼんやりと辺りを眺めながら、わずか数日後に迫ったシュンヤとの交際記念日のことを思った。本来なら喜ばしいことだが、彼女は憂鬱だった。
シュンヤと過ごした日々が、ひっきりなしに頭の中をめぐる。
彼が生まれてすぐにチカルが誕生し、ふたりは乳児のころからいつも一緒だった。記憶にはなくとも、実家にあるアルバムには幼い自分がシュンヤと写っているものが大量にある。
チカルの母マリはシュンヤの母ツヤコを大雑把で気品に欠けると内心バカにしてはいたが、嫌悪しているわけではなかった。他県の小さな町から嫁いできたツヤコが、村の者たちと早く馴染めるようになにかと世話を焼いていたくらいだ。
周囲から家の跡継ぎとなる男児を望まれ、それぞれにプレッシャーを受けていたふたりは、仲間意識のようなものを互いに感じていた。だからこそマリは、男児を産み周囲から祝福されている彼女を目の当たりにしても妬んだりせず、良好な関係を続けたのだ。マリが顔をくしゃくしゃにして無邪気に笑うのも、他人に対する優しさと慈悲を見せるのも、ツヤコとの関わり合いの中でだけである。
チカルとシュンヤが恋人同士だと知ったとき、マリは明らかな嫌悪感を示した。きょうだいみたいに育ったのに気味が悪い、と唇を歪ませた彼女の顔を、チカルは今でもときどき思い出す。確かに、両家の親族はふたりを双子のように扱った。個人のショットよりもシュンヤと写っているものの方があきらかに多いことからも、当時の大人たちの思いがうかがい知れる。
誕生日、七五三、クリスマス、ひなまつり、端午の節句、祭、盆に正月。幼いふたりは家族の垣根を越えてあらゆる行事を共にし、同じフレームに収まった。成長したチカルが自分の容姿を気にしてカメラを避けるようになり、大勢の集まりに顔を出すことすら厭うようになるまで――両家の親密な交流は続いていたのだ。
出会いから、もうじき40年。この年月の重さがチカルを苦しめる。
人生の大半を彼と過ごし、紡いできた数えきれないほどの思い出。それを足枷に感じるようになったのはいつからだろう。風になぶられ乾いた音をたてているビニール袋を抱え込み、チカルは足元の地面に視線を落とした。その顔を暗い影が覆う。
別れを選ぶべきだ。そう思う。しかしこれまでの人生、いつも共にあった存在と袂を分かち、ひとりきりの未来を選ぶことを彼女は恐れている。
シュンヤと歩む人生にピリオドを打つということ。それは同時に、彼の実家との関係をも壊すことになるだろう。結婚し孫が生まれることを何年も前から心待ちにしていた彼の両親や――彼にとっては祖父、自分にとっては合気道の師であるヤスケに失望されたら、もうあの地を踏む勇気はない。
失うものの大きさを思い、チカルは震えた。シュンヤ自身が、そして彼と共に育ったあの村が、自分のルーツであるのだ。それを捨てて生きていく覚悟が果たしてあるだろうか……
そのとき鞄の中のスマホが鳴った。見れば、古い友人からだ。
「あ、那南城?サエキだけど。久しぶり」
「お久しぶりです」
緊張の面持ちで、スマホを持ち直す。
「所用で高円寺に来たから連絡したんだけどさ。こんな時間に電話に出るってことは暇してんだろ?お茶でもしよ」
「すみません先輩……高円寺のアパートからは引っ越したんです」
「そうなの?ったく……転居はがきくらいよこしなさい。で、どこにいんの?田舎に帰ったの?」
「……中目黒に住んでます」
「あの銀行員の彼氏と?へー、ずいぶんいい暮らししてんじゃん」
なんとも応えられずにいると、サエキは溜息まじりに言った。
「ちょっと仕事で悩んでることあんだよね……。この時期みんな忙しくて話せる人が周りにいなくてさ……悪いんだけど、相談に乗ってくれない?中目黒まで行くから。頼むよ」
サエキの願いを聞き入れたチカルは、新宿駅で待ち合わせることを提案し通話を切った。そして一度マンションに戻り、先ほど買ってきた物の荷ほどきもせぬまま急いで最寄り駅へと向かう。
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