よあけ

紙仲てとら

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本編

第190話

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 20分ほどで新宿駅に着きスマホを見ると、一足先に到着したサエキからメッセージが入っていた。駅直結のデパート内にあるカフェにいるという。
「都銀勤めの彼氏と中目黒に住んでるなんていうから、どんなセレブが来るかと思えば」
 ボックス席の向かい側に座ったチカルをしげしげと眺めて、サエキはテーブルの上で腕を組む。クリーム色のタートルネックニットがよく似合っている。
「ぜんぜん変わんないなー。なんか安心した」
「サエキ先輩もお変わりなく……お元気そうで何よりです」
「あなたと私の仲でしょ?堅苦しい挨拶はナシ!」メニュー表を渡しながら顔をしかめ、「そういうところで損してんだよ、那南城は。やっぱ酒呑ませないとダメだな……居酒屋にすりゃよかった」
「酒の話はやめてください」
 チカルは青くなり、メニュー表に顔を埋める。サエキはショートボブの耳元からのぞくピアスを揺らして笑った。
「酔っぱらうとずーっとニコニコしてるしふにゃふにゃで、隙だらけからさー。男連中がみんな釘付けだったよな。持ち帰られそうになってんのを何度阻止したことか」
「やめてくださいってば……」
「ごめんごめん。つい懐かしくなっちゃって。で、なに注文するか決まった?」
 チカルが応える前に、首を伸ばしてスタッフを探し片手を上げて呼んでしまう。相変わらずせっかちなひとだ――メニューをゆっくり眺める暇もなく、いつものホットコーヒーを頼んだ。
「たまーにメッセージのやりとりはしてたけど……こうやってゆっくり会うのって何年ぶりだっけ?」
「5年ぶりくらいでしょうか」
 緊張に強張る頬で微笑む。
 新年度のこの時期、超がつくほど多忙なはずの彼女が、私生活の相談で会いたいなどと言うはずがない。おそらく仕事のことだ――だが、現場から離れて10年が経とうとしている自分に、いったいどんなアドバイスを期待しているのだろう。どこか不穏なものを感じたチカルは警戒していた。
「知ってるかもだけど、うちの会社、鎧山商事に買収されてさー。ごちゃついてたのが、最近やっと落ち着いてきたんだ。買い付け担当のままキャリア積んでいきたかったけど、いまは字幕とか吹き替えを担当してる部署の所属になって……激動の5年だったよ」
 チカルは短く相槌を打つ。反応を窺い見たサエキが、低くつぶやいた。
「那南城がいてくれたらって何度も思った」
 洋画専門の映画配給会社NEBELを退職すると決めたとき、サエキは最後まで反対した。入社当時から面倒を見てもらい、なにかと世話になった恩義があるがゆえに、彼女を振り切るようにして職場を去ったことが棘となってずっと残っている。
 コーヒーが運ばれてきて、会話が途切れる。わずかな沈黙ののちに、サエキが言った。
「オカザキ部長、今年5月に定年退職するよ」
 カップを持ち上げたチカルの動きが止まった。自分が所属していたときは、まだ主任だったが――部長にまでなったのか。
 出世したということは結局、なんの処罰も受けなかったということだろう。あんなにもこちらを苦しめ辱めてきた人間が順調に人生の駒を進め、あの頃よりさらに上の役職を手にいれていたとは。会社に対する失望感が胸に迫ったが、平静を装ってカップに唇をつける。
「あのゲス野郎は消える。だからさ、那南城……。NEBELに戻ってきなよ。また一緒に働こう」
 熱のこもった強いまなざしが、チカルを鋭く射貫く。
 終始無言で話を聞いていた彼女は、視線をテーブルに落としたまま薄く唇を開いた。
「もう、戻れません。――戻りたくありません」
「セクハラとパワハラであなたを苦しめた最悪な男を野放しにするどころか、出世までさせるような会社だから?」
 淡々とした口調で言ったサエキは、真剣な顔でチカルを見つめる。
 問いかけに答えず黙ってカップを傾けている彼女をしばらくのあいだ凝視していたが――サエキはやがて、長く重い溜息と共にゆっくりと強張った顔を弛緩させた。
 そして次の瞬間がっくりと項垂れ、呻くように言う。
「やっぱり、私がもっと偉くなるしかないか」
 もう一度溜息をこぼしたが、上げた顔はどこか晴れやかだ。
「オカザキが退職するから、今年の5月からその席は私のもんになる。とうとう私、映画宣伝部のトップになれるんだよ。このまま出世街道ばく進して、もっともっと偉くなって……自分の席でふんぞり返ってるジジイどもを根こそぎ追い出してやるよ。そしたら戻ってきてくれるだろ?」
「サエキ先輩……」
「約束」
 子どものように歯を見せて笑い、小指を差し出してくる。美しく整えられた爪――小さなトパーズのついたピンキーリングがふたりの頭上にある灯りを受けて光っている。
 サエキが部長以上の地位につくことは、簡単ではないだろう。それでも必ず成し遂げてほしかった。チカルは口の端にかすかな笑みを浮かべ、祈るような気持ちでそっと小指を絡めた。約束を反故にして絶縁されたとしても、今はこうしたかった。この約束がおまもりのようなものになって、きっと彼女を支えると信じた。
 それからふたりは仕事以外の話に花を咲かせた。カフェを出て駅に向かう道中、チカルはふと尋ねる。
「あの……ところで、悩みというのは何だったんですか?」
「会うための口実」呵々と笑ったが急に真顔になり、「――いや、あるわ。悩み」
 歩む速度を緩めて、溜息まじりに続けた。
「日本で公開が決まった、世界的に大ヒットしてる小説を元にしたサイコロジカルホラー映画。ようやく日本での公開が決まったやつ。なにとは言わないけど……わかるだろ?」
 片眉をあげて、チカルを下から覗き込むように見る。
 おそらく“Run Deer Run”のことだろう――チカルは思い至るも、あえてそれを口にはしない。
「その映画の日本語吹き替えの件……いろんな意味で苦労しそうでさ。若手タレントの中から候補があがってるんだけど、正直ちょっと微妙なんだよねー……」
 人気映画ほど、吹き替えが誰になるかが注目される。一昔前は声優を起用するのが一般的であったが、現在は俳優からお笑い芸人、ミュージシャンなどを起用するのが主流だ。
「ブレイク中の新人だから知名度も話題性もあるし、今回選ばれたのは頷ける。ただ、ドラマでの演技は申し分ないんだけどアテレコとなるといまいちなんだよなー。収録までにどんだけ上達するか……」
 サエキは天を仰いでぼやく。
「もし今のままの状態で挑まれたらほんとにヤバい。だって去年公開された『Lock-In』の吹き替え……あれ、大御所の俳優とか人気タレントで固めたのに、棒読みすぎて聞くに堪えないとか、俳優のイメージと声が合わなすぎて映画の雰囲気が壊れたとか言われて批判殺到、俳優ファンやら声優ファンやらいろんな界隈を巻き込んで大炎上しただろ?ネットのレビューでも吹き替え版の方はかなり低評価だし、最近は作品自体のイメージまで悪くなり始めちゃってさ」
 この映画については、ひとつ大きな事件があった。公開初日の舞台挨拶で、主人公の声を担当した俳優がレッドカーペットに現れると、数人の来場者が彼に罵声を浴びせながら生卵をぶつけたのだ。
 犯人の動機ははっきりしていた。話題作りのためだけに声優経験のないタレントを起用し、作品を台無しにしているすべての映画配給会社への抗議の意味を込め、犯行に及んだのだという。
 どの業界でも、自分が愛するコンテンツを守ろうと必死になりすぎるあまりにやりすぎてしまうファンはいる。きっとタビトも、善意の押しつけで傷つけられたことがあるに違いない……
「那南城?どした?」
 覗き込まれ、我を取り戻したチカルは曖昧な笑みを返す。
「――まあ……那南城も私と同じ買い付け担当だったし、いきなりこんな話されても困るよな」
「すみません。お役に立てず……」
「次なにか問題が起こったらアドバイスちょうだい」にんまり笑って、「那南城が戻ってきてくれたらポジションは私の隣になるんだから、映画産業の動向をしっかり把握して仕事の勘を取り戻しとけよ?」
「業界を去って10年が経とうとしているんです……あまり期待しないでください」
「弱気な言葉は聞きたくないな。現役のころ、あなたは誰よりも仕事に対する意気込みがあったし知識に貪欲だった。あの熱意があれば、いくらだってやりなおせるさ」
 年間700本以上の映画鑑賞。
 高円寺の狭いアパートの一室に散らかった本。
 つけっぱなしのラジオから流れていた音の波。
 ずっとずっと、映画の仕事に携わって生きていくのだと思っていた。しかし現実は残酷だ。当時上司であったオカザキになけなしのプライドを破壊しつくされ尊厳を蹂躙され――みじめな敗北を喫し、業界を去ることになろうとは。
 NEBELでの最後の仕事を終えた帰り道、人生の歯車が狂う音を確かに聞いた。ずれてしまったテンポに身をゆだねて生きていているうちに感情が乏しくなり、なにを読んでもなにを観ても心が動かされることがなくなった。
 そんな無味乾燥した日々に突如として差し込んできた光……それがタビトだ。
 彼は、目の前のくすんだ景色に色を与えてくれた。冷え切ったこの心に、美しいものを美しいと素直に思う気持ちを、芸術を愛する心を思い出させてくれた。
 彼の存在によって、眠っていた感性は息を吹き返し確かな鼓動を刻んでいる。その音と共鳴するように、かつての夢の片鱗が胸の中で存在感を増していくのを感じて、彼女はちいさく震えた。
「翻訳家になるための勉強は続けてんの?」
「いいえ……」
「ならすぐに学習を再開して。翻訳は外注が基本だけど、あなたに任せたいと思ってんの。繊細な感性が好きだから」
 めずらしく自信なさそうに背中を丸めるチカルを見つめ、サエキはそっと笑った。
「ほら、しゃきっとしろ!」
 目の前に回り込んできた彼女に、力強く肩を叩かれる。
「自分を過小評価するなよ、那南城。あなたにはバイヤーとしての才能も文学的センスもある。昔いっしょに仕事した仲間はみんな、あなたが戻ってくるのを待ってるよ」
 チカルが唇を開いた瞬間、サエキのバッグの中でスマホが鳴る。
「あっ、大変!もうこんな時間か」鳴り続けるスマホと腕時計を交互に見て、踵を返す。「じゃあね!元気で」
 手を振りながら改札に向かって駆けていく後ろ姿を、チカルはいつまでも見つめていた。
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