ふたりの旅路

三矢由巳

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第三章

駒井源之輔の独白 参

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 それは箱根の山を越える前日のことだった。
 宿に着き羽織を脱いだ時、袖の中に結び文が入っていることに気付いた。妻に気付かれぬようにそれに目を走らせた。

  母のかたき 明朝 地蔵堂の前で待つ

 あの娘だ。しっかりした筆跡だった。
 紺色の服の男は娘を追い払ったと言っていたが、娘は私達について来たらしい。しかも私の袖に文をいつの間にか入れている。やはり忍びらしい。
 さてどうしたものか。無視したら娘はこの先もついてくるだろう。道中で襲いかかってくるかもしれない。
 はした金でこんな仕事をするなと言ったところで聞く耳を持っているだろうか。
 また骸を一つ作るのかと思うと気が重かった。なんとかして斬らずに済ませたかった。母親はこれまで多くの仕事をしてきたはずで、いずれ斬られることを覚悟していたと思う。だが、仕事の経験が少ないと思われる娘を斬るのは酷だった。まだやり直せる。私はそう思っていた。
 翌朝、山駕籠に妻を乗せた後、宿に忘れ物をしたと佐助につまらぬ嘘をついて地蔵堂に向かった。場所は宿の主に確かめていた。
 街道から外れた人気のない道にその小さなお堂はあった。信心深い者がいるのかお堂の前に野の花が一輪置かれていた。
 娘の姿はなかった。どこか近くの薮から私を襲う隙を見ているのか、あるいはここに来る途中か。
 が、それらしい殺気は感じなかった。
 不吉な予感が胸をよぎった。娘が母親の仇である私を呼んでおきながらここに来ぬはずはない。何か起きたのではないか。
 私は地蔵堂の裏手の茂みに分け入った。何やら厭な臭いが漂ってきた。臭いに導かれ進んだ先にそれはあった。
 両手を何かを求めるように伸ばしうつ伏せになった女が倒れていた。背中はバッサリと袈裟懸けに斬られ服は血の色に染まっていた。駆け寄って顔を覗いた。娘だった。
 一体誰が。その答えは背後から忍び寄って来た。私の身体は殺気を感じただけで動いていた。屈んだまま娘の身体を飛び越え抜刀し向き直った。

「駒井源之輔だな。死んでもらう」

 会ったこともない男だった。年の頃は四十ほど、総髪にしているところを見ると浪人か。

「おまえか、この娘を殺したのは」
「しくじった者は用無しだ。故に始末した。その前におまえを呼び寄せてもらったがな」

 この娘を囮にして私を呼び寄せたということか。母を思う娘の気持ちを踏みにじり殺すとは。
 何より最初からこの男をよこせば母と娘は死なずに済んだものを。私は怒りながらも心の奥では冷静に男を殺すことだけを考えていた。

「おまえにこの仕事を命じたのは誰だ」

 言いながら間合いを詰める。

「誰でもよかろう」

 言い終わるや否や男の刃が私に向かってきた。来る。さっと身をかわした。長い刀身が私の左腕をかすめた。男の目に一瞬動揺が見えた。腕に覚えがあるのだろう。長い刀身が相手に致命傷を与えてきたに違いない。だが私にはかすり傷しか与えられなかった。

「おぬし、できるな」

 できるできないではない。ただ生き延びるために剣を振るってきたに過ぎない。生きるか死ぬかである。だから男の言葉に返事をする暇などなかった。間髪入れず男の胴に斬り込んだ。男は私の肩を狙っていたのか刀を振り上げたまま前のめりに倒れた。咄嗟に返り血を浴びぬため男の脇によけた。
 結局私はこの道中、二人の命を奪った。生き延びるためとはいえ妻には決して言えぬ所業である。重い気持ちを抱く暇もなく聞きおぼえのある声が聞こえた。

「後はお任せを」

 こちらから姿は見えぬが紺色の服の男が見ていたらしい。さすがに朝だから着ている物の色は違うと思うが。

「刀をそこへ。替えはお堂の前に」

 刀と鞘を置き茂みを抜けお堂の前に出ると確かに刀があった。拵も全く同じだった。
 私は服の乱れを正し、地蔵堂の前で手を合わせた。これで私の罪が消えるはずもないのに。だが、祈らずにはいられなかった。あの母と娘の冥府での幸いを。
 街道に出るまで誰にも会わなかった。私は妻に追いつくべく急いだ。





 妻に指摘されるまで腕の傷のことを忘れていた。よほど気が張っていたらしい。あの男の一撃は思いのほか長く浅い傷を残していた。羽織の袖も汚れていた。
 茶屋の奥の間で初めて痛みを覚えた。佐助は何も聞かずに膏薬を塗ってくれた。

「奥様には申しません」

 その言葉に私は安堵した。この時初めて佐助の声音こわねが江戸の紺の服の男とどこか似ていることに気付いた。そういえば佐助は幾度も江戸と国許を往復していた。目付の若党と何等かの繋がりがあってもおかしくない。だが聞かないことにした。恐らくそうであっても決してはいとは言わぬだろうから。それに私の命を狙う側かもしれないのだ。最後の最後に裏切られる恐れもある。
 妻は私の怪我を心配したが、大したことはないと言い傷は見せぬようにした。見たら刀傷と見破られてしまう。
 箱根の関を越えてやっと安堵した。江戸まで間もなくだ。江戸に着けば妻は中屋敷の長屋に入る。あそこなら妻の身は守られよう。
 妻を江戸に連れて行くことになったのは江戸家老の森山様の判断だった。殿や若殿のそばに仕える者は年少者を除き妻帯者と決まっていた。妻子がいれば仕事で何かあっても簡単に刃傷沙汰に及ぶことはないからと聞いたことがある。とはいえ国許に長く妻を留めていると何かと厄介なことが起きやすい。江戸の夫も不安にさいなまれやすい。そこで小姓組等は妻子を江戸に連れて来てもよいことになっていた。
 私にとっても妻を国許に留めるのは不安だった。兄の件で妻が好奇の目に晒されるのはたまらなかった。狭い城下では一度何かあると何年も語り続けられるのだ。
 それだけでなく私の命を狙う者が妻に矛先を向ける恐れがあった。江戸で中屋敷の長屋にいれば私が仕事をしている間、他の家臣の妻たちが妻を守ってくれるに違いなかった。彼女たちは世話好きだった。私が痩せているのを見て時折煮物などを差し入れてくれたほどだ。貰い物を食べるなと父に言われていたから、いつも同部屋の者に食べてもらっていたのは申し訳ないことだった。彼女たちに悪意はなくとも、誰かがこっそりと台所に忍び込み煮物の器に毒を盛る恐れがあった。





 関所を越えた後、三島で辻斬りがあったと雲助から聞いた時は背筋がひやりとした。紺色の男達がきちんと後のことは済ませたはずだから大丈夫だと心の中で臆病な己に言い聞かせた。
 だが翌朝佐助から若い女が袈裟懸けに斬られていたと聞いた時は心穏やかではいられなかった。あの娘なのだろうか。娘を斬ったのは浪人だが、私が間接的に手を下したようなものだった。私が殺されていれば母と娘は死なずに済んだのだから。いや、そんなうまい話はない。首尾よくいっても口封じに浪人が母と娘を殺していたかもしれない。
 思い悩む間もなく宿の主に礼を言っているところに、役人達が来た。
 やましい所はない。見つかった骸があの娘だとしても私は殺していない。別の娘ならまったく関わりはない。刀に血痕は残っていない。妻が寝た後確認したが血曇もなかった。羽織の袖も妻が洗っている。
 ただ腕の傷だけが気がかりだった。役人が見れば何が腕を傷つけたのかはすぐわかる。何故刀傷ができたのか問われた場合、浪人の話をせねばならない。娘のことには絶対に触れられない。
 一つ嘘をつけばまた嘘をつかねばならぬ。こうして私の人生は嘘にまみれてゆく。だが嘘と刀でしか私は私を守れない。




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