ふたりの旅路

三矢由巳

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第三章

駒井源之輔の独白 肆

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 番所での取調は思ったより厳しいものではなかった。私を連行した役人の上役がいやしくも侍、それも江戸定府の大名に仕える者を町人と同じように扱ってはならぬと申し渡していたらしい。
 実際、江戸の奉行所でも武士とそれ以外は別の牢に収容されるらしい。
 幸いだったのは江戸の若殿様が小田原の殿様と年が近く親しかったことだった。私から藩の名を聞いた上役は江戸勤番を務めたことがあり、主君の交友関係を知っていた。取調の際の言葉は丁寧だった。
 私は女を斬ったことなどない、刀をよくあらためて欲しいと言った。実際、刀を検めた役人はまったく血曇がないと確認した。
 当然のことながら腕の傷について訊かれた。

「某とぶつかりそうになった浪人から言いがかりをつけられ小競り合いになり申した。その折に」
「その浪人の名は」
「名乗らなかったのでわかりかねます」
「それはまた不躾な者だな。相手から斬りつけられ刀を抜かなかったのか」
「大井川の川止めで予定よりも江戸に参るのが遅れておりますので、刀を抜けば遅れることになり申します。故に堪忍しました。士道不行届きの誹りを受けるやもしれませぬが」

 後で思い出してもひやひやする釈明だった。堪忍を臆病ととられる恐れがあるというのに。
 だが取調の役人は川止めで予定が遅れていることのほうを重く受け取った。

「この取調でまた予定が遅れるということか。ならばその旨をこちらから江戸表に伝えよう」

 それなら好都合である。番所からの文を読めば御家老さまならきっと私が女人を殺めるような者ではないと証言してくれるだろう。

「してその浪人はいかがした」
「某の傷を見て驚き逃げました」
「場所は」
「お堂がありました。地蔵を祀っているようでした。浪人はお堂の向こうから走ってきました。ひどく慌てておりました」

 役人の目の色が変わったように見えた。やはり斬られた女は地蔵堂の裏の薮で見つかったのか。ならば紺の服の男達はしくじったのであろうか。先に浪人の死骸を片付け、女を後回しにしていたら人が来たのかもしれぬ。

「その浪人、いかなる風体であったか」
「総髪で、年は四十がらみ。身なりはきちんとしており垢じみたところはありませんでした。背丈は某よりやや高く、顔は細面でした」

 私が告げた浪人の特徴はすぐに役人達に伝えられた。すでにこの世にはいない浪人を彼らは探すことになるのかと思うと申し訳なかった。
 一時もすると風体の似た浪人が幾人か連れて来られたようで私の取調どころではなくなった。





 私はあてがわれた牢に戻された。町人の牢とは離れた場所にある武士専用の建物の中のいくつかの狭い牢の一つに私は入れられた。
 遅い昼飯の膳が獄吏によって運ばれてきたので受け取り食べた。何が起きるかわからないから、飯は食べられる時に食べておかねばならない。毒は入っていないと思いたかった。
 妻はもう昼餉を食べたのだろうか。恐らく食べる気になれないだろう。どうか少しでも口に入れて欲しいものだが。宿の主夫妻は思いやり深い人達のようだった。きっと妻は励まされているだろう。心を込めた昼餉を無駄にせぬようにと願った。
 しばらくして膳を取りに来た獄吏は空になった飯碗や汁椀をしげしげと見たが何も言わず牢から離れた。
 私の腹は痛くならなかった。毒は入っていなかった。



 日の差さない板敷の上で改まった姿勢になると、女を殺したのは私だと言って罰を受けるのがよほど楽になるように思われてきた。生き延びたいがために幾人も殺めているのだ。女一人殺した浪人より私の罪のほうがよほど重いのではないか。
 彼らにもそれぞれの人生があった。私を最初に襲った男は国に妻子がいた。私は国に帰ってすぐにその家の近くまで見に行った。小さな家からは少年の論語を読む声が聞こえた。恐らく父の急死により若くして当主となった少年だろう。彼は当主として一生懸命勉学に励んでいるのだろう。私はいたたまれなくなり逃げるように立ち去った。
 帰宅した父にそのことを打ち明けると絶対に彼らの家の近くに行ってはならぬと言われた。

「その情が仇となって返ってくる」

 父は低い声で私の甘さを戒めたのだった。
 結局私は生き延びたいが為に己の罪から目を逸らすしかなかった。
 今にして思えば兄への情が仇となり父は死んだのではないかと思えてくる。状況の仔細は不明だが、あの父が兄にたやすく斬られるはずはないのだ。
 とりとめのないことを思っていると足音が聞こえた。二人だ。獄吏だろうか。また取調だろうか。
 足音は私のいる牢の前で止まった。私は顔を上げた。

「ここで控えておくように。話をしてはならぬ」

 獄吏は私のいる牢の鍵を開けた。入って来たのは見知らぬ若い男だった。月代はなく背中まである髪を首筋で一つに結っていた。まるで馬のしっぽのようだった。

「お世話になり申す」

 少し高い声だった。

「話をするなと申したではないか」
「これは申し訳ございません」

 男はちょこんと獄吏に頭を下げ私の横に端座した。間はおよそ二尺(約60センチメートル)ほど。
 獄吏は鍵をかけると牢から離れた。
 この男も捕まった浪人だろうか。それにしては私の話した姿とは違う。だが役人に疑われても仕方のない風体だった。月代もなく髷も結っていない。ちらと見ると無精髭を生やしている。

「駒井源之輔さま」

 唐突に名を呼ばれぎょっとした。よもや刺客かと身構えたが刀はここにない。

「怯えなくても大丈夫ですよ」

 妙に馴れ馴れしい話し方だった。男は正面の格子を見据えたまま続けた。

「物頭の荒垣藤右衛門の次男銑次郎と申します、よしなに」
「荒垣様の次男……」

 物頭の荒垣様といえば知らない者はない。荒垣家は足軽大将を務める家柄である。駒井家との縁組前に挨拶に行った。当主と跡継ぎの長男に会ったが、銑次郎なる次男がいるとは知らなかった。

「御存知ないのは無理もない。駒井様が城下に戻っておいでの折、私は大坂におりましたので」

 大坂にいた者が何故私の名を知っているのか。ますます面妖な話だった。

「会うたこともないのに何故名を知っている」
「家中で駒井様の名を知らぬ者はおりません」

 理由になっていない。名を知っていても顔を見たことがなければ名を呼べるはずがない。不審に思う私の疑問の声を遮り荒垣銑次郎は囁いた。

「明日には出られますよ」
「え」

 思わず叫んでいた。

「某はこの風体だったので宿場の入り口で捕まったのです。それで先ほどまで取調を受けていたのです。それが終わった時ちょうど三島から使いの役人が来ました。役人の話はしかと聞こえませんでしたが、あの様子だと三島で動きがあったようですね」

 自分でも己の風体が怪しいことはわかっているらしい。ならばもう少し何とかすべきではないか。あの頭を見たら温厚な荒垣様でも怒るのではないか。
 それはともかく三島で動きがあるとしたら。よもや女を斬った者が捕まったのか。あの浪人は死んだというのに。いや、そもそも斬られた女はあの女とは違うのではないか。だとすれば斬った者も違うはずである。
 とはいえそんな都合のいい話があるとは思えない。

「それは少々甘いのではないか」
「ここの役人だって面倒なことになったと思ってるんですよ。私の調べも結構いい加減でしたからね。手形を確認して大坂蔵屋敷から江戸屋敷に行くとわかったら急に調べが緩くなりましたから。たぶんあなたの調べもそうでしょ」

 それは薄々感じていた。藩の手形の効力は大きかった。
 私は低い声で尋ねた。気になることがあった。

「荒垣殿、そなたはどの屋敷に参るのか」
「中屋敷です。長屋が空いているとかで。あ、御心配なく。あなたと仕事で会うことはありません。私は江戸に学びに参るのです」

 仕事で一緒になることはないと知り安堵した。こういう馴れ馴れしい男と行動を共にしている時に襲われたら面倒だ。だが一体何を学ぶのか。

「何を学ばれる」

 よもや昌平坂の学門所ではあるまい。このような姿で行く場所ではない。

「医術です。江戸屋敷出入りの医者に弟子入りを許してもらえました」

 ならばこの頭は剃らねばなるまい。この格好の医者に診てもらいたいと思う者はおるまい。それにしても物頭の次男が何故江戸で医術を学ぶのであろうか。城下にも優れた医者はいるのに。

「何故、医術を」

 馴れ馴れしげだった男はその問いにすぐには答えなかった。何か答えたくない理由があるのだろう。私はそれ以上尋ねるのはやめることにした。
 沈黙は半時ほど続いた。しばし私はこの男と荒垣さまや御嫡男に似たところがあるか考えていたが、どうしても思い当たらなかった。
 不意に男は口を開いた。その口ぶりには馴れ馴れしさも軽々しさもなかった。

「目の前で死んだ者が何故死んだのか知りたいのです」

 どういうことか尋ねようとした時、獄吏の足音が聞こえた。どうやら声が聞こえてしまったらしい。俯いて身構えていると獄吏の声が聞こえた。

「お二人とも疑いが晴れました」

 あっけないほど簡単に私たちは牢から出ることになった。




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