江戸から来た花婿

三矢由巳

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番外編

高岡又三郎の結婚 伍

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「御方様が遣わした医者です。薬も頂いたそうです」

 帰宅した又三郎は山井家に客があったようだが見たかと尋ねた祖母に答えた。
 祖母はほおっと感心したように声を上げた。

「まったく満津の方様は於絹様の生まれ変わりのよう」
「お絹様とは」
「若い者は知らぬか。前の殿様の御生母様の梅芳院様のことぞ。おきれいな方でな。殿様の寵愛を受けてお世継ぎをお生みになったというので、皆あやかろうとしたもの」
「梅芳院様ならわかります。おばば様は御目にかかったことがあるのですか」
「於絹と呼ばれていた頃にな。あの頃は小田切の家で下女のような扱いをされておった。なれどひねくれもせずに優しい方でな。年下の者にも親切であった。御殿への奉公が決まった時には一緒に遊べぬと姉らが悲しんでおった」

 又三郎は梅芳院が小田切一族の出だとは知っていたが、下女のような扱いというのは聞いたことがなかった。彼らの世代が知るのは、老いてもなお威厳を失わぬ尼の姿だった。

「小田切様の遠縁と聞いておりましたが、下女の扱いとは」
「小田切様の亡くなった弟が奉公人に産ませた娘よ。一族の数にも入らぬ扱いでな。だからこそ、梅芳院様は弱い者をお助けになった。満津の方様も梅芳院様を手本にされておるのであろう」

 又三郎は村崎屋で聞いた春菊太夫の身の上を思い出した。梅芳院もまた太夫と似たような境遇だったのである。もし春菊太夫が梅芳院のように奥に仕えることになっていたら、運命は大きく変わっていたのかもしれない。だが、今更思っても詮無いことである。

「満津の方様に仕えることができて、千代さんは良かった」

 そう思うしかない。山井家の人々の幸せを思えば、千代を諦めるしかない。
 祖母はそんな又三郎をじっと見つめた。

「まことにさように思うのか」

 ぎくりとした又三郎は返事が遅れてはまずいと思い、はいと答えようと口を開いた。

「ただいま、戻りました」

 母の声が聞こえた。

「おう、帰ってきたの。石田様のところへ行っていたようだが遅かったの」

 母は縁談の件で石田家に行き、話が盛り上がって帰りが遅くなったらしい。母と顔を合わせるのは気乗りしないが、さりとて祖母に己の気持ちに気付かれたくなかった又三郎は立ち上がった。





 いつもより少し遅くなった夕餉の後、祖母が自室に下がると母は話がありますと改まって言った。
 又三郎は覚悟をして姿勢を正した。

「石田様のお宅へ伺いました。そなたの縁談のことで話があるということでした」

 予想した通りである。果たして相手はどこの家の娘であろうか。同僚には年頃の娘はいないので、町奉行所以外に勤める者の娘であろう。

「奥様は縁談を紹介できなくなったと仰せになりました」

 どういうことだと、又三郎は母の落ち着いた顔を凝視した。もしや、己に何か悪い噂があるのではないかと不安になってきたのだ。心当たりはないのだが。

「何故かわけを尋ねたところ、縁談の相手として考えていた家の娘御の親から縁談はなかったことにしてくれと話があったそうです。奥様がわけを尋ねたところ、城の奥で今内々に江戸に連れて行く奥女中を探しているので娘をやりたいとのことだったそうです。そなた、何か聞いていますか」
「いいえ」

 そんな話は聞いたことがなかった。大体町奉行所は町人相手の仕事である。城の奥向きの話などほとんど入ってこない。下手をすると町人の噂話で初めて知ることもある。
 
「奥様はまことのことか、広敷にいる遠縁の者に確かめましたが、口が堅く真偽はわかりませんでした」

 それは当然だろう。奥向きに関わることを広敷役人が話すはずはないのだ。ましてや内々の話である。

「そこで作田の多米様のところに行って聞いたそうです」

 出た。歩く読売、歩く瓦版。香田角の情報は彼女の元に集まり、彼女から広がってゆく。

「そうしたら、まことに御年寄の浮橋様が江戸へ行く女子を探しているらしいと。多米様も詳しい理由はわからないが、娘のいる家に御女中が声を掛けていると聞いたそうです」

 思いがけない話であった。だが、当然のことにも思えた。貧しい同心と縁組するより、奥女中として江戸に行き禄をいただくほうがよほど楽しいのではないか。現に千代は見違えるように美しくなった。城の奥でさえそうなのだから、江戸屋敷の奥ならなおさらであろう。

「今年のうちに縁組のお許しをいただければ来年から俸禄が増えるかと思いましたが、無理のようです」

 落胆する母を前に又三郎は安堵していた。少なくとも己の縁組は先延ばしになった。母には悪いが、今の自分の気持ちのまま、千代以外の女子を娶るのは相手に申し訳なかった。

「それにしても殿様は一体何をお考えやら。江戸には奥方様がおいでというのに」

 母は殿様のせいだと言わんばかりだった。それでも諦めていないようだった。

「望む者皆、江戸に行けるわけはないからと石田の奥様はおっしゃっていましたから、望みはあります」





 内々に江戸へ行く奥女中を探している。この事実をどう解釈すればいいのか、又三郎は考えた。今奥にいる者の中から連れて行けばいいはずだがそうしないということは、皆行きたがらないということだろうか。だが、江戸勤番から戻って来た者達は江戸は祭のように人が大勢いて美味い物もたくさんあると言っていた。表の男と奥勤めの女中では違いがあるが、それでも国にいるよりはずっと面白いことがありそうに思える。
 それなのに何故内々に奥女中が声を掛ける形で江戸に行く者を探しているのか。奥の女達が行きたくない事情でもあるのであろうか。あるいは、御年寄が国の奥にいる者では不足と考えているのか。御年寄の浮橋は厳しいと聞いている。彼女の目には奥の女達が不足に思われるのであろうか。千代であっても不足なのか。

「え? まさか?」

 千代は奥勤めをしている母親の親戚から勧められて奉公している。作田多米は娘のいる家に奥女中が声を掛けていると言っていた。千代もまた奥女中から声を掛けられているのだ。
 ということは、千代もまた江戸に行く奥女中の一人に選ばれたということではないか。
 千代が江戸へ行く。
 又三郎の胸の中に黒雲のように不安が渦巻いていく。
 男の場合、江戸に行ったら数年のうちに帰って来る。すでに又三郎と同い年の者は何人も江戸に出て帰って来ている。
 だが、奥女中として江戸に行った者はどうなのだろうか。奥向きの話だから又三郎の耳には入ってこないが、もし帰って来たら男達の間で噂になるはずだが、そういう話を聞いたことがない。
 生前の父から御公儀は江戸から女が出るのを警戒していると聞いたことがあった。大名の妻女は御公儀の人質であるからということだった。浮橋のような奥女中も御公儀の許しがなければ江戸を出ることはできないのだ。
 つまり千代は江戸に行ったら戻って来ないのではないか。殿様の寵愛を受けようが受けまいが、関わりなく。
 何より、同心部屋では殿様は金勘定に煩いので傍にいるのは満津の方様だけだと牧村兵衛は言っていたが、そんなわけはないと又三郎は思っている。自分とさほど年の変わらない殿様なら、千代に心動かされるかもしれないと思えるのだ。千代もまた男ぶりのいい殿様に言い寄られたら惹かれてしまうのではなかろうか。
 江戸の奥方様は年下でまだ幼いと聞いている。江戸で千代が殿様の寵愛を受けたりしたら……。それが千代や山井家の人々の幸せなのだとわかっていても、胸の中では不安の渦がいくつも巻き起こっていた。
 又三郎はじっとしていられず、六畳の部屋をぐるぐると闇雲に歩きまわった。

「江戸、江戸へ行くのか。いや、駄目だ。行ってはいけない。だが、どうすればいいのだ」

 我知らずブツブツと口にしていた。 
 不意に襖が開いた。ギョッとして振り返ると祖母がちょこんと敷居の向こうに座っていた。
 慌ててその場に座った。

「起こしてしまい申し訳ありません」
「眠ってはおらぬ。年寄りは眠れぬものだからな。だが、そなたの足音が耳に障ってな」
「申し訳ありません」
「まったく、近頃の若い者は、あれこれ考えてばかり。わしの若い頃は夜這いでも何でもしたものを」
「夜這い……」

 祖母の口から出た言葉は又三郎を仰天させた。

「夜這いも知らぬのか」
「同心がさようなことをしては示しがつきません」
「安心せい。死んだ爺殿はわしのところに夜這いに来たが、何のお咎めもなかったぞ」
「じい様が夜這い?」
「考えるのも大概にせい。動かねば変わらぬ」

 祖母は歯の少ない口を歪ませて笑うと襖を静かに閉めた。
 夜這い。そんな力業を祖父がやったとは信じられなかった。八つの年に亡くなった祖父は穏やかな人であった。あの人が祖母の寝所に夜這いをかけるなど、想像できなかった。
 夜這い。千代に? なんという不届きなことを考えるのだ、己は。又三郎は不埒な己の想像を叱った。
 だが、それは甘美な想像だった。美しい千代を抱き締めて唇を吸い、寝間着の合わせに手を忍ばせ……。

「駄目だ、駄目だ」

 近頃の若い者はという祖母の声が耳によみがえる。
 だが、銭がないのだ。山井家も高岡家も。だから千代を娶るわけにはいかぬ。銭のせいだ。銭に負けたのだ、己は。悔しいけれど、武士であっても銭には勝てぬのだ。 
 もし銭のない世であれば。権助のように食べて穏やかに寝ることができるだけで幸せと思えたら。千代を抱き締める幸せもあったかもしれぬ。
 祖母は動かねば変わらぬと言ったがどう動けというのだ。夜這いをしたら銭に勝てるとでもいうのか。

「勝てるかもしれぬ……」

 今年中に縁組のお許しをいただければと母は言っていた。ならば。




 四半刻足らずの後、又三郎は山井家の敷地の中にいた。
 すでに家の灯は消えて皆眠っているようだった。月の光だけが庭を照らしていた。
 山井家の屋敷は昔と変わらない。千代の部屋の場所も知っている。裏庭に面した三畳ほどの部屋でである。幼い又三郎はよく遊びに行き、病になる前の伊根から菓子をもらったものだった。
 裏庭に回り、千代の部屋の前に来ると雨戸は閉められていなかった。そういえば雨戸が壊れていたと下男が言っていたことを思い出した。下男に雨戸を修繕させねばなるまい。
 とはいえこういう場合に雨戸がないのは好都合だった。又三郎はそっと障子を開けた。
 真っ暗な中に床が延べてあり、寒いせいか夜着を頭からかぶって寝ているのが夜目にもわかった。障子に足を向けているので、音を立てぬように頭の方に向かって四つん這いになって進んだ。

「千代さん、千代さん」

 夜着に覆われた背中に向かって声を掛けた。
 わずかに夜着が動いたように見えた。千代が気付いてくれた。又三郎は思い切って夜着の上から抱きしめた。


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