江戸から来た花婿

三矢由巳

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番外編

高岡又三郎の結婚 参

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 長い夜が明けた。

「母上、お話が」

 台所に行ったが、母はいなかった。膳の上にはすでに朝食が用意されていた。

「あれは山井に飯炊きに行ったぞ」

 祖母の声が背後から聞こえた。

伊根いねさんには飯炊きは無理だからのう」

 千代の母伊根は胸を病んでおり、吹竹ふきだけを吹くだけで咳き込んでしまうほどだった。
 だが、そこへ母が帰って来た。

「忠兵衛殿が飯を作っておりました」

 母の話では掃除洗濯はすでに済ませ飯も汁もできており、さらには薬草も煎じられていたので何もすることはなかったのだという。

「忠兵衛はああ見えてマメだからのう。やればできるんじゃ」

 祖母はふぁっふぁっと笑った。 
 母は少々不満そうだった。

「千代さんに頼まれたのにこれでは何もすることがありません」
「いいではありませんか。早起きのために忠兵衛様の酒の量も減るわけですから」
「なれど、殿方が厨に入るというのは」

 又三郎は山井忠兵衛の生活態度が変わってよかったと安堵した。息子の万平にとっても飲んだくれて垢じみた服を着た父よりも、家族のために飯を作る父のほうがよほどましだろう。
 朝食後祖母が自室に行ったのを見計らい、又三郎は母に自分から石田様に断りを入れるから、石田の奥方に縁組の紹介を断って欲しいと告げた。
 母は目をかっと見開いた。

「そんな勝手な真似が許されると思っているのですか」
「母上は勝手と思われるかもしれません。でも、好きでもない女子を嫁に迎えるのは相手に失礼だと思います」
「縁組は家のこと。好きだの嫌いだとというのは、町人の話です」
「家のことは考えています。同じような身分ならば何の障りもないはずです。その上で好きな女子を嫁に迎えたいのです」
「まさか、山井の」

 さすがは母親である。又三郎は気付かれていないと思っていたが、お見通しだったらしい。

「千代さんではいけませんか」
「父親がいけません。いくら先だっての一件で舟の音を聞いたくらいで」

 忠兵衛の職務怠慢は確かにお役を免ぜられても仕方のないことである。だが、同心屋敷に戻ることが許されたのだから、娘の千代との縁組も許されてもおかしくあるまい。
 何より殿様のものにされる前になんとしても縁組を成立させねばならない。

「それに、千代さんはお城に御奉公に上がったのですよ。奉公すれば御手当が出ます。万平殿には見習いの間は俸禄が満足に出ぬはず。病の伊根さんがいるのですから、千代さんの手当があればどれほど助かることか」

 それを言われると、又三郎は何も言えない。山井家の人々の生活は千代の勤めにかかっているのだ。千代を嫁にしたとしても、苦しい暮らしをしている高岡家が山井家を助けるなど無理な話だった。

「とにかくそなたは早く嫁をもらって俸禄を増やし、跡継ぎを儲けなければなりません。奉行所の仕事に励み高岡の家を守ること、亡くなられた父上もそれをお望みのはず」

 これ以上、母に抗えなかった。又三郎が母に対抗するには、それを解決するのが先だった。
 それにしても、自分は甘いと又三郎は思う。昨夜あれだけ悩んで、母に断りを入れようと思っていたのに肝心の銭金のことまで考えていなかったとは。山井家とて娘の嫁入りにはそれなりの支度をしたいはずである。だが、家禄が少なく病人のいる山井家は高岡家以上に苦しい暮らしをしている。千代の奉公で得られる手当がどれほど山井家の役に立っていることか。それが無くなればさらに苦しい生活となるだろう。
 嫁をもらって俸禄が上がるといってもたかが知れている。とても山井家の暮らしまで支えることはできまい。

「高岡様、昨日の賽銭泥棒が捕まりました」

 小者の松兵衛が駆け込んで来たので、又三郎は奉行所へと走り出た。






「ったく、またおまえか」

 同心たちは奉行所に連れて来られた賽銭泥棒を見て呆れていた。

「これで何べん目だ」
「三べんめでございます」

 手に縄打たれ殊勝な顔で答える男の顔は又三郎も知っていた。彼の知る限り、捕まったのは二回目だった。
 薄汚れた単衣に足は擦り切れそうな草鞋だけ。形ばかりに髷は結っているが、月代は剃っていないので見苦しいばかりである。年は又三郎より二つ上のはずだった。
 
「山置郷蓮沼村の出の無宿権助、城下戌亥町の稲荷社の賽銭箱から銭を盗んだこと、間違いないな」

 吟味与力の石田多聞の問いに男はへえと頷いた。

「いくら入っておった」
「わからん。飯を食って酒を買って今朝握り飯をうたら銭が足りなくなって。主が払えと言うが、ないもんはないと言うたらここに連れてこられまして」
 
 どうもこの権助という男は細かい銭の勘定ができないらしい。盗んだ金の残りの勘定ができずにただ食いでしょっ引かれることになり、賽銭泥棒まで白状したのだった。
 この後、他にもいくつかの盗みを白状したが、金の使い道から推定して全部合わせても一両にもならなかった。
 とはいえ三度目である。笞打ちもすでに二回されている。三回目となると笞打ちの回数を増やすだけでは済まない。刑罰は寺社奉行と相談の上で決められることになった。
 それまでは奉行所の敷地内にある獄舎に入ることになる。獄舎といっても裁きが終わるまでの一時的なものなので、ふだんは誰も入っていない。この日も権助だけであった。
 入獄者が一人であっても警備は必要だった。牢屋同心の守屋が風で休んでいたので、又三郎が宿直とのいをすることになった。
 夕刻奉行所の厨で飯を食った後、獄舎の番人部屋にいる小者に権助の飯を持って行かせた。仕事を終えた小者が飯を食っている間に、又三郎は様子を見るため獄舎に向かった。
 番人部屋から暗い廊下を通って向かった獄舎は三つに仕切られている。手前は女牢である。その隣は軽微な罪の者、奥は重罪を犯した者を入れることになっている。先だってのおかつの一件では奥だけでは足りず真ん中の牢にも罪人を入れている。
 権助は真ん中の獄に入っている。窓のない牢と廊下は外格子で仕切られ、牢鞘ろうざやと呼ばれる土間を隔てた内格子の向こうで権助は牢内にかすかに差し込む夕日を頼りに飯を食っていた。
 又三郎が外格子の向こうに立っていることも気づかず一心不乱に飯を口に入れていた。けれど決して急いで食べているわけではない。黙々と少しずつ箸で飯を口に運んでいた。まるで厳かな儀式のようで、又三郎は声を掛けられなかった。
 喰い終わると権助は膳に向って両手を合わせた。

「観音様、ありがとございます」

 小さな祈りの声の後、顔を上げた権助は初めて又三郎に気付いた。

「申し訳ありません。待たせちまって」
「いや、よい。その、おまえが美味そうに食っていたので、声を掛けられなかったのだ」

 又三郎は外格子の戸を開け牢鞘に入った。日はとうに暮れて又三郎の持った龕灯がんどうの明かりだけが内格子の内部を照らした。顔を下に向けた権助がひどく小さく見えた。

「申し訳ありません。飯食うのがおそくて」

 こののろまさ故に前回の笞打ちの後、身元を引き受けた木こりの親方の甚太のところにいられなくなったらしい。木こりの仕事は案外と危険が多く、のろまでは己のみならず仲間までもが木の下敷きになってしまうのである。

「ここにいるのが一人だからまだよいが、他の者がいたら横取りされてしまうぞ」
「前に入った時に飯を取られました」

 そういえば前に捕まった時は米泥棒がいた。あの男は引受人の利兵衛の元で左官をやっている。様子を見に利兵衛のところへ行った時に、先日は大黒屋の蔵の修繕をしたと言っていた。米屋の蔵の仕事をさせていいものかと思ったが、仕事は真面目なので利兵衛は信用しているらしい。
 
「どうしてそれを言わなかったのだ」
「わしがのろまだからいけないんです」
「のろまだろうと何だろうと、人の物を取るのは悪い」

 権助は何も言わず俯いた。自分のことを言われたと思ったらしい。

「おまえのことではない、飯を取った男だ」
「へい。けど、わしも悪いから、人のことは言えねえし」
「わかっていて、何故賽銭を盗むのだ」
「わし、ぜにはいらないんです」
「いらない?」
「飯が食えりゃいい。それにたまに酒が飲めれば」
「だったら仕事をしろ」
「わかってるんです。けど、わしのろいから、皆にめいわくをかける。なんだかいちゃいけないような気がして」
「それで仕事をやめて銭がなくなって、賽銭を取ったのか」
「へい。それに、こう言うと叱られるかもしれないけど、神様なら借りても許してくれそうで」
「あれはな、皆が神様に祈りを込めて賽銭箱に入れたものだ。おまえのために入れたわけではない」

 権助は顔を上げ又三郎の胸のあたりを見つめた。

「……わし、山置の観音堂に捨てられてたんです。育ててくれた婆さんは子どもが欲しいと願ってたから神様がわしをつかわしたんだって言ってました。賽銭もわしが金を欲しいと願ってたから、神様が取るのを許してくれたんじゃねえんですか」

 権助は恐らく年の近い又三郎ならわかってくれると思っていたのだろう。だが、又三郎には理解し難い理屈だった。

「権助、それはおまえの心得違いだぞ。捨て子と賽銭は違う」

 権助は再び俯いた。



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