江戸から来た花婿

三矢由巳

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第三章 雷土颪は見た! 知り過ぎた女奉公人とカステイラ の謎は湯煙の彼方に

60 偽りはお互い様

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「江戸に戻ってもよいぞ」

 入室した源三郎に弾正は顔色一つ変えることなく言い渡した。
 源三郎にとっては思いもよらぬ言葉だった。柳町に行った己を責められると思っていたのだから。

「壱子の祖母の話を聞いたのであろう」
「確かに、京屋のとせから聞きました」
「壱子と奈加子の母は遊女の娘。いくら父親が青侍であっても、公家ではないのだ。そなたは当家にたばかられたのだぞ」

 要するに壱子は公家の姫の血を引いていないから、源三郎にふさわしくないということらしい。

「血筋を偽ったのは理由がおありだったのでしょう」
「私は偽るつもりはなかったが、国許に帰ったらなぜかそういうことになっていた。先代の浄文院は妻が青侍の娘と知っていたが。まことのことをわざわざ話して波風を立てるのも面倒であったのでそのままにしていたのだ。実際、妻は松小路家の殿の猶子となるはずであったのだからな。松小路の殿は妻を我が娘のように慈しんでくださっていたのだ。だから公家の娘のままにしておこうと思った。京からついてきたお菊の他に知る者はいないと思っていたのは迂闊であった。おかつめ、大方お菊に取り入って京の話を聞いたのであろうな。菊も少々口が軽いところがあった。ともあれ理由が何であれ、偽りは偽り。持参金も道具もすべて江戸へ持ち帰るがいい。もし新たに縁組がしたければ、飛騨に頭を下げてもよい」
「義父上」

 源三郎は弾正の言葉を遮った。

「江戸には帰りません」
「帰れないというのか。気にするな。こちらの都合で帰すのだ。そなたに落ち度はないのだから堂々と江戸に戻り、新たな縁を結ぶがよかろう」
「某には江戸に帰る理由がありません。それにお壱には何と言えばいいのですか。お壱は何も知らないのです」
「当家の惣領の姫を昼日中に城下で背負う不埒者を家に置くわけにはいかないとでも言えば納得しよう」

 それで壱子が納得するわけがないし、源三郎も離縁する気は毛頭ない。

「御免被ります」

 弾正の眉がぴくりと動いた。

「先ほども申しましたが、某には江戸に帰る理由がありません。大体、森殿はどうなのですか。奈加子さんと縁組するのでしょう」
「森は知っている。そもそも、あの母親が知っていた」
「え?」

 これもまた思いもかけないことだった。

「森むめは奈加子を取り上げた後で、妻から聞いたそうだ。難産であったからな。命が危ういと思ったのであろう。誰かに伝えておきたかったらしい」
「知った上で、森殿は娶ると言ったのですか」
「目付が知ったのは今回の件を調べている過程でだ。それまでは全く知らなかったらしい。おかつがそのことで当家を強請ろうとしていたのではないかと考え、昨日の午後目付は当家に来たのだ。それを奈加子が立ち聞きしておってな。己の祖母が遊女であることを知ってしまった。奈加子が夜家を出たのは森家で詳しい話を聞くためだったのだ」

 まったく思い切ったことをする娘である。立ち聞きに夜間の一人での徘徊、武家の娘にはありえぬ振舞だった。いや町人の娘でもそこまで不作法ではない。

「目付から直接話を聞いて奈加子も落ち着いたようだ。それで、奈加子から娘にしてくれと言われたとむめが言うのだ。ならば、森と縁組をするのも悪くはあるまいと」
「つまり体のいい口封じですか」

 人聞きは悪いがそういうことだろう。

「そういうことだ。奈加子も秘密は守ると言っていた。森むめの娘にふさわしくなりたいとも言っておった」

 森むめは苦労するに違いないと源三郎は思った。

「ならば、某も江戸に戻るわけには参りません」
「なんだと!」

 弾正は目を見開き、目の前の婿を見つめた。

「約束したのです、京屋のとせと。お壱を蔑ろにせぬと。とせから聞いた話はお壱には言わぬと」

 倉島平兵衛に話したから誰にも言わぬという約束は守れなかった。小波天神の件は平兵衛も吉兵衛から聞かされていた。源三郎が語ったことで、おかつ殺害にとせ本人が関与していたことがしっかりと裏付けられたのである。これは話さぬわけにはいかないことだった。
 源三郎は壱子に小波天神の話をせぬという約束だけは守りたかった。

「絶対に言わぬか、壱子を蔑ろにせぬか」

 弾正の射るような眼差しに源三郎は一瞬怯みそうになった。が、愛しい者を守るのは男の務めである。

「はい」
 
 ややあって、弾正はふっと息を吐きだした。

「ならば、この話はこれでしまいだ」
「義父上、これからもよろしくお願いいたします」

 安堵したのは源三郎も同じだった。これで今夜はもうしまいだ、夕餉を食べたら今宵は壱子とゆるりと過ごしたいものだと思った。

「考えてみれば」

 下がろうと思っていた源三郎に弾正は一撃を見舞った。

「そちも当家をたばかっておったな。子年の生まれであるのに卯年と偽るとは」

 これまでその事実を面と向かって指摘されたことのなかった源三郎は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

「江戸表の者があれこれ画策したのであろうが、小賢しいことよ」
「義父上、それは事情が」
「舅より年上の婿では格好がつかぬと思ったであろう。つまらぬことよ」

 弾正はさらに追撃を加えた。

「大久間ではよい歌も作れたことであろう。明日にでも見せよ」

 やはり穏やかには済まぬものらしい。

「かしこまりました」

 今夜のうちに歌を清書せねばなるまい。今宵はゆるりと過ごすわけにはいかぬようである。





「命拾いしたな」

 弾正は呟いた。
 もし江戸に帰ると言ったら、生かしておくわけにはいかなかった。
 江戸で妻と娘たちの秘密を誰かに話すかもしれない。それが巡り巡って国許にまで届いたら。
 山置本家にまで迷惑がかかることになったら。
 国を出る直前の峠には今年の大雨によるがけ崩れで落ちはしなかったものの、きっかけさえあれば落ちて道を塞げるほどの大岩がごろごろある。あれを行列の上に落とせばいかなることになるか。
 いくら嫌な奴でも婿にした男である。そういうことになったら夢見が悪い。

「まったく運のいい奴よ」

 弾正の浮かべた笑みには、さほど毒は感じられなった。
 己もまた妻を娶ると決めた時、彼女の母のことなど微塵も考えていなかった。ただ妻だけが愛しかった。
 それを思えば、愚かな婿であっても娘を愛しいと思う気持ちがあるならましだった。
 とはいえ愚かなままでは困る。
 明日からはまた修行の日々を送ってもらわねばなるまい。


 

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