江戸から来た花婿

三矢由巳

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第三章 雷土颪は見た! 知り過ぎた女奉公人とカステイラ の謎は湯煙の彼方に

37 次女は偽りを許せない

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「お帰りなさいませ」

 誰もいないはずの部屋の障子からぱあっと威勢良く顔をのぞかせたのは奈加子だった。
 壱子は思わず身をのけぞらせ、危うく外廊下から庭に落ちそうになった。源三郎は慌ててその身を抱きとめた。

「危ないな、奈加子さん」
「ごめんなさい」

 奈加子は謝った。が、源三郎に背後から抱きしめられている姉をちらっと見てニヤッと笑った。

「姉上、いつまでそうなさっているおつもり」

 壱子は慌てて、源三郎から離れた。源三郎としてはそのままでもよかったが、嫁入り前の奈加子に見せてはならぬかもしれぬと思った。

「奈加子、手習いは。阿久里の面倒は誰が見てるの」

 壱子の矢継ぎ早の問いに奈加子は少し不機嫌な顔になった。

「せっかく姉上と義兄上をお迎えしたのに」
「お迎えって、やるべきことをやってからでしょう」
「はーい。手習いは今日の分は終わりました。阿久里は離れに白川に古今の歌の意味を聞きに行っています。あ、文読んでくださった?」
「ええ。おたかの具合はどうなってるの」
「少し持ち直したって」
「よかった。御祈祷の甲斐があったわ」
「御祈祷? 大久間で」
「ええ。霊験あらたかなお坊様にしていただいたわ」
「そんなお坊さんいるんだ」

 源三郎は千蔵から聞いた本覚寺の叡倫の件もまたどうにかしなければならぬことを思い出した。寺社奉行のところに行かねばなるまい。

「おたかの家の火事は」
「そんなに大事にはならなかったみたい。住んでる部屋が焼けたのでしばらくうちで預かることになったけれど」
「まあ、どこに」
「長屋にいる。でもね、父上も白川も病気に障るから見舞ってはならぬって。姉上も見舞えないと思う」

 久しぶりに再会した姉妹は饒舌だった。
 源三郎はそろそろ切り上げて欲しかった。白川に帰宅の報告をして、壱子と今後のことを練らねばならない。

「奈加子さん、話の続きは後で。離れに行かねばならないんだ」
「あ、そうか。白川うるさいものね。では、失礼を」

 奈加子は珍しく素直に従って、自室のある奥へ向かった。
 壱子はため息をついた。

「もう少しお淑やかになって欲しいのだけれど」
「年頃になれば変わる」

 そう言ったものの源三郎であったが、その年頃がいつになるのやらと思う。





 奈加子が言われた通り素直に奥の自室に行くわけがなかった。姉夫婦の姿が廊下の角を曲がって見えなくなると、元来た道を引き返し父のいる座敷へ向かった。
 さっき来客が来たようだった。父は客の長居を嫌うので、たいていの客は心得ていてすぐに退出する。すると出された茶菓子が残る。奈加子は片付けるふりをして、菓子をくすねるのだった。
 行儀の悪いことだと自分でもわかっている。だが、育ち盛りの身体に毎日の食事の量は少な過ぎた。小食の姉に合わせているのか、厨の者たちが奈加子に出す食事も少なかった。とてもそれでは足りないと白川に言うと、食べ物についてあれこれ言うのはしたないことと説教されてしまった。
 以来、奈加子は白川は食事についてはあてにならぬと思った。こうなったら自分でどうにかするしかない。厨の中に入ると叱られるので、父の部屋から厨までの間に菓子を懐紙に包んで袂に隠し、姉妹に隠れて納戸で食べた。いつ見つかるか毎度はらはらしながら、奈加子は禁断の美味を味わっていた。
 今日も味わおうと座敷へ足音をたてぬように近づく。奈加子の足音は大きいので、静かにといつも言われていたからである。
 座敷に近づいた時だった。

「これでもしらを切られるおつもりか」

 父ではない男性の声が聞こえた。まだいたのかと奈加子はがっかりすると同時に、父に向かってしらを切るなどという言葉を使う者がいるのに驚いた。一体、何者であろうかと耳を澄ませた。

「しらを切るなどとは人聞きの悪い。いくら目付とはいえ、不作法が過ぎましょうぞ」

 父の声に含まれる怒りは奈加子の知らぬものだった。父上がこんな声を出されるとは。叱られる時とは段違いの迫力だった。
 しかも目付と聞こえた。目付というのは武家の監視をする役目である。そんな恐ろしい者と父が話をしている。恐怖よりも好奇心に駆られ、奈加子は固唾をのんで次の目付の言葉を待った。

「ではいかなる作法で、御分家様の偽りを尋ねればよろしかったのでしょうか」
「偽りなどない」
「なれど、壱姫様と奈加姫様、お二人の御生母が公家であるという証は家中のどこにもない」

 ゴセイボ、御生母、母のこと。母が公家であるという証がない。奈加子はその意味がすぐにはわからなかった。母上は公家の姫君なのに。証がないというのはどういうことなのか。

「申し訳ありませぬが、御分家様が先の殿の浄文院様に届けた婚儀の御文書を拝見しました。亡き奥方様の父について松小路家家人とありました。家人とは青侍のことでございましょう」
「おぬし、殿の許しを得たのか」
「目付の調べには殿のお許しは必要ありませぬぞ」
「だからといって、勝手なことを」
「事情がおありのことと存じます。なれど、その偽りのために、人の命が失われたとしたら」

 やりとりを聞きながら、奈加子は理解した。母上は公家ではなく公家の家人の子だったのだと。
 つまり、父をはじめ家中の者が言っていた「母上は公家の出なのですから、もう少し淑やかに」という言葉は、前提が誤っていたわけである。公家の出ではないのだから、淑やかになれるわけがない。姉上が淑やかなのは公家の出とはまったく関わりないということであろう。
 つまり、皆嘘偽りを言って、奈加子を淑やかにしようとしていたということだ。奈加子はなんだか無性に腹が立ってきた。

「だったら何だと言うのだ」
「今更お認めになることはできますまい。某も世間に向けてかようなことを吹聴する気は毛頭ありません。ただ、このことを知っていた者が、脅したとしたら。そして、そのために殺められたとしたら。この家の中に下手人がいてもおかしくはないのではありませんか」

 殺めるとか下手人とか物騒な話になってきた。もしかしたら、最近城下で殺された女の話であろうか。奈加子と阿久里はそれが以前仕えていたおかつのことだとは知らされていない。彼女たちは物騒だし、風がはやっているからという理由でこの七日ばかり屋敷から出ることを禁じられていたので、外の噂話も知らない。

「さようなこと、たとえ脅されたとしても相手にするのも愚かしいこと」
「御分家様はそのようにお考えでも、下にいる者はそうは思いますまい。命を懸けて仕える殿のためなら、某とて人を殺めることに躊躇はいたしませぬ」

 恐ろしいことを言う目付である。奈加子は只者ではないと思った。一体どんな面構えをしているのだろうか。父を前に一歩も引かぬ男とは。ちょっと覗いてみたいと思った。
 が、覗いているのに気づかれたらただでは済むまい。客人も恐ろしいが、父はもっと怖い。

「当家にさような不埒者はおらぬ」
「当家にいないということは、この家の外にいるのかもしれませんね」
「どういう意味だ」
「亡き奥方様の父は青侍。そして、母は島原の遊女とか」

 ゆうじょ? 奈加子は最近読んだ「更級日記」の足柄山の遊女のことを思い出した。美しい声で歌う女達のことだった。足柄山だけでなく「しまばら」という場所にも遊女がいるらしい。つまり、母の母は「しまばら」で歌っていたということか。
 青侍というのは何かわからないが、青という色からして身分が高そうには思われない。「源氏物語」の夕霧も浅葱色の装束を恥ずかしがっていた。身分の低い者が着る色だからである。歌う遊女も身分は低そうである。つまり母は身分の低い人の子であったということか。

「どこでさような話を吹き込まれたか知らぬが、妻は松小路家で育っておる」
「はい。それについては某も信じております。島原の遊女が亡くなった後に父に引き取られ松小路家に奉公したと」

 母の母も早くに亡くなっていたらしい。母は父に育てられ公家に奉公していたのか。奈加子は母も自分たち姉妹と同じく寂しい境涯にあったことを初めて知った。

「恐らく下女ではなく貴人の傍に仕える身の上だったのではないかと。それ故上品な様を見て、皆公家だと思い込んでしまったのでしょう」
「そこまで……」

 父の声が沈んでいた。奈加子の知らぬ父の声だった。

「だが、松小路家の殿は、猶子としてくれると約束してくださったのだ」
「なるほど。ではなぜ文書には父が家人となっていたのですか」
「殿が病に倒れると、若殿は猶子にできぬと仰せでな。若殿は妻のことを妾にしようとしていたのだ。私に奪われたことが許せなんだらしい。だから、私は妻を連れて京を出た」
「さようなことが……事情がおありなら致し方ありますまい。それに弾正様は文書に偽りは書いておられぬ。罪があるとすれば勘違いしていた者たち」

 しばし沈黙があった。
 奈加子は父と母の事情に驚くと同時に、なぜそんな大切なことを教えてくれなかったのか、憤りを覚えた。父上は嘘をついていたのだ。歌を作る者は素直な心で偽りなきようにと仰せだったのに。
 きっと姉上も義兄上も知らないはずである。義兄上のことだから、姉上と自分が身分の低い者の子であったとしても離縁して江戸に帰るなどと言うとは思えない。それなのに、ずっと黙っていた父上。いくらなんでもひどいではないか。

「それはともかく、柳町の人別帳を調べると、廓には京から来た女子が幾人かおり」

 目付の話など奈加子は聞いていなかった。
 お菓子のことなどどうでもよかった。奈加子は勢いよく座敷の障子を開けた。
 父も目付も目を丸くしていた。

「父上、なぜ、そんな大切なことを今まで教えてくださらなかったのですか」
「奈加子、聞いていたのか」

 父の顔が真っ青になっていた。森左源太は大きな目で奈加子を見つめた。

「二のおひい様でございますか」
「そうじゃ。そちの話、まことなら、なぜ父上は教えてくださらなかったのか」

 奈加子は目付に向かって叫んでいた。
 
「お静まりください」

 目付に言われたからと言って奈加子の怒りは治まらなかった。

「父上の嘘つき」

 叫ぼうとしたが声が出なかった。素早い動きで奈加子の背後に立った森左源太が背後から奈加子を羽交い絞めにし、大きな手で口をふさいでいた。

「御容赦を」

 御容赦という言葉一つで済むはずがないと思ったものの、奈加子は身動き一つできなかった。




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