江戸から来た花婿

三矢由巳

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第三章 雷土颪は見た! 知り過ぎた女奉公人とカステイラ の謎は湯煙の彼方に

10 同心高岡又三郎

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 ここは城下の奉行所。日の光がやや西に傾き始めた頃。
 同心部屋で高岡又三郎は小者達の報告をまとめていた。
 昨年父の急死で家督を継いだ十九歳の彼にとって、お仙失踪事件に続く重大事件であった。失踪事件は烏天狗の仕業であるということで半ばうやむやにされた。だが、今回は人殺しである。しかも殺した者が誰か不明のままである。つまり、城下、いやこの香田角領内を人殺しが闊歩しているということである。
 奉行所が正式に発表したわけではないが、領民たちの間にはすでに坂瀬川で見つかった女は殺されたと広まっていた。領民たちの不安はただちに高岡にも伝わった。日が沈むと城下を歩く者がめっきり減った。柳町も閑古鳥である。昼間も子ども達の声が聞こえなくなった。手習いへの行き来には必ず親が付き添った。
 母は言っていた。

『天狗様の目当てはお仙様と赤子だけだったからいいけれど、今度は人のやった悪事。まことに天狗よりも人のほうが恐ろしい』

 そうだ。人の方がよほど恐ろしい。父も言っていた。

『人は皆生まれた時は裸で何も知らぬまま生まれてくる。だが、親の育て方や周りの者の心持ちによって悪人になることがある。そうならぬように御政道があるのだ。ほとんどの者は御公儀に従い悪事を働く事はない。それでも悪に走る者がいる。それを止めるのが我らの仕事。止める者がいなければ、その者は悪事を続け、やがてはそれが当たり前のことになる。これは人として恥ずべきことである。よって悪人を捕まえることをためらってはならぬ。世のためでもあるが、悪人のためでもあるのだ』

 高岡は幸か不幸か、父の後を継ぐまで悪人に接したことがなかった。彼の周囲の人々は皆善良だった。だからこそ善良な者が悪人によって害せられるのは許せぬことだった。
 此度の京屋仲居おかることおかつ殺しもそうだった。真面目に働いていた女が殺されたのは許せなかった。いや、真面目でなくとも、か弱い女子を手にかけて川原に放置するなど人のやることではない。草むらの中、誰にも気づかれねば、上流の雨で増水した川に流されてしまっていたはずである。現に発見された翌日は水量が増え、死骸のあったあたりも水に浸っていた。 
 ほぼ書き終えたところに奉行がお呼びだという声が上役からかかった。どうやら大久間から到着した千蔵の聞き書きが終わったらしい。
 高岡が奉行のいる座敷に行くと、大久間から千蔵を連れて来た大久間の郡奉行所の同心山迫やまさこ嘉兵衛かへえが控えていた。亡き父の友人であった嘉兵衛は高岡を見て柔らかく微笑んだ。時と場所が違えば、高岡も嘉兵衛おじさんと駆け寄るところであった。だが、ここは奉行の前である。

「高岡又三郎、参りました」
「うむ。もう少し近くへ」

 高岡は嘉兵衛の横に進んだ。

「先ほど、おかつの弟千蔵が姉の遺骸を確かめた。明日には専英寺の墓地に埋葬できよう」

 故人はやっと墓に入れるらしい。無論、殺めた者を捕まえぬうちは故人の恨みは晴れぬであろうが。

「明日の弔いの際はそちも専英寺に参れ」
「かしこまりました」

 参列するだけではない。これは僧侶に話を聞けということである。

「それから、こちらの山迫殿はそちの父又右衛門殿と友誼を結んでいたと聞く。そこで此度の一件、ともに力を合わせて調べを行なってくれぬか。山迫殿は千蔵から一通りの話を聞いておる。そちはこれまでに調べたことを伝え、おかつを殺した者をともに探索してくれ」

 やはり家督を継ぎ職に就いて一年足らずの己は頼りにならぬと思われているのかと、高岡は悔しかった。だが、他の同僚と一緒に探索するよりはましだった。
 山迫嘉兵衛は大久間の奉行所で同心として町人の取締を受け持っていた。元々城下の同心の山井家の出で父の幼なじみだった。大久間の同心の家に養子に入って以降は文のやり取りをし、年に数度は実家の法事で城下を訪れていた。その際に高岡家に来て、又三郎ら子ども達とも交流があった。又三郎は何度か将棋の相手をしてもらったことがあった。嘉兵衛は子ども相手でもまったく手加減しなかった。

『そなたは粘り強いのう』

 負けたのが悔しくてどこがいけなかったのか何度も聞く又三郎に嘉兵衛はそう言って、駒を元の位置に戻し、わかりやすく説明してくれたものだった。ふだんから父と手合わせしていた高岡は的確な指摘をする嘉兵衛のおかげで将棋に関しては同心仲間では一番の腕前になった。
 これもまた将棋と同じ気持ちで山迫殿の教えを乞えということなのだろうと高岡は思った。

「よろしく御指導御鞭撻のほどお願いいたします」

 横に向き直り頭を下げた。すると山迫も高岡に頭を下げた。

「こちらこそよろしく」

 年長にもかかわらず嘉兵衛は恭しい態度を崩さなかった。





 その後、別室で高岡は小者達の報告をまとめた書面を嘉兵衛に見せた。といっても、京屋の主人の話を裏付けるような話ばかりで、目新しいことはなかった。
 その後、嘉兵衛から千蔵の話を聞いた。
 千蔵とおかつの出身は大久間の川湯村。父は百姓の三男坊で、村を出て旅籠で働いていた。母はその旅籠の仲居だった。所帯を持ってからは川湯村に戻り家の仕事の手伝いをした。父の両親が亡くなり、兄も足の怪我が悪化し一人前の働きができず、働き手がいなくなったからである。そこでおかつと千蔵は生まれた。おかつが十五、千蔵が七つの年に、両親は流行り風邪が元で相次いで亡くなった。おかつは口減らしに大久間の旅籠に奉公に出された。千蔵は伯父一家にこき使われ、たまに姉から送られてくる銭も伯母にすべて奪われた。
 千蔵が十になった年におかつは旅籠の客だった城下の商人の男と城下で所帯を持った。やがて子どもが生まれたが、一年せぬうちに病で亡くなり、男とも別れた。相手の男は今は城下の米屋大黒屋の番頭になっている栄蔵という男で、こちらは大黒屋の主人の娘と結婚して子どもがいるという。
 一方、おかつは城下でいくつか奉公先を転々とした後、十年前、二十八の時に御分家の屋敷の下働きとなった。御分家で奉公するようになってからゆとりができたのか、弟に盆暮れにあれこれ物を送ってくるようになった。その中にはカステイラのような滅多に見ることもない菓子もあったという。
 千蔵は相変わらず伯父夫妻にこき使われていたが、従兄弟たちまでもが冷たく当たるようになり姉の送ってきた菓子もほとんど口に入ることはなかったという。
 ある時、姉の送って来たカステイラをすべて従兄弟に食べられてしまったことがきっかけで、村を出て両親の働いていた旅籠で働くことになった。そこへ偶然栄蔵が泊まりに来た。栄蔵はおかつと別れたものの弟の千蔵のことを気にかけており、米屋の番頭という仕事柄、郡奉行の熊田を知っていたので、その伝手で千蔵は中間働きをすることになった。
 以来、姉弟はそれぞれ奉公に励んでいた。顔を合わせることはないが文のやりとりはしていた。が、姉は去年御分家を辞めていた。それを千蔵は知らなかった。去年の暮れも今年の盆も高価な菓子が送られてきたからである。
 姉の不慮の死を知った千蔵は呆然としたものの、城下までの道を気丈に歩き、昼過ぎに到着、姉の遺骸を確かめ、専英寺に弔いを依頼したのだった。

「千蔵は真面目な男でな。賭け事の好きな中間もおるが一切しない。姉から送られた菓子も一人占めせず仲間と分け合っていた。子どもの頃から辛い目に遭っておるが、ひねくれたところがない。だから、偽りはないとわしは思う」

 嘉兵衛はそう言って話を締めくくった。
 共に郡奉行所で働いている嘉兵衛の言葉である。高岡は信ずるに足ると思った。
 生前、父は言っていたものだった。人の話を聞く時にまず話す者が信用できるか判断せよと。信用できぬ者の話は聞くに値しないとも。
 その点から言えば山迫嘉兵衛は信用できる人物だった。だからこの話は信用できる。
 しかも彼の話から新たな人物が浮上してきた。香田角城下の米屋大黒屋の番頭栄蔵である。
 おかつの夫であった人物を小者達はまだ掴んでいなかった。おかつは京屋の他の仲居や女達にほとんど過去の話をしていなかったからである。京屋の主人吉兵衛にも名前を知らせていなかった。

「さっそく大黒屋の栄蔵を調べさせましょう」
「栄蔵を疑っているのか」

 嘉兵衛の問いはもっともなことである。郡奉行の知り合いを調べるというのは郡奉行所勤めの者にとっては気の引ける仕事だろう。だが、ここは城下である。城下の町人を調べるのに郡奉行への遠慮はいらない。

「そういうわけではありません。ただ、おかつの足取りを調べるには城下の知り合いに片っ端から当たる必要があります。小者達は前に奉公していた先を探すためにあちこち走り回っております。栄蔵から話を聞けばたとえおかつと会っていなかったとしても、わかることもありましょう」

 そう言うと、高岡は明かり障子を開けた。

「誰かおらぬか」
「へい」

 答えたのは肥後屋松兵衛だった。今日の調べの報告に来ていたのだろう。すぐに目の前の庭先に走って来た。

「米屋の大黒屋を知っているか」
「へい。うちのはす向かいにあります」

 同じ辰巳町だったとは幸運だった。

「番頭の栄蔵は知ってるか」
「へい。よくうちに炭を頼みに来ますんで。よく笑う面白い男です」
「実はな、栄蔵はおかつの前の亭主だった」
「へえ、それは初耳で」
「わしもだ。それで話を聞きたいが、栄蔵の商売に障りがあるとまずい。そこで、おまえの家に栄蔵を呼んで、わしが出向くということにしようと思う。よいか」
「えっ、旦那がうちにおいでになるんですか」
「用事のついでに立ち寄ったという顔で行くから、何のもてなしもいらぬぞ。女房にも言わずともよい」
「へい、わかりました。それじゃ今から」
「頼む。ところで、今日は何かあったか」
「いいえ。それが何にもないんで。今朝から辰巳町から鳥居町の空き家を回ったんですが、どこも蜘蛛の巣ばかりで」

 おかつが川原ではない場所で殺害されたと推定されるので、松兵衛達は城下の空き家を探索していた。空き家に痕跡がないか、周囲の家の者が怪しい音を聞いていないか、怪しい者を見ていないかといったことを足を使って調べていた。お仙の失踪事件の際に城下の空き家の場所をすべて把握していたおかげで、あの時よりも早く調べはつきそうだった。とはいえ、まだ数日はかかりそうだった。

「そうか。ご苦労だった。では栄蔵のこと頼むぞ」

 栄蔵を肥後屋に呼ぶのは何も商売の障りのためだけではない。新しい家族のいる前で前の女房の話をするのはどうかと思われたからである。独り身の高岡だが、それくらいの考えはある。
 松兵衛が一礼して立ち去った後、高岡は振り返った。

「ところで今夜は奉行所にお泊りですか」
「いや、実家に顔を出してくる」

 山迫嘉兵衛の実家は高岡の住む同心ばかりが固まって住んでいる丑寅町の一角ではなく、少し離れた坂瀬川沿いの足軽長屋にある。二年前嘉兵衛の兄の山井忠兵衛が町奉行所への訴状の処理を怠ったということで同心を免ぜられたからである。忠兵衛は隠居、四十過ぎてやっと授かった息子はまだ元服していないので無役である。辛うじてわずかな家禄で暮らしているらしい。恐らく嘉兵衛や親戚の山野家の援助がなければ暮らしは立ち行くまい。
 そういえばと、ふと高岡は思い出す。忠兵衛の娘千代のことを。三つ年下の千代のいつも恥ずかしそうに俯いていた姿を。
 父が急死して以降、忙しくて考える暇もなかったが息災にしているだろうか。

「いかがした、又三郎殿」

 嘉兵衛の声で我に返った。

「山井の家の皆様によろしくお伝えください」
「あいわかった」





 奉行所を出るとすっかり暗くなっていた。提灯を手に辰巳町の肥後屋へ向かう高岡は人気のない道を歩いた。いつもなら暗くても、もう少し人通りがあるものだが。やはりおかつ殺しは人々の心を不安に陥れているようだった。早く解決しなければ。
 やがて辰巳町に入った。八幡様の前を通り過ぎると、多少は人の姿が見えた。店に勤める者達らしい。
 肥後屋まであともう少しという時だった。不意に鐘の音が鳴った。
 火事だ。
 香田角は大火が起きて以来火の始末はどこの家もしっかりしている。とはいえ、それでも失火は起こる。
 近くの火の見櫓からの鐘の音は間隔が空いている。離れた場所のようだ。

「火はどっちだ」

 火の見櫓で鐘を叩く若い衆に向かって誰かが叫んでいる。

「大手町だ」

 高岡はぎょっとした。まずい。大手町には町奉行所があるだけでなく多くの重臣が住んでいる。
 
「旦那、火事ですぜ」

 松兵衛も鐘を聞き付けたらしい。高岡の姿を見つけ走って来た。

「栄蔵は来てるのか」
「さっき行ったら仕事で帰りが遅いって言うんで、あと一刻ばかりしねえと」
「大手町に火が出てる。わしは奉行所に戻る」
「そいつは大変だ」
「おまえはこっちにいて火の手が近づいたら、愛宕神社に皆を逃がせ」

 愛宕神社は火伏せの神でこれまでの大火で被害を受けたことはない。
 高岡は後戻りして町奉行所へと走った。




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