江戸から来た花婿

三矢由巳

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第三章 雷土颪は見た! 知り過ぎた女奉公人とカステイラ の謎は湯煙の彼方に

01 子宝の湯

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「うわっ、なんだ、これは」

 源三郎は思わず叫んでいた。白濁した湯に足を入れた瞬間、ぬるっとした感触に包まれたのだ。

「いかがされましたか」

 洗い場に控えていた亥吉が柘榴ざくろ口から顔を覗かせた。

「いや、何でもない。湯が少しぬるぬるするので驚いただけだ」
「やはり、こちらの出湯は違うのですね」
「そうだな」

 馴れぬ感触に耐えながら、源三郎は湯船に身体を沈めた。
 ここは城下を離れた大久間の出湯にある山置家の別邸の湯殿。源泉から引いた湯が広い湯船になみなみとたたえられている。
 本来なら、ここは殿様しか使えないことになっている場所である。
 なぜ、ここに源三郎はいるのか。
 話は少しばかり遡る。





 香田角に来て早くも四か月余り、祝言を挙げて三か月近く。
 源三郎は慌ただしい日々を送っていた。千崎弥右衛門による歌の指導と源氏物語の講義もさることながら、八月、九月は行事や冠婚葬祭が目白押しだった。
 まず、八月一日の八朔。なぜか香田角では御前試合が行われる。子どもは年齢別、大人は技量の優れた者が選抜されての試合で、源三郎も壱子とともに観覧に招かれた。子どもの試合は可愛いものだった。大人のほうは選ばれるだけの技量があり、源三郎はこれは江戸の道場でもなかなか見られぬ好取組と驚き感心した。
 ことに小ヶ田道場から出た沢井清兵衛の腕前は出色で、相手をした井村道場の若い剣士を軽くあしらっていた。後で沢井は右腕を子どもの頃に負傷し筋を切っていると聞き、源三郎は感嘆するしかなかった。しかも、殿様である隆礼をかばっての負傷であったと井上徳兵衛から耳打ちされた。

「沢井殿はまことに凄い。筋を痛められたというのに」

 終了後に行われた城の大広間での宴で、源三郎は沢井にそう声を掛けた。沢井は表情を変えずに勿体ないお言葉と頭を下げた。

「御謙遜めさるな。殿を守った名誉の手傷ではないか」

 そう言った源三郎は周囲の空気が微妙に変わったのに気付いた。同席していた啓哲の顔つきも妙に険しい。
 源三郎は周囲を見回した。だが、皆気まずそうに視線をそらすだけだった。
 理由は屋敷に戻った後でわかった。啓哲に書斎に呼ばれ言われたのである。

「沢井の怪我の原因をそなた本当に知っておるのか」
「幼い殿をかばって右腕の筋を痛めたと聞きました」
「何からかばったか、知っておるか」
「それは存じません」
「刺客ぞ」

 思わずえっと叫んでいた。

「忘れたか。我が兄の所業を」

 源三郎は思い出した。啓哲が以前に言っていたことを。

『私の兄は殿が岡部の家にいた頃、まだその頃は七つであったが、それを浪人にあやめさせようとしたのだ』

 なんたること。源三郎は己の失言に気付き、血の気が引いた。
 よりによって、先代の啓幸が企てた暗殺計画のせいで沢井は腕を負傷したのだ。それをまるで他人事のように言ってしまった。

「あのような席でさようなことを言うとは。今頃、城下ではそなたをうつけの婿と言っておるであろうよ」
「申し訳ありません」
「謝って済むなら誰も苦労せぬ。兄の処分が決まり、家督を継ぐことになった時、沢井の父親に見舞いの金品を送ったが、受け取らなんだ。医者にかかる費用も負担すると言ったが、これは息子の腕が未熟ゆえの負傷と言って、頑として首を縦に振らなんだ。沢井甚太夫という男はまことに強情者よ。何のかのと言ってこちらの謝罪を受け付けぬのだから」

 そういう経緯があれば、周囲の者達の態度にも合点がいく。
 だが、沢井清兵衛は源三郎が香田角に来た際に、あれこれ世話をしてくれた。過去のわだかまりがあるようには見えなかった。父の沢井甚太夫にしても、源三郎に対して含むところなど一切ないようだった。
 気にしているのは啓哲と周囲の人間ばかりなのではないか。
 そう確信したのは沢井清兵衛の婚儀に出席した時のことだった。



 香田角では殿様が帰国すると、数か月の間に大勢の武家の若者が祝言を挙げる。祝言には殿様のお許しがいるので、そういうことになってしまうらしい。無論、江戸に参勤している際にも江戸屋敷に書類を送って許しをもらえば祝言は挙げられる。だが、この年は藩主になって初のお国入りということで、江戸屋敷勤めの若者が多く帰国したので、彼らの祝言が多かったのである。彼らの半分ほどは来年の二月にはまた参勤で江戸に行くことになる。だから、少しでも早く跡継ぎをと周囲が結婚をせかすのだった。
 源三郎は御分家の婿なので、よほどの家柄でなければ祝言には呼ばれない。だから、誰それの息子が結婚したと聞いてもさほど関心はなかった。
 だが、九月に入って、沢井清兵衛が祝言を挙げると聞いた時には驚いた。
 彼については二十を過ぎても独り身なので、衆道を嗜んでいるのではないか等という兎角の噂があった。江戸勤番も勤めたことがあったが、吉原どころか岡場所等、女のいる場所に近寄ったこともないという話も源三郎の耳に入っていた。
 とはいえ、彼は実直な男である。妻女のないことだけが玉に瑕と言われるほど、優秀な男だった。
 その清兵衛が結婚する、しかも相手は同い年の出戻り、さらには先年失脚した小田切家老の娘だというので、香田角中が噂でもちきりになった。啓哲でさえこの話を口にするほどだった。
 嘘ではないかと思っていたが、沢井家から祝言に招かれたと啓哲から聞き、まことであったのかと再び驚いた。
 壱子もまた結婚相手の照のことを知っていた。彼女も啓哲の講義を聴きに来ていたとのことだった。ただ、前の結婚後、数か月で来なくなったらしい。

「旦那様が嫉妬深い方だったという噂です」
「前の夫は誰だ」
宇留部うるべという方です」

 その名を聞いて源三郎はまた驚いた。勘定奉行所でも切れ者と聞いている。隆礼が彼を抜擢したらしいとも。あの男の妻だった女を清兵衛が娶るとは。
 何はともあれめでたいことと、源三郎は清兵衛の祝言に喜んで出席した。
 その宴席で花嫁が退出した後、源三郎は清兵衛に酌をした。
 盃に口を付けた赤い顔の清兵衛はいつになくゆるんだ顔をしていた。この男もこんな顔になることがあるらしい。

「おめでとうございます」
「ありがとうございます。わざわざのお越しまことにかたじけない」
「先日の失礼の段、お許しを」

 清兵衛が怪訝な顔をした。

「何のことでござるか」
「八朔の」

 清兵衛は思い出したようだった。

「お気になさらないでください。あの怪我はそれがしが不調法ゆえのこと。子どもゆえ、相手の力量などまったく考えずに。それに殿を守ったわけではない。年少の卯之助という子どものため。まさか、殿になるなど、誰も考えてはいなかった頃のことゆえ。それに当家もあの一件で兄を失いました。本来なら殿の前に出ることも許されぬ身なのです」

 酒のせいか、いつになく饒舌な清兵衛だった。
 沢井家もまた分家同様、幼い殿を弑せんとする企てに与する者を出していたのだ。清兵衛は被害者ではないと言っているようだった。
 啓哲や周囲の者が気にするほど、本人は気にしてはいないのではないかと源三郎は思った。
 お開きになった後、源三郎は亥吉とともに辰巳町の沢井家を出た。亥吉の持つ提灯の灯火を眺めながら、源三郎は結ばれていく縁を思った。
 家老から失脚した小田切家の娘、抜擢された宇留部、小田切失脚後に家老となった沢井家、それらがつなぐ縁はこれからどうなってゆくのか。

「よい祝言でございましたね」

 左手に持つ引き出物の風呂敷の重さに亥吉はニコニコしている。

「悪い祝言というのがあるのか」
「そう多くはありませんが、あるようですよ」
「たとえば」
「祝言に花嫁がこなかったとか」
「なんだ、それは」
「花嫁御寮が他の男と駆け落ちしたと」
「それはまたひどい話だ」

 本当にそんなことがあるのかと源三郎は笑った。



 さて、冒頭から七日ほど前のことである。紅葉の宴も終わり十月に入ると、朝夕めっきり冷えるようになった。
 源三郎はいまだに無役である。従って、登城の義務はない。だからといって暇というわけでもない。歌や源氏物語の学習がある。時には屋敷の力仕事を頼まれることもある。奉公人にも若い男がいるが、彼らは台所や啓哲のお供といった仕事があり、多忙だった。もっと身分の低い薪割りの奉公人は年寄で時々腰を痛めて休んでいる。庭木の管理をする伍助も五十を過ぎている。というわけで、力仕事がまわってくる。啓哲はあまり好ましいこととは思っていないようだが、奉公人が少ないので黙認していた。屋敷の中でやる分には誰も見ていないからということらしい。同じことを外でやったら、分家の婿たるものがと怒るのは想像できた。米俵や炭俵を荷車から下ろして蔵へ運ぶだけだから、源三郎はお安い御用と引き受けていた。
 その日も源三郎は荷車を引いて来た炭屋の衆と一緒に炭俵を担いでいた。

「若様には申し訳ないことで」
「これくらい何でもない。何もしないでいると身体が鈍るからな」

 仕事を終えた後、源三郎は台所の女中から白湯を持ってきてもらい、男達に飲ませた。本当は飴湯でも飲ませてやりたいところだが、そこまでのゆとりはないのだ。
 婿入りして数か月、源三郎にも御分家の経済状況が見えてきた。質素倹約を心掛けているわけではなく、贅沢できるほどの金がないのだ。それは城主も城代も家老も家臣も皆同様だった。前の藩主の時代から家禄の借り上げが続き、実質は四分の三しかないのだ。知行地を持つ分家も城代も家老もやはりそこからの年貢の三割を殿様に貸し出している。貸し出しといっても、返済されず利子もない。
 参勤交代と江戸屋敷の維持、諸色しょしき高色こうじき(物価高騰)等が重くのしかかっていたのである。それでも、藩主が若いという理由で参勤交代の免除があり、江戸屋敷での倹約もあり借金は少しずつ減っていた。だが、借金が消えたわけではないから殿様も家臣も生活が苦しいのは変わらない。
 分家も例外ではなく、壱子の結婚で離れを建設したため借金が増えていた。源三郎は持参金でなんとかできないものかと弥右衛門に相談したことがあった。

『持参金には手を付けぬがよいかと』
『どうしてだ』
『離縁の時に持参金も返すことになっています。持参金を返せないとなったら、面倒なことになります』

 離縁する気はさらさらない。

『離縁など縁起でもない』
『もし跡継ぎが産まれなかったらいかがします。女は三年子無きは去れと言います。男も同様かと』

 想像もしない答えだった。確かに結婚して二ケ月余り、まだ壱子に懐妊の兆しはない。万が一のことがあるかもしれない。離縁するなら持参金を耳をそろえて返せと言っても分家には返せないような気がする。持参金を返してもらえぬまま実家に戻ったら兄に何と言われることか。
 結局、持参金はそのままにしておくことになった。
 というわけで白湯を飲んだ源三郎は炭屋の衆が帰ると、井戸端で水を汲んで顔を洗っていた。
 そこへ白川の下で働いている下女のおあんがやって来た。白川が探しているということだった。
 一体、何の用であろうかと思い、白川のいる座敷に行くと、明日登城するようにと城から使いが来たと言う。茶の誘いであろうかと思ったが、そうではないらしい。
 夕餉の後、啓哲に登城のことを話すと、聞いていないと機嫌を損ねたようだった。



 翌日、指定された巳の刻(午前十時頃)に登城した。通されたのは御座の間だった。たくさんの書面に囲まれている隆礼は忙しいからとすぐに用件を切り出した。

「大久間に余の名代として行って欲しい。郡奉行所の建物の補修と別邸の風呂の補修、それから出湯の状態の確認をしてきてくれ」
「畏れながら、普請作事奉行の仕事ではありませんか」
「すでに普請作事の者達は次の仕事に入っている。それに確認は実際に風呂に入らねばできぬ。別邸の風呂場の使い勝手は使ってみねばわからぬだろう。出湯は量と熱さが変化することがあるから入ってみねばわからぬ。男と女では感じ方も違うであろうから、そなただけでなく奥方も連れて行って確認せよ」

 これはもしや、夫婦二人だけで大久間の別邸で湯治をしろということではないかと気づいた。 

「かしこまりました」
「念を入れて七日ほど滞在し、よくよく確認せよ」
「はっ」

 帰宅した後、啓哲に報告するとこう言われた。

「大久間は子宝の湯ぞ。殿のご配慮、感謝せよ」

 子宝の湯。源三郎の両肩にその言葉が重くのしかかった。と同時に弥右衛門の話した離縁と持参金のことを思い出した。




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