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第二章 天狗騒動
19 合点のゆかぬこと
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その日の朝、城に出仕した重臣達は大広間に集まり、貞蓮院こと秋葉仙と赤子の行方不明事件の捜索について話し合った。
まずこれまでの捜索で一切城の外での足取りがつかめぬことが報告された。すでに事件が起きて六日目。なんらかの手段を用いて領外へ出た恐れもあった。だが、領外まで探索するのは時間と人員のやりくり、経済的問題で無理な話であった。それに動員されている奉行所や大番組では通常の仕事にも支障が出始めている。樹上の烏の巣を調べるために負傷した者までいた。
城代家老の提案で、捜索の規模を縮小し、関所の出入りだけは厳しく監督することとなった。
また、今回の件の責任をとって御隠居所の警備の責任者の謹慎と降格、貞蓮院付の奥女中の解雇が決まった。
さらに家老の沢井甚太夫は御蔵方の守倉平太郎からの案を提示した。
「元々赤子は守倉に引き渡すことになっておった。故に以後は守倉の者で探索すると言っておる。赤子の父は守倉の一族であったから一族でけじめをつけると」
けじめをつける。この言葉の意味が分からぬ者はいなかった。要するに貞蓮院は見つかり次第始末されるということだった。
「異議はありませんな」
城代家老の言葉に異議を唱える者はなかった。まったく手がかりのない捜索は家臣らを疲弊させていた。
「ところで」
町奉行が口を開いた。
「此度の件で、領民が天狗を恐れ、外出を避けたり、子どもを外に出さぬようにしている。かようなことが続くと領民の間に鬱憤がたまり、流言飛語がはやることも考えられる。そこで祈祷をして天狗を恐れる必要がないことを示す必要があるかと」
祈祷で解決しようというのは、現代人の目から見れば奇異だが、当時としてはごく普通の考えだった。疫病が流行しても、殿様が病気になっても、まずは祈祷だった。
「それはよき考え。領民も安心するであろう」
城代家老はじめ皆うなずいてこれも決定した。早速寺社奉行の戸川金兵衛が手配をすることになった。
最後に城代家老が評定所の後見の山置弾正に伺いを立てた。
「弾正様、何かございませんか」
「特にない」
このような会議で弾正が意見を言うことはめったにない。言えば、せっかく決定した事項がひっくり返ることになる。
城代家老は丸い顔に安堵の色を浮かべ、散会を告げると、殿様のいる御座の間に向かった。
「城代殿、それがしもよいか」
珍しく弾正が同行すると言ったので、城代家老は驚いた。だが、それを断る理由はなかった。
御座の間の隆礼は城代家老の報告を受け、了承した。もしここで反対意見を言えば、また会議をやり直すことになる。それに、彼らの判断は妥当だった。
とりあえず、質問だけはしておく。
「ところで、祈祷の名目はいかがするのだ」
「戸川が委細をこれから決めます」
「天狗の機嫌を損ねぬようにな」
「かしこまりました」
城代家老は執務がありますのでと先に退出した。
残ったのは弾正である。
「弾正、いかがした」
「御人払いを願います」
すでに小姓は入室時に室外に控えさせている。この場には隆礼と弾正啓哲しかいない。
「我ら二人しかおらぬが」
「天井に鼠がおります」
弾正はちらりと天井の隅に目を向けた。
「鼠はおらぬはずだが」
そう言った隆礼と弾正の間に男が胡坐をかいていた。まるで壁から湧いて出たようだった。
「鼠ではありません」
裁付袴の男はそう言うと、姿勢を正した。弾正は不機嫌そうにふんと小さく息を吐いた。
「やはり、そちか」
「守倉平太郎にございます」
江戸と国許を往来することの多いこの男の顔を弾正はほとんどまともに見たことがなかった。今初めて間近で見る顔には特に際立った特徴がない。黒子もなければえくぼもない。美男でもなければ醜男でもない。守倉の者には目立った特徴がないというのは昔から言われていることだが、まさしく目の前の男は守倉の者そのものだった。もっとも、その不敵な態度が特徴といえば特徴かもしれなかったが。
「出て行けと言っても、今度は床下に忍ぶのであろうな」
弾正は不機嫌さを隠さなかった。この連中はいつもそうだ。いなくなったと思って安心していても、なぜか人の話を聞いているのだ。地獄耳だと人々は密かに噂していた。
「まあよい。そちがいたほうが話が早い」
そう言うと弾正は、まるで平太郎がいないかのような顔で隆礼を見た。
平太郎は二人の間の邪魔にならぬように、弾正の背後に下がった。だが、その気配はまったく弾正には感じられない。猫でさえ背後にいればなんとなく気配を感じさせるものなのだが。
薄気味は悪いが、殿の御前で不埒な真似はするまい。弾正は覚悟を決めて、口を開いた。
「此度の貞蓮院のこと、啓庸を利用されましたな」
「婿殿を利用とは、いかなる意味か」
隆礼は不思議そうに弾正を見た。
これはもしかすると、本当にわかっていないのかもしれぬと弾正は思った。
「啓庸を山置に行かせると決めたのはどなたですか」
「余が決めたことだ。この機会に土地のことを知ってもらうために」
「まことにそうでしょうか。畏れながら、誰ぞに吹き込まれたのではありませんか。分家の婿にも仕事を与えるようにと」
「はて。誰ぞとは誰なのだ」
隆礼の黒目がわずかに揺れて見えた。やはり心当たりはあるらしい。
何をしらばっくれているのだと弾正は思ったが、顔にも口にも出さなかった。
「私の考え過ぎかもしれませぬな」
「考え過ぎだ。ところで、婿は今日は何をしておる」
「墓所の掃除を命じました」
「玄龍寺か」
「はい。盆も近うございますゆえ」
「今年の七夕は歌会ができず残念だったな」
貞蓮院捜索のため、例年七夕に御分家の屋敷で催していた歌会は中止になっていた。子どもらの七夕行事は行われたが、天狗の噂のため、今一つ盛り上がりに欠けたようだった。
「はい。来年は参勤で殿は不在。次は再来年になります」
「その頃には、そなたも爺になっておるかもしれぬな」
かもしれぬ。今朝、白川は昨夜も上々の御首尾と報告している。ただし、少々気にかかることもあったが。
「玄蕃と娘御の仲はどうだ。うまくいっておるか」
「おかげさまで」
「それはよかった。年が離れておるゆえ案じていたが、男女のことばかりはわからぬもの」
「ところで、山置の西畑村をご存知ですか」
「山置の西にある村だな。玄蕃から山賊の話を聞いた時に村の名を聞いた。襲われそうになった女子の夫が村役人であったな」
「では、話が早い」
一瞬、弾正は背後に鋭い殺気を感じた。が、すぐにそれは消えた。
「山賊など今まで出たことのなかった峠に、山賊が現われたというのは、なんとも解せませぬ」
「そうだな」
「さらに解せぬのは、西畑村の重兵衛なる者の妻のりつ」
「ん?」
「昨日までに山置の奉行から届いた日誌の写しを読み、重兵衛の妻りつについて調べさせました。りつなる女子は香田角の出で、実家で子を産んだとのこと。そこで、人別帳を調べたところ、竹野村に西畑村の重兵衛に嫁いだりつという女子がいることが判明しました。りつはこの数日確かに実家におりましたが、子を産んでおりません」
「何かの間違いではないのか」
「他にも、貞蓮院捜索のため道々で奉行や大番組配下の者共が赤子連れの女子を呼び止め調べた記録にもりつという名はありませぬ。これはいかなることでございましょうや」
弾正の態度はあくまでも冷静だった。
「弾正、そなたは評定所の後見、そこまでせずともよいのではないか」
後見は名誉職のようなもので、実際の現場では留役達が動いている。それに、弾正の命令で動かせる部下はそう多くない。弾正が事件の捜査に関わる必要はないからである。
「未熟ながらも婿が山置で働いておれば、それを助けるのは父であるそれがしの仕事」
「玄蕃もよき岳父を持ったもの」
「おそれいります」
「心配はいらぬ。山賊のことは山置の郡奉行らに任せればよい」
そう言った隆礼を弾正はちらと見た。
「山賊を放置すれば、また同じことが起きるやもしれません。それにりつが抱いていた赤子は西畑村に戻った後、亡くなったと聞きました。一体、これはどういうことか。それがしには合点がゆきませぬ。合点のゆかぬことをそのままにしておくのは、それがしには我慢なりませぬ。故に調べ、考えたのです。何も婿のためだけではござらん」
「考えたとは」
「これは誰ぞの奸計ではないかと」
「誰ぞのとは」
「それはひとまずおきましょう。ただし、その者のやりたかったことはわかります。その者は城下からある母子、すなわち貞蓮院と赤子を連れ出し、一刻も早く領外へ出したかったのだと」
隆礼はほうと息とも声ともつかぬ音を発した後に言った。
「して、弾正はそれで合点がいったのか」
「いえ、その先がございます。話してもよろしいでしょうか」
「許す」
弾正は腹をくくった。隆礼の機嫌を損ね、守倉の怒りを買うかもしれぬが、分家の婿を利用したのは許し難いことだった。
「ここから先はそれがしの推測です。まず、彼らは怪しまれてはならない。ならば他人になりすませばよい。りつという女の名を使った。重兵衛にもいくらかの謝礼を渡したのかもしれません。貞蓮院とは無関係であると思わせ、山置に入っても決して調べを受けぬようにと考えた。偶然か、それとも誰ぞの策略か、玄蕃が山置に貞蓮院捜索のために来ることになった。彼らを味方に付ければ怪しまれることはないと考え、山賊に姿を変えた仲間らに襲わせた。玄蕃らはよもや貞蓮院と赤子だとは思わず、母と子を助け、山置までのこのこと見送った。こうして貞蓮院と赤子は誰にも怪しまれず西畑村に入り、けもの道を使い薩摩に逃げ、赤子は死んだことにしたというのは考え過ぎでしょうか」
隆礼は眉一つ動かさず、口を閉じていた。
弾正もまた黙って隆礼の口元を見た。この口が開く時、いかなる言葉が発せられるのか。叱責か、哄笑か、あるいは……。
「弾正、郡奉行の日誌に重兵衛の取り調べが記録されていたはず。妻のりつは二十三だ。竹野村のりつの年はいくつだ」
「二十三とのこと」
「貞蓮院の年は知っているか」
貞蓮院とは城での行事で同席したことがある。自分より二つ年下であった。
「三十一かと」
「長い押し込めでずいぶんとやつれていたと医師が言うておった。お産の後、ぐらついていた歯が幾本か抜けたとも聞く。老婆に見えるとまでは言わぬが、二十三というには無理がないか」
「女子は化粧で化けます」
「したが、誤魔化せるものかのう。それに、さような奸計を弄して誰が得をするのだ。企みには必ず得をする者がおるはず。だが、貞蓮院と赤子が逃げて得をするのは本人達だけではないか。彼らを逃がして誰か他に得をする者がいるのか」
「おります」
弾正は振り返った。そこには守倉平太郎が端座していた。
平太郎は表情一つ動かさず、ただそこにいた。弾正の視線など存在しないかのように、彼は座っていた。
恐らく弾正の推測の続きをここで話しても、彼は一切反応を見せないだろう。
「弾正、なかなか面白い話であった。余の退屈を紛らしてくれたのであろうが、少々合点がゆかぬな。いくら化粧をして若く見せても弱った貞蓮院に峠越えとは無理があろう」
弾正は隆礼の声で姿勢を元に戻した。隆礼の表情は変わっていない。
「捜索はすでに町奉行や大番組の手から離れたのだ。評定所が手を出すことではない。そなたがあれこれと探索に心を砕いてくれたのはまことにありがたい。だが、かようなことを考えてしまうのは、ここ数日続けて出仕して疲れたせいであろう。しばし身体と心を休めるがよい」
「かしこまりました」
弾正は一礼し、御座の間を出た。
庭に面した廊下を歩くうちに、ふつふつと怒りが込み上げてきた。
守倉平太郎は婿を利用したのだ。婿可愛さではない。分家の婿を利用したのが許せないのだ。一体、当家を何だと思っているのか。いや、当家だけではない。殿を何だと思っているのか。
話をしている間、隆礼には時折動揺が見えた。貞蓮院と赤子の一件には隆礼も関わっているはずである。そのような企みに加担させるとは、守倉は何を考えているのか。
隆礼にしても弾正の話を作り話であるかのようにあしらってしまった。まるで疲れた弾正の作り上げた妄想だろうと言わんばかりだった。それも気に食わなかった。
卯之助という名を名乗っていた頃の隆礼は他の子らとさして変わらぬ田舎の子どもだったはずなのだが。
どうやら野兎は江戸で狸に化けたらしい。いや、元々狸であったのかもしれぬ。兎に化けていたそれが江戸で本性に戻ったのではないか。
しかも狸の傍には守倉の狐が控えている。
鼠の婿は果たしてこの先、あの狐と伍していけるのか。
まずこれまでの捜索で一切城の外での足取りがつかめぬことが報告された。すでに事件が起きて六日目。なんらかの手段を用いて領外へ出た恐れもあった。だが、領外まで探索するのは時間と人員のやりくり、経済的問題で無理な話であった。それに動員されている奉行所や大番組では通常の仕事にも支障が出始めている。樹上の烏の巣を調べるために負傷した者までいた。
城代家老の提案で、捜索の規模を縮小し、関所の出入りだけは厳しく監督することとなった。
また、今回の件の責任をとって御隠居所の警備の責任者の謹慎と降格、貞蓮院付の奥女中の解雇が決まった。
さらに家老の沢井甚太夫は御蔵方の守倉平太郎からの案を提示した。
「元々赤子は守倉に引き渡すことになっておった。故に以後は守倉の者で探索すると言っておる。赤子の父は守倉の一族であったから一族でけじめをつけると」
けじめをつける。この言葉の意味が分からぬ者はいなかった。要するに貞蓮院は見つかり次第始末されるということだった。
「異議はありませんな」
城代家老の言葉に異議を唱える者はなかった。まったく手がかりのない捜索は家臣らを疲弊させていた。
「ところで」
町奉行が口を開いた。
「此度の件で、領民が天狗を恐れ、外出を避けたり、子どもを外に出さぬようにしている。かようなことが続くと領民の間に鬱憤がたまり、流言飛語がはやることも考えられる。そこで祈祷をして天狗を恐れる必要がないことを示す必要があるかと」
祈祷で解決しようというのは、現代人の目から見れば奇異だが、当時としてはごく普通の考えだった。疫病が流行しても、殿様が病気になっても、まずは祈祷だった。
「それはよき考え。領民も安心するであろう」
城代家老はじめ皆うなずいてこれも決定した。早速寺社奉行の戸川金兵衛が手配をすることになった。
最後に城代家老が評定所の後見の山置弾正に伺いを立てた。
「弾正様、何かございませんか」
「特にない」
このような会議で弾正が意見を言うことはめったにない。言えば、せっかく決定した事項がひっくり返ることになる。
城代家老は丸い顔に安堵の色を浮かべ、散会を告げると、殿様のいる御座の間に向かった。
「城代殿、それがしもよいか」
珍しく弾正が同行すると言ったので、城代家老は驚いた。だが、それを断る理由はなかった。
御座の間の隆礼は城代家老の報告を受け、了承した。もしここで反対意見を言えば、また会議をやり直すことになる。それに、彼らの判断は妥当だった。
とりあえず、質問だけはしておく。
「ところで、祈祷の名目はいかがするのだ」
「戸川が委細をこれから決めます」
「天狗の機嫌を損ねぬようにな」
「かしこまりました」
城代家老は執務がありますのでと先に退出した。
残ったのは弾正である。
「弾正、いかがした」
「御人払いを願います」
すでに小姓は入室時に室外に控えさせている。この場には隆礼と弾正啓哲しかいない。
「我ら二人しかおらぬが」
「天井に鼠がおります」
弾正はちらりと天井の隅に目を向けた。
「鼠はおらぬはずだが」
そう言った隆礼と弾正の間に男が胡坐をかいていた。まるで壁から湧いて出たようだった。
「鼠ではありません」
裁付袴の男はそう言うと、姿勢を正した。弾正は不機嫌そうにふんと小さく息を吐いた。
「やはり、そちか」
「守倉平太郎にございます」
江戸と国許を往来することの多いこの男の顔を弾正はほとんどまともに見たことがなかった。今初めて間近で見る顔には特に際立った特徴がない。黒子もなければえくぼもない。美男でもなければ醜男でもない。守倉の者には目立った特徴がないというのは昔から言われていることだが、まさしく目の前の男は守倉の者そのものだった。もっとも、その不敵な態度が特徴といえば特徴かもしれなかったが。
「出て行けと言っても、今度は床下に忍ぶのであろうな」
弾正は不機嫌さを隠さなかった。この連中はいつもそうだ。いなくなったと思って安心していても、なぜか人の話を聞いているのだ。地獄耳だと人々は密かに噂していた。
「まあよい。そちがいたほうが話が早い」
そう言うと弾正は、まるで平太郎がいないかのような顔で隆礼を見た。
平太郎は二人の間の邪魔にならぬように、弾正の背後に下がった。だが、その気配はまったく弾正には感じられない。猫でさえ背後にいればなんとなく気配を感じさせるものなのだが。
薄気味は悪いが、殿の御前で不埒な真似はするまい。弾正は覚悟を決めて、口を開いた。
「此度の貞蓮院のこと、啓庸を利用されましたな」
「婿殿を利用とは、いかなる意味か」
隆礼は不思議そうに弾正を見た。
これはもしかすると、本当にわかっていないのかもしれぬと弾正は思った。
「啓庸を山置に行かせると決めたのはどなたですか」
「余が決めたことだ。この機会に土地のことを知ってもらうために」
「まことにそうでしょうか。畏れながら、誰ぞに吹き込まれたのではありませんか。分家の婿にも仕事を与えるようにと」
「はて。誰ぞとは誰なのだ」
隆礼の黒目がわずかに揺れて見えた。やはり心当たりはあるらしい。
何をしらばっくれているのだと弾正は思ったが、顔にも口にも出さなかった。
「私の考え過ぎかもしれませぬな」
「考え過ぎだ。ところで、婿は今日は何をしておる」
「墓所の掃除を命じました」
「玄龍寺か」
「はい。盆も近うございますゆえ」
「今年の七夕は歌会ができず残念だったな」
貞蓮院捜索のため、例年七夕に御分家の屋敷で催していた歌会は中止になっていた。子どもらの七夕行事は行われたが、天狗の噂のため、今一つ盛り上がりに欠けたようだった。
「はい。来年は参勤で殿は不在。次は再来年になります」
「その頃には、そなたも爺になっておるかもしれぬな」
かもしれぬ。今朝、白川は昨夜も上々の御首尾と報告している。ただし、少々気にかかることもあったが。
「玄蕃と娘御の仲はどうだ。うまくいっておるか」
「おかげさまで」
「それはよかった。年が離れておるゆえ案じていたが、男女のことばかりはわからぬもの」
「ところで、山置の西畑村をご存知ですか」
「山置の西にある村だな。玄蕃から山賊の話を聞いた時に村の名を聞いた。襲われそうになった女子の夫が村役人であったな」
「では、話が早い」
一瞬、弾正は背後に鋭い殺気を感じた。が、すぐにそれは消えた。
「山賊など今まで出たことのなかった峠に、山賊が現われたというのは、なんとも解せませぬ」
「そうだな」
「さらに解せぬのは、西畑村の重兵衛なる者の妻のりつ」
「ん?」
「昨日までに山置の奉行から届いた日誌の写しを読み、重兵衛の妻りつについて調べさせました。りつなる女子は香田角の出で、実家で子を産んだとのこと。そこで、人別帳を調べたところ、竹野村に西畑村の重兵衛に嫁いだりつという女子がいることが判明しました。りつはこの数日確かに実家におりましたが、子を産んでおりません」
「何かの間違いではないのか」
「他にも、貞蓮院捜索のため道々で奉行や大番組配下の者共が赤子連れの女子を呼び止め調べた記録にもりつという名はありませぬ。これはいかなることでございましょうや」
弾正の態度はあくまでも冷静だった。
「弾正、そなたは評定所の後見、そこまでせずともよいのではないか」
後見は名誉職のようなもので、実際の現場では留役達が動いている。それに、弾正の命令で動かせる部下はそう多くない。弾正が事件の捜査に関わる必要はないからである。
「未熟ながらも婿が山置で働いておれば、それを助けるのは父であるそれがしの仕事」
「玄蕃もよき岳父を持ったもの」
「おそれいります」
「心配はいらぬ。山賊のことは山置の郡奉行らに任せればよい」
そう言った隆礼を弾正はちらと見た。
「山賊を放置すれば、また同じことが起きるやもしれません。それにりつが抱いていた赤子は西畑村に戻った後、亡くなったと聞きました。一体、これはどういうことか。それがしには合点がゆきませぬ。合点のゆかぬことをそのままにしておくのは、それがしには我慢なりませぬ。故に調べ、考えたのです。何も婿のためだけではござらん」
「考えたとは」
「これは誰ぞの奸計ではないかと」
「誰ぞのとは」
「それはひとまずおきましょう。ただし、その者のやりたかったことはわかります。その者は城下からある母子、すなわち貞蓮院と赤子を連れ出し、一刻も早く領外へ出したかったのだと」
隆礼はほうと息とも声ともつかぬ音を発した後に言った。
「して、弾正はそれで合点がいったのか」
「いえ、その先がございます。話してもよろしいでしょうか」
「許す」
弾正は腹をくくった。隆礼の機嫌を損ね、守倉の怒りを買うかもしれぬが、分家の婿を利用したのは許し難いことだった。
「ここから先はそれがしの推測です。まず、彼らは怪しまれてはならない。ならば他人になりすませばよい。りつという女の名を使った。重兵衛にもいくらかの謝礼を渡したのかもしれません。貞蓮院とは無関係であると思わせ、山置に入っても決して調べを受けぬようにと考えた。偶然か、それとも誰ぞの策略か、玄蕃が山置に貞蓮院捜索のために来ることになった。彼らを味方に付ければ怪しまれることはないと考え、山賊に姿を変えた仲間らに襲わせた。玄蕃らはよもや貞蓮院と赤子だとは思わず、母と子を助け、山置までのこのこと見送った。こうして貞蓮院と赤子は誰にも怪しまれず西畑村に入り、けもの道を使い薩摩に逃げ、赤子は死んだことにしたというのは考え過ぎでしょうか」
隆礼は眉一つ動かさず、口を閉じていた。
弾正もまた黙って隆礼の口元を見た。この口が開く時、いかなる言葉が発せられるのか。叱責か、哄笑か、あるいは……。
「弾正、郡奉行の日誌に重兵衛の取り調べが記録されていたはず。妻のりつは二十三だ。竹野村のりつの年はいくつだ」
「二十三とのこと」
「貞蓮院の年は知っているか」
貞蓮院とは城での行事で同席したことがある。自分より二つ年下であった。
「三十一かと」
「長い押し込めでずいぶんとやつれていたと医師が言うておった。お産の後、ぐらついていた歯が幾本か抜けたとも聞く。老婆に見えるとまでは言わぬが、二十三というには無理がないか」
「女子は化粧で化けます」
「したが、誤魔化せるものかのう。それに、さような奸計を弄して誰が得をするのだ。企みには必ず得をする者がおるはず。だが、貞蓮院と赤子が逃げて得をするのは本人達だけではないか。彼らを逃がして誰か他に得をする者がいるのか」
「おります」
弾正は振り返った。そこには守倉平太郎が端座していた。
平太郎は表情一つ動かさず、ただそこにいた。弾正の視線など存在しないかのように、彼は座っていた。
恐らく弾正の推測の続きをここで話しても、彼は一切反応を見せないだろう。
「弾正、なかなか面白い話であった。余の退屈を紛らしてくれたのであろうが、少々合点がゆかぬな。いくら化粧をして若く見せても弱った貞蓮院に峠越えとは無理があろう」
弾正は隆礼の声で姿勢を元に戻した。隆礼の表情は変わっていない。
「捜索はすでに町奉行や大番組の手から離れたのだ。評定所が手を出すことではない。そなたがあれこれと探索に心を砕いてくれたのはまことにありがたい。だが、かようなことを考えてしまうのは、ここ数日続けて出仕して疲れたせいであろう。しばし身体と心を休めるがよい」
「かしこまりました」
弾正は一礼し、御座の間を出た。
庭に面した廊下を歩くうちに、ふつふつと怒りが込み上げてきた。
守倉平太郎は婿を利用したのだ。婿可愛さではない。分家の婿を利用したのが許せないのだ。一体、当家を何だと思っているのか。いや、当家だけではない。殿を何だと思っているのか。
話をしている間、隆礼には時折動揺が見えた。貞蓮院と赤子の一件には隆礼も関わっているはずである。そのような企みに加担させるとは、守倉は何を考えているのか。
隆礼にしても弾正の話を作り話であるかのようにあしらってしまった。まるで疲れた弾正の作り上げた妄想だろうと言わんばかりだった。それも気に食わなかった。
卯之助という名を名乗っていた頃の隆礼は他の子らとさして変わらぬ田舎の子どもだったはずなのだが。
どうやら野兎は江戸で狸に化けたらしい。いや、元々狸であったのかもしれぬ。兎に化けていたそれが江戸で本性に戻ったのではないか。
しかも狸の傍には守倉の狐が控えている。
鼠の婿は果たしてこの先、あの狐と伍していけるのか。
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