江戸から来た花婿

三矢由巳

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第二章 天狗騒動

07 ふみづかい

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 お里久から文を受け取った浮橋は一読するや、軽いめまいを覚えた。
 御分家では今回の貞蓮院と赤子の不明事件を三人の娘にまったく知らせていないとは。城の奥でさえ、ある程度の情報は広まっている。ただ、外部に漏らさぬだけである。
 確かに貞蓮院が処罰された一件は下の妹二人に話せるような事ではない。だから、彼女と赤子が消えたことを話せないのはわかる。だが、せめて長女の壱子には事情をある程度話すべきだろう。婿の玄蕃が山置に捜索の加勢に行っているのだから。
 啓哲は壱子のことをまだ保護の必要な娘と思っているらしいが、婿を迎えた身なのだから、相応に接するべきではなかろうかと浮橋は思うのだ。
 白川は当主の弾正啓哲の命令で知らせることができないとあるが、一存で壱子にだけでもある程度のことは知らせても問題はあるまい。惣領娘として育った壱子なら、しっかりと対応できるはずである。
 恐らく壱子は隠されている事実を知るために、満津の方との面会を求めているに違いない。だが、満津の方から聞いたとなると弾正は心穏やかではあるまい。彼が満津の方に表面上は敬意をもって接していても、実は下賤の出の者と侮蔑の目で見ていることぐらい、浮橋にはお見通しだった。
 面倒くさい男なのだ。顔で笑いながら、腹ではロクなことを考えていない。身分が身分だけに厄介だった。
 さらに面倒くさいことに、激しい雨が降り出していた。
 浮橋はお里久に雨が小降りになるまで、控えの間で待つように言った。それまでに文の返事をするからと言って。
 お里久が下がった後、部屋子に控えの間に茶菓子を運ぶように命じた。御分家は羽振りがよく見えるが、内実は苦しく一家の食事は粗末で、奉公人の待遇もあまりよくないと白川から報告を受けている。城の奥も豊かではないが、菓子は御分家よりはましのはずである。雨に降られた上に腹が空いては気持ちも落ち込んでしまうだろう。
 浮橋は白川宛てと壱子宛ての二通の文を書くと、雨が小降りになったのを見計らってお里久を呼び、文を渡した。二通とも白川に渡すようにと言って。
 お里久は畏まって文を受け取り、奥を出た。雨はやみ、雲の隙間から日の光がのぞいた。



 山置の郡奉行所から城に公用便で送られるのは公文書だけではない。城下に妻子を置いて山置郷で働く者の家族宛ての私信も運んでいる。
 まず、城に到着した公用便運搬の担当者は下馬先で馬を下りた後、公文書を側用人に提出する。側用人はそれを関係部署に仕分けし、重要なものは城代家老や家老、殿様に回覧する。
 公文書以外の私信は、運搬担当者がそれぞれの屋敷に運ぶ。それだけ聞くと大変なことのように思われるが、私信を託す者は毎回二、三人であるし、宛先は大手町か辰巳町の決まった家なので、大して時間はかからない。時には山置への文を預かることもある。
 配達を終えて城に戻り、各担当からの返事や城代家老からの達示を受け取って山置に戻るということになる。
 この日も雨の中、私信を配達した。まずは辰巳町の小田切家。娘が受け取った。昔は大手町の屋敷に住み羽振りがよく、娘が直接来客に顔を合わせることなどなかったのだが。
 次の大手町の山川家は初めてだが、近所の奉公人に訊くとすぐに場所がわかった。受け取った下女はすぐに妻女の元へ走った。
 最後はお城の大手門の正面にある御分家の屋敷である。少々緊張したが、屋敷の奥向きを預かる白川に渡すことができた。白川はこれで甘い物でもと袋に入れた銭を持たせた。

「ところで山置で何か変わったことはなかったか」
「一昨日山賊が出て女の二人連れが襲われたそうです。たまたまこちらの若様達が通りかかり、山賊を追い払ったと聞いております」
「そうか。雨の中ご苦労であった」

 白川はそう言って、銭の入った袋をもう一つ渡したのだった。



「うっそお!」

 山川家の居間で文を広げた喜美は叫んでいた。はしたないとはわかっていても、叫ばずにはいられなかった。

「なんなの、喜美さん」

 八重は身を乗り出す。十亀も食べていた菓子を慌てて呑み込んだ。二人は夫の留守を一人で守る喜美を気遣って山川家を訪れていた。と言えば聞こえはいいが、実際は主が留守の山川家を溜まり場にしておしゃべりに興じていた。
 喜美は二人に見えるように夫からの文を広げた。目が近い八重は目をすがめた。足を棒に括り付けられた猪が運ばれている絵がまず見えた。

「なに、これは」
「猪よ、猪。出たんですって。それで村の者総出で仕留めたんですって」
「まあ、猪が」

 二人の若妻は驚きの余り、しばし言葉を失った。

「うちの父もよく山で出くわすって言ってた。まっすぐ走って来るから危ないの。牙が刺さったら大けがするもの」
「恐ろしいこと」
「でね、御分家の婿様が危うく猪とぶつかるところだったんですって」
「まあ」
「お怪我はなかったのね」
「そのようね」
「よかった」
「あの方には長生きしていただかなくては」

 八重が言う。

「そうね。我が家の行く末がかかっているんですもの」

 十亀もうなずいた。

「猪に殺されたらたまったもんじゃないわ。平四郎さまも責めを負って切腹なんてことになったら大変」

 喜美は自分で言っておきながら、背筋が寒くなってきた。
 三人の若妻にとって、源三郎の寿命は大問題だった。源三郎が生きている限りは実家の加部家から三人の家臣に扶持が出るのだ。それも山置家家中の同格の家の扶持よりも割高の。
 三人は結婚が決まってからそれを知った。家族もそれを聞くと大いに喜んだ。
 元々は禄目当てでの縁組希望ではなかった。姿形がよく知性的な三人の男は、香田角にはいないタイプだった。そんな男の妻になれたらと本人以上に家族がそれを望んだ。
 話が決まり扶持のことを知れば、今度はそれを維持することを考える。少しでも長く扶持をもらうには、主の源三郎に長生きしてもらわねばならなない。先々に生まれる子どものことを考えたのである。
 殿様は家中に武家なら身分の高低を問わず入れる学問所を作るらしい。八重の父もその準備のために働いている。御分家の養子の家来というのは殿様に仕える家臣よりも格は低いが、子どもが学問所に入って優秀な成績をとれば出世できるかもしれない。妻たちとその実家は、子どもの教育に金をかけて学問所に入れようと考えたのである。そのためには最低でも子どもが学問所に入るまでは、源三郎に生きていてもらわねばならない。
 一昨日、御分家を訪ね壱子に面会したのもそれゆえである。壱子の様子を見て前夜の初夜の首尾を確認しておきたかった。果たして源三郎は健康な男なのか。
 結果は一目瞭然だった。寝不足気味の壱子の赤い目を見た三人は口には出さぬが安堵していた。源三郎様は健康な男子だと確信した。
 だからこそ、不慮の事故に遭ったらと思うと気が気ではいられない。

「山置から早く帰って来てくださればね。あちらはいろいろ危ないもの」
「山置には猪だけでなく狼もいるわ」
「まあ、怖い」

 三人の妻は源三郎にどうか早く危険な山置から戻って来て欲しいと願っていた。



 最初に壱子が読んだ文は山置から届いた源三郎のものだった。
 白川から渡された封を開くと、見覚えのある文字が目に入った。お元気でよかったと思った。
 時候の挨拶から始まり、仕事はつつがなく進んでおり、郡奉行から厚く遇されているともあった。
 だが、読み進めるうちに、壱子の顔色が変わった。
 賊の探索中に猪に出くわし、山川平四郎に助けられたと書かれた後に絵が描かれていた。
 源三郎が寝転がり、横に平四郎が座っていた。二人の前をまっ黒な猪が走って行く。
 何の怪我もないと書いてあるが、横になっているということは何かあったのではないか。壱子は不安で何度も同じ文面を読んだ。
 村人が猪を仕留めて、炙った肉を夕食に食べたとあるが、肉を食べねばならぬほど弱っておいでなのではないか。

「白川、玄蕃様は御無事なのか」
「はい。山賊を追い払ったそうでございます」
「猪は」
「猪でございますか」

 壱子は文を見せた。

「この倒れているのは玄蕃様。怪我はないと書いてあるけれど、本当は違うのではないか。肉を食べることを薬食いと言うであろう。薬食いをするということは弱っておいでではないのか」

 白川は文面を見た。文字はしっかりしている。

「怪我をしている者がかようにはっきりとした文字を書けるわけはありません。玄蕃様は御無事です。猪を食べたのも村人から献上されたからとあります。薬食いと言いますけれど、江戸では病気でなくとも食べるのです」
「よかった」

 壱子は胸をなで下ろした。
 そう思ったのは白川も同様である。
 祝言の夜、壱子が階下に下りて来た時大丈夫かと思ったが、翌朝二人がまことの夫婦になった証を犬張り子の中に見た時は安堵した。
 あの朝は啓哲が早朝に評定所に出仕したので報告は遅れたものの、帰宅後、犬張り子を見せて報告した。啓哲も安心したようだった。ただ、朝方まで睦み合っていたようだと言うと、眉をひそめたが。
 
「いい年をして、無理をしおって」

 そうつぶやいた声が聞こえたが、白川は聞かぬふりをした。つい忘れそうになるが、啓哲は源三郎より年下なのだ。父親としても同じ男としても、複雑な気持ちを抱いていることは想像できた。 
 そういったことはあったが、源三郎は無事に初夜を終え、殿様から直々の命を受け公用で山置に行った。江戸では部屋住みでろくに仕事をしたこともないはずなのに、山賊を追い払うなどなかなかやるではないか。猪に遭遇しても無事に役目を果たしているようだった。贔屓目かもしれぬが、白川の目から見れば上出来の婿だった。

「白川様、里久が戻りました」

 おあんが廊下から声を掛けた。白川はしばし失礼しますと壱子の居室から退出した。
 白川の昼間の控えの間は壱子の居室の隣にあった。里久は浮橋様からお文を預かりましたと封書を二通出した。

「それからこれを頂きました。小さい方は姫様方に。大きい方は皆で分けるようにと」

 友禅の布包みを二つ差し出した。白川は中身は恐らく菓子であろう。浮橋は見かけは厳しいが、気配りは抜かりない。
 白川はまず自分宛の文を開いた。
 無事に婚礼の儀が行なわれたことを祝い、白川らの尽力をねぎらう言葉が連ねられていた。その後、貞蓮院の一件は壱姫に知らせるべきであると書かれていた。すでに町人の間に噂が広まっており、壱姫の耳に入るのは時間の問題、噂には虚偽があるので事実を可能な限り伝えるべきである、御分家としては娘にいらぬ心配をかけたくはないのであろうが、知っていれば無用な心配もせずに済むともあった。
 白川もそう思っていたので、浮橋の文は背中を押すものであった。
 浮橋はもう一通を壱姫にと最後に書き添えていた。恐らくここに事件のあらましが書かれているに違いなかった。
 白川は覚悟を決めて、壱子の居室に入った。もし啓哲に咎められたら、自分の一存で知らせたと言えばよい。


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