江戸から来た花婿

三矢由巳

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第一章 三男坊、南へ

26 務め

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 おもう様とは誰か知らないが、よほど頼りにしている人物なのだろう。源三郎は怯える野良猫を手なづけた時のことを思い出し、できるだけ優しい調子で言った。

「怖いことはしない」

 けれど、壱子は座ったまま後ずさりを始めた。表情に怯えの色が見えた。

「ごめんなさい。だけど、こわい、こわいの」

 口吸いだけで怖いと言われたらどうしようもない。一体どうすればいいのか。

「何もしないから」

 こう言うしかない。
 壱子は後ずさりをやめた。

「本当に、しないのね」
「ああ、しない」

 壱子はゆっくり立ち上がると自分の横になった場所にまで戻り腰を下ろした。
 源三郎はよろよろと立ち上がると障子を閉めて戻り、その横にやや離れて座った。愛らしく柔らかい唇、両の腕で抱きしめると折れそうな細い身体が手を伸ばせばそこにある。けれど、何もしないと言ってしまった。だから手を伸ばすことはできない。
 義父は早く孫が欲しいようだが、今しばらく待ってもらうしかあるまい。やはり初めてのことに対して臆病になるのは仕方なかろう。

「今日は疲れたでしょう。お休みなさい」

 そう言っても壱子はまだ警戒しているようで、源三郎から少し離れた。

「わかった。それじゃ、私が下で寝る」
「いけません、それは。夫を布団に寝せぬなど」

 そう言うと壱子は立ち上がり、衣桁に懸けられた打掛を手に取りあっという間に次の間から階下に下りて行った。
 源三郎は突然のことに動けなかった。が、暗いのに大丈夫かと思い後をそろそろと追うと、階下の灯りが漏れて見えた。

「おひい様、どうなされましたか」

 白川の声がした。どうやら下の部屋で寝ずの番をしていたらしい。ならば白川は自分が仮眠をとるために夜着を持ってきているかもしれない。だが、さすがに祝言の夜に花嫁が奥女中と寝るのはまずい。花婿が奥女中と寝るのはもっとまずい。
 白川のことだから、壱子をなだめてくれるかもしれない。ここは彼女に任せるかと、源三郎は下の部屋から見えぬように階段に腰を掛けて待つことにした。



 怖かった。まさか、あのようなことをされるとは。唇に唇で触れるなど、聞いたことも見たこともなかった。壱子が見せられた婚姻の絵にはそんな場面はなかった。それなのに、花婿の源三郎は唇に唇を付けた。その瞬間の驚きと息苦しさを思い出すと、今も胸がとどろくようだった。
 他にも絵にないことをされるのではないかと思うと恐ろしくてたまらなかった。
 助けてと思った時に浮かんだのは父の顔だった。思わずおもうさまと言ってしまった。これではまるで幼子ではないか。
 何もしないと言われても、怖かった。源三郎は父とはまったく違っていた。父はいつも衣服に香を焚き染めていた。近づくとよい匂いがした。けれど、唇に触れられた時の源三郎からは道場のあたりを歩いている野卑な若者のような臭いがしたような気がする。
 聴講に来た時にはわからなかった。まさか、こんなにも父と違うとは。
 無論、壱子とて、今宵せねばならぬことはわかっている。あの絵にあったように、抱き合って身体を交えるのだ。だが、唇に触れられた時、せねばならぬという言葉が吹き飛んだ。頭ではわかっていても、身体が言うことをきかなかった。だから思わず不埒者にするかのように、突き飛ばしてしまった。怪我こそしなかったが、源三郎の表情を見た途端、してはいけないことだったのだと気づいた。身体は傷つけなかったが心を傷つけてしまった。
 ごめんなさいという言葉だけで許してもらえるとは思えなかった。それなのに、何もしないと言ってくれた。言ってくれたけれど、同じ布団に寝るのはどうしてもできなかった。
 父がせっかく探してくれた婿なのに。父は孫の顔を早く見たいと思っているのに。殿様までもお祝いに来てくださったというのに。何より、遠い遠い江戸から長い旅をして源三郎は来てくれたのに。武蔵野の心を歌に詠んでくださったのに。
 情けなかった。とても顔を直視できなかった。だから下の部屋に下りて、そこで休もうと思った。白川がそこにいるとは思いもせずに。



 昨夜ろくに寝ていなかったせいか、うとうとしていた白川は壱子の悲鳴で目ざめた。恐らく、行為に驚いての悲鳴だろう。絵で知っていても実際はかなり違うはずである。白川は経験はないが、宿下がりの時に嫁に行った幼馴染が恥かしそうに少々きわどいことを話していた様子を思い出す。婿の源三郎も三十越しているのだ。年齢相応に経験があるはずである。それなりに対応できるだろう。こんな時にいちいち自分がしゃしゃりでるわけにはいかない。
 悲鳴の後、なにやら話す声が聞こえてきたので、どうやらうまくいきそうだと思った。
 けれど、階段を下りてくる音がして見上げると、壱子がいた。打掛を抱えている。
 声を掛けると、ゆっくりと降りて来た。

「白川、いたのか」
「はい。何か御用でしょうか」

 もし、寝所から逃げて来たなら、戻ってもらわねばならない。でなければ、白川がこの屋敷に遣わされた意味がない。

「ここで休ませてもらえぬか」

 やはり逃げて来たらしい。白川はここが正念場だと、己の姿勢を正した。

「なりませぬ」
「ならぬのか」

 呆然と立つ壱子を見上げた。

「はい。姫様は今日から玄蕃様の奥方様。奥方様には奥方様の務めというものがあります。私がここでお二方をお守りするのも務め、弾正様が評定所においでになるのも務め。殿様が参勤のため江戸へおいでになるのも務め。この世は、皆が務めを果たすことで成り立ち動いているのでございます。奥方様も奥方様としての務めを果たさねばなりません。これ以上は言わずともおわかりでしょう」

 ここまで言ってわからなければ跡取り娘の資格はないと白川は思う。

「絵と違っていた」

 壱子はぽつりと言った。

「絵とは偃息おそく図のことですか」
「さよう。あの中には口に口を付けているものはなかった。それなのに」

 白川は想像し少しだけ赤面した。幸い行灯の灯心は一本で薄暗いから壱子からは見えないはずである。
 口吸いとかいうもののことであろう。無論、白川は名を知っていても実際を知らない。漫画もテレビもネットも何にもない時代である。絵と人の話からしか想像できない。しかも口吸いの話など先に上げた幼馴染の話で言葉を聞いただけである。そんな場面を描いた絵を見たことがないから、実態はわからない。雲をつかむような話だった。それでもなんとなく顔が赤らんだ。
 だが、絵と違っていることをしたからといって婿に抗議するわけにはいかない。
 「頭でっかちのお姫様」と台所で笑っていた下女のおかつを辞めさせた時のことを思い出した。あの時はとんでもない下女だと思ったが、案外、頭でっかちというのは当たっていたのかもしれない。知識はあっても、それから外れたことになると、こんなにも動揺するとは。だが、それではいけないのだ。この世の中には自分が予期しないことはいくらでも起きるのだ。そんな時に、いちいち動揺して逃げていては話にならない。ましてや、壱子はこの御分家の跡取り娘である。妻として母として、強くあってもらわねばならぬ。
 祝言は大人の女になるための第一歩なのだ。

「口に口を付けるなど、驚くことではありません。女子のほとに男のまらを入れるのですから、それくらい当然です」

 ほとだのまらだの仕事でなければ絶対に言えないと白川は思う。けれど、言わねばならぬ。

「奥方様、お戻りください。逃げてはなりません」
「逃げてはおりません」
「いいえ、逃げです。よろしいですか。この世の誰もが己に課せられた務めを果たすために生きているのです。己の好き勝手に生きられる者などおりません。殿様も弾正様も皆務めを果たすため、逃げずに生きておいでです。玄蕃様もそうです。江戸にいる御身内や御友人と別れ、御分家の婿になるために長い旅をしておいでになったのです。奥方様はこの祝言で失ったものはございますか」

 しばし、沈黙が続いた。

「許せ、白川。我儘を言うてすまなかった」
「許すも許さぬも、奥方様をお諫めするのは私の務め。奥方様、きちんと玄蕃様に謝ってくださいませ。玄蕃様に許しを請い、務めをお果たしください。」

 壱子は踵を返すと、ゆっくりと階段を上がって行った。
 白川は安堵の息をもらした。これで大丈夫。後は玄蕃様次第。



 源三郎は気付かれぬように階段を上り床の上に正座して、壱子を待った。
 壱子より先に下りなくてよかったと心底思った。たぶん白川はもっと辛辣な言葉で源三郎を叱っていたに違いない。
 とはいえ、若い壱子にも白川は手厳しい。白川にあそこまで言われれば戻らぬわけにはゆくまい。それにしても御女中というのは、どこも肝が据わっているものらしい。女子のほとにという言葉を聞いた時はどうしようかと、年甲斐もなく慌ててしまった。
 逃げてはなりません。これも源三郎には痛い言葉だった。何もしないと言うのは、結局「逃げ」なのだ。江戸であれだけ逃げまくっていたのに、結局逃げられずにここに来た。なのに土壇場でまたも逃げようとした。壱子の怯えに付け込んで。卑怯者の振舞ではないか。
 壱子は怯える心を奮い立たせ、戻ってくるだろう。ならば、それを受けて立つ覚悟をせぬのは失礼だ。
 
 

「玄蕃様、申し訳ございません」

 目の前に座る壱子はそう言うと、三つ指を突いて頭を下げた。

「心得違いをしておりました。妻としての務めから逃げるなど」

 それは自分も同じだと源三郎は思う。

「その弱気に付け込んだ私も逃げようとしていた。だから、おあいこだ。顔を上げて」
「おあいこ……」

 顔を上げた壱子が見たのは、まっすぐに見つめるまなざしだった。眩しさに目を伏せた。

「戻って来てくれてありがとう」

 礼を言われる筋合いなどないのに、責められるべきなのに。壱子は泣きたくなった。

「逃げていたのは私なんだ。江戸で縁組を知らされてから、逃げることばかり考えていた。逃げるのを諦めてここまで来た。でも、また逃げようとして、何もしない、下で寝るなどと言ってしまった」
「なぜ、逃げたかったのですか」

 壱子は泣きそうになるのをこらえて、源三郎を見つめた。

「一人が気楽だったから。屋敷の中では厄介者だが、外に出ればそこそこ楽しいことがあったんだ。たぶん死ぬまでそういう暮らしをしていくのだと思った。でも、逃げられなかった。屋敷に連れ戻され閉じ込められた。そんな時に、あなたの絵姿を見せられた。それで香田角に行こうと思った」

 源三郎はあの時絵姿から感じたことは言わなかった。言う必要がないと思った。絵師は彼自身の目で壱子を見て描いた。今、目の前に真実の壱子がいる。これからは、自分が壱子を見つめていく。自分だけの壱子を心に描くために。

「絵だけで」

 壱子は信じられぬといわんばかりの顔をしていた。
 本当は吉宗からの文のこともあったが、それは言えない。桜色の唇で自分の名を呼んで欲しいと思ったことも。
 源三郎は足を崩した。驚く壱子にいざり寄って耳元で囁いた。

「ここに来てよかった。あなたはあの絵よりもずっと愛らしい。話をしてわかった。あなたのことをもっと知りたい。だから、夫婦になろう。絵と言葉だけではわからないあなたを知りたい」




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