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第三章 『espoir(希望)』

『僕も、君の希望になりたいんだ』

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銘醸地ボルドーのブドウ畑は、ピレネー山脈から流れるガロンヌ川と、中央高地から流れるドルドーニュ川がボルドー市のすぐ北で合流し、ジロンド川となって大西洋に流れ込む、この三つの河川の流域に広がっている。

ガロンヌ川及びジロンド川左岸の土壌は砂礫質土壌で、温かく水はけの良い土壌を好むカベルネ・ソーヴィニヨンの栽培に適し、ドルドーニュ川及びジロンド川右岸は粘土質土壌のため、冷たく保水力のある土壌に向いたメルロが多く栽培されていた。

また、森の中を流れる小さなシロン川がガロンヌ川に合流する地点では、ブドウが熟す秋になるとシロン川の水温が低くなり、二つの河川の水温差により明け方に霧が発生する。この湿った環境でブドウに貴腐菌が付き、貴腐ワインのソーテルヌも造られてきた。

ガロンヌ川とドルドーニュ川のほぼ合流点に位置するボルドーは、中世の時代にその立地を最大限に生かして、ワイン市場を確保した。

そのため、メドックのワインが高く評価されたのは、メドックが川の最も下流に位置しており輸送に有利だったからとも言われている。

「この場所を覚えていますか。貴方と、そこにある石垣に座って、よく一緒に、葡萄を食べていましたよね」

ボルドー地方でワイン造りを行う『シャトー』は16~17世紀頃から建てられるようになった醸造所が原型となる。18世紀に貴族が所有するようになり、19世紀目前にはフランス革命によって富豪の手に渡った。どの時代でも豊富な資金が投資されたことでワイナリーは栄華を極め、やがて畑・醸造施設、ワインの銘柄名は『シャトー』と呼ばれるようになった。

「あの日、未来を誓い合った時も、こんな素晴らしい夕焼けを眺めながら、キスをしましたよね。貴方から、初めて」

現代では、特定の所有者が畑とその近くに醸造所をもち、栽培・醸造・瓶詰する場合に『シャトー』を名乗ることができる。そのため、城があっても、なくても『シャトー・〇〇〇』と名乗っても良いことになっていた。

「懐かしいね」

秋。幼い頃から通った、その場所の。葡萄畑が一面に見渡せる、僕達の為だけに用意されたガーデンテーブルには。

ゆったりとしたボルドー型のワインボトルが、ひと瓶。

ボルドータイプのワイングラスが、二脚。

マチのある、紐付きのクラフト紙製の封筒に入った、ジョングク名義の各種証明書と。

同じく封筒に入った、僕名義の申請書類、戸籍謄本、及び、各種証明書。

そして、僕がサインすれば提出できる婚姻届と。

誰もが知る有名ブランドのプラチナ製のマリッジリングが、きちんとペアで収まった小さな箱が。

品の良い万年筆と一緒に、ずらりと並べられている。

かつて父親が所有し、今ではその権利の所在を千秋の下に移されている、千秋の生まれ育った場所でもあるフランスのシャトーで休暇を過ごそうと言われた時から、絶対に何かを企てているだろうな、とは思ってはいたけれど。まさか、ここまで用意周到な布陣を構えていたとは、夢にも思わなかった。

スマホの電波も届かない、千秋が所有する車以外に移動する手段がない、宿泊施設を有するこのシャトーに囲い込み、八方塞がりの状態に陥れて……僕という存在を、己が手中に収めるために準備されたラインナップには、改めて苦笑を禁じ得えない。

それにしても、千秋が、フランスで生まれ育ち、国籍をそこから移しておらず、就労ビザを使ってうちのオーベルジュで働いていたことは、知っていたけれど。その理由の深い部分にまで注視してこなかったツケが、ここにきて回ってくるとは、予想だにしていなかった。全く、手の込んだ真似をして。これは、あのオーベルジュにいる、他の人間達も、分かってやっているに違いないだろう。

僕達が、無事にお互いの気持ちを確認したことにより、僕という人間が、改めて、オーベルジュの主人として迎えられた記念にと与えられた休暇だとはいえ……一ヶ月は、どうにも長過ぎやしないか?と思ってはいたけれど。そのまま新婚旅行にしてしまえ、という彼らの無言のプレッシャーを、ひしひしと感じて、思わずその場で、深い溜息を吐いた。

婚姻届は別にしろ、アポスティーユ認証付きの戸籍謄本を始めとした、その他申請書類や証明書をどうやって入手したのか、その絡繰からくりと経緯が分からない。これは、間違いなく僕の知る大人の誰かしらの手が加わっている。帰ったら、覚えておいてよ、溝口支配人。

「これから、俺は、このシャトーの従業員達と話があるので、席を離れます。俺が帰ってくる前に、Ouiなら、このグラスに、このワインを注いでおいて下さい」

「答えが、Nonだったら?」

「……その場合は、この場にある物全てに手を付けず、シャトーにある特別室に戻って、先にシャワーを済ませておいて下さい」

千秋は、本気だ。その目が、佇まいが、実際の行動が、それを雄弁に物語っている。彼はいま、銅牆鉄壁どうしょうてっぺきの意志を築き上げ、いまこの場所で、この時に、僕という、たった一人の自分の兄と、生涯に渡ってその身分を保証される婚姻関係を結びたいと、強く望んでいるのだ。

血の繋がらない兄弟から、本当の家族に。
生涯のパートナーとなるために。

つまり、彼の言わんとする話を要約すると。僕は、目の前にいる、この子に。血の繋がらない弟から、生涯のパートナーとなるかもしれない男に。

"今夜こそは、逃がさない"と。
"俺に抱かれる準備をしておけ"と。

最後通告をされているのだ。

このフランス旅行に同行すると決めた時から、ある程度の覚悟は決めて、彼をこの身に受け入れるだけの準備もしてきたけれど……

今日、下した決断が、Ouiであっても、Nonであっても。予想される結果は、ほぼ変わらないだろうと思うと……自分の身に起こる凄惨たる未来を在り在りと脳内で想像してしまい、偏頭痛と僅かな胃痛を併発してしまった。

Ouiであれば、休暇中、葡萄畑の懐かしい土と風の香りを吸える可能性は限りなく低くなり。Nonであれば、暫くの間、飲む、食べる、排泄するという、人に備わった生得的行動すら、千秋の介助なしには立ち行かなくなるだろう。

これまで、お互いにパートナーを一度たりとも作らず、清廉潔白の身のままでいた僕達が、初めて知る未知の快楽を前にして、人らしい理性をどこまで働かせられるかは、全くの未知数だけれど。千秋のような、これまで数多現れた人間達の、誰の手も寄せ付けてこなかった希少性の高い人間にとって、それがどれだけ稀有な状況であるかは、想像だに難くない。

そして、これまで、どんな人間の誘惑にも応えずにきた彼が、ただ唯一の相手として選び続けたのが……この僕という存在、であるならば。

積年の想いを募らせてきた千秋の、これまで押さえ付けてきた淫欲と愛欲を、果たして無事に、この身で受け止めきれるだろうか。

それに、何より。この一回を凌いだからといって、二の矢、三の矢が用意されていないとは、到底思えない。

帰国すれば、その足でオーベルジュに舞い戻り、あのオーナーだけが使用を許される別棟に軟禁され。書類にサインをするまで、父親が愛人だった彼女を愛した、あのキングサイズのベッドで。

来る日も、来る日も。
毎晩、毎晩。
明け方近くまで離して貰えず。

千秋の気が済むまで、頭にも身体にも快楽を叩き込まれ、徹底的に抱き潰されてしまう可能性すらある。

愛を誓うためにサインをするか。
命を守るためにサインをするか。

その、どちらか一方を、選ぶまで。

「シャトーの人達とは、何を話すの?」

失われていた、二人の時間を取り戻すように、睦み合い、互いの熱を分かち合い、絡み合って。

「結婚式の最終確認をしに。当日は、市長が宣誓の為にこの場所を訪れるので、くれぐれも失礼の無いように、と」

お互いの肌の、触れた場所がなくなるまで。舐めて、啜って、齧り付いて。

そうして、やっと僕達は、『ふたつ』から、『ひとつ』となるのだろう。

「そう、楽しみだね。それに、このワインが、どんな味なのかも、凄く興味深い」

"ぼくたちの けっこんきねんび"と、子供の頃の自分の字で書かれた、ゆったりとしたボルドータイプのワインボトルの側面を。

瓶の底からコルクの縁に至るまで、指先で。

辿る。
辿る。
辿る。

夜を連想させる、嫋やかな手つきで。

「ねぇ、このワインを開けたとして、その美酒を味わっていられる時間は、ちゃんと僕にくれるの?」

『ごくん』

と、微かで、それでいて確かな音を風に乗せて。彼の喉仏が、大きく、上下に動く。

彼の、ぎらぎらと、期待と情欲とに濡れた双眸に、射抜くように見つめられて。僕の背筋には、ぞくり、と強烈な悦楽が走った。

"君のその目を、愛しているよ"

そんな台詞を君に告げたら、君は、いま、この場所で、僕に襲い掛かってしまうんだろうね。

そんな想像が簡単にできてしまう僕に、初めから選択肢なんて存在している筈がなかったんだ。

それを、君だって、よく分かっているんでしょう?

一体、何を怯えているの。
一体、何を期待しているの。

教えてよ、ねぇ。

いくつ、夜を重ねてもいいから。
幾らでも、君の熱に、応えるから。
僕のけがれに塗れたいというならそうするから。
君に僕の手垢をべっとりとこびりつけるから。

君が、僕をおそれている本当の理由を、教えて。

そして、その畏れが、恐怖が。
君の中から過ぎ去った、その時は。


一緒に、眠ろう。
子どもの頃と、同じ寝顔で。


「知ってるかな、千秋」


歴史に名を残す、誰かが言った。

"良いワインが造られる土地に生まれる人は幸福である"……と。

つまりね、千秋。君の幸福は、生まれながらにして、証明されていたんだよ。


「僕も、君の希望になりたいんだ」


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