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第一章 『それぞれの願い』
ねぇ、俺からのお願い
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「溝口支配人ってさ、もしかして、怖い人?」
オーナーだけが滞在を許されるという、外にある別棟に用意された特別室へと案内される道行きに、支配人室を出る前から詰めていた重苦しい息を漸く吐くと。コンパクトに纏めた、僕の持つ唯一の荷物を肩から掛けて先導する弘樹に疑問を投げかけた。はは、と快活な笑い声を上げた弘樹は、こちらを軽く振り返ると、無邪気な表情そのままに、僕の素朴かつ率直な疑問に答えるべく、うーん、と僅かに考え込んだ。
機嫌が治った様で、本当に何よりだ。そのまま凍え死んでしまいそうな程に寒く感じた、絶対零度を誇るあの部屋を出たばかりの頃は、まだまだ口数が少なかったけれど。僕が簡単な質問を投げ掛けていくうちに、次第に態度が軟化していった。
だから、一般的な日常会話が出来るまでに弘樹の機嫌が回復したのを見計らって、胸にあったこんな疑問を口にしてみたのだけれど……まだ、早かったかな?あの場に流れた絶対零度の空気が、一体何が引き金になってそうとなってしまったのか、原因も不明なままなのに。
それにしても、どうしてあんな事になってしまったんだろう。こうして外に出て、極寒の冬の寒さの中にあって物理的に頭を冷やしてみても、まるで理由が分からない。
「怖いか怖く無いかって言われたら、まぁ、怖い人かもしれないけど。特別厳し過ぎる人では無いよ。春翔に関する事だから、ちょっと過敏になってるだけで……まぁ、そのうち慣れるんじゃないの?」
「……僕に関する事?」
支配人である溝口さんが、僕という人間に関して過敏になる理由。それには、思い当たる節がいくつもあり過ぎて、何処まで突っ込んでいいのか分からない。父親の愛人が営んでいたこのオーベルジュにおいて、自分自身がどれだけアンタッチャブルな存在なのかは重々承知しているから、自然と言葉選びには慎重になった。
「うん。昨年末に俺達の事実上のボスが亡くなって、このオーベルジュの存続そのものが危うくなった時、そのままバラバラになって、中には路頭に迷う可能性すらあったファミリーを鼓舞して纏め上げたのが、溝口さんだったんだ。昔から前のボスとは経営方針で揉めたり、外からの干渉を受けて苦労してきた経験があるから、その分このオーベルジュに対する愛情が深くてね。新しくボスになる春翔についても、色々と下調べしたり、そのうちに、春翔が実家でどんな風に過ごしてきたかとか、境遇について知っ……あ、これは黙っておくように言われてたんだった」
ごめん、オフレコにしといて、と言って鮮やかなウィンクをすると、弘樹は、何事も無かったかの様にさっくりと道案内を再開した。僕に関する予備知識を予め仕入れていた溝口支配人の心情は如何許りか、想像を及ばせる余地はいくらでもある。今更聞かなかったことには出来ないけれど、彼の影なる努力を無為にしない為にも、今の話を忘れられる様に、一応の努力はしてみよう。
「……まぁ、なんていうか、つまりさ。お前は、俺達にとって、どれだけ過保護にし過ぎても全然足りないくらい、特別な存在だってわけ。それだけ覚えてくれてたら、それでいいから」
これまでの経緯を鑑みるに、本当にそうなのか?と疑って掛かってしまう気持ちは正直なところ、ある。けれど、僕の目の前にいて、真摯に言葉を尽くしてくれている弘樹が、耳障りの良い嘘を並べているようには、到底思えなかった。
「この場所に早く馴染みたいお前の気持ちも分かるけど、あんまり焦らずに、この場所で心の平穏を取り戻して欲しいんだよね。何にも邪魔されず、のんびり過ごしながらさ……これまで、自分の以外の問題で、人一倍苦労してきただろうから」
事前の下調べをしていく中で、溝口支配人が得た僕の情報は、ある程度従業員達に通達があったのかもしれない。目の前にいる、弘樹のように、僕の身の上や、養子として迎えながら実家で冷遇されてきた事実も、弘樹の口振りからして、或いは。
「因みに、これは俺一人が持ってる気持ちじゃないよ。ここにいるみんなが、俺と同じ気持ちでいるから。だからさ、すぐにすぐとはいかないだろうけど、いつかは、春翔にとっての本当の家族みたいな存在になりたいって、本気でみんな思ってるんだ。勿論、あんまり重たく考えて欲しくはないんだけど……ちょっとでいいから、何となく覚えておいてくれたら嬉しいかな」
過去に負った心の傷にそっと触れ、癒すかの様に奏でられる、労りに満ちた穏やかなテノール。弘樹の優しい気遣いに触れて、僕は、自然と胸がいっぱいになってしまった。
出会ったばかりの人なのに、こんなにも僕の心情に寄り添ってくれるだなんて。押し付けがましさも、まるで感じない。ただただ純粋な気遣いしか、そこにはなくて。若くして立派な肩書きを持つ人は、人よりも努力したり苦労してきた分、想像力や、人を癒す力に長けているのだろうか。頭が下がる思いだ。
……けれど、もし弘樹が言う通り、この場所にいるスタッフ全員が、僕に対して同じ印象をもって接してくれていたり、労りをもって言葉を尽くしてくれていたのなら。これまで彼らと交わしてきた言葉や態度への印象は、全くと言っていいほど、様変わりしてしまう。
初めて出会った時の、竹之内総料理長の言葉も。
『はは、確かに俺自身の見解をして、君を気に入ったとは言ったけれどね。少なくとも、半年から一年は様子を見なくては、俺達を君自身が気に入ってくれるかは分からないだろうからな……まぁ、気長に考えて馴染んでくれていったなら、それでいいさ』
そして、溝口支配人が言って退けた、あの台詞も。
『とはいえ、この場所にいる全ての従業員を頼って頂いても一向に構いません。全員が、貴方様という存在を受け入れる態勢を整えて、今日この日の為に準備をして参りましたから。御園様にとって、この場所が第二の故郷として心休まる場所となれるよう、従業員一同、粉骨砕身の覚悟で努力していく所存です』
その言葉通りの意味を持っているのだとしたら……そして、何より。
『このワインは、私がシェフと入念な打ち合わせを行った後に、本日のお食事に合わせてご用意した物です。御園様は、世界中、ありとあらゆる国々のワインをお召し上がりになってきたご経験がお有りでしょうから、こうして本国でも素晴らしいワインが作られている事を知って頂けたなら、僅かでも印象に残る夜になるのではないか、と……』
嗚呼、僕は、僕って人間は。
『出過ぎた真似をして、大変失礼致しました。私の小手先程度の気遣いなど、御園様にとっては誠に幼稚に感じられた事だとご推察します。今回の件は、貴重な経験として持ち帰り、今後のご参考とさせて頂きます。遅きに失した事とは存じ上げますが、ワインは代わりの物をご用意させて頂きます……重ねて、本日は大変申し訳ありませんでした』
どれだけ目の前にある事実や気遣いを曲解して。なんて、取り返しの付かない過ちを犯してしまったんだ。
「時任さんに……皆さんに、謝らなくちゃ」
初めのうち、僕は、この場所にいる皆さんを、全員自分の敵なんだと認識していた。孤軍奮闘する、たった一人の、何も持たない人間だから。少なくとも、絶対に舐められたり、弱みを見せたり、付け入る隙を与えたりしないと、全身の毛並みを逆立てていたんだ。
なのに、蓋を開けてみたら。それらの仮想敵は、全て、自分自身が作り出した虚像でしかなかった。
僕は、父親の『秘密』を暴く目的と、自分自身の健全な復讐を果たしたいという身勝手な想いを果たす為に、ここにやってきただけなのに。あんなにも心の籠ったおもてなしを、僕は自分の生い立ちや感情を優先して、台無しにしてしまった。
溝口支配人には謝ったけれど、そんな簡易的なものじゃ全然足りていない。みんながみんな、今日この日を、僕にとって記憶に残る特別な一日にしてみせようと意気込んで、一致団結して入念な準備をしてくれていただろうに。反応がいまいちだった僕の様子を見て、みんなきっと、ガッカリと肩を落としていただろう。申し訳なくて堪らなくて、落ち着き始めていた胃が、再びキリキリと痛みを訴え始めた。
「大丈夫だと思うよ。そんなに気にするような人達じゃないし。夜の部のミーティングも、次はああしようこうしようって、反省会なのに、凄く盛り上がってさ。まぁ、千秋は……あいつはお前に会うの本当に楽しみにしてたから、かなり凹んでたいたけど。でも、これから会うんでしょ?」
「うん……」
「じゃあ、誤解が解けた所で、ちゃんと話し合ってみたら?案外上手くいくんじゃないかな」
何だか、本気で泣きそう。誰かの好意を無碍に扱って、この歳でこんな風に子供みたいに泣きそうな気持ちになるだなんて、今日の朝まで予想すらしていなかった。
人の優しさは、誰かを癒す時、その誰かをこんな風に、無防備にしてしまうんだね。
時任さんは、僕の事を、本当はどう思ってくれているんだろう。
彼から見た僕は、一体どんな印象だった?
僕は、彼にとってどんな存在なんだろう。
知りたい事が山積みで、だけど、僕はそれを知らなくちゃいけないんだ。
いや、違う。
時任 千秋という人が、本当はどんな人なのか、僕は知りたい。
「ありがとう、弘樹。君がこの場所にいてくれて、本当に良かった。僕を縛り付ける醜い感情とか、まるで呪縛みたいに頭に纏わりついてる被害妄想は、まだ時間を掛けないとどうにもならないけれど……君や、この場所にいる人達がいてくれたなら、僕はいつか、昔みたいに人からの厚意を素直に受け入れられる人間に戻れるかもしれない」
時任さんに、誠心誠意を込めて、謝ろう。そして、彼が本当は何を考えていて、これから先、僕とどんな関係性を築いていきたいのか、その気持ちを聞いてみよう。
僕達を繋いでいる過去の鎖は、どうあっても見ないようにはできないけれど。
血は繋がらなくても、僕達は、この世界でたった二人きりの兄弟だから。
身勝手な父親に振り回されてばかりいた僕達にしか出来ない話が、きっときっと、沢山あるから。
ゆっくり、時間を掛けて、彼と親睦を深めていきたい。
そして、このオーベルジュ『espoir』の人達と、ここで働く人達と、僕はもっと、親しくなりたい。
復讐の舞台ではなく、この場所が、僕にとっての、本当の『居場所』となれる日が来るように。
「ふぅん……じゃあ、春翔は俺達と一緒にいたら、今よりもっと可愛い子になっちゃうんだね」
「何それ、あはは、弘樹って面白い事言うね」
「なんで笑うの?」
「えぇ?えっと、なんでって。初めて言われたからさ、そんな事……なんか、ごめんね」
『家族』か。いままで、僕の人生の中で、きちんと機能してこなかった言葉だったけれど。
「謝らなくてもいいよ。俺の前で、こうして笑ってくれたから。気になるような言い方して、俺の方こそ、ごめん。あんまり綺麗に笑ってくれたから、吃驚しちゃってさ」
これからは、もっと血の通った、温かな言葉にしていけるかな。
して、いきたいな。
「あのさ、俺達は、この場所を大切に想ってくれるお客様や、ここで働く家族みんなの笑顔を見たいがために、ここに残ったようなものだから。春翔も、いまよりもっと、自然に笑ってくれるようになれたら嬉しいんだよね。だから、あんまり最初から頑張り過ぎないで、ただただゆっくり羽を伸ばして……ここで、幸せそうにしていてよ」
この人や、時任さんや、みんなと一緒に。
「ねぇ、俺からのお願い。俺達と一緒に、絶対に幸せになるって、約束してくれる?」
「溝口支配人ってさ、もしかして、怖い人?」
オーナーだけが滞在を許されるという、外にある別棟に用意された特別室へと案内される道行きに、支配人室を出る前から詰めていた重苦しい息を漸く吐くと。コンパクトに纏めた、僕の持つ唯一の荷物を肩から掛けて先導する弘樹に疑問を投げかけた。はは、と快活な笑い声を上げた弘樹は、こちらを軽く振り返ると、無邪気な表情そのままに、僕の素朴かつ率直な疑問に答えるべく、うーん、と僅かに考え込んだ。
機嫌が治った様で、本当に何よりだ。そのまま凍え死んでしまいそうな程に寒く感じた、絶対零度を誇るあの部屋を出たばかりの頃は、まだまだ口数が少なかったけれど。僕が簡単な質問を投げ掛けていくうちに、次第に態度が軟化していった。
だから、一般的な日常会話が出来るまでに弘樹の機嫌が回復したのを見計らって、胸にあったこんな疑問を口にしてみたのだけれど……まだ、早かったかな?あの場に流れた絶対零度の空気が、一体何が引き金になってそうとなってしまったのか、原因も不明なままなのに。
それにしても、どうしてあんな事になってしまったんだろう。こうして外に出て、極寒の冬の寒さの中にあって物理的に頭を冷やしてみても、まるで理由が分からない。
「怖いか怖く無いかって言われたら、まぁ、怖い人かもしれないけど。特別厳し過ぎる人では無いよ。春翔に関する事だから、ちょっと過敏になってるだけで……まぁ、そのうち慣れるんじゃないの?」
「……僕に関する事?」
支配人である溝口さんが、僕という人間に関して過敏になる理由。それには、思い当たる節がいくつもあり過ぎて、何処まで突っ込んでいいのか分からない。父親の愛人が営んでいたこのオーベルジュにおいて、自分自身がどれだけアンタッチャブルな存在なのかは重々承知しているから、自然と言葉選びには慎重になった。
「うん。昨年末に俺達の事実上のボスが亡くなって、このオーベルジュの存続そのものが危うくなった時、そのままバラバラになって、中には路頭に迷う可能性すらあったファミリーを鼓舞して纏め上げたのが、溝口さんだったんだ。昔から前のボスとは経営方針で揉めたり、外からの干渉を受けて苦労してきた経験があるから、その分このオーベルジュに対する愛情が深くてね。新しくボスになる春翔についても、色々と下調べしたり、そのうちに、春翔が実家でどんな風に過ごしてきたかとか、境遇について知っ……あ、これは黙っておくように言われてたんだった」
ごめん、オフレコにしといて、と言って鮮やかなウィンクをすると、弘樹は、何事も無かったかの様にさっくりと道案内を再開した。僕に関する予備知識を予め仕入れていた溝口支配人の心情は如何許りか、想像を及ばせる余地はいくらでもある。今更聞かなかったことには出来ないけれど、彼の影なる努力を無為にしない為にも、今の話を忘れられる様に、一応の努力はしてみよう。
「……まぁ、なんていうか、つまりさ。お前は、俺達にとって、どれだけ過保護にし過ぎても全然足りないくらい、特別な存在だってわけ。それだけ覚えてくれてたら、それでいいから」
これまでの経緯を鑑みるに、本当にそうなのか?と疑って掛かってしまう気持ちは正直なところ、ある。けれど、僕の目の前にいて、真摯に言葉を尽くしてくれている弘樹が、耳障りの良い嘘を並べているようには、到底思えなかった。
「この場所に早く馴染みたいお前の気持ちも分かるけど、あんまり焦らずに、この場所で心の平穏を取り戻して欲しいんだよね。何にも邪魔されず、のんびり過ごしながらさ……これまで、自分の以外の問題で、人一倍苦労してきただろうから」
事前の下調べをしていく中で、溝口支配人が得た僕の情報は、ある程度従業員達に通達があったのかもしれない。目の前にいる、弘樹のように、僕の身の上や、養子として迎えながら実家で冷遇されてきた事実も、弘樹の口振りからして、或いは。
「因みに、これは俺一人が持ってる気持ちじゃないよ。ここにいるみんなが、俺と同じ気持ちでいるから。だからさ、すぐにすぐとはいかないだろうけど、いつかは、春翔にとっての本当の家族みたいな存在になりたいって、本気でみんな思ってるんだ。勿論、あんまり重たく考えて欲しくはないんだけど……ちょっとでいいから、何となく覚えておいてくれたら嬉しいかな」
過去に負った心の傷にそっと触れ、癒すかの様に奏でられる、労りに満ちた穏やかなテノール。弘樹の優しい気遣いに触れて、僕は、自然と胸がいっぱいになってしまった。
出会ったばかりの人なのに、こんなにも僕の心情に寄り添ってくれるだなんて。押し付けがましさも、まるで感じない。ただただ純粋な気遣いしか、そこにはなくて。若くして立派な肩書きを持つ人は、人よりも努力したり苦労してきた分、想像力や、人を癒す力に長けているのだろうか。頭が下がる思いだ。
……けれど、もし弘樹が言う通り、この場所にいるスタッフ全員が、僕に対して同じ印象をもって接してくれていたり、労りをもって言葉を尽くしてくれていたのなら。これまで彼らと交わしてきた言葉や態度への印象は、全くと言っていいほど、様変わりしてしまう。
初めて出会った時の、竹之内総料理長の言葉も。
『はは、確かに俺自身の見解をして、君を気に入ったとは言ったけれどね。少なくとも、半年から一年は様子を見なくては、俺達を君自身が気に入ってくれるかは分からないだろうからな……まぁ、気長に考えて馴染んでくれていったなら、それでいいさ』
そして、溝口支配人が言って退けた、あの台詞も。
『とはいえ、この場所にいる全ての従業員を頼って頂いても一向に構いません。全員が、貴方様という存在を受け入れる態勢を整えて、今日この日の為に準備をして参りましたから。御園様にとって、この場所が第二の故郷として心休まる場所となれるよう、従業員一同、粉骨砕身の覚悟で努力していく所存です』
その言葉通りの意味を持っているのだとしたら……そして、何より。
『このワインは、私がシェフと入念な打ち合わせを行った後に、本日のお食事に合わせてご用意した物です。御園様は、世界中、ありとあらゆる国々のワインをお召し上がりになってきたご経験がお有りでしょうから、こうして本国でも素晴らしいワインが作られている事を知って頂けたなら、僅かでも印象に残る夜になるのではないか、と……』
嗚呼、僕は、僕って人間は。
『出過ぎた真似をして、大変失礼致しました。私の小手先程度の気遣いなど、御園様にとっては誠に幼稚に感じられた事だとご推察します。今回の件は、貴重な経験として持ち帰り、今後のご参考とさせて頂きます。遅きに失した事とは存じ上げますが、ワインは代わりの物をご用意させて頂きます……重ねて、本日は大変申し訳ありませんでした』
どれだけ目の前にある事実や気遣いを曲解して。なんて、取り返しの付かない過ちを犯してしまったんだ。
「時任さんに……皆さんに、謝らなくちゃ」
初めのうち、僕は、この場所にいる皆さんを、全員自分の敵なんだと認識していた。孤軍奮闘する、たった一人の、何も持たない人間だから。少なくとも、絶対に舐められたり、弱みを見せたり、付け入る隙を与えたりしないと、全身の毛並みを逆立てていたんだ。
なのに、蓋を開けてみたら。それらの仮想敵は、全て、自分自身が作り出した虚像でしかなかった。
僕は、父親の『秘密』を暴く目的と、自分自身の健全な復讐を果たしたいという身勝手な想いを果たす為に、ここにやってきただけなのに。あんなにも心の籠ったおもてなしを、僕は自分の生い立ちや感情を優先して、台無しにしてしまった。
溝口支配人には謝ったけれど、そんな簡易的なものじゃ全然足りていない。みんながみんな、今日この日を、僕にとって記憶に残る特別な一日にしてみせようと意気込んで、一致団結して入念な準備をしてくれていただろうに。反応がいまいちだった僕の様子を見て、みんなきっと、ガッカリと肩を落としていただろう。申し訳なくて堪らなくて、落ち着き始めていた胃が、再びキリキリと痛みを訴え始めた。
「大丈夫だと思うよ。そんなに気にするような人達じゃないし。夜の部のミーティングも、次はああしようこうしようって、反省会なのに、凄く盛り上がってさ。まぁ、千秋は……あいつはお前に会うの本当に楽しみにしてたから、かなり凹んでたいたけど。でも、これから会うんでしょ?」
「うん……」
「じゃあ、誤解が解けた所で、ちゃんと話し合ってみたら?案外上手くいくんじゃないかな」
何だか、本気で泣きそう。誰かの好意を無碍に扱って、この歳でこんな風に子供みたいに泣きそうな気持ちになるだなんて、今日の朝まで予想すらしていなかった。
人の優しさは、誰かを癒す時、その誰かをこんな風に、無防備にしてしまうんだね。
時任さんは、僕の事を、本当はどう思ってくれているんだろう。
彼から見た僕は、一体どんな印象だった?
僕は、彼にとってどんな存在なんだろう。
知りたい事が山積みで、だけど、僕はそれを知らなくちゃいけないんだ。
いや、違う。
時任 千秋という人が、本当はどんな人なのか、僕は知りたい。
「ありがとう、弘樹。君がこの場所にいてくれて、本当に良かった。僕を縛り付ける醜い感情とか、まるで呪縛みたいに頭に纏わりついてる被害妄想は、まだ時間を掛けないとどうにもならないけれど……君や、この場所にいる人達がいてくれたなら、僕はいつか、昔みたいに人からの厚意を素直に受け入れられる人間に戻れるかもしれない」
時任さんに、誠心誠意を込めて、謝ろう。そして、彼が本当は何を考えていて、これから先、僕とどんな関係性を築いていきたいのか、その気持ちを聞いてみよう。
僕達を繋いでいる過去の鎖は、どうあっても見ないようにはできないけれど。
血は繋がらなくても、僕達は、この世界でたった二人きりの兄弟だから。
身勝手な父親に振り回されてばかりいた僕達にしか出来ない話が、きっときっと、沢山あるから。
ゆっくり、時間を掛けて、彼と親睦を深めていきたい。
そして、このオーベルジュ『espoir』の人達と、ここで働く人達と、僕はもっと、親しくなりたい。
復讐の舞台ではなく、この場所が、僕にとっての、本当の『居場所』となれる日が来るように。
「ふぅん……じゃあ、春翔は俺達と一緒にいたら、今よりもっと可愛い子になっちゃうんだね」
「何それ、あはは、弘樹って面白い事言うね」
「なんで笑うの?」
「えぇ?えっと、なんでって。初めて言われたからさ、そんな事……なんか、ごめんね」
『家族』か。いままで、僕の人生の中で、きちんと機能してこなかった言葉だったけれど。
「謝らなくてもいいよ。俺の前で、こうして笑ってくれたから。気になるような言い方して、俺の方こそ、ごめん。あんまり綺麗に笑ってくれたから、吃驚しちゃってさ」
これからは、もっと血の通った、温かな言葉にしていけるかな。
して、いきたいな。
「あのさ、俺達は、この場所を大切に想ってくれるお客様や、ここで働く家族みんなの笑顔を見たいがために、ここに残ったようなものだから。春翔も、いまよりもっと、自然に笑ってくれるようになれたら嬉しいんだよね。だから、あんまり最初から頑張り過ぎないで、ただただゆっくり羽を伸ばして……ここで、幸せそうにしていてよ」
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