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第一章 『それぞれの願い』
絶対零度の微笑み
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・
かつて、このオーベルジュが、イギリス本地において邸宅として機能を果たしていた頃。僕が今いるこの部屋は、邸宅の主人にとって憩いの場である書斎として使用されていたという。現在では、このオーベルジュの全従業員を取り纏めるオーナーと支配人の為の小規模な執務室としての役割を果たしているこの部屋は、すべての壁面を書架で埋めつくしたライブラリーが設けられるようになっており、貴重な歴史的資料としての価値を持つ蔵書が、極めて高い保存状態を保ったまま、幾星霜の年月を経て連れ添ってきた邸宅と共に歴史を刻み続けていた。
否が応にも歴史の重みをずっしりと感じてしまうこんな場所で、溝口支配人と二人、リラックスして仕事が出来るようになるまで、一体どれくらいの時間が掛かることやら。そもそも、僕はそれまでこの場所に居られるんだろうか。
この場所に就く、いま正にこの部屋にあって、僕の背後にずらりと並んだ少数精鋭かつ海千山千の従業員達を相手にしながら、溝口支配人と共に執務をこなしていく自分の姿のイメージが全く湧いてこない。それまでに見切りを付けられて追い出される未来は、簡単に想像がつくけれど。
「さて、主要な従業員達の正式なご挨拶が済んだ所で、御園様の今後の所在についてご案内したいと思います。まずは……三峰君、こちらに」
今日紹介を受けた主要な従業員の……僕の提案を受けてこの場を欠席している時任さん以外の皆さんが勢揃いして待っていたこの場所までの案内役を務め、一緒になってこの部屋に入室してくれた弘樹が、皆さんよりも一歩前へと歩み出て、僕の隣に立つと。支配人だけが着席を許される深い胡桃色をした革張りの椅子に座っていた溝口支配人は、僕に向けて、見る者全てに安心感を与える穏やかな表情を浮かべた。
「今後、御園様の指導係として、彼をつけます。ホテルとレストランの中間に位置する、オーベルジュという特異な場所に慣れてもらうまでは、彼を頼って下さい」
日中の、ラフな格好をしていた時とは違って、オーダーメイドの燕尾服をかっちりと着こなしている弘樹は、男の僕でも惚れ惚れするほどの凛々しい立ち姿をしている。溝口支配人の紹介を受けた弘樹が、ハッとする程の美しい所作で、僕に向けて頭を下げたので、僕もそれに合わせて、慌てて頭を下げた。
「とはいえ、この場所にいる全ての従業員を頼って頂いても一向に構いません。全員が、貴方様という存在を受け入れる態勢を整えて、今日この日の為に準備をして参りましたから。御園様にとって、この場所が第二の故郷として心休まる場所となれるよう、従業員一同、粉骨砕身の覚悟で努力していく所存です」
その場にいる主要な従業員を代表したその言葉に、否を唱える人間は誰もいなかった。誰しもがその意見に同意しているという空気が、その場に流れる。まぁ、人には本音と建前というものがあるから、この場にいる皆さんが、内心で何を考えているかまでは分からないけれど……それにしても、妙なプレッシャーすら感じてしまうのは、何故だろう。
ただ、そうは言われても、誰彼構わず頼ってばかりいる、自立心の無い甘えた人間に、勝手に求心力が宿るはずもない。一生懸命にこの場所に慣れる努力をして、自分自身を成長させていく姿を見せていかなければ、僅かながらにある信頼や期待も、時間が経つにつれて失われていくだろう。僕という特異な存在に対する純粋な好奇心が、従業員達の両の眼から消え去った時に残る評価が、今後の僕自身の立ち位置を左右していく……職歴無しのフリーターには、荷が重いです。
「本日は、大変お疲れ様で御座いました。御園様の為に、特別室をご用意致しましたので、本日はこのまま、お部屋でごゆるりとお休み下さい」
特別室。聞いただけでも、ウッと、胃に負担が。だって、普通の利用客とは訳が違うんだもの。部屋を用意するのも片付けるのも従業員。つまりは今後お世話になる、仕事仲間。そんな場所で、気遣いを真に受けて心身共に寛げる筈もない。
「本日は、こうして特別なご配慮を賜り、本当にありがとうございます。お料理も、お酒も、サービスも、全てが完璧な夜でした。ただ、信じて頂けないかもしれませんが、僕は、こうした場所には本当に不慣れで……僕の経験不足から、食事会場では失礼な態度を取ってしまい、大変申し訳ありませんでした」
まずは、自分自身の不出来な部分にフォーカスを当て、素直に、正直に、事実を告白する。そしてその後に、胸で温めて来た自分の本当の気持ちを打ち明けた。
「そんな不出来な僕が、皆さんのご厚意で用意して頂いた特別室を利用するだなんて、とてもじゃないですが、烏滸がましくて。それに、僕みたいな分布相応な人間が特別な待遇を受けていると知れたら、明日からお迎えされる他のお客様に、不快な思いをさせてしまうかもしれませんし……格別のご待遇を賜りながら、大変恐縮ではあるのですが、出来れば今日その日から、他の従業員の方々と同じく、社員寮を使用出来れば嬉しく思います」
特別待遇を受けるよりも、他の従業員と一緒くたに扱われた方が、気が楽だ。今日紹介された殆ど全ての人達が、道路を隔てた向かい側にある社員寮を宿舎として使用している。同じ釜のご飯を食べる環境に身を置けるのも、この場所に早く馴染みたい僕にとっては都合がいい。
だから、他の従業員の人達と横並びになって寝食を共にし、一日でも早くこの場所に馴染める様に、これから頑張っていこう……そう心に決めて、目の前に座る溝口支配人と、僕の後ろに立つ主要な従業員の皆さんに向ける気持ちで頭を下げたのだけれど。
「……確かに、事前にご連絡頂いた、今後の滞在先として社員寮を使用されたいというご希望は、私共の耳まで届いております。ですが、御園様には、宿泊施設として開かれているお部屋ではなく、オーナーが滞在する際に使用する特別室を、そのままご用意しております。オーナー専用の特別室は当館の敷地内における別棟にございますので、ご宿泊頂いたお客様方とは、空気すらも共有頂けない、完全なるプライベートな空間としてご使用頂けます」
……ん?
「ですので、他のお客様の心情や、我々従業員の負担を考えて下さるお気持ちは大変嬉しく思いますが……最早、家族同然の存在となっている我々に対する、そうしたご配慮やお気遣いは無用です」
………んん?
「就業時間の拘束はありますが、それ以外の時間の過ごし方は、ご自由にして頂いて構いません。館内の他、近隣の施設や美術館を探訪し。当館が誇る美術的価値の高い品々と戯れ。朝昼夕と、竹之内総料理長と眞田副料理長が腕を振るった栄養バランスの取れた食事をお召し上がりになって。我がオーベルジュの誇るワインセラーにて品質管理を徹底された、珠玉のコレクションの数々を、腕利のソムリエ達とお気軽にご相談しながら、心ゆくまで存分にご堪能下さい」
…………んんん?
「それが、主人亡き後、新たなる主人を迎える日を待ち望み、このオーベルジュ『espoir』に留まり続けてきた、我々の総意なのですから」
……………成る程。
漸く合点がいった。
つまり、僕はいま。
『いいから引っ込んでろ。経営経験もないど素人のお坊ちゃんが』
という本心を、柔らかいカシミヤで出来たブランケットを思わせる言葉でもって包み込み、やんわりと牽制されているという訳ですね?
確かに、父親の言われた通りに建築関係の技術を学べる大学に進学した事で、経営学をきちんと履修してすらいない僕みたいな箱入り息子に、下手に経営に口を出されてしまっては、今後のオーベルジュ全体の運用に支障をきたすかもしれないと考えるのは自明の理だし。十分警戒したとしても、人間は理性的な発想だけで動ける生き物ではないから、周りの人間の努力虚しく、コントロール不能の状態に陥って強権を振るってしまう危険性はどうしても孕んでいる。
となれば、一家のボスだ主人だと上手く相手を煽てながら、それでいてなお、その存在感を際立たせないよう注意深く観察し、プライベートに隔絶した世界に押し込めて、出来る限りその存在を秘匿していきたいという発想に至るのも、十分理解できた。
だけど。
「どうあっても、僕自身の意思は尊重されないおつもりですか?」
売り言葉に買い言葉。本当に僕は、良くない性格をしている。特別、世渡り上手になりたい訳じゃないけれど。もう少し可愛げがある性格だったら生きやすかっただろうになぁ。
昔はこんな人間では無かったような気がするけれど。自由過ぎる父親に母子共に振り回され、身内の権力争いと世間の荒波に揉まれていくうちに、だいぶ思考が荒んでしまったみたいだ。
この年まできてしまったら、もう付ける薬はないのかもしれない。そんな薬が本当にあったなら、どうにかして手元に置いておきたいとは思うけれど。父親や親族の本性を知らずにいた頃の、何も知らないでいた純粋無垢な自分に、そっくりそのまま戻りたいとまでは思えそうもなかった。
「……残念ですが、これは、私共のご提案の域を超越したお願いではございません。まるで無理強いしているかの様な言葉選びをしてしまい、大変申し訳ありませんでした」
渋々、という表現が正しい態度でもって、溝口支配人は、僕に対する提案という名のゴリ押しを引っ込めた。隣にいる弘樹が、口元だけで、くすりと笑った気配がする。僕の背後に並んでいる他の主要な従業員の方々からも、ちらほらと……やっぱりね、僕の仮説は正しかったみたいだ。
降って湧いた地位や富にしがみつき、贅沢三昧をして、陰口をこそこそと叩かれる存在になんて、絶対になるもんか。
父親が秘匿してきた秘密を知った僕に、もはや、この場所に留まる理由は殆ど無くなってしまったけれど。でも、僕にはまだ、やり残したことがあるから。だから、こんな風にして頭から舐められたまま、引き下がる訳にはいかないんだ。
この場所に慣れ、他の従業員達と横並びになって経験を積んで、自立した一個人となって。父親に縛られてきた過去に、きちんと見切りをつけてみせる。
これ以上、貴方の勝手はさせないと、胸を張って言える人間になる為に。
だから、中途半端ではいられない。なんとしてでも、ここにいる人達に喰らい付いて、僕という存在を認めて貰わなくちゃ。
そして、その上で。
僕は、この場所を去るんだ。
それが、僕にたった一つだけ残された、父親に対する最も健全な復讐の方法だと思えるから。
「ですが、お引越し当日のお手伝いはさせて頂いても構いませんか?まだお引越し自体に関する話し合いが済んでおりませんでしたので、念の為にお伺い致します」
こればかりは譲れない、と言わんばかりの溝口支配人に圧倒されて、言葉を噤む。目の前に並べられた全ての提案を拒否するのも気が引けるし、不躾な印象は否めない。それに、僕という人間に対する印象評価を態々最初から下げてしまう必要性は皆無だし。だから、そこだけは素直に甘える事にしたかったのだけど……残念ながら、僕の荷物は元より少なく、こうして傍に持つボストンバック一つに纏められているので、その提案に甘える機会は見繕えなかった。
「あ、いえ、僕の荷物は、これだけですから。特別、皆さんの御手を煩わせる事はないのですが……」
病床にある父親を中心として、生前贈与の話し合いを、親族間で手前勝手に行なっていくうちに、父親がどれだけ周囲の人間の気持ちを考えずに、自由に生きてきた人間だったのかという事実が、白日の下に晒される事となった。
愛のない政略結婚。それを補うため、父親の独断で招き入れた僕という養子。愛人の存在……そして、今ではそこに、隠し子という項目が書き足されている。
母親という僅かな後ろ盾も失った、もとより両親との間に血の繋がりがない僕にとって、まるで他人事の様に感じてしまう父親の……養父の悪行の数々。それら全てに耳を塞いで蹲ったまま、実家のひと区間を間借りして生きていくのは、僕にはとても難しいことだった。
実家のみならず、親族間における発言権も殆ど持ち得ない僕は、いつ何時ここから出ていけと言われても慌てないでいられるようにと、小さい頃から自分の持ち物はコンパクトに収めがちだったのだけれど。誰もが喉から手が出る程に欲しがった、このオーベルジュの経営権を、一体誰が相続するのか、戦々恐々としていた重要局面にきて、その特技が生かされる機会に恵まれたのは皮肉も良い所だと思って、胸の内で苦笑した。成人してすぐに一人暮らしを始めても、この通り癖は抜けないまま。人間の生育環境って、本当に大事なんだなぁ、とつくづく思った。
「「「「「……は?」」」」」
空気が凍る。溝口支配人と弘樹だけでなく、僕の背後に並んでいた他の主要従業員……竹之内総料理長、眞田副料理長、シェフソムリエの輪島さんまでもが同時に放った強烈な疑問符は、僕の口元に浮かべた微かな笑みを引き攣らせた。
何だろう、一体。僕は、何か変なことを口走ったかな?全く身に覚えが無いけれど、目の前にいる二人と、背後に立つ従業員の皆さんが、こうして絶対零度の怒気を顕にしているのだから、きっと僕の発言の中の何かにその理由があるんだろう。ただ、その理由がどんなに考えても分からない……察しが悪くて、本当にすみません。
「それは、どういう……失礼ながら、理由をご説明頂いてもよろしいでしょうか?」
何がなんだか分からないうちに、突如として地雷原の中に放り込まれてしまった心境に陥ってしまって。笑顔でありながら憤怒のオーラを背負った溝口支配人と、僕の背後に立って僕の説明を待っている主要従業員の方々に向けて、無意識のうちに刺激を与えないように、僕は、おっかなびっくり言葉を選びながら、簡単な自分の身の上話をした。すると……
「成る程………それだけ身軽でいらっしゃるのでしたら、是非、今晩だけでも、特別室でお休みになられて下さい。御園様のひとときの安らぎを提供できるよう、全従業員がその時をお待ちしておりましたから。少しでも不具合やお気付きになる部分がございましたら、御園様ご本人のご滞在と、施設運営における今後の参考に致しますので、お気軽にご報告頂けたら幸いでございます」
「……はい」
笑顔にも圧ってあるんですね。初めて知りました……こんなものを目の当たりにしてしまったら、頷く他ないじゃないか。先程放った僕の発言を受けて、むっつりと押し黙ってしまった弘樹からも、僕の背後に立つ従業員の皆さんからも、助け船が出される気配はない。だから、今度こそ窮地に陥った僕は、泣く泣くその提案を飲むしかなかったのです。
かつて、このオーベルジュが、イギリス本地において邸宅として機能を果たしていた頃。僕が今いるこの部屋は、邸宅の主人にとって憩いの場である書斎として使用されていたという。現在では、このオーベルジュの全従業員を取り纏めるオーナーと支配人の為の小規模な執務室としての役割を果たしているこの部屋は、すべての壁面を書架で埋めつくしたライブラリーが設けられるようになっており、貴重な歴史的資料としての価値を持つ蔵書が、極めて高い保存状態を保ったまま、幾星霜の年月を経て連れ添ってきた邸宅と共に歴史を刻み続けていた。
否が応にも歴史の重みをずっしりと感じてしまうこんな場所で、溝口支配人と二人、リラックスして仕事が出来るようになるまで、一体どれくらいの時間が掛かることやら。そもそも、僕はそれまでこの場所に居られるんだろうか。
この場所に就く、いま正にこの部屋にあって、僕の背後にずらりと並んだ少数精鋭かつ海千山千の従業員達を相手にしながら、溝口支配人と共に執務をこなしていく自分の姿のイメージが全く湧いてこない。それまでに見切りを付けられて追い出される未来は、簡単に想像がつくけれど。
「さて、主要な従業員達の正式なご挨拶が済んだ所で、御園様の今後の所在についてご案内したいと思います。まずは……三峰君、こちらに」
今日紹介を受けた主要な従業員の……僕の提案を受けてこの場を欠席している時任さん以外の皆さんが勢揃いして待っていたこの場所までの案内役を務め、一緒になってこの部屋に入室してくれた弘樹が、皆さんよりも一歩前へと歩み出て、僕の隣に立つと。支配人だけが着席を許される深い胡桃色をした革張りの椅子に座っていた溝口支配人は、僕に向けて、見る者全てに安心感を与える穏やかな表情を浮かべた。
「今後、御園様の指導係として、彼をつけます。ホテルとレストランの中間に位置する、オーベルジュという特異な場所に慣れてもらうまでは、彼を頼って下さい」
日中の、ラフな格好をしていた時とは違って、オーダーメイドの燕尾服をかっちりと着こなしている弘樹は、男の僕でも惚れ惚れするほどの凛々しい立ち姿をしている。溝口支配人の紹介を受けた弘樹が、ハッとする程の美しい所作で、僕に向けて頭を下げたので、僕もそれに合わせて、慌てて頭を下げた。
「とはいえ、この場所にいる全ての従業員を頼って頂いても一向に構いません。全員が、貴方様という存在を受け入れる態勢を整えて、今日この日の為に準備をして参りましたから。御園様にとって、この場所が第二の故郷として心休まる場所となれるよう、従業員一同、粉骨砕身の覚悟で努力していく所存です」
その場にいる主要な従業員を代表したその言葉に、否を唱える人間は誰もいなかった。誰しもがその意見に同意しているという空気が、その場に流れる。まぁ、人には本音と建前というものがあるから、この場にいる皆さんが、内心で何を考えているかまでは分からないけれど……それにしても、妙なプレッシャーすら感じてしまうのは、何故だろう。
ただ、そうは言われても、誰彼構わず頼ってばかりいる、自立心の無い甘えた人間に、勝手に求心力が宿るはずもない。一生懸命にこの場所に慣れる努力をして、自分自身を成長させていく姿を見せていかなければ、僅かながらにある信頼や期待も、時間が経つにつれて失われていくだろう。僕という特異な存在に対する純粋な好奇心が、従業員達の両の眼から消え去った時に残る評価が、今後の僕自身の立ち位置を左右していく……職歴無しのフリーターには、荷が重いです。
「本日は、大変お疲れ様で御座いました。御園様の為に、特別室をご用意致しましたので、本日はこのまま、お部屋でごゆるりとお休み下さい」
特別室。聞いただけでも、ウッと、胃に負担が。だって、普通の利用客とは訳が違うんだもの。部屋を用意するのも片付けるのも従業員。つまりは今後お世話になる、仕事仲間。そんな場所で、気遣いを真に受けて心身共に寛げる筈もない。
「本日は、こうして特別なご配慮を賜り、本当にありがとうございます。お料理も、お酒も、サービスも、全てが完璧な夜でした。ただ、信じて頂けないかもしれませんが、僕は、こうした場所には本当に不慣れで……僕の経験不足から、食事会場では失礼な態度を取ってしまい、大変申し訳ありませんでした」
まずは、自分自身の不出来な部分にフォーカスを当て、素直に、正直に、事実を告白する。そしてその後に、胸で温めて来た自分の本当の気持ちを打ち明けた。
「そんな不出来な僕が、皆さんのご厚意で用意して頂いた特別室を利用するだなんて、とてもじゃないですが、烏滸がましくて。それに、僕みたいな分布相応な人間が特別な待遇を受けていると知れたら、明日からお迎えされる他のお客様に、不快な思いをさせてしまうかもしれませんし……格別のご待遇を賜りながら、大変恐縮ではあるのですが、出来れば今日その日から、他の従業員の方々と同じく、社員寮を使用出来れば嬉しく思います」
特別待遇を受けるよりも、他の従業員と一緒くたに扱われた方が、気が楽だ。今日紹介された殆ど全ての人達が、道路を隔てた向かい側にある社員寮を宿舎として使用している。同じ釜のご飯を食べる環境に身を置けるのも、この場所に早く馴染みたい僕にとっては都合がいい。
だから、他の従業員の人達と横並びになって寝食を共にし、一日でも早くこの場所に馴染める様に、これから頑張っていこう……そう心に決めて、目の前に座る溝口支配人と、僕の後ろに立つ主要な従業員の皆さんに向ける気持ちで頭を下げたのだけれど。
「……確かに、事前にご連絡頂いた、今後の滞在先として社員寮を使用されたいというご希望は、私共の耳まで届いております。ですが、御園様には、宿泊施設として開かれているお部屋ではなく、オーナーが滞在する際に使用する特別室を、そのままご用意しております。オーナー専用の特別室は当館の敷地内における別棟にございますので、ご宿泊頂いたお客様方とは、空気すらも共有頂けない、完全なるプライベートな空間としてご使用頂けます」
……ん?
「ですので、他のお客様の心情や、我々従業員の負担を考えて下さるお気持ちは大変嬉しく思いますが……最早、家族同然の存在となっている我々に対する、そうしたご配慮やお気遣いは無用です」
………んん?
「就業時間の拘束はありますが、それ以外の時間の過ごし方は、ご自由にして頂いて構いません。館内の他、近隣の施設や美術館を探訪し。当館が誇る美術的価値の高い品々と戯れ。朝昼夕と、竹之内総料理長と眞田副料理長が腕を振るった栄養バランスの取れた食事をお召し上がりになって。我がオーベルジュの誇るワインセラーにて品質管理を徹底された、珠玉のコレクションの数々を、腕利のソムリエ達とお気軽にご相談しながら、心ゆくまで存分にご堪能下さい」
…………んんん?
「それが、主人亡き後、新たなる主人を迎える日を待ち望み、このオーベルジュ『espoir』に留まり続けてきた、我々の総意なのですから」
……………成る程。
漸く合点がいった。
つまり、僕はいま。
『いいから引っ込んでろ。経営経験もないど素人のお坊ちゃんが』
という本心を、柔らかいカシミヤで出来たブランケットを思わせる言葉でもって包み込み、やんわりと牽制されているという訳ですね?
確かに、父親の言われた通りに建築関係の技術を学べる大学に進学した事で、経営学をきちんと履修してすらいない僕みたいな箱入り息子に、下手に経営に口を出されてしまっては、今後のオーベルジュ全体の運用に支障をきたすかもしれないと考えるのは自明の理だし。十分警戒したとしても、人間は理性的な発想だけで動ける生き物ではないから、周りの人間の努力虚しく、コントロール不能の状態に陥って強権を振るってしまう危険性はどうしても孕んでいる。
となれば、一家のボスだ主人だと上手く相手を煽てながら、それでいてなお、その存在感を際立たせないよう注意深く観察し、プライベートに隔絶した世界に押し込めて、出来る限りその存在を秘匿していきたいという発想に至るのも、十分理解できた。
だけど。
「どうあっても、僕自身の意思は尊重されないおつもりですか?」
売り言葉に買い言葉。本当に僕は、良くない性格をしている。特別、世渡り上手になりたい訳じゃないけれど。もう少し可愛げがある性格だったら生きやすかっただろうになぁ。
昔はこんな人間では無かったような気がするけれど。自由過ぎる父親に母子共に振り回され、身内の権力争いと世間の荒波に揉まれていくうちに、だいぶ思考が荒んでしまったみたいだ。
この年まできてしまったら、もう付ける薬はないのかもしれない。そんな薬が本当にあったなら、どうにかして手元に置いておきたいとは思うけれど。父親や親族の本性を知らずにいた頃の、何も知らないでいた純粋無垢な自分に、そっくりそのまま戻りたいとまでは思えそうもなかった。
「……残念ですが、これは、私共のご提案の域を超越したお願いではございません。まるで無理強いしているかの様な言葉選びをしてしまい、大変申し訳ありませんでした」
渋々、という表現が正しい態度でもって、溝口支配人は、僕に対する提案という名のゴリ押しを引っ込めた。隣にいる弘樹が、口元だけで、くすりと笑った気配がする。僕の背後に並んでいる他の主要な従業員の方々からも、ちらほらと……やっぱりね、僕の仮説は正しかったみたいだ。
降って湧いた地位や富にしがみつき、贅沢三昧をして、陰口をこそこそと叩かれる存在になんて、絶対になるもんか。
父親が秘匿してきた秘密を知った僕に、もはや、この場所に留まる理由は殆ど無くなってしまったけれど。でも、僕にはまだ、やり残したことがあるから。だから、こんな風にして頭から舐められたまま、引き下がる訳にはいかないんだ。
この場所に慣れ、他の従業員達と横並びになって経験を積んで、自立した一個人となって。父親に縛られてきた過去に、きちんと見切りをつけてみせる。
これ以上、貴方の勝手はさせないと、胸を張って言える人間になる為に。
だから、中途半端ではいられない。なんとしてでも、ここにいる人達に喰らい付いて、僕という存在を認めて貰わなくちゃ。
そして、その上で。
僕は、この場所を去るんだ。
それが、僕にたった一つだけ残された、父親に対する最も健全な復讐の方法だと思えるから。
「ですが、お引越し当日のお手伝いはさせて頂いても構いませんか?まだお引越し自体に関する話し合いが済んでおりませんでしたので、念の為にお伺い致します」
こればかりは譲れない、と言わんばかりの溝口支配人に圧倒されて、言葉を噤む。目の前に並べられた全ての提案を拒否するのも気が引けるし、不躾な印象は否めない。それに、僕という人間に対する印象評価を態々最初から下げてしまう必要性は皆無だし。だから、そこだけは素直に甘える事にしたかったのだけど……残念ながら、僕の荷物は元より少なく、こうして傍に持つボストンバック一つに纏められているので、その提案に甘える機会は見繕えなかった。
「あ、いえ、僕の荷物は、これだけですから。特別、皆さんの御手を煩わせる事はないのですが……」
病床にある父親を中心として、生前贈与の話し合いを、親族間で手前勝手に行なっていくうちに、父親がどれだけ周囲の人間の気持ちを考えずに、自由に生きてきた人間だったのかという事実が、白日の下に晒される事となった。
愛のない政略結婚。それを補うため、父親の独断で招き入れた僕という養子。愛人の存在……そして、今ではそこに、隠し子という項目が書き足されている。
母親という僅かな後ろ盾も失った、もとより両親との間に血の繋がりがない僕にとって、まるで他人事の様に感じてしまう父親の……養父の悪行の数々。それら全てに耳を塞いで蹲ったまま、実家のひと区間を間借りして生きていくのは、僕にはとても難しいことだった。
実家のみならず、親族間における発言権も殆ど持ち得ない僕は、いつ何時ここから出ていけと言われても慌てないでいられるようにと、小さい頃から自分の持ち物はコンパクトに収めがちだったのだけれど。誰もが喉から手が出る程に欲しがった、このオーベルジュの経営権を、一体誰が相続するのか、戦々恐々としていた重要局面にきて、その特技が生かされる機会に恵まれたのは皮肉も良い所だと思って、胸の内で苦笑した。成人してすぐに一人暮らしを始めても、この通り癖は抜けないまま。人間の生育環境って、本当に大事なんだなぁ、とつくづく思った。
「「「「「……は?」」」」」
空気が凍る。溝口支配人と弘樹だけでなく、僕の背後に並んでいた他の主要従業員……竹之内総料理長、眞田副料理長、シェフソムリエの輪島さんまでもが同時に放った強烈な疑問符は、僕の口元に浮かべた微かな笑みを引き攣らせた。
何だろう、一体。僕は、何か変なことを口走ったかな?全く身に覚えが無いけれど、目の前にいる二人と、背後に立つ従業員の皆さんが、こうして絶対零度の怒気を顕にしているのだから、きっと僕の発言の中の何かにその理由があるんだろう。ただ、その理由がどんなに考えても分からない……察しが悪くて、本当にすみません。
「それは、どういう……失礼ながら、理由をご説明頂いてもよろしいでしょうか?」
何がなんだか分からないうちに、突如として地雷原の中に放り込まれてしまった心境に陥ってしまって。笑顔でありながら憤怒のオーラを背負った溝口支配人と、僕の背後に立って僕の説明を待っている主要従業員の方々に向けて、無意識のうちに刺激を与えないように、僕は、おっかなびっくり言葉を選びながら、簡単な自分の身の上話をした。すると……
「成る程………それだけ身軽でいらっしゃるのでしたら、是非、今晩だけでも、特別室でお休みになられて下さい。御園様のひとときの安らぎを提供できるよう、全従業員がその時をお待ちしておりましたから。少しでも不具合やお気付きになる部分がございましたら、御園様ご本人のご滞在と、施設運営における今後の参考に致しますので、お気軽にご報告頂けたら幸いでございます」
「……はい」
笑顔にも圧ってあるんですね。初めて知りました……こんなものを目の当たりにしてしまったら、頷く他ないじゃないか。先程放った僕の発言を受けて、むっつりと押し黙ってしまった弘樹からも、僕の背後に立つ従業員の皆さんからも、助け船が出される気配はない。だから、今度こそ窮地に陥った僕は、泣く泣くその提案を飲むしかなかったのです。
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