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新しい春の訪れと入学式と中央からお客様
新しい春の訪れと入学式と中央からお客様 その7
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オージンは焦っていた。
ライの記憶の情報では、目の前の青年は休学中のただの生徒のはずだ。
なのになぜ、自分の影の中にあんなものを飼っているのかと。
オージンはただの細目の青年だと思い侮っていた。
その影に潜む犬を見るまでは。
あれは死そのものだ。
当たり前だ。
冥府の神の影で育った幽霊犬なのだ。
死を告げる死神の使いと言っても過言ではない。
デュガン以上にオージン、いや、タンデン家にかけられた呪い自体への天敵と言ってよい存在だ。
それに、あの黒い死の塊のような幽霊犬は猟犬だ。
冥府の神により鍛えられた猟犬そのものだ。
オージンが逃げおおせれる相手ではない。
「ハハッ、いい加減にしてくれ、この学院はなんでこんな化物だらけなんだ。俺様が可愛く思えて来るぜ?」
既にあの犬に匂いを覚えられた。
オージンも逃げることはできないと悟る。
かといって、あの犬と戦うのはライはともかくオージンからすると論外だ。
実態を持たない幽霊の、それも死の気配を強烈にさせている犬に噛まれるなど、闇の人格を生みだしている大元の呪いの方に影響が出かねない。
それを考えるとあの幽霊犬と敵対することはオージンにとってあり得ない。
オージンのような人格など、大元の呪いが正常ならばいくらでも生み出せる。
呪いの方が本体であり、闇の人格などいくらでも作れる仮初の物に過ぎない。
「大人しく捕まってください。恐らくここで逃げると酷い目にあいますよ」
マーカスはそう言って使徒魔術の触媒の杖をオージンに向ける。
マーカス自体は、オージンと言う人格は知らない。
だが、このライと言う人間を捕まえろと師匠であるオーケンが命令してきたのだ。
今のマーカスにはそれに従うしかない。
「もうさんざん会ってるよぉ、生まれてこの方、散々な目にしか会ってねぇ」
オージンが目覚めたとき、既にデュガンの結界内にいた。
それから考えるなら、本当に運がない。
何とかその結界を上手く抜け出したはいいが最初に出会った人物がとんでもなく、次に会ったアビゲイルはオージンにとってもっととんでもなかった。そして、天敵ともいえる幽霊犬を飼っているマーカスに見つかる。
幽霊犬に匂いを覚えられた今となっては逃げてもすぐ居場所を特定されれてしまうことだろう。
本当についていない。
「ライとか言う学会の学者ではないんですよね?」
マーカスは一応はオーケンから、別人格かもしれないとは聞いている。
それに、以前あった時とはまるで様子が違う。
「おぅよ、オージンと呼んでくれぇ、おまえの師匠だっけか? オーケンにあやかった名だぜぃ?」
姿を消したところで、この幽霊犬から逃げれるとも思えないし、その主であるマーカスを殺すことはできても、その後、主人を殺され怒り狂った幽霊犬に噛まれでもしたらどうなるかわからない。
オージンとしては既に詰んでいる。
「その師匠が、あなたを捕まえようと動いているんですよ。だから大人しくしていてください」
「嘘だろ? まじかよ、これはおしまいだな。終わりだな。参ったな。俺様は生まれてきた人格の中で最高の人格だと思ってたが、運だけはなかったみたいだな」
オージンは絶望する。
まあ、元から絶望のど真ん中にいるような物なので、それほどかわりはしないのだが。
ただ諦めがつくというものだ。
オージンの記憶の中のオーケンと言う人物は、力の塊のような男だった。
あんな人間が自分を捕獲するために動いているのだ。
どうあがいても捕まることだろうし、なんならもうすでに捕まっているようなものだ。
「はぁ、その犬からは逃げれそうにないし どぉしたもんかねぇ、せめて数人は殺しておきたかったんだがなぁ」
オージンとしては今は大人しくしておいた方が良いと考えている。
生み出されてきた闇の人格の中で歴代最強かもしれないのだが、まあ、運だけはなかった。
何もできずに終わりそうだ。
だが闇の人格などまたすぐに生まれるし、ここまで育った呪いを子々孫々と受け継いでもらないオージンとしても困る。
まあ、ライが死んだところで、タンデン家の別の誰かに憑きなおすだけなのだが。
だが、下手に抵抗してあの幽霊犬に噛まれ、呪い自体が狂いでもしたほうがオージンにとっては問題なのだ。
「この学院でですか?」
マーカスは怪訝そうな顔してそう言った。
始祖虫を単独で倒せるような存在がいるこの学院でよくそんなことをしよう思ったな、とマーカスは思う。
よほど死にたがりなのだろうと。
「なんだろうねぇ、この学院、ちょっとおかしい連中が集まりすぎだろうぉ?」
「ミアの周りには特に、ですね」
それにはマーカスも同意だ。
なんなら、目の前のライという男もミアの調査に着た一人のはずだ。
「あっ、マーカスさん、と、学会の方? ですよね? どうしたんですか?」
そこへ偶然にもジュリーがやってくる。
「ジュリー…… そう言えば、あなたも割とついてない人でしたね。俺の後ろに隠れていてください」
マーカスは慌てて、オージンとジュリーの間に、幽霊犬の黒次郎を割り込ませておく。
「え?」
と、ジュリーは訳も分からず、その場に立ち尽くし頬けるばかりだ。
「早くっ!」
と、マーカスが鋭く叫ぶ。
それでやっとジュリーがマーカスの後ろに慌てて移動し始める。
「へへへっ、やっと獲物を見つけられたぜぃ?」
オージンはお土産ついでにせめて一人だけでも、と考える。
どうやって殺す、いかにして殺すか、時間はあんまりない、楽しむ時間はない。
けど、それを想像するだけで、オージンは喜びに打ち震える。
問題は幽霊犬だ。
幽霊犬に噛まれないようにうまく立ち回らなければならない。
そんなことをオージンが考えていると、オージンの震えが別の物になる。
それは強烈な悪寒だ。
「それはさぁ、お前自身のことで良いんだよなぁ?」
と、そんな言葉を吐きながらオーケンがオージンの肩に腕を掛ける。
オージンは行動を即座にやめ、降参とばかりに両手を上にあげた。
「師匠!」
マーカスにすらオーケンが突然現れて、ライと言う人物の肩に腕を掛けたように見えた。
何かしらの術を使って、気取られずに移動してきたのかもしれない。
「げっ、マジで俺様を探してんのかよ……」
そして、オージンは震えながらも、そう言って悪態をついた。
集まった人間が人間だ。
戦いにもならない。
オーケンがその場に来た時点でオージンの戦意をなくし降参している。
オージンという人格は終わりだが、大元の呪いがのこればオージンにとってはそれでいいのだ。
「おぃおぃおぃ、なんだよぉ、これはよぉ、どぉーなってんだよ!」
そんなオージンとして今できることはそうやって嘆くことだけだ。
今度はしっかりとスティフィにより縛られている。
しかも、その縄を用意したのはオーケンだ。恐らくただの縄ではない。
手足どころか指すらろくに動かせないように縛られた挙句、簡易魔法陣の上に座らせられている。
「爺さんよ、これは…… ただの魔力補填陣じゃぁねぇか?」
オーケンがその陣を見てそう言った。
初歩中の初歩、魔力の水薬を作る際に使用される魔法陣だ。
魔力を誘導し、圧縮し、水に押し込み定着させるだけの陣だ。
ただ大きさだけはある。陣自体の出力は相当なもにになるはずだ。
「じゃよ。ワシの見立てが正しければ、とりあえずはこれじゃ。というか他の効果をのせると何が起きるか今の段階では予想もつかん」
「おぃおぃ、こんな陣で俺様に何しようってんだよぉ」
ただ陣を見たオージンは安心する。
自分を、呪いの大元をどうにかできるような物ではないからだ。
「おまえさん、その大元を祓うつもりじゃよ」
その言葉を聞いてオージンがウオールド教授を鋭く殺気だった眼で睨む。
睨まれたところでウオールド教授は気にも留めないが。
「はぁ? 何言ってんだ? 俺様の大元は子々孫々と受け継がれるほど根深く魂に根を張ってんだよぉ。俺様に魔力を補填したって、草木に水をようなもんだろうがよぉ」
自分は神の御力から生まれた呪いだ。そんなものに魔力を送り込まれようが餌にしかならない、そう言う自負がオージンにはある。
「そうか? まあ、通常の神であるならばそうじゃろうな。じゃがな、ここでこのロロカカ神の巫女、ミアちゃんの出番じゃ!」
そう言ってウオールド教授はとても良い笑顔でミアの肩を持ち、オージンの前に出す。
「え? 私ですか?」
ウオールド教授に肩を持たれ、ぞの場の全員の視線がミアに注がれる。
その視線にミアが若干のてれを見せる。
「特別な陣でなく魔力を流し込むだけでこの呪いを払うというんですかぁ? 流石にどうなんですかねぇ、アビちゃんもそれには半信半疑ですよぉ?」
ただアビゲイルの目から見たら、それではこの呪いを祓うことはできないと予想している。
ライの、タンデン家の魂に、この呪いは深く根をはり定着しすぎている。
「可能性はないわけじゃないが、俺も流石に魔力を流し込むだけだとは予想外だぞ、爺さん」
オーケンも同意見だ。
確かにロロカカ神の魔力は凶悪だが、それだけで呪いを祓えると言うことはない。
オージンの反応を見る限りオージン自身はロロカカ神のことは知らない。
知らないならば、ディアナに憑いていた神のように逃げ出すこともないだろう。
「いやな、ワシも色々考えてみたんじゃが、まずはこれが一番安全で、成功率が高そうでな。まあ、こやつの言う通りこの呪いは通常の方法ではまず祓えん。じゃがな、その名を聞いだだけで神が逃げ出すほどの神じゃよ? 何らかの効果はあるはずじゃろ? 効果がなければ次に行けばよいだけじゃ」
ウオールド教授のその言葉を聞いて、オーケンとアビゲイルは少しだけ納得する。
この老教授は文字通りライで、オージンで、この呪い祓う実験を繰り返すつもりなのだ。
なので秘宝とも言える物をオーケンに献上している。
「はぁ? なんだその神。ロロカカ神? 聞いたことないねぇ」
ただオージンはそこまでわかっていない。
自分が実験台にされるかなど微塵も考えていない。
それにオージンの知識にもライの知識にも、そんな名前の神は聞いたことがない。
だから、ライがわざわざ中央から出向いて来たというのが元々の話だ。
ただその巫女たるミアに纏っている魔力の残滓は、オージンを震え上がらせるのには十分なものだ。
悪態をついてはいるが、それを聞いてオージン自身も恐れている。
それこそ、ウオールド教授の言う通り、オージンの大元の呪いに何か影響があってもかしくはないほどに。
「じゃろうな。分霊であればその名を知っていても、こやつはただの呪いでしかない、その名までは知らぬんじゃろうな」
「なるほどな。まあ、試してみる価値はあるだろうよ。ライの精神がもつ限り続ければいいだけだしな」
オーケンはオージンが恐れていることを見抜いて納得した。
それだけの力がロロカカ神にはあるのだろう。
それにウオールド教授自体はライを後継者にしたがっている。
ライの命に係わる様な事はしないだろう、と楽観もしている。
子孫であるライはそれなりにかわいいとは思ってはいるが、オーケンの直接の娘であるサリーほどではない。
なにより娘ではないので、そこまで愛着もない。
「え? どういうことですか?」
ただミアはよく理解できていない。
自分の信じている神が他の神々から名を聞いただけで逃げ出したくなるほど恐れられているとはそもそも考えていない。
ミアの中でロロカカ神は絶対的に清く正しい神でしかないのだから。
「んー、分霊だけに名を知っていた。呪いだけにその存在を知らない。だから、神の御力の一部である魔力を直接触らせることで、分霊のように呪いそのものを追い出せるってことですか?」
アビゲイルの反応は今一だ。
魔術の神の分霊がロロカカ神の名を聞いただけで逃げ出したと言う話は聞いている。
それはやはりロロカカ神と言う存在を分霊が知っているからだ。
意志を持っているとはいえ、呪いを魔力だけで追い出せるとはアビゲイルには到底思えない。
「そう言うことなら、お手伝いできるかと」
だが、ここデュガンが名乗りを上げる。
魔力制御の達人であり、魔力を相手の体に送り込み内部から破壊できる新しい技術を、格闘術を編み出したのがデュガンだ。
その送り込まれた魔力は内部だけにとどまらず相手の精神にも作用させることが出来る。
デュガンは闇の人格のみを攻撃できる数少ない手段を持っている人物でもあるのだ。
だからこそ、お目付け役に同行させられている。
「むぅ、そうじゃな。そなたが編み出した新しい技術であるなら、この補填陣よりいいかもしれんなぁ。けど、耐えれるかね? あのロロカカ神の魔力に」
ウオールド教授もミアが貸し与えられているその魔力を何度か目にしたことがある。
人智の及ばない深い深淵を感じさせる魔力だ。
常人では気がふれてしまうほどの物だ。
その魔力を制御するとなると並大抵のことではない。
普通に扱えているミアが特異なだけだ。
「自分の失態でもあります。耐えて見せます」
デュガン自身もミアの魔力の残滓に触れ、その恐ろしさを実感している。
してはいるが、自分が張った結界に閉じ込められるような失態を犯したのだ。
どこかでその汚名を返上しなければならない。
しかし、そうなると可能性が色々と出て来る話になる。
「それなら…… あっ、じゃあ、ちょっと待ってもらっていいですかぁ?」
そう言うことであれば、デュガンが命がけで協力するのであれば、アビゲイルの中でも話は変わってくる。
陣の効果だけでは、洗い流せない呪いも、デュガンの協力で押し出せるようになる可能性は高くなってくる。
ならば、アビゲイルのやることは決まっている。協力と捕獲だ。
「むっ、なにする気じゃ?」
アビゲイルが何か思いついた顔をしているので、ウオールド教授は逆に顔をしかめる。
オーケンが協力体制にある今、ウオールド教授が一番気を付けなければならないのは、オージンではなく何をしでかすかわからないアビゲイルの方だ。
「逃げ出した呪いを捕まえたくてですねぇ、せっかくのこれほどの呪いですよぉ! どうにかして捕獲したいですよねぇ」
そう言ってオージンをニヤニヤとアビゲイルは愛おしそうに見つめる。
確かに呪いを追い出せても、ライにその呪いが舞い戻ってくる可能性は高い。
特にこの呪いは、神によりかけられた使命と役割を持たされた呪いだ。追い出せたとしても放置しておけば、ライの体に戻りかねない。
ウオールド教授は追い出した呪いをオーケンに破壊してもらうつもりでいたが、これはこれで逆に利用できる話でもある。
「まあ、舞い戻られてもこま…… 良いぞ。じゃが、一つ条件を飲んでくれんかのぉ?」
「条件? なんですか?」
ウオールド教授にそう言われ、今度はアビゲイルの方が怪訝な顔をしてウオールド教授を見る。
「教授になったらで構わん、副学院長の命には大人しく従ってくれんか?」
ウオールド教授に感情の無い顔でそう言われ、アビゲイルは嫌な感じを拭いかねない。
「えぇ、なんですか? アビちゃんを手籠めにでもするつもりですか?」
そうおどけて見せるが、ウオールド教授は一切の感情を表に出さない。
「そなたは無月の女神の巫女になるのじゃろ…… 誰がそんなことするか、なるべくで構わん」
感情のない顔でウオールド教授はアビゲイルをじっと見つめる。
「それでいいなら、まあ、いいですが」
なにか嫌なものを感じつつも、アビゲイルの意識は今は目の前の呪いの捕獲に行ってしまっている。
流石にアビゲイルも、ウオールド教授の真意、後を継がせる予定のライのためだとは気づかない。
というか、アビゲイルには、元々そんな思考がないので思い当たるわけもない。
アビゲイルは何か面倒ごとを、ウオールド教授に押し付けられるくらいにしか考えていない。
「恐らくおまえさんの師匠のマリユ教授も賛成してくれるはずじゃぞ」
ウオールド教授が急に感情を取り戻し笑顔でそう言うので、アビゲイルはますます怪しむが、目の前の呪いもどうしても入手したい。
それには、その条件を飲むしかない。
「えぇ、師匠がですかぁ? まあ、最近の師匠は変わって、以前のほど厳しくはないですからねぇ…… よほどこの学院が気に入ってるんでしょうねぇ」
そこでやっと、恐らくはこの学院の平穏の、自分が何かしでかさないための鎖の一つだとアビゲイルも気づく。
そして、それならば、まあいいだろうと安請け合いもする。
なにせアビゲイル自身は別に何か起こそうと思って行動しているわけではないのだから。
何か行動した結果が色々引き起こしているだけで。
「その学院を守るためじゃよ」
「んー、まあ、いいですよ。なるべくで良いのなら」
アビゲイルはそれを渋々了承する。
「今はそれで構わん」
ウオールド教授はこれは儲けものだと、喜ぶ。
これだけでアビゲイルを御せるわけではないが、それでも細い鎖ではあるが、早々にその首輪に着けられたことはウオールド教授にとって僥倖でしかない。
「じゃあ、ちょっと陣を変えさせてもらいますねぇ」
そう言ってアビゲイルは簡易魔法陣の内容を書き換え始める。
「ほう、今からやるのか。へへっ、マリユちゃんの秘蔵っ子の実力かぁ、興味あるねぇ」
オーケンはそう言ってアビゲイルの作業の観察する。
あのマリユが自慢する弟子だ。
また色々と頭がおかしい子とも聞いている。
そんな人物がどう動くのか気になる。
「師匠をちゃん呼びとか勇気ありますねぇ、流石は師匠を抱こうとしている人ですねぇ」
アビゲイルの方としては、オーケンと言えど師匠に、マリユ・ナバーナに、原初の巫女たる存在に釣り合うかどうか疑問と考えている。
確かに常人ではない。
生きた伝説のような人物ではあるが、それはマリユもそうなのだ。
アビゲイルにとって、マリユは唯一無二の存在なのだ。
ただアビゲイルとしても師匠がそう望むのであれば、口出しするつもりもないし、したら逆に自分の命の方が危ないともちゃんと理解している。
「だろぉ? って、おいおい、何だコイツ、コイツの頭の中どうなってるんだ、もう七柱分の神与文字が出て来たぞ、こりゃ本物だな」
オーケンの眼の色がすぐさま変わる。
その眼は興味と楽しさがあふれ出ているような輝きをしている。
恐らく即興なのだろうが、アビゲイルが書き足している魔法陣の出来にオーケンも驚きを隠せない。
「ワシも広く神を知っている方じゃとは思うんじゃがの…… 知らぬ文字ばかりじゃ。その数ももう二桁は越えたかのぉ?」
アビゲイルが使用する神与文字は多種多様にわたる。
その内包する意味をすべて理解し、単語の文字一つ一つに振り分けている。
常人の知識ではできない芸当だし、常人では一柱の神与文字を一種類だけでも理解するのに苦労する話だ。
アビゲイルにそれが可能なのは、神に囚われず神与文字全てを一つの文字として扱っているからだ。
ただ常人にはそんなことはできない。神は無限と思えるほど無数に存在し、その分の神与文字が存在するのだから。
「流石、伝説の大神官様と副学院長さんですねぇ、今回は二十八柱分の神与文字を使う予定ですよぉ」
アビゲイルの頭の中では既に書き換え、書き足す魔法陣が完成している。
行き当たりばったりで書き始めているわけではない。
頭の中ですでに完成している設計図通りに書いているだけだが、新しい魔法陣をそのように書ける人間など他には存在しない。
「本当に化物だな、なんなんだよ、この女は。その女もあんたの子孫か何かなのかよ?」
ライの知識を持っているオージンからもアビゲイルのやっていることはいろいろとおかしい。
これまでの常識を色々と覆すような、そんなことを平然とやってのけている。
そもそも、新しい陣を創るのにはその基礎を考えるだけでも相当長い時間を、それも魔術学院の教授になるような人間が長い年月を費やして作るものだ。
基本的に魔術師の技量は、用意している魔方陣の豊富さに起因することが多い。
なので上を望む魔術師は日々新しい魔方陣の開発にいそしんでいるものだ。
それを即席に新しい魔方陣を即興で作り出し、その場で書き換えるなど通常ではありえない。
「アビゲイル・フッカーだったか。フッカー家なんて聞いたことねぇな。流石に俺の子孫じゃねぇよな? どこの生まれだよ」
オーケンからしてもその眼で見てやっと信じられることを目の前の女はやってのけている。
天才だからできる、とういった話ではない。
もはやこのアビゲイルという人間は上位者と変わらない、それほどの事をやってのけている。
「生まれはここ、南ですよ。ただ私は生まれが孤児だったらしく、師匠に引き取られたんですよねぇ。まあ、だから師匠が私の母親みたいなもんですよぉ」
「あの離れか」
あっけにとられながらも、その離れの存在のことはウオールド教授も知っている。
まだ天地の塔が作られる前に、マリユと言う存在を離隔するために学院の敷地外に作られた屋敷だ。
確かにそこではマリユの弟子と呼ばれる存在が何人もいた場所である。
「そうですねぇ、その離れで三十歳くらいまで住んでましたよぉ。今師匠が住んでいる塔ができる前に、私は追い出されましたけどねぇ。まあ、追い出された後も師匠とはなんだかんだで連絡は取ってましたけどもぉ」
そう言ってアビゲイルも追い出された後のことを思い出す。
追い出された後とりあえず中央に行ってみたがいいが、なんの資格も持たない魔術師、しかもいろんな意味で破綻しているアビゲイルがまともに暮らしていけるわけもなく、結局中央で五十年ほどもぐりの魔術師として暮らし、行き詰まり、逃げ出し東の沼地で一人暮らすようになっていった。
今思うとろくな人生じゃなかったと、アビゲイル自身が噛み締める。
それでも今は魔術学院の教授と無月の女神の巫女と言う未来が見えている。
何より今はマリユの傍に居られることも、アビゲイルにとってはとてもうれしいことだ。
「じゃあ、名前に意味はないなぁ。俺もこの辺りはあんまり来たことないから、多分、俺の子孫じゃねぇよな?」
そう言うオーケンはなんだか自信がなさそうだ。
だが、オーケンもアビゲイルに何か感じるものがある。
もしかしたら自分の子孫かもしれない、そんな気がオーケンにもしてくる。
「そうかのぉ? どことなく似ている気がするが」
ウオールド教授はオーケンとアビゲイルを見比べてそう言った。
「なんだよ、爺さん」
「いや、何でもない」
「んで、俺様はどうなるんだ? そもそもこの体から追い出されるとは思ってねぇけどよぉ」
とオージンは強がって見せるが、アビゲイルが描いている魔法陣は戦々恐々としている。
なにせ、アビゲイルの書いている陣がものすごく高度であることは理解できても、その内容はまるで理解できないのだから。
だが、それを強がっているオージンを、面白がるかのようにウオールド教授が解説してやる。
「んー、まず補填陣で圧縮したロロカカ神の魔力を流し込む。そして、デュガン殿の技で隅々まで押し流してもらう。まあ、それだけじゃな。それでだめなら次じゃよ」
「はぁ? そんなんで俺様が祓えるわけねぇだろうが」
オージンはそれを聞いて安心して吠える。
そんなことだけで自分を生み出している呪いが祓えるわけがないと。
「想像以上じゃよ。ロロカカ神の魔力は。のぉ、ミア」
「え? はい! ロロカカ様の御力は凄いんですよ!」
意味も分からず振られて、ミアもよくわからずに答える。
「ミア、あんた何も理解できてないでしょう…… 下手したらライって人、廃人になるわよ」
スティフィは半ば呆れながら、ミアにそのことを教えてやる。
補填陣でロロカカ神の魔力を流し込まれるだけでも、常人であればおかしくなりそうなものだが、それをスティフィにはまだ理解できていないがより強力に流し込める術をデュガンは持っていると言う話だ。
「ええ! ロロカカ様の魔力でそんなことになるわけないじゃないですか」
ただ、ミアはロロカカ神の魔力の凶悪さをまるで理解していない。
ミアとしては慈愛に満ち溢れた素晴らしい清廉な魔力としか考えていないからだ。
「まあ、ライ殿も生まれつき呪いをその身に宿しておりますゆえ、耐性は高いほうかと」
むしろ、自分の方が持つか不安なデュガンはそう言ってしまう。
それに即座にミアが反応する。
「はぁ? なんでロロカカ様の魔力と呪いの耐性が関係あるんですか?」
瞬き一つしない、ミアの深く沈んだ感情のない瞳がデュガンをじっと見つめる。
「い、いや、魔力自体、魔力自体への耐性ということです、うんむ、そうですよな。ウオールド老」
慌てて、デュガンがそう言って、ウオールド教授に助けを求める。
「あ? あー、まあ、そんなところじゃの」
だが、ウオールド教授の興味はアビゲイルの書く魔法陣の方へ向けられている。
何とか少しでもその内容を解読しようと試みているのだが、知らない神与文字が多すぎてまったく解読できない。
単語一つ解読ができないとなるとはウオールド教授も思ってもいなかった。
どういう効果をもたらす陣であるか、それが全く理解できない。
そんなものを使って良い物かどうか、判断に困っている。
「そうですか、ならいいです」
ただミアはその言い訳でとりあえず納得したのか、急に落ち着いて見せる。
「そろそろその急にキレるのやめてくれないかなぁ?」
そんなミアをスティフィは見て、、ミアには聞こえない声でそう言った。
「で、えーと、これは何の集まりなんですか?」
本当に何も知らないジュリーが困惑しながら誰に言うでもなく聞いた。
その質問に答えてくれる者はこの場にはいない。
唯一答えようとしたマーカスも事情をよく知らないので黙るしかない。
ライの記憶の情報では、目の前の青年は休学中のただの生徒のはずだ。
なのになぜ、自分の影の中にあんなものを飼っているのかと。
オージンはただの細目の青年だと思い侮っていた。
その影に潜む犬を見るまでは。
あれは死そのものだ。
当たり前だ。
冥府の神の影で育った幽霊犬なのだ。
死を告げる死神の使いと言っても過言ではない。
デュガン以上にオージン、いや、タンデン家にかけられた呪い自体への天敵と言ってよい存在だ。
それに、あの黒い死の塊のような幽霊犬は猟犬だ。
冥府の神により鍛えられた猟犬そのものだ。
オージンが逃げおおせれる相手ではない。
「ハハッ、いい加減にしてくれ、この学院はなんでこんな化物だらけなんだ。俺様が可愛く思えて来るぜ?」
既にあの犬に匂いを覚えられた。
オージンも逃げることはできないと悟る。
かといって、あの犬と戦うのはライはともかくオージンからすると論外だ。
実態を持たない幽霊の、それも死の気配を強烈にさせている犬に噛まれるなど、闇の人格を生みだしている大元の呪いの方に影響が出かねない。
それを考えるとあの幽霊犬と敵対することはオージンにとってあり得ない。
オージンのような人格など、大元の呪いが正常ならばいくらでも生み出せる。
呪いの方が本体であり、闇の人格などいくらでも作れる仮初の物に過ぎない。
「大人しく捕まってください。恐らくここで逃げると酷い目にあいますよ」
マーカスはそう言って使徒魔術の触媒の杖をオージンに向ける。
マーカス自体は、オージンと言う人格は知らない。
だが、このライと言う人間を捕まえろと師匠であるオーケンが命令してきたのだ。
今のマーカスにはそれに従うしかない。
「もうさんざん会ってるよぉ、生まれてこの方、散々な目にしか会ってねぇ」
オージンが目覚めたとき、既にデュガンの結界内にいた。
それから考えるなら、本当に運がない。
何とかその結界を上手く抜け出したはいいが最初に出会った人物がとんでもなく、次に会ったアビゲイルはオージンにとってもっととんでもなかった。そして、天敵ともいえる幽霊犬を飼っているマーカスに見つかる。
幽霊犬に匂いを覚えられた今となっては逃げてもすぐ居場所を特定されれてしまうことだろう。
本当についていない。
「ライとか言う学会の学者ではないんですよね?」
マーカスは一応はオーケンから、別人格かもしれないとは聞いている。
それに、以前あった時とはまるで様子が違う。
「おぅよ、オージンと呼んでくれぇ、おまえの師匠だっけか? オーケンにあやかった名だぜぃ?」
姿を消したところで、この幽霊犬から逃げれるとも思えないし、その主であるマーカスを殺すことはできても、その後、主人を殺され怒り狂った幽霊犬に噛まれでもしたらどうなるかわからない。
オージンとしては既に詰んでいる。
「その師匠が、あなたを捕まえようと動いているんですよ。だから大人しくしていてください」
「嘘だろ? まじかよ、これはおしまいだな。終わりだな。参ったな。俺様は生まれてきた人格の中で最高の人格だと思ってたが、運だけはなかったみたいだな」
オージンは絶望する。
まあ、元から絶望のど真ん中にいるような物なので、それほどかわりはしないのだが。
ただ諦めがつくというものだ。
オージンの記憶の中のオーケンと言う人物は、力の塊のような男だった。
あんな人間が自分を捕獲するために動いているのだ。
どうあがいても捕まることだろうし、なんならもうすでに捕まっているようなものだ。
「はぁ、その犬からは逃げれそうにないし どぉしたもんかねぇ、せめて数人は殺しておきたかったんだがなぁ」
オージンとしては今は大人しくしておいた方が良いと考えている。
生み出されてきた闇の人格の中で歴代最強かもしれないのだが、まあ、運だけはなかった。
何もできずに終わりそうだ。
だが闇の人格などまたすぐに生まれるし、ここまで育った呪いを子々孫々と受け継いでもらないオージンとしても困る。
まあ、ライが死んだところで、タンデン家の別の誰かに憑きなおすだけなのだが。
だが、下手に抵抗してあの幽霊犬に噛まれ、呪い自体が狂いでもしたほうがオージンにとっては問題なのだ。
「この学院でですか?」
マーカスは怪訝そうな顔してそう言った。
始祖虫を単独で倒せるような存在がいるこの学院でよくそんなことをしよう思ったな、とマーカスは思う。
よほど死にたがりなのだろうと。
「なんだろうねぇ、この学院、ちょっとおかしい連中が集まりすぎだろうぉ?」
「ミアの周りには特に、ですね」
それにはマーカスも同意だ。
なんなら、目の前のライという男もミアの調査に着た一人のはずだ。
「あっ、マーカスさん、と、学会の方? ですよね? どうしたんですか?」
そこへ偶然にもジュリーがやってくる。
「ジュリー…… そう言えば、あなたも割とついてない人でしたね。俺の後ろに隠れていてください」
マーカスは慌てて、オージンとジュリーの間に、幽霊犬の黒次郎を割り込ませておく。
「え?」
と、ジュリーは訳も分からず、その場に立ち尽くし頬けるばかりだ。
「早くっ!」
と、マーカスが鋭く叫ぶ。
それでやっとジュリーがマーカスの後ろに慌てて移動し始める。
「へへへっ、やっと獲物を見つけられたぜぃ?」
オージンはお土産ついでにせめて一人だけでも、と考える。
どうやって殺す、いかにして殺すか、時間はあんまりない、楽しむ時間はない。
けど、それを想像するだけで、オージンは喜びに打ち震える。
問題は幽霊犬だ。
幽霊犬に噛まれないようにうまく立ち回らなければならない。
そんなことをオージンが考えていると、オージンの震えが別の物になる。
それは強烈な悪寒だ。
「それはさぁ、お前自身のことで良いんだよなぁ?」
と、そんな言葉を吐きながらオーケンがオージンの肩に腕を掛ける。
オージンは行動を即座にやめ、降参とばかりに両手を上にあげた。
「師匠!」
マーカスにすらオーケンが突然現れて、ライと言う人物の肩に腕を掛けたように見えた。
何かしらの術を使って、気取られずに移動してきたのかもしれない。
「げっ、マジで俺様を探してんのかよ……」
そして、オージンは震えながらも、そう言って悪態をついた。
集まった人間が人間だ。
戦いにもならない。
オーケンがその場に来た時点でオージンの戦意をなくし降参している。
オージンという人格は終わりだが、大元の呪いがのこればオージンにとってはそれでいいのだ。
「おぃおぃおぃ、なんだよぉ、これはよぉ、どぉーなってんだよ!」
そんなオージンとして今できることはそうやって嘆くことだけだ。
今度はしっかりとスティフィにより縛られている。
しかも、その縄を用意したのはオーケンだ。恐らくただの縄ではない。
手足どころか指すらろくに動かせないように縛られた挙句、簡易魔法陣の上に座らせられている。
「爺さんよ、これは…… ただの魔力補填陣じゃぁねぇか?」
オーケンがその陣を見てそう言った。
初歩中の初歩、魔力の水薬を作る際に使用される魔法陣だ。
魔力を誘導し、圧縮し、水に押し込み定着させるだけの陣だ。
ただ大きさだけはある。陣自体の出力は相当なもにになるはずだ。
「じゃよ。ワシの見立てが正しければ、とりあえずはこれじゃ。というか他の効果をのせると何が起きるか今の段階では予想もつかん」
「おぃおぃ、こんな陣で俺様に何しようってんだよぉ」
ただ陣を見たオージンは安心する。
自分を、呪いの大元をどうにかできるような物ではないからだ。
「おまえさん、その大元を祓うつもりじゃよ」
その言葉を聞いてオージンがウオールド教授を鋭く殺気だった眼で睨む。
睨まれたところでウオールド教授は気にも留めないが。
「はぁ? 何言ってんだ? 俺様の大元は子々孫々と受け継がれるほど根深く魂に根を張ってんだよぉ。俺様に魔力を補填したって、草木に水をようなもんだろうがよぉ」
自分は神の御力から生まれた呪いだ。そんなものに魔力を送り込まれようが餌にしかならない、そう言う自負がオージンにはある。
「そうか? まあ、通常の神であるならばそうじゃろうな。じゃがな、ここでこのロロカカ神の巫女、ミアちゃんの出番じゃ!」
そう言ってウオールド教授はとても良い笑顔でミアの肩を持ち、オージンの前に出す。
「え? 私ですか?」
ウオールド教授に肩を持たれ、ぞの場の全員の視線がミアに注がれる。
その視線にミアが若干のてれを見せる。
「特別な陣でなく魔力を流し込むだけでこの呪いを払うというんですかぁ? 流石にどうなんですかねぇ、アビちゃんもそれには半信半疑ですよぉ?」
ただアビゲイルの目から見たら、それではこの呪いを祓うことはできないと予想している。
ライの、タンデン家の魂に、この呪いは深く根をはり定着しすぎている。
「可能性はないわけじゃないが、俺も流石に魔力を流し込むだけだとは予想外だぞ、爺さん」
オーケンも同意見だ。
確かにロロカカ神の魔力は凶悪だが、それだけで呪いを祓えると言うことはない。
オージンの反応を見る限りオージン自身はロロカカ神のことは知らない。
知らないならば、ディアナに憑いていた神のように逃げ出すこともないだろう。
「いやな、ワシも色々考えてみたんじゃが、まずはこれが一番安全で、成功率が高そうでな。まあ、こやつの言う通りこの呪いは通常の方法ではまず祓えん。じゃがな、その名を聞いだだけで神が逃げ出すほどの神じゃよ? 何らかの効果はあるはずじゃろ? 効果がなければ次に行けばよいだけじゃ」
ウオールド教授のその言葉を聞いて、オーケンとアビゲイルは少しだけ納得する。
この老教授は文字通りライで、オージンで、この呪い祓う実験を繰り返すつもりなのだ。
なので秘宝とも言える物をオーケンに献上している。
「はぁ? なんだその神。ロロカカ神? 聞いたことないねぇ」
ただオージンはそこまでわかっていない。
自分が実験台にされるかなど微塵も考えていない。
それにオージンの知識にもライの知識にも、そんな名前の神は聞いたことがない。
だから、ライがわざわざ中央から出向いて来たというのが元々の話だ。
ただその巫女たるミアに纏っている魔力の残滓は、オージンを震え上がらせるのには十分なものだ。
悪態をついてはいるが、それを聞いてオージン自身も恐れている。
それこそ、ウオールド教授の言う通り、オージンの大元の呪いに何か影響があってもかしくはないほどに。
「じゃろうな。分霊であればその名を知っていても、こやつはただの呪いでしかない、その名までは知らぬんじゃろうな」
「なるほどな。まあ、試してみる価値はあるだろうよ。ライの精神がもつ限り続ければいいだけだしな」
オーケンはオージンが恐れていることを見抜いて納得した。
それだけの力がロロカカ神にはあるのだろう。
それにウオールド教授自体はライを後継者にしたがっている。
ライの命に係わる様な事はしないだろう、と楽観もしている。
子孫であるライはそれなりにかわいいとは思ってはいるが、オーケンの直接の娘であるサリーほどではない。
なにより娘ではないので、そこまで愛着もない。
「え? どういうことですか?」
ただミアはよく理解できていない。
自分の信じている神が他の神々から名を聞いただけで逃げ出したくなるほど恐れられているとはそもそも考えていない。
ミアの中でロロカカ神は絶対的に清く正しい神でしかないのだから。
「んー、分霊だけに名を知っていた。呪いだけにその存在を知らない。だから、神の御力の一部である魔力を直接触らせることで、分霊のように呪いそのものを追い出せるってことですか?」
アビゲイルの反応は今一だ。
魔術の神の分霊がロロカカ神の名を聞いただけで逃げ出したと言う話は聞いている。
それはやはりロロカカ神と言う存在を分霊が知っているからだ。
意志を持っているとはいえ、呪いを魔力だけで追い出せるとはアビゲイルには到底思えない。
「そう言うことなら、お手伝いできるかと」
だが、ここデュガンが名乗りを上げる。
魔力制御の達人であり、魔力を相手の体に送り込み内部から破壊できる新しい技術を、格闘術を編み出したのがデュガンだ。
その送り込まれた魔力は内部だけにとどまらず相手の精神にも作用させることが出来る。
デュガンは闇の人格のみを攻撃できる数少ない手段を持っている人物でもあるのだ。
だからこそ、お目付け役に同行させられている。
「むぅ、そうじゃな。そなたが編み出した新しい技術であるなら、この補填陣よりいいかもしれんなぁ。けど、耐えれるかね? あのロロカカ神の魔力に」
ウオールド教授もミアが貸し与えられているその魔力を何度か目にしたことがある。
人智の及ばない深い深淵を感じさせる魔力だ。
常人では気がふれてしまうほどの物だ。
その魔力を制御するとなると並大抵のことではない。
普通に扱えているミアが特異なだけだ。
「自分の失態でもあります。耐えて見せます」
デュガン自身もミアの魔力の残滓に触れ、その恐ろしさを実感している。
してはいるが、自分が張った結界に閉じ込められるような失態を犯したのだ。
どこかでその汚名を返上しなければならない。
しかし、そうなると可能性が色々と出て来る話になる。
「それなら…… あっ、じゃあ、ちょっと待ってもらっていいですかぁ?」
そう言うことであれば、デュガンが命がけで協力するのであれば、アビゲイルの中でも話は変わってくる。
陣の効果だけでは、洗い流せない呪いも、デュガンの協力で押し出せるようになる可能性は高くなってくる。
ならば、アビゲイルのやることは決まっている。協力と捕獲だ。
「むっ、なにする気じゃ?」
アビゲイルが何か思いついた顔をしているので、ウオールド教授は逆に顔をしかめる。
オーケンが協力体制にある今、ウオールド教授が一番気を付けなければならないのは、オージンではなく何をしでかすかわからないアビゲイルの方だ。
「逃げ出した呪いを捕まえたくてですねぇ、せっかくのこれほどの呪いですよぉ! どうにかして捕獲したいですよねぇ」
そう言ってオージンをニヤニヤとアビゲイルは愛おしそうに見つめる。
確かに呪いを追い出せても、ライにその呪いが舞い戻ってくる可能性は高い。
特にこの呪いは、神によりかけられた使命と役割を持たされた呪いだ。追い出せたとしても放置しておけば、ライの体に戻りかねない。
ウオールド教授は追い出した呪いをオーケンに破壊してもらうつもりでいたが、これはこれで逆に利用できる話でもある。
「まあ、舞い戻られてもこま…… 良いぞ。じゃが、一つ条件を飲んでくれんかのぉ?」
「条件? なんですか?」
ウオールド教授にそう言われ、今度はアビゲイルの方が怪訝な顔をしてウオールド教授を見る。
「教授になったらで構わん、副学院長の命には大人しく従ってくれんか?」
ウオールド教授に感情の無い顔でそう言われ、アビゲイルは嫌な感じを拭いかねない。
「えぇ、なんですか? アビちゃんを手籠めにでもするつもりですか?」
そうおどけて見せるが、ウオールド教授は一切の感情を表に出さない。
「そなたは無月の女神の巫女になるのじゃろ…… 誰がそんなことするか、なるべくで構わん」
感情のない顔でウオールド教授はアビゲイルをじっと見つめる。
「それでいいなら、まあ、いいですが」
なにか嫌なものを感じつつも、アビゲイルの意識は今は目の前の呪いの捕獲に行ってしまっている。
流石にアビゲイルも、ウオールド教授の真意、後を継がせる予定のライのためだとは気づかない。
というか、アビゲイルには、元々そんな思考がないので思い当たるわけもない。
アビゲイルは何か面倒ごとを、ウオールド教授に押し付けられるくらいにしか考えていない。
「恐らくおまえさんの師匠のマリユ教授も賛成してくれるはずじゃぞ」
ウオールド教授が急に感情を取り戻し笑顔でそう言うので、アビゲイルはますます怪しむが、目の前の呪いもどうしても入手したい。
それには、その条件を飲むしかない。
「えぇ、師匠がですかぁ? まあ、最近の師匠は変わって、以前のほど厳しくはないですからねぇ…… よほどこの学院が気に入ってるんでしょうねぇ」
そこでやっと、恐らくはこの学院の平穏の、自分が何かしでかさないための鎖の一つだとアビゲイルも気づく。
そして、それならば、まあいいだろうと安請け合いもする。
なにせアビゲイル自身は別に何か起こそうと思って行動しているわけではないのだから。
何か行動した結果が色々引き起こしているだけで。
「その学院を守るためじゃよ」
「んー、まあ、いいですよ。なるべくで良いのなら」
アビゲイルはそれを渋々了承する。
「今はそれで構わん」
ウオールド教授はこれは儲けものだと、喜ぶ。
これだけでアビゲイルを御せるわけではないが、それでも細い鎖ではあるが、早々にその首輪に着けられたことはウオールド教授にとって僥倖でしかない。
「じゃあ、ちょっと陣を変えさせてもらいますねぇ」
そう言ってアビゲイルは簡易魔法陣の内容を書き換え始める。
「ほう、今からやるのか。へへっ、マリユちゃんの秘蔵っ子の実力かぁ、興味あるねぇ」
オーケンはそう言ってアビゲイルの作業の観察する。
あのマリユが自慢する弟子だ。
また色々と頭がおかしい子とも聞いている。
そんな人物がどう動くのか気になる。
「師匠をちゃん呼びとか勇気ありますねぇ、流石は師匠を抱こうとしている人ですねぇ」
アビゲイルの方としては、オーケンと言えど師匠に、マリユ・ナバーナに、原初の巫女たる存在に釣り合うかどうか疑問と考えている。
確かに常人ではない。
生きた伝説のような人物ではあるが、それはマリユもそうなのだ。
アビゲイルにとって、マリユは唯一無二の存在なのだ。
ただアビゲイルとしても師匠がそう望むのであれば、口出しするつもりもないし、したら逆に自分の命の方が危ないともちゃんと理解している。
「だろぉ? って、おいおい、何だコイツ、コイツの頭の中どうなってるんだ、もう七柱分の神与文字が出て来たぞ、こりゃ本物だな」
オーケンの眼の色がすぐさま変わる。
その眼は興味と楽しさがあふれ出ているような輝きをしている。
恐らく即興なのだろうが、アビゲイルが書き足している魔法陣の出来にオーケンも驚きを隠せない。
「ワシも広く神を知っている方じゃとは思うんじゃがの…… 知らぬ文字ばかりじゃ。その数ももう二桁は越えたかのぉ?」
アビゲイルが使用する神与文字は多種多様にわたる。
その内包する意味をすべて理解し、単語の文字一つ一つに振り分けている。
常人の知識ではできない芸当だし、常人では一柱の神与文字を一種類だけでも理解するのに苦労する話だ。
アビゲイルにそれが可能なのは、神に囚われず神与文字全てを一つの文字として扱っているからだ。
ただ常人にはそんなことはできない。神は無限と思えるほど無数に存在し、その分の神与文字が存在するのだから。
「流石、伝説の大神官様と副学院長さんですねぇ、今回は二十八柱分の神与文字を使う予定ですよぉ」
アビゲイルの頭の中では既に書き換え、書き足す魔法陣が完成している。
行き当たりばったりで書き始めているわけではない。
頭の中ですでに完成している設計図通りに書いているだけだが、新しい魔法陣をそのように書ける人間など他には存在しない。
「本当に化物だな、なんなんだよ、この女は。その女もあんたの子孫か何かなのかよ?」
ライの知識を持っているオージンからもアビゲイルのやっていることはいろいろとおかしい。
これまでの常識を色々と覆すような、そんなことを平然とやってのけている。
そもそも、新しい陣を創るのにはその基礎を考えるだけでも相当長い時間を、それも魔術学院の教授になるような人間が長い年月を費やして作るものだ。
基本的に魔術師の技量は、用意している魔方陣の豊富さに起因することが多い。
なので上を望む魔術師は日々新しい魔方陣の開発にいそしんでいるものだ。
それを即席に新しい魔方陣を即興で作り出し、その場で書き換えるなど通常ではありえない。
「アビゲイル・フッカーだったか。フッカー家なんて聞いたことねぇな。流石に俺の子孫じゃねぇよな? どこの生まれだよ」
オーケンからしてもその眼で見てやっと信じられることを目の前の女はやってのけている。
天才だからできる、とういった話ではない。
もはやこのアビゲイルという人間は上位者と変わらない、それほどの事をやってのけている。
「生まれはここ、南ですよ。ただ私は生まれが孤児だったらしく、師匠に引き取られたんですよねぇ。まあ、だから師匠が私の母親みたいなもんですよぉ」
「あの離れか」
あっけにとられながらも、その離れの存在のことはウオールド教授も知っている。
まだ天地の塔が作られる前に、マリユと言う存在を離隔するために学院の敷地外に作られた屋敷だ。
確かにそこではマリユの弟子と呼ばれる存在が何人もいた場所である。
「そうですねぇ、その離れで三十歳くらいまで住んでましたよぉ。今師匠が住んでいる塔ができる前に、私は追い出されましたけどねぇ。まあ、追い出された後も師匠とはなんだかんだで連絡は取ってましたけどもぉ」
そう言ってアビゲイルも追い出された後のことを思い出す。
追い出された後とりあえず中央に行ってみたがいいが、なんの資格も持たない魔術師、しかもいろんな意味で破綻しているアビゲイルがまともに暮らしていけるわけもなく、結局中央で五十年ほどもぐりの魔術師として暮らし、行き詰まり、逃げ出し東の沼地で一人暮らすようになっていった。
今思うとろくな人生じゃなかったと、アビゲイル自身が噛み締める。
それでも今は魔術学院の教授と無月の女神の巫女と言う未来が見えている。
何より今はマリユの傍に居られることも、アビゲイルにとってはとてもうれしいことだ。
「じゃあ、名前に意味はないなぁ。俺もこの辺りはあんまり来たことないから、多分、俺の子孫じゃねぇよな?」
そう言うオーケンはなんだか自信がなさそうだ。
だが、オーケンもアビゲイルに何か感じるものがある。
もしかしたら自分の子孫かもしれない、そんな気がオーケンにもしてくる。
「そうかのぉ? どことなく似ている気がするが」
ウオールド教授はオーケンとアビゲイルを見比べてそう言った。
「なんだよ、爺さん」
「いや、何でもない」
「んで、俺様はどうなるんだ? そもそもこの体から追い出されるとは思ってねぇけどよぉ」
とオージンは強がって見せるが、アビゲイルが描いている魔法陣は戦々恐々としている。
なにせ、アビゲイルの書いている陣がものすごく高度であることは理解できても、その内容はまるで理解できないのだから。
だが、それを強がっているオージンを、面白がるかのようにウオールド教授が解説してやる。
「んー、まず補填陣で圧縮したロロカカ神の魔力を流し込む。そして、デュガン殿の技で隅々まで押し流してもらう。まあ、それだけじゃな。それでだめなら次じゃよ」
「はぁ? そんなんで俺様が祓えるわけねぇだろうが」
オージンはそれを聞いて安心して吠える。
そんなことだけで自分を生み出している呪いが祓えるわけがないと。
「想像以上じゃよ。ロロカカ神の魔力は。のぉ、ミア」
「え? はい! ロロカカ様の御力は凄いんですよ!」
意味も分からず振られて、ミアもよくわからずに答える。
「ミア、あんた何も理解できてないでしょう…… 下手したらライって人、廃人になるわよ」
スティフィは半ば呆れながら、ミアにそのことを教えてやる。
補填陣でロロカカ神の魔力を流し込まれるだけでも、常人であればおかしくなりそうなものだが、それをスティフィにはまだ理解できていないがより強力に流し込める術をデュガンは持っていると言う話だ。
「ええ! ロロカカ様の魔力でそんなことになるわけないじゃないですか」
ただ、ミアはロロカカ神の魔力の凶悪さをまるで理解していない。
ミアとしては慈愛に満ち溢れた素晴らしい清廉な魔力としか考えていないからだ。
「まあ、ライ殿も生まれつき呪いをその身に宿しておりますゆえ、耐性は高いほうかと」
むしろ、自分の方が持つか不安なデュガンはそう言ってしまう。
それに即座にミアが反応する。
「はぁ? なんでロロカカ様の魔力と呪いの耐性が関係あるんですか?」
瞬き一つしない、ミアの深く沈んだ感情のない瞳がデュガンをじっと見つめる。
「い、いや、魔力自体、魔力自体への耐性ということです、うんむ、そうですよな。ウオールド老」
慌てて、デュガンがそう言って、ウオールド教授に助けを求める。
「あ? あー、まあ、そんなところじゃの」
だが、ウオールド教授の興味はアビゲイルの書く魔法陣の方へ向けられている。
何とか少しでもその内容を解読しようと試みているのだが、知らない神与文字が多すぎてまったく解読できない。
単語一つ解読ができないとなるとはウオールド教授も思ってもいなかった。
どういう効果をもたらす陣であるか、それが全く理解できない。
そんなものを使って良い物かどうか、判断に困っている。
「そうですか、ならいいです」
ただミアはその言い訳でとりあえず納得したのか、急に落ち着いて見せる。
「そろそろその急にキレるのやめてくれないかなぁ?」
そんなミアをスティフィは見て、、ミアには聞こえない声でそう言った。
「で、えーと、これは何の集まりなんですか?」
本当に何も知らないジュリーが困惑しながら誰に言うでもなく聞いた。
その質問に答えてくれる者はこの場にはいない。
唯一答えようとしたマーカスも事情をよく知らないので黙るしかない。
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