学院の魔女の日常的非日常

只野誠

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身近に潜む非日常

身近に潜む非日常 その1

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 シュトゥルムルン魔術学院の事務員、ミネリアは強張った表情を浮かべた。
 祟り神の巫女とされるミアが事務室の入口からまっすぐ自分に向かってやって来ているからだ。
 書類作業の手を止め、事務机に座ったままミアの訪問に備える。
 土曜日だというのに出勤の当番だったことを嘆いた。
 多少は慣れたとはいえ相手が相手だけにどうしても緊張はしてしまう。
 そして願う。いくら苦情や文句を入れられても、どうにもできないことをわかって欲しい、と。
 数日おきにやってくるので見慣れた光景にはなりつつあるが、それに慣れることはない。
 あの少女を担当した数週間前の自分を呪いたいとすら思う。
 ミネリアはただの事務員である。魔術師学院の関係者と言え、さほど魔術に詳しいわけでもないし、ましてや学院内で権力があるわけでもない。
 ただ彼女の持つ生まれもっての眼が珍しかったので、このシュトゥルムルン魔術学院で保護される形で、そのまま就職したに過ぎない。
 俗に精霊眼もしくは水晶眼と言われる実体を持たない下位精霊を見ることができる彼女の眼は稀有なもので、場合によっては人攫いの類に狙われかねないものだ。
 彼女の眼には今も不定形で数多に存在する精霊達がこの世界の自然をせっせと回しているのが見えている。
 彼女がそんな目を持っていることを知っているのは、この魔術学院でも僅かにしかいない。
 が、こういった類の話はそう珍しい話ではない。この魔術学院という場所は、数々の神を信仰する者が集まるためか様々な縁が絡み合う。ある種の特異点ともいえる場所なのだ。
 言ってしまえば、魔術学院で働いているような人物は皆訳ありのようなものでミネリアの持つ精霊眼は魔術学院では特段珍しいというわけでもない。
 それを考慮すれば、ミネリアはやっぱりただの事務員なのだ。
 それに、ミネリアがいくら精霊を見ることができると言っても特段精霊に好かれているわけでもない。なんなら精霊では祟り神相手では何の役にも立ちはしない。
「あの、すいません、ミネリアさん」
 ミネリアの机の前に立ち、ミアが声をかけてきた。
「は、はい、今日も来たのね、何度も言っているんだけどね、いくらここに文句を言われても…… ね?」
 と、できる限りの作り笑顔で対応するが、頬がどうしても引きつってしまう。
 何がきっかけで怒りだすかかわからない祟り神、その神が特別視しているようなその巫女を対応しなければならないのだ。緊張しないはずがない。
「ロロカカ様が祟り神でない証拠を持ってくればいいのですよね?」
 と、ミアは不満そうな表情を見せて来る。
「それは、そうなんですけどね、でも、持ってきてくれてもそこから時間がかかるし、博識の神からの神託もあるので……」
 博識の神より頂いた神託で、ロロカカ神は大変危険な神とはっきりと明言されている。
 たとえミアの言うようにロロカカ神が祟り神でなかったとしても、ミネリアの対応も学院の対応も変わりはしない。
 魔術学院の上位組織の学会でも信頼されている神から、危険な神と明言された以上、それに対応しなければならない。
 関係性が変わりつつあると言っても神は人にとって偉大な存在なのは事実だ。
「わかってます。そのことで私も引く気はありませんが、今日の要件は違います」
 その言葉を聞いて、ミネリアは自然と安堵のため息が漏れた。
 ミアは、一度苦情を言い出すと少なくとも一時間は語りだす。
 フーベルト教授の手が空いていればミアを引き取ってくれるのだが、今日は生憎の土曜日で、恐らくフーベルト教授は自宅にこもりっきりで部屋からも出てくることはないだろう。
 毎週土日は神族の研究に勤しむのだとか。そういうことを隠しもせずにしているから、生徒から『オタク教授』などと言われているのだ。
 それはともかく、今日は助けがないのか、とミネリアは絶望していたところだったが、どうも今日は違う要件らしい。
「え? あら、そうなの? ご、ごめんなさい」
 ミネリアは、安堵の表情を隠すように精一杯の笑顔を作りミアに対応する。
 とはいえ、ぎこちない笑顔だ。
「はい、今日の要件はこれです」
 そう言ってミアは一枚の紙を受け付けに差し出した。
 ミネリアが差し出された紙に目を通す。
 依頼書だ。
 魔術学院で広く推奨されているが、あまり利用されてない仕事依頼の方法である。
 その依頼を出す方も、依頼を受ける方も利用者は少ない。
 なにせ報酬が釣り合わない。
 素人が素人に仕事の依頼をするようなものだ。
 ある程度学院側で管理していると言え、依頼者も大概この学院に通う生徒なので報酬自体を多く出せるような者が少ない。
 わずかな報酬で一日中働かせられるような依頼がほとんどなのだ。
 とはいえ、学院や教授個人が出すような依頼にはそれなりの報酬が付く。そのかわりその難易度は高いものが多い。
 例えば、ここ最近で一番新しい学院からの依頼は、祟り神から送られた帽子の祟りの強度測定のための被験者役、などだ。
 一週間寝込む羽目になると事前情報があったため、肉体的に優れている騎士隊訓練生に向けて打ち出された依頼だ。
 また、その期間の講義の免除とそれなりの報酬が出ていた。
 その帽子が今ミネリアの前にあるのだが、被らなければ平気、と自分に言い聞かせて仕事を進める。
 ミネリアはミアが差し出した依頼内容に目を通した。
 内容は、コバエ退治だった。報酬も銅貨一枚。
 それがただのコバエ退治だけであるならば、まあ、良い報酬ではある。
 虫よけの香でも焚いておけばそれで事足りる。
「初めての依頼と言うことで、スティフィと相談して簡単そうなものを選びました」
 ミアは誇らしげにそう語った。
 ミネリアはこの依頼について思い出す。
 確か依頼者は騎士隊科の生徒の一人だ。虫除けの香を焚いてもコバエが居なくなることはないので依頼したとの話だった。
 ミネリアは部屋掃除の依頼を出した方が早いのでは? と考えもしたが、まあ、依頼は依頼だ。
 虫除けの香が効かない時点で、銅貨一枚の報酬では見合わない内容だとも思うが、その辺も学院側からは口を出さない。
 これも学院としての役割と割り切ると、深く考えないで済む。
 学院側も相当ひどい内容でなければ依頼内容までとやかく言うこともない。
 それに初めての依頼なら、手頃なのは確かだし、ミネリアにはミアの魔術師としての才能がどれほどの物かはわからないが、コバエ退治であるのなら魔術師の才能も関係ないし危険もないだろうと判断した。
「はい、コバエ退治の依頼ですね。えーと、依頼元は…… あっ、彼か…… で、今日は土曜日だから寮にいるはずね…… 待ってね、今、必要な情報を書類にして渡すから」
「はい! しかし、コバエ退治で銅貨一枚とは儲けものですね」
 そう言って得意げな表情をミアは浮かべている。
 我に秘策あり、と言った感じだ。
 そこでミネリアは事前情報にもあったことを教えた。
「あっ、うーん、虫除けの香を焚いてもいなくならないって話だったけど……」
「え? そうなんですか?」
 と、そこにはわかりやすく驚いて動揺しているミアがいた。
 祟り神の巫女でなければ、素直でかわいい子なんだけど、とミネリアは思う。
「え、ええ」
 と、曖昧に返事をする。
 そして、やっぱり普通はそう考えるわよね、ともミネリアは思う。
「よ、良かった…… 虫除けの香を買う前で良かった……」
 冷や汗を垂らしながらミアが安堵の表情を浮かべている。
 暑くなるとこの辺りでは虫除けの香は割と必須になるもので無駄にはならないとは思うけれどと、考えつつ、ミアから得意げな余裕の表情が消えていたので、
「どうする? この依頼やめる?」
 と、とりあえず聞いてみた。
「いえ、やります。今日は講義もお休みですし、サンドラ教授もお休みなので購買部の買い取りもしてもらえないので」
 そう言われて、確か質のいい魔力の水薬がここ最近購買部に入荷されている話を思い出した。
 サンドラ教授も褒めていたし、すぐに飛ぶように売れるようになったと言っていたことをミネリアは思い出す。
 ちょうどミアが魔力の水薬を作り出した時期と重なるのが、事務員であるミネリアには書類のやり取りでもわかる。
 今、噂の魔力の水薬の出元が祟り神の物だと広まりでもしたら…… それはあんまり考えたくない話だ。
 それを考えるとお小遣い程度の収入でも収入源を増やしておくのは悪くない話かもしれない。
「そう、まあ、確かに初めてやる依頼に最適と言えば最適なんだろうけど、虫除けの香も効かないようなものをどうするの?」
「うーん、カエルさんを捕まえてきてその場に放つとかダメなんでしょうか?」
「え? あはははははっ、さすがにそれは厳しいかな。依頼場所も寮の自室らしいから」
「そうですか。まあ、まだ寒いですからね、カエルさんもまだ見当たらないでしょうし」
 まさか本気で言ってたのかと、ミネリアは考えもしたが、深く考えないことにした。
 そして、依頼内容と依頼者の情報を書いた依頼受け付け書類に、魔術学院の印を押してミアに手渡した。
「今日なら騎士隊の寮にいるはずだから尋ねてみてね。あと初めての依頼だし一日ごとに経過の報告もお願いね」
「はい、わかりました」
 ミアはそう言って去って行った。
 神のことが絡まなければ本当に良い子なのよね、とミネリアは思いため息を漏らした。

 ミアの住む第二女子寮からはかなり離れた位置に、目的の場所、騎士隊寮はある。
 基本的に魔術学院は街などから離れて作られるため、そこに通うものも務めるものも住み込みとなる。
 その際、教授でもなければ、寮暮らしとなるのだが大体は仕える上位存在と性別により、生徒も職員も住む寮が割り与えられる。
 が、ここ騎士隊寮だけは違う。元より管轄が違う。
 そもそも騎士隊とは、名に騎士とついてはいるが、貴族などに仕えているような騎士ではない。
 役職でも職業でも、称号などにおいても騎士ではない。
 ただ組織名に騎士の名が入っているに過ぎない。なぜ騎士の名が入っているのか、それを説明する日もいずれ来るかもしれないが、今ではないことは確かだ。
 王直轄の組織でありながら志願兵によって構成されるという変わった遍歴を持つ組織である。
 ある程度の治安維持の協力はするが、人同士の大きな争い、特に領主間の領土問題や各宗教間の問題、いうなれば人同士の争いには加担せず王同様に中立の立場を維持する。
 そんな騎士隊の組織としてのもっとも重要な仕事は、外法の者である魔物の討滅にある。
 世界の敵である外法の者は、光の勢力も闇の勢力も関係なく、協力して滅する者、敵として存在している。
 この世界の支配者たる神々ですらそう取り決めている。そこに意を唱える人間などいない。
 光と闇の勢力争いなど、その後の話なのだ。
 そんな成り立ちなわけか、志願兵のせいなのかはわからないが、騎士隊の構成する人員は多種多様なものとなっている。
 宗教的にも人種的にも多種多様だ。そのための絶対中立の立場なのだろう。
 ただ魔物退治ともなると魔術の知識と技術は必須にもなってくる。そのため魔術の才がある者は魔術学院で学ぶのが義務付けられている。
 基本的に騎士隊は各地の魔術学院と提携していて、大きな魔術学院には院内に騎士隊の訓練校なども存在する。
 ここシュトゥルムルン魔術学院もその一つだ。
 この騎士隊寮のみならず騎士隊の訓練校も魔術学院の敷地内にあるが、魔術学院のものではなくその部分は騎士隊の資本の元、名目上は王が用意したものとなっている。
 が、それを気にするものはいなく騎士隊の施設も魔術学院内にある施設の一つと認識されていることが実際は多い。
 騎士隊の訓練校のほうにも運動目当や武術訓練目的で魔術学院の生徒が出入りしているほどには緩い。
 ただ外部の資本が入ってきていることがあってか、他の建物より若干ではあるがしっかりとした造りのものにはなっていて独特の規律もある。
 もちろん、これからミアが訪れようとしている寮もだ。
 ミアは、塀で囲まれた少し物々しいつくりの寮に正面から入り、受付の窓の近くにおいてある金属製の呼び鈴を鳴らした。
 綺麗な澄んだ音色が響き渡る。
 男子寮という事でミアも少しは緊張していた。
 寮内、少なくとも玄関と受付の辺りはミアの住んでいる第二女子寮より片付いている、というより物が置かれていない印象を受けた。
 物が置かれていないので結果整頓され綺麗に見えているだけでなく、清掃もちゃんと丁寧に行われているようだ。
 少なくとも第二女子寮よりはちゃんと手入れされている感じがする。
 少しの間があって返事があり、中年の男性が受付にやってきてミアを見るなり怪訝そうな表情を浮かべた。
「お嬢さん、ここは男子寮、しかも騎士隊のだよ」
 と、怪訝そうな表情のまま男は声をかけた。
「はい、要件があり今日は尋ねさせてもらいました」
 と軽くお辞儀をしながらミアは答えたが、その際大きな鍔広の三角帽子を取ろうとはしなかった。
「要件?」
 と、さらに怪訝そうな表情をして男は返事をした
「これです」
 そう言ってミアは、ミネリアから手渡された書類を見せた。
「あぁ、これは依頼の書類か。コバエ退治って…… エリックの奴か…… こんなもんわざわざ依頼しやがって、虫除けのまじないで良いだろうに」
「なんか効かないらしいですよ、虫除けの香」
 とミアが言うと、不機嫌そうにミアを睨み返した。
「掃除しねぇからだろうに。まあ、依頼は依頼だ。入りな。エリックの部屋は一〇四号室だ。そこの廊下を突き当りまで行って、左に曲がって一番奥だ。それと、ここは男子寮だ、あんまりうろちょろ…… って、嬢ちゃん、あんた、例の?」
 と、中年の男は驚いた表情でミアを、いや、ミアの帽子を見つめていた。
 中年の男は最終的に室内に入ったら帽子を取れとまで言いたかったが、そこまで言葉は続かなかった。
「例のってなんですか」
 今度はミアが身構えて怪訝そうな表情を浮かべた。
「ロロカカ神とか言う祟り神の……」
「ロロカカ様は祟り神なんかじゃありません」
 と、ミアは強く食い気味に訂正する。
「いや、あ、ああ、うん、悪かった悪かった。まあ、なんだ、その、気を付けてくれよ? 若い男は猛獣だと思ってくれてかまわないからな」
 中年の男、恐らくはこの寮の寮長か管理人は急に作り笑いを浮かべた。
「なんですか。それは」
 とミアが呆れたように言うと、中年の男は急に真面目な表情になった。
「いや、そのー、なんだ。問題だけは起こさないでくれよ? あと、あの祟り、緑色の大きな出来物ができて寝込むの、あれはやめてやってくれないか、酷いありさまだったんだ」
 と、顔を青くしながら言ってきた。
 ミアもそれに心あたりがあった。
「私も帽子を貸すときに散々忠告はしましたけど、力の強い神器だからどうしても調査したいと言われて……」
「ああ、そうか、そうか、そりゃ、悪かった悪かったからな。穏便に済ましてくれ? なっ?」
 と、中年の男ははじめと違いかなり弱腰になっており絶えず笑みを浮かべていた。
「むぅ、わかりました。さっさとコバエを退治して帰ります」
 ミアも何か釈然としない気持ちを覚えつつも、早く依頼をこなして帰りたくなっていた。
「そうしてくれると助かる」
 中年の男の情けない声だけがむなしく響く。

 ミアは言われた部屋の前まできていた。部屋番号は一〇四号室。
 ここまでの廊下もやはり物がなく綺麗に清掃が行き届いている。
 第二女子寮には廊下にも私物が多く置かれている。
 屋内の廊下だというのに得体のしれないキノコや植物が植えられた鉢が多く置かれている。
 そのことをミアは特に気にしたことはないが、色々と文句が出ていることも聞いたことがある。
 それに比べ騎士隊の寮の廊下には個人の荷物であろうものは一つもない。
 一〇四号室の扉を何度か叩くと、部屋の中から何かが崩れる音が聞こえてきて、そのあと少しあって部屋の扉が開いた。
 そこには金髪碧眼で筋肉質で肌着の男が立っていた。
「うっわ……」
 と、ミアは何とも言えない声を漏らした。
「え? 女? 誰? え? ええ? えーと、誰です?」
 ミアは怪訝そうな表情を浮かべ依頼の書類を、とぼけた顔の肌着姿の男に前に突き出した。
「なに? えーと、は? うん? んーと、おお、そうか、コバエ退治に来てくれたのか?」
 と、男は喜びの表情を浮かべる。
 相当コバエに悩まされているのはその表情からだけでも理解できる。
 が、男の向こう側には汚い掃除されてない部屋が広がっていた。
 歩ける床の方が少ないように思えるような部屋だ。この部屋に依頼で人を呼ぼうとするこの男の精神がミアには理解できなかった。
 コバエどうこうよりまずは部屋を掃除すべきなのでは、とミアは思ったが、それよりは今は、
「はい、そうですが、とりあえず服を着てくれませんか?」
 と、お願いする方が先だった。
「え? あっ、すいません。まだ寝てて、あはははははは」
 と軽快に、それでいて軽薄に笑う男をミアはどことなく不安と不快感を覚えていた。

 金髪碧眼で筋肉質の若い男、エリック・ラムネイルは騎士隊の訓練生の一人だ。
 平凡な商家の生まれの三男坊で、肉体に優れ魔術の才もあったので騎士隊へと志願した、と言えば聞こえがいいが、実際は定職にもつかなかったので親に騎士隊に放り込まれた、というのが事実である。
 その後で、この魔術学院の騎士隊訓練校を選んだのはエリック自身ではあるが。
 エリックは軽装の部屋着に着替え眠そうに欠伸をした。自己紹介だけして、そのあとはまだ眠かったのか椅子に座りボケっとしている。
 まだかなり寒いのだがエリックは大分薄着だ。まるで寒さを感じていないかのように思えるほどだが、線の細いミアとは違って筋肉の鎧が寒さを感じさせないのかもしれない。
 ミアが少し待つが、エリックはうつらうつらとしているだけで話が何も始まらない。
 仕方なくミアから口を開く。
「あの…… 依頼はこの部屋で良いんですか?」
「ん? ああ、そうそう、そうなんだよ。何やってもコバエが湧いてくるんだよ、あっ、ほら! こいつらどこから湧いて出てくるんだよ、本当に」
 話しの途中でも、エリックはなにかを払うようなしぐさをする。
 確かにこの部屋には何かが飛んでいるが、鎧戸も閉められ、というか、鎧戸の前に物という名のゴミが積まれていて開かれてないせいか薄暗くてよくわからない。
 が、それ以上に部屋が汚い。コバエにとってもさぞかし好環境なのだろうと思う。
 この寒さで繁殖するようなコバエが本格的に暑くなりだしたら…… と考えると山に関わることが多いせいか虫も平気なミアでも嫌気がさす。
「部屋、掃除すればいいんじゃないんですか?」
 と遠慮もしないでミアは言った。
「いや、ほらさ、なんていうか、コバエが湧くような、な? 物はさ、置いてないんだよ、本当にさ」
 と、言うが、部屋が汚すぎておいている物がよくわからない。
 ただミアには、その辺に脱ぎ散らかしてある服からでもコバエが湧きだしてきていても何ら不思議なことはないように思える。
「購買部で売っているような虫除けの香は試したんですよね?」
 遠くから投げかけるように、いや、実際にミアとエリックには同室内ながら距離があり、少し大きな声で会話が続く。
「え? ああ、何度も試したよ。でも試してる最中にでも、こいつら飛び回りやがってさ」
 そう言いつつもエリックはなにかを払う仕草をしている。
 ついでにミアは、部屋の入口に、辛うじて物を踏まない位置に立っているせいか、コバエらしきものをまだ見つけてはいない。
 部屋の扉も空きっぱなしだが、エリックは特に気にしている様子もない。
 明かりはこの扉と鎧戸から差し込む光だけで室内はかなり薄暗い。
 この入口の扉を閉めてしまったら、薄暗いどころの話ではない。
 それもあってか、ミアは部屋の扉を閉めるどころか、その辺に落ちているゴミで、扉止めを作って部屋の扉が閉まらないようにした。
 そして、受付にいた中年の男の話を思い出す。男はみな獣だと思え、という言葉を。
 生唾を飲んで覚悟を決めて、ミアは一歩足を進もうとした。が、足場がなかったので進むのをすぐに諦めた。
「ここに来る前に購買部に行って話を聞いてきたんですが、あの香は羽虫と言わず甲虫にだって効果があるような物らしいのです。それで一応、あの香を発明したフーベルト教授を訪ねて、お知恵もお借りしてきていて、特製の殺虫陣も教えて頂いたのですが、試しますか?」
 ミアは念のため、先に依頼を受けた後購買部を訪ねて、虫除けの香の効き目を確かめてきた。
 虫除けの効果だけでなく殺虫、防虫の効果まであり、香をたけばしばらくは虫が寄り付かなくなる優れものらしい。
 その効果も、この辺りにでる小型の虫ならばどんな種類であれ効果はあるはず、とのことだ。
 その虫除けの香の製作方法を考案したのはフーベルト教授とのことだったので、購買部にいった足でフーベルト教授宅も訪問し相談までミアは既にしている。
 フーベルト教授の話でも、この辺りに出る虫なら、例え大型種の虫ですら嫌がり逃げ出すくらいの効果はあるとのことだった。
 それが効かないとなると、そもそも虫ではないか、別の土地から来た外来種の可能性もあるとのことだった。
 そして念のため、殺虫陣と言う対虫用の魔法陣まで教えてもらった。
 殺虫陣まで教えてくれたのは、日頃ロロカカ様のことを教えてもらっているのでそのお礼とのことだ。
「殺虫陣?」
「虫除けではなく虫殺しの魔術です。虫種相手ならかなり強力な効果とのことです」
「おっ、すげーじゃん、早速試してくれない?」
「じゃあ、とりあえず床が見えるくらい掃除してからですね、これでは陣が描けませんので……」

 ミアは顔を引きつらせながら掃除をした。
 なんで自分が掃除させられているのかよくわからなかったが、無心に掃除、というより陣を書くための場所を確保するために、ゴミを押しのけていった。
 赤と黒い模様の胴体をしていて、羽の部分は黒色の半透明をしている、それが音もなく宙を舞っている。
 一見すると凄く小さな花のようにも見えるが、それ自体が蠢いているのですぐに花ではないとかわかる。
 なにか物を動かすとそれが飛び回るのだから、たまったものではない。
 確かに小さくコバエに見えはするが、コバエというより小さな蛾や蜂のようにも思える。
 とりあえず噛んだり刺したりしてこないで、とミアは思いならが掃除をつづけた。
 半時ほどして、ようやく磨かれた木の床がある程度出て来たので、そこに家主には何も告げず蝋石で陣を書き始める。
 もう精神的に疲れていたのか、エリックに陣を書くことの許可を確認をすることはなかった。
 この魔法陣は地面に近い方が効果があるとの話で、しかも多少衝撃がでるのでしっかりとした場所に描く必要があるとミアは教わっていた。
 紙などの不安定な物に書いても十分な効果は、虫除けの香が効かないような相手には、出ないだろうとの話だった。
 なので、今回は床に書く必要がある。ここは一階なので地面からもほど近いはずだ。
 今回、描く陣はミアにとって未知の物だ。
 陣に描く内容も、ロロカカ様より与えられた神代文字ではない。
 それが神代文字なのかもわからない。ミアにはただの幾何学模様にしか思えないような物だ。
 魔法陣とは意味ある形のことである。そして魔力は力の源だ。
 陣に魔力を通すという事は、その陣の持っている意味に力を与えるという事で、意味ある力となしその効力を発揮させるという事だ。
 また陣はあくまで意味であり、そこに書いた者の想いも信仰心なども一切関与しない。
 どれだけ正確に陣を描けるか。それに尽きる。
 言ってしまえば、陣を機械などで印刷してしまっても、その効果は変わらないどころか高性能な陣を作ることが可能である。
 ただこの世界ではまだ印刷機は大変珍しく高額な物だけでなく、まだ人の手では作れず神から与えられた物だけだが。
 陣の形さえ正確であればいいという事は、描かれた陣に魔力を流し込んでしまうと、使用者の意思に関係なく、いや、使用者の有無にすら関係なく陣は効果を発動してしまう、という事だ。
 そのため魔法陣は使用後必ず破棄しなければならないのが基本的な決まりだが、ミアが巫女をしていた時はそのことすら知らなかったことだ。
 魔力さえ流し込まれてしまえば、その効果を発動してしまうのだから、使った魔法陣をそのままにしておくことは、事故につながりかねない行為だ。
 使用できる魔法陣がそのまま書かれた書物などは、書物の重要度にもよるが、禁書として扱われ、発動しないように封印され禁書庫にしまわれるか焼かれるか、そのような扱いを受けるほどだ。
 それらの理由から、魔法陣を人に教えるときは、魔法陣を二から三つに分けて陣を描き、それを組み合わせることで陣を完成させるようにしている。
 フーベルト教授に教わった殺虫陣も、二つに分けて紙に書かれており、円に幾何学模様のようなものと、読めはしないが直線で構成された文字だか記号のような文字が円を取り囲むように描かれたものがあった。
 ミアはそれを見ながら床に蝋石で模写していく。
「それが殺虫陣なのか?」
 エリックがその陣を覗き込みながら語り掛けてきた。
 ミアは時折飛んでくる鬱陶しい物を手で払いながら答える。
「ええ、ロロカカ様の神代文字ではないので、この陣の意味は私にはわかりませんが」
 エリックに話しかけられたのに適当に返事をして、薄暗い部屋の中、陣を書くことに集中する。
 ただでさえ、そこら辺を舞い飛んでいるのが鬱陶しいのに、いつも書いている陣とはだいぶ毛色が違うものをこの薄暗い部屋で書かされているのだ。
 少しでも集中したい。集中して書きたいのだが、空を舞う小さな物体がミアの集中力を更に乱すし、薄暗い密室でエリックという男にまで話しかけられる。
 否応なしに集中力が途切れてしまう。
 ただコバエの羽音が聞こえない事だけが救いかもしれない。けれども、視界の端を煽るかのように舞うそれがミアの集中力を遮って仕方がないし、エリックが何かするたびにミアはビクビクしている。
 そんな中で、
「ロロカカ様? どっかで聞いたような? んー、ほら、あれ、どれだったか…… ああ、先輩が被ったあの帽子、って、その帽子じゃん!?」
 と、エリックが驚いてミアの被っている帽子を指さした。
「え? ああ、祟りの強さを…… この帽子を被ったのですか?」
 と、大切な帽子を指さされて少しむっとはしたが、この帽子の祟りに当たったのなら仕方のない事かと、ミアですら思う。
「ああ、被ったのは俺の先輩だけどな。俺は付き添っただけだけど、笑えるほどえげつない効果だったぞ」
 そう言われたが、まあ、確かにあの症状は、見ている方にもえげつないものがある。
 立てないほどの高熱でうなされ、嘔吐と下痢を繰り返し、全身にでっかい緑色の出来物がいくつもできるのだ。
 間近で見ているだけでも精神的に来るものがある。
「私も止めはしましたけれども、調べなくてはいけないという事だったので…… その、先輩はご愁傷様でした」
「けど、それで先輩は金貨数枚は貰ってたみたいだけどな」
「なっ!? き、金貨? しかも数枚?」
 ミアの陣を書く手が止まり、エリックの方に振り返ってしまう。
 その際にも目の前を何かが音もなしに舞っていった。
 それを手で追いやるように払う。
「でも俺はあの症状を見たら、やりたくはねぇなぁ」
 と、エリックはしみじみと言った。
 そう言われればミアもいくら金貨を貰えると言われても、あの祟りを体験するのは確かにしたくないと思う。
「酷い症状が出るのはわかります。なので私は止めたんですよ?」
 なにせ世話する方も大変なのだ。
 高熱で動けないのに、定期的に嘔吐と下痢を繰り返すのだからたまったものではない。
「ん? ああ、ほら、その、俺は別に怨んじゃないよ? だって俺は先輩に付き添っただけだしな。その世話もしてないし。それに事前に教えられていた以外の症状も出なかったし、まあ、ほら、いいんじゃない?」
「そ、そうですか。っと、陣はこんな感じですかね」
 何とか書き上げた陣を、フーベルト教授から貰った物と見比べて差異がないか見直しながら言った。
「どういった内容の陣なんだ?」
「陣の意味までは知らないと言いませんでしたっけ?」
 と、エリックの方を向いてミアは答えた。
 きょとんとした顔の軽薄そうな男の顔がそこにはあった。
「あっ、ほら、そーだったかもしれないな! あのオタク教授に教わったんだけ?」
 なにかを取りつくようにエリックは話をそらした。
 ミアはこの時点で、ああ、この人は人の話を全て聞き流す人なんだと理解した。
「みんな、フーベルト教授のことをオタク教授って呼ぶんですね」
「ああ、うん、そーだな、みんな呼んでるしな。なんであの人、オタク教授って言われてんのかな?」
「知らずに呼んでたんですか? 神族の研究に熱心だからだそうですけど……」
 ミアはそう答えつつ、軽薄そう、ではなく本当に軽薄な人なんだとなんとなく思った。
「へー、そうなんだ、で、ほら、ええっと、その陣はどうするの?」
「どれくらいの効果か私もまだわからないので、魔力の水薬で魔力を与えてみようと思います。無駄に魔力をお借りしなくて済みますし」
 この陣、言うならば、フーベルト式殺虫陣は周囲の虫のみを殺すための魔術だ。
 陣の意味をミアは理解していないので、どういう効果で虫が死ぬかはミアにはわからないが、その効果は魔術学院の教授が作ったものだ。疑うようなものではないだろう。
 コバエを殺す程度ならざわざわ魔力を借りなくても、魔力の水薬を数滴で十分だろうと、ミアは判断する。
「ほほーん? おっ、そういや最近凄い質の良い魔力の水薬が購買部に出回ってるって知ってるか? 一日に十本ちょっとしか入荷しないんだけど、月曜種だか日曜種の魔力を込められた物で魔力の質が凄いらしい、って噂だぜ」
「へー、そうなんですね。私は買う余裕はないのですが、機会があったら是非参考にしてみたいですね」
 魔力の水薬を作り生計を立てている身としては、ぜひとも参考にしたいと考えてはいるが、それを買ってまで調べる余裕はミアにはない。
 それ以前に、その水薬を作っているのがミア自身だという事にも気づいてはいない。
「そうしたほうがいいぞ、凄い評判らしいしな。 あっ、えーと、ほら? ん?」
「はい?」
「あんた名前なんだっけ?」
「ミ、ミアです……」
「おぅおぅ、そうか、そうだったな、俺はエリック。エリック・ラムネイルだ。よろしくな!」
 と笑顔で挨拶されたミアは困惑するしかなかった。
 本当にこの人は人の話を聞き流す人なんだと、ミアは再度認識するだけだった。
「はぁ、自己紹介は二度目だと思いましたがよろしくお願いいたします」
「あれ? したっけ? そうだっけ?」
 と、とぼけた表情をエリックは見せた。ミアも、まあ、最初にあいさつしたときは眠そうにしていたので、寝ぼけていたのかも、と深く考えるのをやめた。
「はい。あっ、陣を起動しますが、この寮で虫を飼ってたりする人はいないですか?」
 エリックを相手にしていると、いつまでもこの汚い部屋で作業しないといけないと思ったミアは依頼を進めることにした。
 早く終わらせてこの書類にエリックの名を署名してもらって、それを提出して報酬を貰う。そして時間があったなら図書館にでもよって魔術の復習でもしようとミアは考えた。
 ミアにはわからないが図書館は暖炉もないのになぜか暖かい。自室とは違い凍えなくて済む。
「え? なんで?」
 エリックはミアの問いに心底理解できていない顔を見せている。
「この陣を起動したら、近くの虫は死滅するはずなので」
 ミアは答える。
「まじかよ、すごいじゃん。ミアちゃんすげーな、おい」
 エリックはやはり軽薄そうな笑みを浮かべていた。
 ミアはエリックを何とも言えない表情で見て、何かあっても確認は一応取ったし、エリックの、依頼主のせいにすればいいか、と他人事のように思い深く考えないことにした。
「いえ、凄いのは私ではなくこの陣を考案したフーベルト教授ですよ」
「さすがオタク教授だな、うん」
「で、いいんですか?」
 と、念のため最後の確認をする。
「あ? うん? いいんじゃない? 虫なんか飼ってるヤツ、いないだろう?」
「そ、そうですか、じゃあ、陣を起動しますね」
 ミアは深く考えることを辞めて作業に入る。
「あいよー、さっさとやってくれよ」
 ミアは懐から魔力の水薬を出して、数滴ほど魔法陣の近くに垂らした。
 そして、垂らした水薬から滲み出る魔力を陣へと向かわせる。
 魔力を感じる能力である魔力感知と魔力を操作する魔力操作の能力。
 この二つも、魔力を借りる才能の次に、魔術を行う上で重要とされる才能だ。
 魔力感知はそこにある魔力を感じることができる感覚で、鋭敏な感覚の持ち主になるとどういった種類、属性、波長と言ったようなものまで感じ取れるようになる。
 この感覚を極めることができれば、その魔力を感じるだけでどの上位存在から魔力を借りたのかという事までわかるようになる。
 これは生まれ持った才能が大きい、または何か神秘的な出来事に直面するとこでその才を大きく伸ばすことができると言われていて努力でどうこうできる才能ではない。
 そして魔力操作の能力は、こちらは魔力を操る能力だ。個人の才能というよりは借りた魔力との相性と言い換えてもいいが、こちらは訓練次第では向上するものだ。
 借りた魔力と相性が良ければ良いほど、魔力を自在に操れるようになり思い通りに動かすことができるようになる。
 魔力とは力そのもので力の源である。どこにどう分配するかで魔術の、いや、魔術師としての才が問われる物だ。
 また魔力は動かすことでその生み出す力を増す。どれだけ速く円運動させるかで魔術の出力を変えることもできる。
 思い通りに制御できるのとできないのでは、その効果と高率に雲泥の差がでる。
 ロロカカ神の魔力とミアの相性は言うまでもなく良い。
 もちろん、その魔力を込めて作られた魔力の水薬との相性もだ。
 ミアは垂らした数滴の水薬から魔力を余すことなく抽出し、それを陣へと流し込む。それを、目に見えぬ魔力を想像と感覚だけで、陣の淵に合わせて回転させる。
 次の瞬間、ミアが描いた陣の真上で、バチッという音と共にわずかな閃光と衝撃が一瞬だけ走った。
 そして、その後は、薄暗い部屋の中にうっすらと白い煙が漂った。
「うおっ、なんだ、今一瞬光ったよな? な? 失敗したのか?」
「いえ、成功です。フーベルト教授に見せてもらった時と同じ反応ですが……」
 だが、辺りにはまだ何かが同じように複数舞っている。
 とても今の魔術で死んだようには思えないどころか、怯んでいる様子もない。
「ん? でも、まだコバエは元気に飛んでるみたいだけど?」
「ですね。これは、本当にコバエですか? 今の魔術は、陣の大きさにもよりますが大型の虫種にも効果があるような物だそうですが」
 ミアは虫が嫌いという理由で虫除けの香や殺虫陣を作ったフーベルト教授のことを考える。
 少なくともこの辺りの虫には、何らかの効果があると断言していた。
 となると、外部から来た外来種か、そもそもコバエどころか虫ではない可能性も考慮しないといけない。
「え? いや、どう見てもコバエだろう?」
 と、断言するエリックをミアは無視したかったが、依頼主なので仕方なく答えた。
「虫除けの香も効かず殺虫陣も効果なし、となると、少なくとも普通のコバエではないんじゃないですか?」
「うそ? そうなの? いや、でもこれ、どう見てもコバエだぞ?」
 確かに一見コバエだ。
 虫の特徴をしているように見えるが、そもそも耳元で飛んでいても羽音すら聞こえない。本当に羽で飛んでいるかどうかも怪しいとミアは思いなおす。
「私にもそう見えます。数匹捕まえて図書館で調べてみましょうか。種類がわかれば対応もできますし」
 何度も宙を舞っているそれを再度確認する。確かにコバエに見える。
 が、ここはそもそも薄暗いし、対象はとても小さなものだ。
 明るいところで細部を確認するだけでも何かわかるかもしれないし、図書館には丁寧に書かれた挿絵のある図鑑もある。
 調べればこのコバエの正体もわかるかもしれない。
「おお、それはいいな。いやー、依頼出してよかった」
 と、やはり軽薄な笑顔を浮かべているエリックに、ミアはため息をついた。
 そして、よくため息をついているミネリアのことを思い出す。
 見知った顔とはいえ、あまり彼女ばかりに抗議しに行くのは迷惑だったかもしれない、とミアは初めて思い至った。
 別にミネリアに抗議しているわけではない、魔術学院に対して抗議しているのだから、他の事務員でも問題はないはずだ。
 次抗議行くときは、他の事務員にしてみようと、ミアはなんとなく思った。
「あと、部屋の掃除もしてくださいよ。こんなんだからコバエが湧くんですよ」
「いや、でも、ほんとコバエが湧くようなものはないんだって」
「もしそのゴミの下で鼠が死んでいたとしたら?」
 ミアはそう言ってて、それを自分で想像してしまい身震いをした。
 まだ寒いので鼠がこの部屋に避難してきていても何ら不思議はない。
「いや、それは……」
 と、エリックも同じことを思ったのか言葉に詰まったようだ。
「そもそも、まだこんなに寒いのに、この数のコバエが発生すること自体がおかしんですよ。発生源を突き止める意味も含めて部屋の掃除はすべきです」
 と、強めに進言するが、
「いや、でも、本当に……」
 と、エリックは認めようとはしない。
「いやもでももありません!! 掃除してください!!」
 より声を張って眉間にしわを寄せて怒気を発して強く言うと、
「わ、わかったよ…… いや、でも本当にコバエが湧くようなものはないんだけどなぁ……」
 と、グチグチ言いながらも、やっとわかってくれたようだった。
 ミアの怒気に怯んだのかもしれない。エリックはミアから視線をそらし少し怯んでいるようにも思える。
「よろしい。では数匹捕まえます。小さな紙でもありますか? 捕縛陣を作ります」
「捕縛陣?」
 と、エリックはオウム返しで聞いてくる。
「描いた陣内の物を文字通り捕縛する魔術です。本来は生け捕りにした獲物に使うもので虫などに使うものじゃないですけれども、相手が未知の虫ですし」
「そ、そんな魔術まで扱えるの? 凄いな。え? いや、確か俺と同じで今年からだよな? ミアちゃん、先輩じゃなかったよな?」
 エリックはなんだか知らないが純粋に尊敬の眼差しをミアに向けていた。エリックには先ほど怯んでいた様子は既にどこにもない。
「はい、今年からというか私は二週間前からですよ。私は元々巫女として祭事をする際に魔術を多少使っていたので」
 そう答える。
 ただ、フーベルト教授によるとミアの魔術は危うくもあるらしい。
 基礎を全く知らずに、それなりに高度な魔術を扱っているようなもので、いつ暴走してもかしくはないようなものだったらしい。
 使用後の陣を壊して破棄しなくてはならないこともミアは知らなかったのだ。
 ミアはその話を聞かされた時に魔術を学べとを薦めてくれたロロカカ神にいつも以上に深く感謝をした。
「なるほど、俺みたいなど素人とは違うのか」
 と言って、エリックははにかんで見せた。
「多少心得があるというだけで、それも祭事に関連するようなものばかりです」
 ミアも少し照れながらそう答えた。
 ミアにとっても、ロロカカ神より授かった技術を褒められることはやはり嬉しい。
「ああ、そう言えば、ロ…… なんとかっていう神様の巫女なんだっけ?」
「ロロカカ様です」
「ん? なんでロロカカ神でなくロロカカ様なんだ?」
 そう言われてミアは少し嫌な表情を浮かべる。
 フーベルト教授にロロカカ様のことを話しているときに、聞かされたとことがあるからだ。
 『神』ではなく『様』を付けて呼ぶような神様は、恐れられるようなことが多い神様なのだ、と。
 その先の話もあったが、ミアには認めがたい話の内容だったので、ミアの記憶からは抹消されてしまっている。
「さあ? 私にもわかりませんが、私の故郷リッケルト村では皆、親しみを込めてロロカカ様と呼んでいます」
 と、少しとぼけてミアは答えた。
 エリックは特にミアからの返答を期待していたわけでもなかったのか、その答えで満足したようだった。
「ふーん、あっ、紙だっけ? えっと、そこら辺においてある雑記帳なら頁破いていいから」
「えぇ……」
 そう言われてミアは困惑したが、手頃な位置にあったぐちゃぐちゃになっている雑記帳を摘まみ上げて、白紙の頁を一枚毟り取った。


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