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貴方のことを想うだけで
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翌朝、エルシャが目を覚ましてみると、ベッドの横には案の定、ジュノの姿があった。
昨夜は夜遅くまでルーファスたちと会議をしていたようだが、頻繁にエルシャの部屋を訪れて様子を見てくれた。
水や果物を持ってきてくれたり、熱は出ていないかと何度も確かめてくれたり、寒くはないかと毛布をもう一枚持ってきてくれたり、これで会議が遅くなっているのではと心配になるほど、ジュノは頻繁に様子を見てくれた。
会議を終えて部屋に戻って来てからも、エルシャの宿に行く気配もなく、狭い部屋の中で安心感のある静けさでエルシャを見守ってくれていた。
「おはようございます。
昨夜は、申し訳ありませんでした。
ジュノ殿は全く休めなかったでしょう」
上半身を起こすと、なるべくジュノの方を見ないようにして、ベッドから降りた。
「自分の宿に戻ります。
調査がどのようになっているかわかりませんが、今日はジュノ殿は休んでください」
「いや、そうも言ってられなくてな。
今日は鉱山の採掘場所を見に行くことになっている。
エルシャ殿の方こそ、ご気分が優れないのなら今日は宿の部屋から一歩も出ず、寝ていて欲しい。
私がエルシャ殿のお傍に居られないゆえ、衛兵は付けるがなにかと心配だ」
「……。
言ったでしょう、ジュノ殿。
私は子供ではないし、これでも国の執政を担っているんです。
いつまでもジュノ殿に頼り切っているわけにはいきません」
「……。
いくら国の執政を担っていても、体調が優れないときは休むものだ。
頼むから、ここで大人しくしていてくれよ」
「……」
エルシャの返事がないことと、あまりに元気のない様子に、ジュノは何度も振り返りながら部屋を出て行った。
ジュノがこの国に来た目的は、横領されている鉄鋼を調査することだったのだろう。
エルシャの護衛をしていれば、自ずと情報は集まって来る。だから、白狼王も強引にジュノをサライに置くよう言っていたのだ。
考えれば考えるほど、それが一番現実的な解釈だったように思う。むしろ、なぜ今までそのように考えなかったのか。なぜ、ジュノが本当に自分の護衛をするためだけにこんな差別だらけの敵国に留まろうと思ったのか。
たぶん、浮かれていたのだ。
ジュノがあまりにもエルシャに対して優しく、誠実であったから、勘違いをしてしまった。
ジュノも、自分と同じ気持ちなんじゃないか、と。
期待するな、いずれ別れる運命だと、自分で言い聞かせておきながら、どこかでこのままずっと一緒に居てくれるのではないか、あまつさえ、ジュノも自分のことを愛してくれて、幸せそうだった民たちのように自分とジュノも慈しみ合える関係になれるのではないかと。
でも、ジュノはそうではなかった。
ジュノは、最初から今までずっと、自分の国のために自分の国王の命で、自分の任務を行っていたに過ぎなかった。
エルシャに優しくしてくれたのも、誠実に触れてくれたのも、全て自分の任務を遂行する過程に生じたステップに過ぎなかったのだろう。
嘘をつかれていたわけではない。
ただ、エルシャが勘違いをしてしまっただけなのだ。
想いを深めてしまったのは、エルシャの方だけだった。
「ばかだなぁ、俺。
こんなんで立派な王になるとか言ってたのか……。
恥ずかしいやつ。
ジュノ殿もあからさまに自分のことを好きになってる元敵国の王って呆れて見てたんだろうなぁ」
王になって初めて、自分のために少しだけ泣くのを許した。
しかし、すぐにごしごしと自分の顔をこすって、ジュノが用意していってくれた水でばしゃばしゃと何度も洗い、ジュノが用意してくれた朝食を全て無理やり喉の奥に押し込んだ。
そして部屋の扉を開けると、昨日の近衛兵が立って扉の番をしてくれていた。
「これから出かける。
鉱山の採掘場の場所を知っているか?
案内して欲しい」
エルシャは、サライの王だ。
自分の心情や状況など、国政には関係がない。今、エルシャがしなければならないことは、鉱山の産出量の調査をして、横領や密輸の事実がないかを突き止めることだ。
採掘場を知らなかった近衛兵と一緒に町の住人に声をかけ、採掘場までの案内を頼んだ。
馬ではなかなか登るのが困難な道行だった為、徒歩で山を登っていく。
王都ではなかなか見ない針葉樹林が多く生えていて、大きな岩がごろごろと至るところに転がっている。その岩を登っては乗り越えていかなければならなかった。
こんな山深くで採掘しているのなら、鉱夫たちはきっと毎日自宅へ帰っているわけではないのだろう。一度採掘場での仕事が始まったら、少なくとも数日は採掘場で寝泊まりしているに違いない。
「ここは雪が降るのか?」
前を行く案内役の男に尋ねる。
「降りますよ。
冬の大雪の頃には、鉱山も休みでさぁ。
まあ、あちらさんの国よりかはマシですがね。
国境を越えたら吹雪と万年雪の山脈になりますから、この国の人間は国境を越えることはありませんや」
「そうか。
この辺りは戦地になったか?」
「そりゃ、ひでぇモンでしたよ。
こんな山や森に囲まれてちゃ、獣人たちには手も足も出ませんでしたがね……。
儂がひでぇって言ったのは、実際のところ獣人たちのことじゃありません。
自分たちの国でさぁ」
「自分たちの国?」
案内役の男が振り返る。
「国は、王様たちは、ずっとこの町の鉱山に頼り切って馬車馬のように鉄鋼を掘らせてた。
それなのに、いざ獣人たちが山越えで攻めてきたとき、軍隊もお偉いさんたちも皆、いの一番に馬で逃げやがった……!
見捨てたんでさぁ、この町を。
それなのに、戦争が終わったとたんに、また鉄鋼鉄鋼。
お偉いさんたちの目には、町の住民たちの顔は鉄鋼か金に見えてるんでしょうかね」
エルシャは今は身分を隠しているから王族だとは思われていない。しかし、王族への敵意や戦前戦中の行いを突きつけられれば、必然的に身体は強張り、心中では懺悔で跪きたくなっていた。
「エルシャ様……、お気になさいませんよう……」
近衛兵が心配して小さく声をかけてくれるが、黙って頷くしかなかった。
そのとき、突然、右から左から背後から一度に棍棒やら剣などで襲いかかられた。
「うわぁっ! くそっ! 何者だ!」
「ぎゃあああ!
山賊だ! 人攫いだ!」
「だめだ! ばらばらになるなっ!」
襲いかかってきたのは少なく見積もっても十人前後の男たちの集団だ。
案内を頼んでいた町の者は山の奥へと走っていってしまうし、唯一剣を携えていた近衛兵は最初の一撃、追随する男たちの二撃目、三撃目、と集中攻撃を受けて頭から血を流し、肩からも大量に出血し、足は折れているように見えた。
それでも、エルシャを守ろうとエルシャを背に庇い、足を引き摺りながら剣を抜いて応戦する。
エルシャも、全く剣術や武術に心得がないわけではない。男たちが取り落とした剣を拾い、右から来た男を薙ぎ払い、左からの男の脇腹に一撃を入れる。
しかし、山賊の男たちの数は減らず、近衛兵の体力も限界を迎えようとしていた。
「ぎゃああああ!」
森の奥から案内を頼んだだけの住人の悲鳴が聞こえる。
「なにが目的だっ!」
「あんただよ、貴族のお偉いさん」
首領らしい男がエルシャを見て鼻で笑う。
「貴族にしちゃ、よく暴れるなぁ」
「貴族なんて奴らは皆、突然襲われたらすぐに命乞い始めて、金をやるから……!、って言ってくるのになぁ」
ぎゃはは、と男たちが野卑な笑いで取り囲む。いつの間にか、大きなスギの大木を背に、取り囲まれていた。
「……わかった。
目的は俺なんだな、それならば俺だけが付いていけば文句はないな?
この兵士は手傷を負っている。兵士と、関係のない町の人にはこれ以上手を出すな」
「! なにを仰っているんですか、エル、っ!」
近衛兵の口を塞ぐ。そして、小声で王命を下す。
「ルーとジュノに知らせてくれ。
……待っている」
「はっ、助けか? 簡単には来れねぇがなぁ」
「?」
「まぁいい、確かに俺たちが攫って来いと言われていたのは金髪の若い貴族だけ。
あとは金にもなりやしねぇ。
よし、連れてこい」
男たちはエルシャを取り囲み、両脇から拘束し連れ去った。
後ろ手に縄で縛られ、口には猿ぐつわを噛まされ、麻袋を被せられて、足元も覚束ないのに小一時間は歩いただろうか。
そこから、馬に乗せられて酷く揺れる道なき道を進んだ。
最終的に放り投げられるように突き飛ばされて転がったのは、ごつごつした剥き出しの岩肌に絨毯を敷いただけの簡素な床だった。
頭に被せられていた麻袋を取られると、そこは簡素という話ではなく、本当にただの岩をくり抜かれた洞窟だった。
ランプに火が入れられて、絨毯のない場所にある焚火跡に火が入ると、周囲も薄ぼんやりと観察できた。
焚火の傍には、古びたテーブルと、酒樽を利用した椅子がいくつか置いてある。
テーブルにはランプや酒、煙草に拳銃やナイフまである。
男たちはエルシャの見張りなのか、三人に減っていた。三人ならば隙をついてなんとかできるかもしれない。
しかし、場所がわからない。
この洞窟は山のどの辺りに位置しているのだろうか。
そして、男たちの目的も見えない。エルシャだけが目的ということは、誘拐など金品目的だろうか。
絨毯が敷かれているのはエルシャのいる辺りだけのようで、手を縛られながらもなんとか体勢を整えて座った。
森の中でエルシャも二度ほど殴られていたが、衛兵と違って素手だった。おそらく、エルシャのことは傷を付けるなとでも命令されているのだろう。
とりあえず、今のエルシャにできることはないので、周囲や見張りの男たちを観察するしかない。
洞窟はどうやら採掘場跡地のようだった。間はもう使われていないのだろう、つるはしや車輪の外れたトロッコなどが朽ちて隅に放置してある。
しかし、エルシャの居る少し奥には、黒いこぶしほどの塊が山のように積み上げられていて、奥へ奥へと雪崩ている。
(もしかしてこれ……)
見張りの男たちの目を盗んで、ずりずりと少しずつ座ったまま後退する。縛られた手に黒い塊が当たると、手触りや硬さなどを確かめてみる。
(やっぱり……! これ、たぶん、鉄鋼だ。
掘り出してそのまま使われていない跡地に運び込んでいたのか)
恐らく、これが横領された鉄鋼だ。一旦ここに運び込まれて、産出量の計測が終わった後に、ここから運び出して売るのだろう。
そうなると、あの男たちは、横領の犯人だということになる。エルシャを攫えと命じた主犯が、横領も行っているということだ。
いったい誰なのか。この男たちは知っているのだろうか。
怪しまれないように、また少しずつ絨毯の上に戻る。
洞窟の入り口側、つまりエルシャにとっては唯一の逃げ道だが、ゆるくカーブしたさきからは、先ほどからひんやりとした空気が入って来ている。
焚火でも起こしていなければ凍えそうな寒さだ。
エルシャは厚手の上着を着ているというのに寒さが凌げていない。
イェドの町や森に入ったときでさえも、これほど寒くはなかった。
男たちは毛皮の上着を着込んでいて、肩には白いものが残っている。
(雪……?)
町の住人に言われるまでもなく、エルシャはよく知っている。
サライから国境を越えた銀狼国側の山々は、いつも吹雪と万年雪に覆われている。
(まさか、ここは銀狼国側の採掘場……!?)
鉄鋼が銀狼国側に隠されていようとは、まさか誰も思わなかっただろう。たとえ、可能性として思いついたとしても、調査のために銀狼国へ入るには、それ相応の手続きや根回しが必要だ。
そんなことをしている間に犯人たちは鉄鋼を違う場所に運び出せばいい。
(見つからないわけだな)
横領の証拠である鉄鋼は、ジュノが見つけたがっていたものだ。
(ジュノ殿、喜ぶかな……)
この期に及んでもまだ、ジュノを喜ばせたいと考えている。
はあ、と洞窟の岩肌に背を預ける。
ジュノは今頃どうしているだろう。宿に居ろとあれだけ言われていたのに、勝手に外出したことを怒っているだろうか。
そのせいでこのように皆に迷惑をかけて、ルーファスなどエルシャが捕まったと聞いて卒倒しているかもしれない。
しかし、幸いにも、この男たちはエルシャのことを「国王」だとは気が付いていない。思ってもいないはずだ。だから、暗殺だとかクーデターが目的ではないはずだ。
「本当にこいつ、生かしといていいんですか?
鉄鋼の場所も知られちまってますよ」
「おい、顔に傷をつけるなよ。
命令だからな」
「売るんですかい?
だから、生かして捕まえろと?」
「へへっ、確かにお綺麗な顔してやがる。
貴族なんか今まで会ったこともねえけど、男でもこんなに小綺麗なもんなんだな、お貴族様ってやつは」
見張りの男がエルシャの金髪の前髪を掴み、顔を上へ向ける。
なるほど、人身売買目的だったのか。貴族の人間で見目が良ければ高く売れると聞いたことがある。
(こいつら、叩けば埃がいくらでも出そうだな)
人身売買なら、売られてしまえばもう二度とジュノに会うことができないかもしれない。
その考えで一気にまた、溶かしたインクが心を浸食してくる。
髪を引っ張られる痛さも、殴られた後頭部や腹の痛さもいずれ治る。まあ、売られた先によっては毎日もっとひどい仕打ちをうけるかもしれないが。
それでも、ジュノのことを想うときの胸の痛みはきっといつまでも消えないだろう。
「……なぁ、こいつ本当に上玉だぜ……」
エルシャの髪を掴んでいた男の目が濁っているのに鈍く光る。どうやら酒も入っているようだ。
エルシャはぐいと身体を傾け、男の視線から逃れようともがく。
しかし、それが男にはさらに扇情的に映ったようだった。
男がテーブルからナイフを持ち出してくる。
「おい! 傷をつけるなって命令だと言ったよな」
「傷をつけようってんじゃねぇよ。
確かにこんな上玉傷つけて値が下がったんじゃもったいねぇ。
ただちょいと退屈しのぎに遊んでやろうかなと思ってよ」
エルシャが着ていた上着を脱がせ、薄い布地の丈の長いチュニックの襟元にナイフを当てる。
ビリビリとナイフで布地が切り裂かれていく。
少しでも動いたらそのナイフが自分の肌を切り裂く。少しでも逆らったら、いや逆らわなくても男の気分次第でナイフが胸や腹に突き立てられるかもしれない。
本能的な恐怖が身体を震わせる。
エルシャの白い肌が徐々に露わになり、焚火の炎の色が艶めかしく映し出す。
嗜虐的な男の目が楽しそうに歪む。
エルシャはなるべく平常心でいるように、近い男の顔から自分の顔を逸らし、目を瞑った。
それは、傍から見ると男に従順になっていると見えるかもしれないが、エルシャの中では逆だ。
心にあるのは、ジュノの「エルシャ殿は美しく在ろうとしている」という言葉だけだ。
どんな暴力にも屈しない。自分の最も美しい場所には、ジュノだけが触れることができる。
そう信じているからこそ、恐怖に支配されないでいる。エルシャは目を開いて男を真正面から睥睨した。
男のナイフはエルシャの上衣を全て切り裂く。
「へへっ、お貴族様ってのは肌もきれいだな。
俺たちとは、人間の種類が違うんだろうな。
それを好き勝手できるってのがたまんねぇ。
どれだけ値を釣り上げても買う変態が居るのもわかるぜ」
そう言いながら、ナイフの刃先でエルシャの胸の先端を撫でる。
露わになった肌が寒さで総毛立ち、恐怖と緊張も相まって乳首も硬くなっている。そこを引っかかれて嫌悪感が背筋を這う。
「おい、お前だけ楽しむなよ。
こっち持ってこいよ」
テーブルについていた男が言うので、ナイフの男も楽しそうにエルシャを立たせた。
酒の空き瓶や拳銃などを端に避けて、エルシャをテーブルの上に突っ伏す恰好で押さえ付けた。
なにも遮るもののない胸元が、冷たいテーブルに押し付けられて震える。
「はは、いい格好だなぁ」
男たちは両脇から、暴れるエルシャの頭や肩を押さえ付ける。
エルシャからはほとんど周囲が見えなくなった。視界にあるのは拳銃と火が着いたままの煙草だけだ。
エルシャの背後に立ったのはおそらくナイフの男だ。男は、エルシャのズボンを腹で留めていた飾り紐をナイフで切る。下衣も全て地面に落ちた。
「んんっ! ん! んんんっ!」
まだ丈の長いチュニックの背面に隠されているとはいえ、下半身を丸出しにされ、さすがに抵抗を激しくする。
「ひははは、ようやく抵抗しだしたか。
そうじゃないと面白くねぇからな。
抵抗して涙ながらに止めてぇ、許してぇ、と叫ぶのを無理やりするのが楽しいんだよ」
「お前はすぐ売りモンに手を出しちまうから、いつも止めろって言ってるだろうが。
今度から見張りの役を外すぞ」
「へへ、お前らも俺と一緒に楽しんでるくせによう」
男たちの会話に心底怒りが沸く。
国政国政と言ってきたが、このような連中を野放しにしておいて、なにが国の平安か。
今までどれだけの犯罪が人知れず行われてきたのかを考えると、吐き気がするほどの怒りと嫌悪感で猿ぐつわを噛みしめる。
エルシャの後ろで男がズボンを脱ぐ衣擦れの音がして、男たちの笑い声がいっそう大きく洞窟に響いた。
(ジュノ……!)
男がエルシャの腰に乱暴に手をかけた。
が、エルシャが覚悟していたものとは全く違う衝撃が背後で空気を揺らした。
自分に圧し掛かっていた重さが消えて、どさり、と鈍い音がした。エルシャの視界であるテーブルのよこに男が倒れていた。
(え……?)
「ぎゃああああ!」
エルシャを抑え込んでいた男たちの手があっという間になくなり、瞬きをしている間に男たちの身体が全てテーブルの下に転がっていた。
(え、なんだ……?)
呆然としているエルシャの身体に、パサリと服が着せかけられる。服からは、甘くて重厚で、そして少し雪の匂いの混じった懐かしい香りがした。
無理やり押さえ付けられていて軋む身体をそっと起こしてくれる手は、白銀の被毛に覆われていて、あたたかい。
振り向かされると同時にぎゅうぎゅうと抱きすくめられたので、顔もよく見えなかった。
胸元の飾り毛に顔を埋めて、この人に本気で抱きしめられるとすっぽりと全身覆われてしまって閉じ込められているみたいだな、とぼんやりと思う。
後ろ手の縄と猿ぐつわも、獣人の力で簡単に引き千切られる。
身体を離すと、エルシャに着せかけた上着でさらにエルシャの身体を包み込む。
そして、無言のまま倒れている男たちの方へ向かって行った。
地面に倒れてピクリともしない男たちを、それでも片手で頭を掴み持ち上げると、意識のない男は人形のようにぶらぶらと力なく揺れた。エルシャにナイフを向けていた男だった。
その男の顔を岩肌が剥き出しの壁へぶつける。人体から鳴るには相応しくない鈍い音にエルシャはビクリと肩を揺らした。
だが、一度では終わらなかった。二度、三度と鈍い音が洞窟に響く。すでに意識がないはずの男から、ただ漏れているだけの潰れた声がし、割れた額や鼻や口から溢れた血液が飛び散り、折れた歯が転がった。
喉からは地を這うようなグルルルという声が聞こえている。
あまりに一方的だった。
エルシャはそのやり場のない怒りや哀しみをたたえた背中に縋りつく。
「ジュノ。
ジュノ、もういいです、ジュノ殿。
貴方の魂が汚れてしまう。
俺は、いつも貴方に守ってもらってばかりです。
俺にも貴方を守らせてください」
男の頭を割ろうとしていたジュノの動きがようやく止まる。男はぼろ布のように地面に崩れ落ちたが、呻き声から息があることがわかってほっとした。
ジュノをゆっくりと振り向かせ、その胸に飛び込み、大好きな香りを肺に一杯吸い込んだ。ジュノの腕もエルシャの背中に回り、ぎゅうと抱きしめてくれる。
「すまなかった。
エルシャ殿を守るなどと言っておきながら、こんな目に合わせた。
なぜエルシャ殿から離れたのか……」
「大丈夫、俺は大丈夫です。
ジュノ殿が約束通り守ってくれたから、俺は無事です。
ありがとうございました」
「無事などと……。
俺は、貴方に傷一つ付けないと誓った……」
ジュノの方が心を痛めているようだった。
そんなことをされると、こんなふうに抱きしめられると、また誤解してしまいそうになる。
ジュノのあたたかい胸をそっと押し、身体を離す。
「俺は、大丈夫です。
そんなことより、ほら、見てください、鉄鋼ですよ! 横領の証拠です。
怪我の功名ってやつですよね。
良かったですね、ジュノ殿」
「……良かった? そんなこと?
俺にとって、エルシャ殿以上に重要なことなどなにもない。
エルシャ殿が連れ去られたと大怪我をした兵に聞かされたとき、俺は自分の心臓をくり抜かれて持ち去られたような心境だった。
なぜ貴方の傍に居なかったのか。
なぜ貴方を独りにしたのか。
自分を責めもしたが、エルシャ殿を見つけ助け出すことより大事なことはなかったから動いた。
貴方は、そのときの俺の絶望や痛みを“そんなこと”と言うのか」
「あ、……ご、ごめんなさい……」
ジュノが心配してくれたことを無下にしたいわけではなかった。
王という立場であるにも関わらず、軽率で、考えなしで、無責任な行動をとったことも反省している。
「はぁ、……違う。そういうことじゃない。
いいか、俺は、貴方が王だから心配したわけではない。
貴方が王だから守ると誓ったわけではない。
エルシャ殿が、俺自身の心臓よりも大事な方だから誓ったのだ」
なんだか、噛み合っていない気がする。
しかし、顔は熱を帯びて赤くなり、心臓は痛いくらいにどきどきと高鳴っている。
だって、こんな言い方、言葉はまるで……。
思わず、瞳を潤ませたままジュノを見上げる。
ジュノは珍しく数度目を泳がせたが、一つため息をついて、観念したかのように口を開いた。
「つまり、貴方を、エルシャ殿を愛している」
息も心臓も止まってしまったのではないかと思った。
「初めて会ったときから、貴方に惹かれていた。
しかし、その、色々と制約があって、はっきりとお伝えできなかった。
エルシャ殿の強い意志、まだ若いのに独りで全てを担おうと立つ凛とした姿、無理をしていることも、危険な目に合うことに慣れてしまっているところも、全てが愛おしかった。
俺が守ってやりたいと思った。
だから、エルシャ殿には、この気持ちを知っていて頂きたい。
ご自身の立場や俺の立場やこれから先のことなど、どうか今は忘れて、エルシャ殿のお気持ちだけお聞かせ願いたい」
今さら、そんなこと、心はとっくに溢れださんばかりの気持ちで一杯なのに。
「俺も、ジュノ殿が、好き、です。
愛してます」
言葉ではとうてい伝えきれないから、涙まで出てきた。
エルシャは今まで生きてきた中で、立場や理性ではなく自分の奥底の気持ち、というものを伝える場面が圧倒的に少なかった。だから、好きだという気持ちを口に出すだけで泣けて仕方ない。
ジュノはそんなエルシャを満足そうに見て、ふ、と空気を揺らし、大事なものを閉じ込めるように、今度は柔らかく抱きしめた。
昨夜は夜遅くまでルーファスたちと会議をしていたようだが、頻繁にエルシャの部屋を訪れて様子を見てくれた。
水や果物を持ってきてくれたり、熱は出ていないかと何度も確かめてくれたり、寒くはないかと毛布をもう一枚持ってきてくれたり、これで会議が遅くなっているのではと心配になるほど、ジュノは頻繁に様子を見てくれた。
会議を終えて部屋に戻って来てからも、エルシャの宿に行く気配もなく、狭い部屋の中で安心感のある静けさでエルシャを見守ってくれていた。
「おはようございます。
昨夜は、申し訳ありませんでした。
ジュノ殿は全く休めなかったでしょう」
上半身を起こすと、なるべくジュノの方を見ないようにして、ベッドから降りた。
「自分の宿に戻ります。
調査がどのようになっているかわかりませんが、今日はジュノ殿は休んでください」
「いや、そうも言ってられなくてな。
今日は鉱山の採掘場所を見に行くことになっている。
エルシャ殿の方こそ、ご気分が優れないのなら今日は宿の部屋から一歩も出ず、寝ていて欲しい。
私がエルシャ殿のお傍に居られないゆえ、衛兵は付けるがなにかと心配だ」
「……。
言ったでしょう、ジュノ殿。
私は子供ではないし、これでも国の執政を担っているんです。
いつまでもジュノ殿に頼り切っているわけにはいきません」
「……。
いくら国の執政を担っていても、体調が優れないときは休むものだ。
頼むから、ここで大人しくしていてくれよ」
「……」
エルシャの返事がないことと、あまりに元気のない様子に、ジュノは何度も振り返りながら部屋を出て行った。
ジュノがこの国に来た目的は、横領されている鉄鋼を調査することだったのだろう。
エルシャの護衛をしていれば、自ずと情報は集まって来る。だから、白狼王も強引にジュノをサライに置くよう言っていたのだ。
考えれば考えるほど、それが一番現実的な解釈だったように思う。むしろ、なぜ今までそのように考えなかったのか。なぜ、ジュノが本当に自分の護衛をするためだけにこんな差別だらけの敵国に留まろうと思ったのか。
たぶん、浮かれていたのだ。
ジュノがあまりにもエルシャに対して優しく、誠実であったから、勘違いをしてしまった。
ジュノも、自分と同じ気持ちなんじゃないか、と。
期待するな、いずれ別れる運命だと、自分で言い聞かせておきながら、どこかでこのままずっと一緒に居てくれるのではないか、あまつさえ、ジュノも自分のことを愛してくれて、幸せそうだった民たちのように自分とジュノも慈しみ合える関係になれるのではないかと。
でも、ジュノはそうではなかった。
ジュノは、最初から今までずっと、自分の国のために自分の国王の命で、自分の任務を行っていたに過ぎなかった。
エルシャに優しくしてくれたのも、誠実に触れてくれたのも、全て自分の任務を遂行する過程に生じたステップに過ぎなかったのだろう。
嘘をつかれていたわけではない。
ただ、エルシャが勘違いをしてしまっただけなのだ。
想いを深めてしまったのは、エルシャの方だけだった。
「ばかだなぁ、俺。
こんなんで立派な王になるとか言ってたのか……。
恥ずかしいやつ。
ジュノ殿もあからさまに自分のことを好きになってる元敵国の王って呆れて見てたんだろうなぁ」
王になって初めて、自分のために少しだけ泣くのを許した。
しかし、すぐにごしごしと自分の顔をこすって、ジュノが用意していってくれた水でばしゃばしゃと何度も洗い、ジュノが用意してくれた朝食を全て無理やり喉の奥に押し込んだ。
そして部屋の扉を開けると、昨日の近衛兵が立って扉の番をしてくれていた。
「これから出かける。
鉱山の採掘場の場所を知っているか?
案内して欲しい」
エルシャは、サライの王だ。
自分の心情や状況など、国政には関係がない。今、エルシャがしなければならないことは、鉱山の産出量の調査をして、横領や密輸の事実がないかを突き止めることだ。
採掘場を知らなかった近衛兵と一緒に町の住人に声をかけ、採掘場までの案内を頼んだ。
馬ではなかなか登るのが困難な道行だった為、徒歩で山を登っていく。
王都ではなかなか見ない針葉樹林が多く生えていて、大きな岩がごろごろと至るところに転がっている。その岩を登っては乗り越えていかなければならなかった。
こんな山深くで採掘しているのなら、鉱夫たちはきっと毎日自宅へ帰っているわけではないのだろう。一度採掘場での仕事が始まったら、少なくとも数日は採掘場で寝泊まりしているに違いない。
「ここは雪が降るのか?」
前を行く案内役の男に尋ねる。
「降りますよ。
冬の大雪の頃には、鉱山も休みでさぁ。
まあ、あちらさんの国よりかはマシですがね。
国境を越えたら吹雪と万年雪の山脈になりますから、この国の人間は国境を越えることはありませんや」
「そうか。
この辺りは戦地になったか?」
「そりゃ、ひでぇモンでしたよ。
こんな山や森に囲まれてちゃ、獣人たちには手も足も出ませんでしたがね……。
儂がひでぇって言ったのは、実際のところ獣人たちのことじゃありません。
自分たちの国でさぁ」
「自分たちの国?」
案内役の男が振り返る。
「国は、王様たちは、ずっとこの町の鉱山に頼り切って馬車馬のように鉄鋼を掘らせてた。
それなのに、いざ獣人たちが山越えで攻めてきたとき、軍隊もお偉いさんたちも皆、いの一番に馬で逃げやがった……!
見捨てたんでさぁ、この町を。
それなのに、戦争が終わったとたんに、また鉄鋼鉄鋼。
お偉いさんたちの目には、町の住民たちの顔は鉄鋼か金に見えてるんでしょうかね」
エルシャは今は身分を隠しているから王族だとは思われていない。しかし、王族への敵意や戦前戦中の行いを突きつけられれば、必然的に身体は強張り、心中では懺悔で跪きたくなっていた。
「エルシャ様……、お気になさいませんよう……」
近衛兵が心配して小さく声をかけてくれるが、黙って頷くしかなかった。
そのとき、突然、右から左から背後から一度に棍棒やら剣などで襲いかかられた。
「うわぁっ! くそっ! 何者だ!」
「ぎゃあああ!
山賊だ! 人攫いだ!」
「だめだ! ばらばらになるなっ!」
襲いかかってきたのは少なく見積もっても十人前後の男たちの集団だ。
案内を頼んでいた町の者は山の奥へと走っていってしまうし、唯一剣を携えていた近衛兵は最初の一撃、追随する男たちの二撃目、三撃目、と集中攻撃を受けて頭から血を流し、肩からも大量に出血し、足は折れているように見えた。
それでも、エルシャを守ろうとエルシャを背に庇い、足を引き摺りながら剣を抜いて応戦する。
エルシャも、全く剣術や武術に心得がないわけではない。男たちが取り落とした剣を拾い、右から来た男を薙ぎ払い、左からの男の脇腹に一撃を入れる。
しかし、山賊の男たちの数は減らず、近衛兵の体力も限界を迎えようとしていた。
「ぎゃああああ!」
森の奥から案内を頼んだだけの住人の悲鳴が聞こえる。
「なにが目的だっ!」
「あんただよ、貴族のお偉いさん」
首領らしい男がエルシャを見て鼻で笑う。
「貴族にしちゃ、よく暴れるなぁ」
「貴族なんて奴らは皆、突然襲われたらすぐに命乞い始めて、金をやるから……!、って言ってくるのになぁ」
ぎゃはは、と男たちが野卑な笑いで取り囲む。いつの間にか、大きなスギの大木を背に、取り囲まれていた。
「……わかった。
目的は俺なんだな、それならば俺だけが付いていけば文句はないな?
この兵士は手傷を負っている。兵士と、関係のない町の人にはこれ以上手を出すな」
「! なにを仰っているんですか、エル、っ!」
近衛兵の口を塞ぐ。そして、小声で王命を下す。
「ルーとジュノに知らせてくれ。
……待っている」
「はっ、助けか? 簡単には来れねぇがなぁ」
「?」
「まぁいい、確かに俺たちが攫って来いと言われていたのは金髪の若い貴族だけ。
あとは金にもなりやしねぇ。
よし、連れてこい」
男たちはエルシャを取り囲み、両脇から拘束し連れ去った。
後ろ手に縄で縛られ、口には猿ぐつわを噛まされ、麻袋を被せられて、足元も覚束ないのに小一時間は歩いただろうか。
そこから、馬に乗せられて酷く揺れる道なき道を進んだ。
最終的に放り投げられるように突き飛ばされて転がったのは、ごつごつした剥き出しの岩肌に絨毯を敷いただけの簡素な床だった。
頭に被せられていた麻袋を取られると、そこは簡素という話ではなく、本当にただの岩をくり抜かれた洞窟だった。
ランプに火が入れられて、絨毯のない場所にある焚火跡に火が入ると、周囲も薄ぼんやりと観察できた。
焚火の傍には、古びたテーブルと、酒樽を利用した椅子がいくつか置いてある。
テーブルにはランプや酒、煙草に拳銃やナイフまである。
男たちはエルシャの見張りなのか、三人に減っていた。三人ならば隙をついてなんとかできるかもしれない。
しかし、場所がわからない。
この洞窟は山のどの辺りに位置しているのだろうか。
そして、男たちの目的も見えない。エルシャだけが目的ということは、誘拐など金品目的だろうか。
絨毯が敷かれているのはエルシャのいる辺りだけのようで、手を縛られながらもなんとか体勢を整えて座った。
森の中でエルシャも二度ほど殴られていたが、衛兵と違って素手だった。おそらく、エルシャのことは傷を付けるなとでも命令されているのだろう。
とりあえず、今のエルシャにできることはないので、周囲や見張りの男たちを観察するしかない。
洞窟はどうやら採掘場跡地のようだった。間はもう使われていないのだろう、つるはしや車輪の外れたトロッコなどが朽ちて隅に放置してある。
しかし、エルシャの居る少し奥には、黒いこぶしほどの塊が山のように積み上げられていて、奥へ奥へと雪崩ている。
(もしかしてこれ……)
見張りの男たちの目を盗んで、ずりずりと少しずつ座ったまま後退する。縛られた手に黒い塊が当たると、手触りや硬さなどを確かめてみる。
(やっぱり……! これ、たぶん、鉄鋼だ。
掘り出してそのまま使われていない跡地に運び込んでいたのか)
恐らく、これが横領された鉄鋼だ。一旦ここに運び込まれて、産出量の計測が終わった後に、ここから運び出して売るのだろう。
そうなると、あの男たちは、横領の犯人だということになる。エルシャを攫えと命じた主犯が、横領も行っているということだ。
いったい誰なのか。この男たちは知っているのだろうか。
怪しまれないように、また少しずつ絨毯の上に戻る。
洞窟の入り口側、つまりエルシャにとっては唯一の逃げ道だが、ゆるくカーブしたさきからは、先ほどからひんやりとした空気が入って来ている。
焚火でも起こしていなければ凍えそうな寒さだ。
エルシャは厚手の上着を着ているというのに寒さが凌げていない。
イェドの町や森に入ったときでさえも、これほど寒くはなかった。
男たちは毛皮の上着を着込んでいて、肩には白いものが残っている。
(雪……?)
町の住人に言われるまでもなく、エルシャはよく知っている。
サライから国境を越えた銀狼国側の山々は、いつも吹雪と万年雪に覆われている。
(まさか、ここは銀狼国側の採掘場……!?)
鉄鋼が銀狼国側に隠されていようとは、まさか誰も思わなかっただろう。たとえ、可能性として思いついたとしても、調査のために銀狼国へ入るには、それ相応の手続きや根回しが必要だ。
そんなことをしている間に犯人たちは鉄鋼を違う場所に運び出せばいい。
(見つからないわけだな)
横領の証拠である鉄鋼は、ジュノが見つけたがっていたものだ。
(ジュノ殿、喜ぶかな……)
この期に及んでもまだ、ジュノを喜ばせたいと考えている。
はあ、と洞窟の岩肌に背を預ける。
ジュノは今頃どうしているだろう。宿に居ろとあれだけ言われていたのに、勝手に外出したことを怒っているだろうか。
そのせいでこのように皆に迷惑をかけて、ルーファスなどエルシャが捕まったと聞いて卒倒しているかもしれない。
しかし、幸いにも、この男たちはエルシャのことを「国王」だとは気が付いていない。思ってもいないはずだ。だから、暗殺だとかクーデターが目的ではないはずだ。
「本当にこいつ、生かしといていいんですか?
鉄鋼の場所も知られちまってますよ」
「おい、顔に傷をつけるなよ。
命令だからな」
「売るんですかい?
だから、生かして捕まえろと?」
「へへっ、確かにお綺麗な顔してやがる。
貴族なんか今まで会ったこともねえけど、男でもこんなに小綺麗なもんなんだな、お貴族様ってやつは」
見張りの男がエルシャの金髪の前髪を掴み、顔を上へ向ける。
なるほど、人身売買目的だったのか。貴族の人間で見目が良ければ高く売れると聞いたことがある。
(こいつら、叩けば埃がいくらでも出そうだな)
人身売買なら、売られてしまえばもう二度とジュノに会うことができないかもしれない。
その考えで一気にまた、溶かしたインクが心を浸食してくる。
髪を引っ張られる痛さも、殴られた後頭部や腹の痛さもいずれ治る。まあ、売られた先によっては毎日もっとひどい仕打ちをうけるかもしれないが。
それでも、ジュノのことを想うときの胸の痛みはきっといつまでも消えないだろう。
「……なぁ、こいつ本当に上玉だぜ……」
エルシャの髪を掴んでいた男の目が濁っているのに鈍く光る。どうやら酒も入っているようだ。
エルシャはぐいと身体を傾け、男の視線から逃れようともがく。
しかし、それが男にはさらに扇情的に映ったようだった。
男がテーブルからナイフを持ち出してくる。
「おい! 傷をつけるなって命令だと言ったよな」
「傷をつけようってんじゃねぇよ。
確かにこんな上玉傷つけて値が下がったんじゃもったいねぇ。
ただちょいと退屈しのぎに遊んでやろうかなと思ってよ」
エルシャが着ていた上着を脱がせ、薄い布地の丈の長いチュニックの襟元にナイフを当てる。
ビリビリとナイフで布地が切り裂かれていく。
少しでも動いたらそのナイフが自分の肌を切り裂く。少しでも逆らったら、いや逆らわなくても男の気分次第でナイフが胸や腹に突き立てられるかもしれない。
本能的な恐怖が身体を震わせる。
エルシャの白い肌が徐々に露わになり、焚火の炎の色が艶めかしく映し出す。
嗜虐的な男の目が楽しそうに歪む。
エルシャはなるべく平常心でいるように、近い男の顔から自分の顔を逸らし、目を瞑った。
それは、傍から見ると男に従順になっていると見えるかもしれないが、エルシャの中では逆だ。
心にあるのは、ジュノの「エルシャ殿は美しく在ろうとしている」という言葉だけだ。
どんな暴力にも屈しない。自分の最も美しい場所には、ジュノだけが触れることができる。
そう信じているからこそ、恐怖に支配されないでいる。エルシャは目を開いて男を真正面から睥睨した。
男のナイフはエルシャの上衣を全て切り裂く。
「へへっ、お貴族様ってのは肌もきれいだな。
俺たちとは、人間の種類が違うんだろうな。
それを好き勝手できるってのがたまんねぇ。
どれだけ値を釣り上げても買う変態が居るのもわかるぜ」
そう言いながら、ナイフの刃先でエルシャの胸の先端を撫でる。
露わになった肌が寒さで総毛立ち、恐怖と緊張も相まって乳首も硬くなっている。そこを引っかかれて嫌悪感が背筋を這う。
「おい、お前だけ楽しむなよ。
こっち持ってこいよ」
テーブルについていた男が言うので、ナイフの男も楽しそうにエルシャを立たせた。
酒の空き瓶や拳銃などを端に避けて、エルシャをテーブルの上に突っ伏す恰好で押さえ付けた。
なにも遮るもののない胸元が、冷たいテーブルに押し付けられて震える。
「はは、いい格好だなぁ」
男たちは両脇から、暴れるエルシャの頭や肩を押さえ付ける。
エルシャからはほとんど周囲が見えなくなった。視界にあるのは拳銃と火が着いたままの煙草だけだ。
エルシャの背後に立ったのはおそらくナイフの男だ。男は、エルシャのズボンを腹で留めていた飾り紐をナイフで切る。下衣も全て地面に落ちた。
「んんっ! ん! んんんっ!」
まだ丈の長いチュニックの背面に隠されているとはいえ、下半身を丸出しにされ、さすがに抵抗を激しくする。
「ひははは、ようやく抵抗しだしたか。
そうじゃないと面白くねぇからな。
抵抗して涙ながらに止めてぇ、許してぇ、と叫ぶのを無理やりするのが楽しいんだよ」
「お前はすぐ売りモンに手を出しちまうから、いつも止めろって言ってるだろうが。
今度から見張りの役を外すぞ」
「へへ、お前らも俺と一緒に楽しんでるくせによう」
男たちの会話に心底怒りが沸く。
国政国政と言ってきたが、このような連中を野放しにしておいて、なにが国の平安か。
今までどれだけの犯罪が人知れず行われてきたのかを考えると、吐き気がするほどの怒りと嫌悪感で猿ぐつわを噛みしめる。
エルシャの後ろで男がズボンを脱ぐ衣擦れの音がして、男たちの笑い声がいっそう大きく洞窟に響いた。
(ジュノ……!)
男がエルシャの腰に乱暴に手をかけた。
が、エルシャが覚悟していたものとは全く違う衝撃が背後で空気を揺らした。
自分に圧し掛かっていた重さが消えて、どさり、と鈍い音がした。エルシャの視界であるテーブルのよこに男が倒れていた。
(え……?)
「ぎゃああああ!」
エルシャを抑え込んでいた男たちの手があっという間になくなり、瞬きをしている間に男たちの身体が全てテーブルの下に転がっていた。
(え、なんだ……?)
呆然としているエルシャの身体に、パサリと服が着せかけられる。服からは、甘くて重厚で、そして少し雪の匂いの混じった懐かしい香りがした。
無理やり押さえ付けられていて軋む身体をそっと起こしてくれる手は、白銀の被毛に覆われていて、あたたかい。
振り向かされると同時にぎゅうぎゅうと抱きすくめられたので、顔もよく見えなかった。
胸元の飾り毛に顔を埋めて、この人に本気で抱きしめられるとすっぽりと全身覆われてしまって閉じ込められているみたいだな、とぼんやりと思う。
後ろ手の縄と猿ぐつわも、獣人の力で簡単に引き千切られる。
身体を離すと、エルシャに着せかけた上着でさらにエルシャの身体を包み込む。
そして、無言のまま倒れている男たちの方へ向かって行った。
地面に倒れてピクリともしない男たちを、それでも片手で頭を掴み持ち上げると、意識のない男は人形のようにぶらぶらと力なく揺れた。エルシャにナイフを向けていた男だった。
その男の顔を岩肌が剥き出しの壁へぶつける。人体から鳴るには相応しくない鈍い音にエルシャはビクリと肩を揺らした。
だが、一度では終わらなかった。二度、三度と鈍い音が洞窟に響く。すでに意識がないはずの男から、ただ漏れているだけの潰れた声がし、割れた額や鼻や口から溢れた血液が飛び散り、折れた歯が転がった。
喉からは地を這うようなグルルルという声が聞こえている。
あまりに一方的だった。
エルシャはそのやり場のない怒りや哀しみをたたえた背中に縋りつく。
「ジュノ。
ジュノ、もういいです、ジュノ殿。
貴方の魂が汚れてしまう。
俺は、いつも貴方に守ってもらってばかりです。
俺にも貴方を守らせてください」
男の頭を割ろうとしていたジュノの動きがようやく止まる。男はぼろ布のように地面に崩れ落ちたが、呻き声から息があることがわかってほっとした。
ジュノをゆっくりと振り向かせ、その胸に飛び込み、大好きな香りを肺に一杯吸い込んだ。ジュノの腕もエルシャの背中に回り、ぎゅうと抱きしめてくれる。
「すまなかった。
エルシャ殿を守るなどと言っておきながら、こんな目に合わせた。
なぜエルシャ殿から離れたのか……」
「大丈夫、俺は大丈夫です。
ジュノ殿が約束通り守ってくれたから、俺は無事です。
ありがとうございました」
「無事などと……。
俺は、貴方に傷一つ付けないと誓った……」
ジュノの方が心を痛めているようだった。
そんなことをされると、こんなふうに抱きしめられると、また誤解してしまいそうになる。
ジュノのあたたかい胸をそっと押し、身体を離す。
「俺は、大丈夫です。
そんなことより、ほら、見てください、鉄鋼ですよ! 横領の証拠です。
怪我の功名ってやつですよね。
良かったですね、ジュノ殿」
「……良かった? そんなこと?
俺にとって、エルシャ殿以上に重要なことなどなにもない。
エルシャ殿が連れ去られたと大怪我をした兵に聞かされたとき、俺は自分の心臓をくり抜かれて持ち去られたような心境だった。
なぜ貴方の傍に居なかったのか。
なぜ貴方を独りにしたのか。
自分を責めもしたが、エルシャ殿を見つけ助け出すことより大事なことはなかったから動いた。
貴方は、そのときの俺の絶望や痛みを“そんなこと”と言うのか」
「あ、……ご、ごめんなさい……」
ジュノが心配してくれたことを無下にしたいわけではなかった。
王という立場であるにも関わらず、軽率で、考えなしで、無責任な行動をとったことも反省している。
「はぁ、……違う。そういうことじゃない。
いいか、俺は、貴方が王だから心配したわけではない。
貴方が王だから守ると誓ったわけではない。
エルシャ殿が、俺自身の心臓よりも大事な方だから誓ったのだ」
なんだか、噛み合っていない気がする。
しかし、顔は熱を帯びて赤くなり、心臓は痛いくらいにどきどきと高鳴っている。
だって、こんな言い方、言葉はまるで……。
思わず、瞳を潤ませたままジュノを見上げる。
ジュノは珍しく数度目を泳がせたが、一つため息をついて、観念したかのように口を開いた。
「つまり、貴方を、エルシャ殿を愛している」
息も心臓も止まってしまったのではないかと思った。
「初めて会ったときから、貴方に惹かれていた。
しかし、その、色々と制約があって、はっきりとお伝えできなかった。
エルシャ殿の強い意志、まだ若いのに独りで全てを担おうと立つ凛とした姿、無理をしていることも、危険な目に合うことに慣れてしまっているところも、全てが愛おしかった。
俺が守ってやりたいと思った。
だから、エルシャ殿には、この気持ちを知っていて頂きたい。
ご自身の立場や俺の立場やこれから先のことなど、どうか今は忘れて、エルシャ殿のお気持ちだけお聞かせ願いたい」
今さら、そんなこと、心はとっくに溢れださんばかりの気持ちで一杯なのに。
「俺も、ジュノ殿が、好き、です。
愛してます」
言葉ではとうてい伝えきれないから、涙まで出てきた。
エルシャは今まで生きてきた中で、立場や理性ではなく自分の奥底の気持ち、というものを伝える場面が圧倒的に少なかった。だから、好きだという気持ちを口に出すだけで泣けて仕方ない。
ジュノはそんなエルシャを満足そうに見て、ふ、と空気を揺らし、大事なものを閉じ込めるように、今度は柔らかく抱きしめた。
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