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五.白峯
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楼主は薄暗い廊下を奥へ奥へと進んでいく。
まるで迷路だ。
廊下の両側は、毒々しいまでに鮮やかに装飾された障子戸が並び、それがどこまでも続いている。
柚月はただ黙って、楼主と、それに続く雪原の背を追った。
廊下に漂う独特の雰囲気に、心なしか、空気が重い。
いや。どんどん重くなっていく。
喉がつまり、息苦しい。
歩いているだけで、どことも知れない所に誘われている気分になる。
まるで、闇に堕ちていくように。
宴会の賑わいが微かに聞こえるほどになった頃、ふいに楼主が足を止めた。
鮮やかだが、ほかに比べるとやや質素な障子戸。
その前で、楼主はすっと腰を下ろした。
「雪原様がお越しだよ」
障子戸の向こうに向かって声をかける。
「あーいー」
子供の声で返事があり、すっと障子戸が開いた。
「では、ごゆっくり」
そう言って振り向いた楼主の顔は、相変わらず笑みが張り付いている。
その顔が、まるでお面のようだ。
楼主はその顔のまま、雪原にゆるりと頭を下げると下がっていく。
それと入れ替わりに、雪原は静かに室内に入った。
ここが何か。
柚月にも、察しがついている。
雪原に続き障子戸の前まで行くと、部屋には入らず、廊下で控えようと腰を下ろしかけた。
入れるはずもない。
だが。
「柚月も入りなさい」
雪原は招く。
「えっ」
柚月が驚いて顔を上げると、雪原の目がまっすぐに柚月を見つめていた。
厳しい。
どこか、冷たい目だ。
柚月は一瞬ためらった。
ここは遊女の部屋。
つまり、寝屋だ。
そんなところで、何をしようというか。
柚月の中で、雪原への信頼と疑念が交互に湧き、不安と警戒が増していく。
「どうしました?」
穏やかなはずの雪原の声が、追い立てる。
柚月はぐっと拳を握りしめると、わずかに腰を上げた。
選んだのは、雪原への信頼。
「失礼いたします」
そう言うと、すっと一歩部屋に踏み入った。
部屋は広くはないが二間続きで、部屋を分ける襖は開け放たれている。
奥の部屋には、布団が敷かれているのが見えた。
手前の部屋には、障子戸の両側に先ほどの同じ顔の禿が一人ずつ控え、もう一人、振袖姿の若い娘が控えている。
遊女の見習い、新造だろう。
そしてその隣。
艶やか着物に身を包み、結い上げた髪にいくつもかんざしを挿した女が座っている。
花魁。
その呼び名にふさわしい。
一目でわかる。
この部屋の主だ。
派手ではない。
が、そのたたずまい。
華やかさがにじみ出ている。
まだ若い。
控えている新造と、さほど年が変わるように見えない。
だが、身にまとう妖艶さ。
冷たいまでに無表情な顔は艶やかで、腹の内を見せない、花魁の顔をしている。
そう遠くないうちに、この見世の稼ぎ頭になるだろう。
いや、もうすでにそうなであってもおかしくない。
そんな風格がある。
「柚月、こちらは白峯といいましてね。私の馴染みなのですよ」
雪原に紹介され、柚月は白峯に一礼した。
白峯は愛想笑いひとつせず、冷たく艶やかな目で柚月をじっと見つめている。
「白峯、面倒を頼んですまないね」
雪原の言葉に、初めて白峯の口元がわずかだが笑んだ。
年相応の、まだどこか幼さが残るその笑みには、雪原への親しみがにじんでいる。
「いえ、雪原様のお役に立て、光栄でございます」
ゆるりとした話し方。
声もやはり艶やかで、花魁らしい響きがある。
「私もなかなか自由が利かない身になってしまってね。これからは、この柚月が代わりを務めるから」
雪原がそう言うと、横から禿がすっと盆を差し出した。
徳利と、朱色の杯が二つ、のせられている。
雪原は静かに、その二つの杯に酒を注いだ。
「柚月」
「はい」
雪原は杯を一つ手に取り、柚月に差し出した。
「白峯と、杯を交わしなさい」
「えっ…?」
柚月にも、雪原が言っていることは分かる。
それだけに、意味が分からない。
杯を交わすということは、この白峯という遊女の客になる、ということだ。
今初めて会った、雪原の馴染みだというこの遊女の。
だが、雪原は冗談を言っているわけではない。
それは、その目を見ればわかる。
柚月を見つめる雪原の目は、怖いほどに真剣だ。
柚月はちらりと白峯を見た。
これが務めとあきらめているのか、すっと目を伏し、静かに控えている。
柚月はきゅっと唇をかみしめた。
前にも同じようなことがあった。
柚月の中に、数年前の出来事が、その時の感覚もそのままに、ありありとよみがえる。
あれは、都についた日。
旅館「松屋」でのこと。
一室に呼び出され、師と仰ぎ、父と慕ったアノ人に、強い目で迫られた。
迷いがなかったわけじゃない。
でも、ほかに道もない。
そうして柚月は、拒むことも、逃れることもできず、言われるまま、人斬りになった。
あの時と似ている。
だが、あの時のことに比べればこんなこと。
雪原の、怖いまでに真直ぐなまなざしを感じる。
柚月は差し出された杯を、じっと見つめた。
見つめながら、自分に言い聞かせる。
命を取り合うわけじゃない。
どうってことない。
柚月の指が、ピクリと動いた。
ドクンドクンと、激しく心臓が打つ。
その音に、鼓膜が揺れる。
柚月は、杯に手を伸ばそうとわずかに腕を動かした。
それにつられ、袖が揺れる。
その中で、微かに、何かが動いた。
コンパクトだ。
そう思った瞬間、椿の姿が浮かんだ。
はにかんだ笑み。
だがその眼差しは、まっすぐに柚月を見つめている。
好きだ。
どうしようもなく。
止めようもなく。
同時に突き付けられる。
自分の罪を。
いかにこの手が、穢れているのかを。
――所詮俺は、人斬りだ。
柚月は自分に言い聞かせ、また、心に蓋をした。
雪原のまっすぐな目が、柚月を見つめている。
見つめ返した柚月の目に、情は映っていない。
「承知しました」
そうして柚月は、真っ朱な杯を受け取った。
これが、嵐の予兆へと続く、始まりの瞬間。
まるで迷路だ。
廊下の両側は、毒々しいまでに鮮やかに装飾された障子戸が並び、それがどこまでも続いている。
柚月はただ黙って、楼主と、それに続く雪原の背を追った。
廊下に漂う独特の雰囲気に、心なしか、空気が重い。
いや。どんどん重くなっていく。
喉がつまり、息苦しい。
歩いているだけで、どことも知れない所に誘われている気分になる。
まるで、闇に堕ちていくように。
宴会の賑わいが微かに聞こえるほどになった頃、ふいに楼主が足を止めた。
鮮やかだが、ほかに比べるとやや質素な障子戸。
その前で、楼主はすっと腰を下ろした。
「雪原様がお越しだよ」
障子戸の向こうに向かって声をかける。
「あーいー」
子供の声で返事があり、すっと障子戸が開いた。
「では、ごゆっくり」
そう言って振り向いた楼主の顔は、相変わらず笑みが張り付いている。
その顔が、まるでお面のようだ。
楼主はその顔のまま、雪原にゆるりと頭を下げると下がっていく。
それと入れ替わりに、雪原は静かに室内に入った。
ここが何か。
柚月にも、察しがついている。
雪原に続き障子戸の前まで行くと、部屋には入らず、廊下で控えようと腰を下ろしかけた。
入れるはずもない。
だが。
「柚月も入りなさい」
雪原は招く。
「えっ」
柚月が驚いて顔を上げると、雪原の目がまっすぐに柚月を見つめていた。
厳しい。
どこか、冷たい目だ。
柚月は一瞬ためらった。
ここは遊女の部屋。
つまり、寝屋だ。
そんなところで、何をしようというか。
柚月の中で、雪原への信頼と疑念が交互に湧き、不安と警戒が増していく。
「どうしました?」
穏やかなはずの雪原の声が、追い立てる。
柚月はぐっと拳を握りしめると、わずかに腰を上げた。
選んだのは、雪原への信頼。
「失礼いたします」
そう言うと、すっと一歩部屋に踏み入った。
部屋は広くはないが二間続きで、部屋を分ける襖は開け放たれている。
奥の部屋には、布団が敷かれているのが見えた。
手前の部屋には、障子戸の両側に先ほどの同じ顔の禿が一人ずつ控え、もう一人、振袖姿の若い娘が控えている。
遊女の見習い、新造だろう。
そしてその隣。
艶やか着物に身を包み、結い上げた髪にいくつもかんざしを挿した女が座っている。
花魁。
その呼び名にふさわしい。
一目でわかる。
この部屋の主だ。
派手ではない。
が、そのたたずまい。
華やかさがにじみ出ている。
まだ若い。
控えている新造と、さほど年が変わるように見えない。
だが、身にまとう妖艶さ。
冷たいまでに無表情な顔は艶やかで、腹の内を見せない、花魁の顔をしている。
そう遠くないうちに、この見世の稼ぎ頭になるだろう。
いや、もうすでにそうなであってもおかしくない。
そんな風格がある。
「柚月、こちらは白峯といいましてね。私の馴染みなのですよ」
雪原に紹介され、柚月は白峯に一礼した。
白峯は愛想笑いひとつせず、冷たく艶やかな目で柚月をじっと見つめている。
「白峯、面倒を頼んですまないね」
雪原の言葉に、初めて白峯の口元がわずかだが笑んだ。
年相応の、まだどこか幼さが残るその笑みには、雪原への親しみがにじんでいる。
「いえ、雪原様のお役に立て、光栄でございます」
ゆるりとした話し方。
声もやはり艶やかで、花魁らしい響きがある。
「私もなかなか自由が利かない身になってしまってね。これからは、この柚月が代わりを務めるから」
雪原がそう言うと、横から禿がすっと盆を差し出した。
徳利と、朱色の杯が二つ、のせられている。
雪原は静かに、その二つの杯に酒を注いだ。
「柚月」
「はい」
雪原は杯を一つ手に取り、柚月に差し出した。
「白峯と、杯を交わしなさい」
「えっ…?」
柚月にも、雪原が言っていることは分かる。
それだけに、意味が分からない。
杯を交わすということは、この白峯という遊女の客になる、ということだ。
今初めて会った、雪原の馴染みだというこの遊女の。
だが、雪原は冗談を言っているわけではない。
それは、その目を見ればわかる。
柚月を見つめる雪原の目は、怖いほどに真剣だ。
柚月はちらりと白峯を見た。
これが務めとあきらめているのか、すっと目を伏し、静かに控えている。
柚月はきゅっと唇をかみしめた。
前にも同じようなことがあった。
柚月の中に、数年前の出来事が、その時の感覚もそのままに、ありありとよみがえる。
あれは、都についた日。
旅館「松屋」でのこと。
一室に呼び出され、師と仰ぎ、父と慕ったアノ人に、強い目で迫られた。
迷いがなかったわけじゃない。
でも、ほかに道もない。
そうして柚月は、拒むことも、逃れることもできず、言われるまま、人斬りになった。
あの時と似ている。
だが、あの時のことに比べればこんなこと。
雪原の、怖いまでに真直ぐなまなざしを感じる。
柚月は差し出された杯を、じっと見つめた。
見つめながら、自分に言い聞かせる。
命を取り合うわけじゃない。
どうってことない。
柚月の指が、ピクリと動いた。
ドクンドクンと、激しく心臓が打つ。
その音に、鼓膜が揺れる。
柚月は、杯に手を伸ばそうとわずかに腕を動かした。
それにつられ、袖が揺れる。
その中で、微かに、何かが動いた。
コンパクトだ。
そう思った瞬間、椿の姿が浮かんだ。
はにかんだ笑み。
だがその眼差しは、まっすぐに柚月を見つめている。
好きだ。
どうしようもなく。
止めようもなく。
同時に突き付けられる。
自分の罪を。
いかにこの手が、穢れているのかを。
――所詮俺は、人斬りだ。
柚月は自分に言い聞かせ、また、心に蓋をした。
雪原のまっすぐな目が、柚月を見つめている。
見つめ返した柚月の目に、情は映っていない。
「承知しました」
そうして柚月は、真っ朱な杯を受け取った。
これが、嵐の予兆へと続く、始まりの瞬間。
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