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吸血鬼侯爵の献身(上)
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19世紀、東欧のどこかの国での出来事――。
マルシーク伯爵家の長男ヴァスラフが13歳、妹のマリアナが7歳のときのこと。
その日はヴァスラフの両親と妹が出掛ける予定だったが妹が熱を出した。ヴァスラフは母親から「妹を見ていて」と頼まれた。
(街に出たかったのに――)
ヴァスラフは不満に思った。
両親が出掛けたあと、熱があるにもかかわらず妹のマリアナが「お兄ちゃん遊ぼう」と兄の部屋を訪れた。ヴァスラフは優しく妹を寝室に戻らせベッドに寝かせてやる。どうせ熱で起きられないと思い「よく寝て目が覚めたら湖へ花を摘みに行こう」と答えた。
妹が寝息をたてるのを確認するとヴァスラフは立ち上がった。しばらく起きることはないだろうと考え、身支度を整えにかかる。母親譲りのブロンドのくせ毛を鏡で見ながらブラシでとかし、襟を正す。白い細面にブルーの瞳――彼に会うのだから、おかしなところが無いか入念に確かめる。ヴァスラフは妹を置いてこっそり街へ出掛けた。「先生」に会いに行くのだ。
ひとりで馬車に乗り、街の教会前で降りる。そこから歩いて路地裏にある小さな個人医院へ向かう。ヴァスラフはそこで医師の手伝いをするのが密かな楽しみだった。
「やあ、ヴァスラフ」
微笑みを浮かべて迎えてくれたのは、薄汚い貧民街に似つかわしくない上品な顔立ちの青年医師だ。黒髪に赤みの強い茶色の瞳。彼は神話を描いた絵画からそのまま出てきたような美しい若者だった。
ヴァスラフは両親の連れてきた家庭教師の授業などくだらないと思っていた。それよりも博識な先生のもとで手伝いをするほうがずっといい。
しかしここは娼婦や皮革職人なども訪れる医院で、両親に知れたら即刻立ち入り禁止を言い渡されるだろう。
診察の時間が終わった後、先生は医院の地下にある実験室で色々教えてくれる。
珍しい薬品や標本を見るのは楽しいし、何よりも彼が「君は助手よりずっと手際が良い。私の奥さんにして毎日手伝ってもらいたいくらいだ」と言ってくれる。
「僕もずっとここで先生に教えてもらいたい。家庭教師の話はつまらないんです」
本心だった。だけど先生はヴァスラフの言葉を冗談だと思っている。
「そういうわけにはいかないよ。さあ、夜道は危険だから送っていこう」
「お願いです。あと少しだけ――」
帰っても熱を出した妹が待っているだけだ。両親は――とくに母親は自分のことなど厄介者だと思っている。長男である自分よりも妹のほうが大事にされているのは薄々わかっていた。
「おや、今日の王子様は随分聞き分けが悪いな。わがままを言われるのは嫌いじゃないが――。では特別にこれを進呈しよう」
そう言って先生は赤い石の付いた指輪をヴァスラフに手渡した。ランプにかざすと石が光を弾いてより美しく見えた。
「綺麗……。先生、これは何の石でしょう?」
「さあ何かな。それを次回までの宿題にしよう。もし当たったら君にプレゼントするよ」
気を良くしたヴァスラフは言うことを聞いて馬車に乗った。霧の中を屋敷まで送ってもらう間、家庭教師への不満や妹に対する嫉妬混じりの些細な話、読んだ本について考えたことなどを話していたが先生は静かにうなずきながら聞いてくれた。
(僕の話を聞いてくれる人なんて先生以外にいない)
「またおいで」と優しく言った先生。ヴァスラフは彼の馬車が霧に紛れて見えなくなるまで薄暗い門の前に立っていた。ポケットの中の指輪を触りながら鼻歌混じりでヴァスラフが帰宅すると、屋敷の前には使用人が数名立っていて、何やら物々しい雰囲気が漂っている。
「え、マリアナがいなくなった!?」
なんと、熱を出して寝ていたはずの妹がいなくなったという。
使用人総出で探すも屋敷内にはどこにもいない。ヴァスラフも加わって近隣一帯を夜霧に濡れながら探すが見つからなかった。
そこへようやく両親が帰宅した。
ヴァスラフの方をちらちら見て指差しながら、母が使用人や父に食ってかかっている。
(お母様が怒ってる。僕がちゃんと見ていなかったせいでマリアナがいなくなったから……)
霧はその晩土砂降りの雨に変わった。
風も強くなり、視界も悪いため捜索はあえなく中断された。
(きっと大丈夫――。すぐに帰ってくる。朝起きたらきっと、ノックもせずに勝手に「お兄ちゃん遊ぼう」って部屋に入ってくるんだ……)
◇
眠れないと思ったのにいつの間にか寝ていたようで、ヴァスラフは翌朝母の金切り声で目が覚めた。
急いでガウンを羽織り、恐る恐る声のするエントランスホールを覗く。すると母が何か白っぽい布のようなものを抱きしめながら泣き喚いていた。
「あんまりだわ! あの子はまだ7歳なのよ。神様どうか嘘だと言ってください。何の罪も無いのにどうしてあの子が連れて行かれなくてはいけないの?」
(お母様……)
「きっとオオカミに襲われたんだわ。ああ、どうしてあの子なの? ヴァスラフの方ならよかったのに!」
母の言葉に全身が凍りついた。
「やめなさい! なんてことを言うんだ」
父がたしなめる声が聞こえるが、母の言葉はヴァスラフの胸に突き刺さった。
「だってあなた、病気の妹を置き去りにしたのよ。兄なのに!」
「よしなさい。それを言うなら我々だって同罪だろう」
母は泣き崩れた。彼女が手から落としたのは妹のケープだった。元々は白いそれが泥混じりの雨水と幼い妹の血を吸って赤黒く染まっている。
妹は一人で森へ入り、野獣の餌食になってしまったのだろう。
(僕が置き去りにしたばっかりに……!)
ヴァスファフは昨日自分が「湖へ花を摘みに行こう」と言ったことを思い出した。何気ない兄の言葉を覚えていたマリアナは、ヴァスラフが部屋にいないので先に湖へ行ったと思い、追いかけたのだ。
(母の言う通りだ。僕が喰われてしまえばよかった――……)
ふらふらとよろけながら部屋に戻った。昨日先生から借りてきた指輪が机の上に置いてある。その赤い石がさっき見た妹の血の色と重なって、ヴァスラフはとうとうこらえきれずに涙を流した。
マルシーク伯爵家の長男ヴァスラフが13歳、妹のマリアナが7歳のときのこと。
その日はヴァスラフの両親と妹が出掛ける予定だったが妹が熱を出した。ヴァスラフは母親から「妹を見ていて」と頼まれた。
(街に出たかったのに――)
ヴァスラフは不満に思った。
両親が出掛けたあと、熱があるにもかかわらず妹のマリアナが「お兄ちゃん遊ぼう」と兄の部屋を訪れた。ヴァスラフは優しく妹を寝室に戻らせベッドに寝かせてやる。どうせ熱で起きられないと思い「よく寝て目が覚めたら湖へ花を摘みに行こう」と答えた。
妹が寝息をたてるのを確認するとヴァスラフは立ち上がった。しばらく起きることはないだろうと考え、身支度を整えにかかる。母親譲りのブロンドのくせ毛を鏡で見ながらブラシでとかし、襟を正す。白い細面にブルーの瞳――彼に会うのだから、おかしなところが無いか入念に確かめる。ヴァスラフは妹を置いてこっそり街へ出掛けた。「先生」に会いに行くのだ。
ひとりで馬車に乗り、街の教会前で降りる。そこから歩いて路地裏にある小さな個人医院へ向かう。ヴァスラフはそこで医師の手伝いをするのが密かな楽しみだった。
「やあ、ヴァスラフ」
微笑みを浮かべて迎えてくれたのは、薄汚い貧民街に似つかわしくない上品な顔立ちの青年医師だ。黒髪に赤みの強い茶色の瞳。彼は神話を描いた絵画からそのまま出てきたような美しい若者だった。
ヴァスラフは両親の連れてきた家庭教師の授業などくだらないと思っていた。それよりも博識な先生のもとで手伝いをするほうがずっといい。
しかしここは娼婦や皮革職人なども訪れる医院で、両親に知れたら即刻立ち入り禁止を言い渡されるだろう。
診察の時間が終わった後、先生は医院の地下にある実験室で色々教えてくれる。
珍しい薬品や標本を見るのは楽しいし、何よりも彼が「君は助手よりずっと手際が良い。私の奥さんにして毎日手伝ってもらいたいくらいだ」と言ってくれる。
「僕もずっとここで先生に教えてもらいたい。家庭教師の話はつまらないんです」
本心だった。だけど先生はヴァスラフの言葉を冗談だと思っている。
「そういうわけにはいかないよ。さあ、夜道は危険だから送っていこう」
「お願いです。あと少しだけ――」
帰っても熱を出した妹が待っているだけだ。両親は――とくに母親は自分のことなど厄介者だと思っている。長男である自分よりも妹のほうが大事にされているのは薄々わかっていた。
「おや、今日の王子様は随分聞き分けが悪いな。わがままを言われるのは嫌いじゃないが――。では特別にこれを進呈しよう」
そう言って先生は赤い石の付いた指輪をヴァスラフに手渡した。ランプにかざすと石が光を弾いてより美しく見えた。
「綺麗……。先生、これは何の石でしょう?」
「さあ何かな。それを次回までの宿題にしよう。もし当たったら君にプレゼントするよ」
気を良くしたヴァスラフは言うことを聞いて馬車に乗った。霧の中を屋敷まで送ってもらう間、家庭教師への不満や妹に対する嫉妬混じりの些細な話、読んだ本について考えたことなどを話していたが先生は静かにうなずきながら聞いてくれた。
(僕の話を聞いてくれる人なんて先生以外にいない)
「またおいで」と優しく言った先生。ヴァスラフは彼の馬車が霧に紛れて見えなくなるまで薄暗い門の前に立っていた。ポケットの中の指輪を触りながら鼻歌混じりでヴァスラフが帰宅すると、屋敷の前には使用人が数名立っていて、何やら物々しい雰囲気が漂っている。
「え、マリアナがいなくなった!?」
なんと、熱を出して寝ていたはずの妹がいなくなったという。
使用人総出で探すも屋敷内にはどこにもいない。ヴァスラフも加わって近隣一帯を夜霧に濡れながら探すが見つからなかった。
そこへようやく両親が帰宅した。
ヴァスラフの方をちらちら見て指差しながら、母が使用人や父に食ってかかっている。
(お母様が怒ってる。僕がちゃんと見ていなかったせいでマリアナがいなくなったから……)
霧はその晩土砂降りの雨に変わった。
風も強くなり、視界も悪いため捜索はあえなく中断された。
(きっと大丈夫――。すぐに帰ってくる。朝起きたらきっと、ノックもせずに勝手に「お兄ちゃん遊ぼう」って部屋に入ってくるんだ……)
◇
眠れないと思ったのにいつの間にか寝ていたようで、ヴァスラフは翌朝母の金切り声で目が覚めた。
急いでガウンを羽織り、恐る恐る声のするエントランスホールを覗く。すると母が何か白っぽい布のようなものを抱きしめながら泣き喚いていた。
「あんまりだわ! あの子はまだ7歳なのよ。神様どうか嘘だと言ってください。何の罪も無いのにどうしてあの子が連れて行かれなくてはいけないの?」
(お母様……)
「きっとオオカミに襲われたんだわ。ああ、どうしてあの子なの? ヴァスラフの方ならよかったのに!」
母の言葉に全身が凍りついた。
「やめなさい! なんてことを言うんだ」
父がたしなめる声が聞こえるが、母の言葉はヴァスラフの胸に突き刺さった。
「だってあなた、病気の妹を置き去りにしたのよ。兄なのに!」
「よしなさい。それを言うなら我々だって同罪だろう」
母は泣き崩れた。彼女が手から落としたのは妹のケープだった。元々は白いそれが泥混じりの雨水と幼い妹の血を吸って赤黒く染まっている。
妹は一人で森へ入り、野獣の餌食になってしまったのだろう。
(僕が置き去りにしたばっかりに……!)
ヴァスファフは昨日自分が「湖へ花を摘みに行こう」と言ったことを思い出した。何気ない兄の言葉を覚えていたマリアナは、ヴァスラフが部屋にいないので先に湖へ行ったと思い、追いかけたのだ。
(母の言う通りだ。僕が喰われてしまえばよかった――……)
ふらふらとよろけながら部屋に戻った。昨日先生から借りてきた指輪が机の上に置いてある。その赤い石がさっき見た妹の血の色と重なって、ヴァスラフはとうとうこらえきれずに涙を流した。
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