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1 プロローグ-2-
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「滅多なこと言わんでくだせえよ。クジラ様を批判したことが役人に知られたらこれですぜ」
ダージは手刀を自分の首にあてがって横に引いた。
「ああ、そうだった。きみも同罪になるところだったな」
「それに、こうやって食糧やパーツが手に入るのもクジラ様のおかげなんですから」
「分かった、気を付けるよ」
どうもこの男を苛立たせてしまったようだ。
先ほどのように不用意な発言も飛び出しかねない。
世間ではダージはこの男の小間使いで知られているから、彼に罪ありとなれば当然、その咎は自分にも及ぶ。
ここは一度退散して、落ち着いたころに報酬を受け取りに来よう。
そう考えたダージは咳払いをひとつした。
「ではこれで失礼します。次の仕事があるんで――」
「ああ……ああ! 今日の分の手間賃は――」
「次に来た時に一緒にもらいます!」
そそくさと出て行ったダージを見送り、彼は大息した。
娘の一件がからむとどうにも冷静でいられなくなる。
ダージに悪気が無いのは彼にもよく分かっていた。
あれは見た目どおりに身が軽い分、ついでに口も軽い。
だからといって彼の失言を役人に密告するような真似はしない。
浅慮ではあるが頼りになるパートナーだった。
箱の中身を整理し終え、彼は外の空気を吸うために部屋を出た。
冷たい風が頬を打つ。
春の終わりにしては肌寒かった。
ここ数年はずっとそうだった。
冷夏峭寒が続き、季節の境目が曖昧になりつつある。
天文局はその理由を自転と公転の周期に乱れが生じたからだとか、太陽の活動の影響だとか言っているが、真実はそうではない。
この空を覆っている銅褐色の霧の仕業だ。
いつから、どこから生じたものかは明らかではない。
ただこれが陽射しを遮り、気温を下げ、作物を枯らし、ひいては人々を飢えさせたのだ。
霧はその時々によってまるで生き物のように濃淡を変える。
いま男のいる位置からは遥か北に山巓が見えるが、ほんの数日前まではその一部さえ露わにならなかった。
不気味な空だ、と誰もが思うのだが、ではそうではない空とはどのようであるかを誰も知らない。
生まれた時から世界はそうだった。
土色の大地がどこまでも続いていて、頭上には同じ色の空が終わりなく広がっている。
それが当たり前だったから、人々は生まれた時からの当たり前を当たり前のように受け止めていた。
「また来たのか」
男は明らかに不機嫌そうな顔をした。
天上から不愉快な音が降ってくる。
濁った空の向こうに、ぽっかりと穴が空いたように見える一点がある。
蒼く、円い、小さな点だ。
それが空気を振動させながらゆっくりと近づいてくる。
「クジラ様だ!」
近くにいた子どもが空を指差して叫んだ。
ゆっくり、ゆっくりと。
風に流されるように漂っているのは、巨大なクジラだった。
尾びれを揺すりながら、銅褐色の大空を海原に見立てて優雅に泳いでいる。
楕円形の腹は蒼く輝いていた。
燻った地上からはその蒼がとても神秘的で、不自然なほどに鮮やかだ。
しかし巨体ゆえに落とす影もまた大きく、まるで蝕に入ったようにそこだけが暗闇に包まれる。
人々は羨望と畏敬の念を込めて、あれを”クジラ様”と呼んだ。
あれはただ浮かんでいるだけではない。
時には彼らに恵みの雨を降らせる。
汽笛のような音が鳴れば、それが合図だ。
クジラは町から外れた何もない場所まで泳ぎ着くと、そこに様々な施しをくださる。
金銀珠玉に食糧、植物の種や肥料。
中には何に使うのか分からない金属くずもある。
それらが腹からこぼれ落ちるのを、人々は口を開けて待っているのだ。
ルールはひとつ。
早い者勝ち。
したたか者はクジラの針路を予測し、何日も前からそこに待ち続ける。
愚鈍な者は汽笛を聞いてようやく動きだし、おこぼれにあずかる。
しかし後者にもチャンスは残されている。
早い者が常に勝つとは限らない。
「また仕事が増えるかもしれないな……」
真っ暗な空を見上げながら男――カイロウは寂しげに微笑した。
ダージは手刀を自分の首にあてがって横に引いた。
「ああ、そうだった。きみも同罪になるところだったな」
「それに、こうやって食糧やパーツが手に入るのもクジラ様のおかげなんですから」
「分かった、気を付けるよ」
どうもこの男を苛立たせてしまったようだ。
先ほどのように不用意な発言も飛び出しかねない。
世間ではダージはこの男の小間使いで知られているから、彼に罪ありとなれば当然、その咎は自分にも及ぶ。
ここは一度退散して、落ち着いたころに報酬を受け取りに来よう。
そう考えたダージは咳払いをひとつした。
「ではこれで失礼します。次の仕事があるんで――」
「ああ……ああ! 今日の分の手間賃は――」
「次に来た時に一緒にもらいます!」
そそくさと出て行ったダージを見送り、彼は大息した。
娘の一件がからむとどうにも冷静でいられなくなる。
ダージに悪気が無いのは彼にもよく分かっていた。
あれは見た目どおりに身が軽い分、ついでに口も軽い。
だからといって彼の失言を役人に密告するような真似はしない。
浅慮ではあるが頼りになるパートナーだった。
箱の中身を整理し終え、彼は外の空気を吸うために部屋を出た。
冷たい風が頬を打つ。
春の終わりにしては肌寒かった。
ここ数年はずっとそうだった。
冷夏峭寒が続き、季節の境目が曖昧になりつつある。
天文局はその理由を自転と公転の周期に乱れが生じたからだとか、太陽の活動の影響だとか言っているが、真実はそうではない。
この空を覆っている銅褐色の霧の仕業だ。
いつから、どこから生じたものかは明らかではない。
ただこれが陽射しを遮り、気温を下げ、作物を枯らし、ひいては人々を飢えさせたのだ。
霧はその時々によってまるで生き物のように濃淡を変える。
いま男のいる位置からは遥か北に山巓が見えるが、ほんの数日前まではその一部さえ露わにならなかった。
不気味な空だ、と誰もが思うのだが、ではそうではない空とはどのようであるかを誰も知らない。
生まれた時から世界はそうだった。
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それが当たり前だったから、人々は生まれた時からの当たり前を当たり前のように受け止めていた。
「また来たのか」
男は明らかに不機嫌そうな顔をした。
天上から不愉快な音が降ってくる。
濁った空の向こうに、ぽっかりと穴が空いたように見える一点がある。
蒼く、円い、小さな点だ。
それが空気を振動させながらゆっくりと近づいてくる。
「クジラ様だ!」
近くにいた子どもが空を指差して叫んだ。
ゆっくり、ゆっくりと。
風に流されるように漂っているのは、巨大なクジラだった。
尾びれを揺すりながら、銅褐色の大空を海原に見立てて優雅に泳いでいる。
楕円形の腹は蒼く輝いていた。
燻った地上からはその蒼がとても神秘的で、不自然なほどに鮮やかだ。
しかし巨体ゆえに落とす影もまた大きく、まるで蝕に入ったようにそこだけが暗闇に包まれる。
人々は羨望と畏敬の念を込めて、あれを”クジラ様”と呼んだ。
あれはただ浮かんでいるだけではない。
時には彼らに恵みの雨を降らせる。
汽笛のような音が鳴れば、それが合図だ。
クジラは町から外れた何もない場所まで泳ぎ着くと、そこに様々な施しをくださる。
金銀珠玉に食糧、植物の種や肥料。
中には何に使うのか分からない金属くずもある。
それらが腹からこぼれ落ちるのを、人々は口を開けて待っているのだ。
ルールはひとつ。
早い者勝ち。
したたか者はクジラの針路を予測し、何日も前からそこに待ち続ける。
愚鈍な者は汽笛を聞いてようやく動きだし、おこぼれにあずかる。
しかし後者にもチャンスは残されている。
早い者が常に勝つとは限らない。
「また仕事が増えるかもしれないな……」
真っ暗な空を見上げながら男――カイロウは寂しげに微笑した。
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