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2 天空への旅

6.一瞬の陶酔

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 人ごみに紛れ母の姿が見えなくなると、俺は大きな門柱の陰に座り込んだ。

 少し先に、屋台が見える。店先にたくさんのリンゴ飴が、これ見よがしに突き刺してあった。
 じりじり照り付ける太陽の光が痛いほどの日だった。たくさんいた人々の数も次第に減り、船着き場は閑散としてきた。リンゴ飴の屋台も、店を畳むのだろうか。

 心細くなって両膝を抱え、母が早く帰ってきてくれることを望んだ。怖い人ではあるが、その分頼りがいもあった。俺はまだ幼な過ぎて戦う術を身につけていない。だから一層、母を頼ってしまうのだ。

 青い水面を、遠くから船がやって来るのが見えた。地味な拵えの帆掛け船が、風に押されて素晴らしいスピードで河を遡って来る。きっと首都から来たのだと思った。この辺りの船はいつもゆっくりと走るから。あんな風にスピードを上げることができない。

 船着き場に着いた船からは、一群の人々が下船した。
 真っ先に下りて来たのは、抜けるような白い肌の若い男だった。水色のカシュクールを腰の辺りできつく締め、裾がふわりと広がっている。驚く程細い腰だった。

 先に立って歩こうとする護衛を有無を言わさず後ろに押し戻し、彼は、自らが先頭に立って歩き始めた。堂々とした物腰だ。さらりとした赤い髪が背中に流れ、暑い日にもかかわらず、とても涼し気だ。

 一行が門柱の前を通り過ぎた時、横顔がちらりと見えた。切れ長の目がまっすぐに前を見据えている。すっと通った鼻筋に、口角のつり上がった口元、胸が痛くなるほど凛々しく端正な面立ちだ。
 この世離れした美しい人だと思った。

 うっとりと見つめていたが、彼がこちらに近づいてくることに気づき、はっと我に返った。慌てて顔を両足の間に挟み込む。顔を見られたくないと思ったのだ。

 目の前を通り過ぎて行った革の編み上げ靴がぴたりと止まった。黒い影が、照り付ける日射しを遮る。

「ここで何をしている。一人か? 家族はどうした?」
想像していた通りの涼やかな声が降って来る。胸が高鳴った。
「か、母さんを待ってます」
掠れた声しか出ない。
「母親は何をしている」
「母さんは巫女で……」
しどろもどろ答える。

 小さな舌打ちが聞こえた。一行はまた歩き始める。影が静かに通り過ぎて行った。
 ほっと吐息をついた俺の前に、にょきっと赤い丸い物が差し出された。
 リンゴ飴だ。向こうで屋台の親父が揉み手をしている。

「くれてやる」
ぶっきらぼうにその人は言った。
「え? でも……」
 知らない人から物を貰ったことを知ったら、母は激怒するのではないか。物乞い同然の暮らしをしていたが、彼女は、強烈な自尊心をなくしていない。

「いいから。欲しいんだろう? さっき見てた」

 漂うべっ甲飴の甘い匂いとリンゴの酸味に、口の奥に唾が湧いた。そういえば今日は、朝から何も食べていない。

「子どもが遠慮するもんじゃない」

 次の瞬間、彼の手からリンゴ飴をひったくるようにしてかぶりついた。
 硬い。そして、飴がべとつく。

「馬鹿だなあ。いきなり噛みつく奴があるか」
 青年が笑った。屈託のない楽しそうな声だ。
「ゆっくり嘗めてから齧るもんだ。リンゴ飴は初めてか?」
「いいえ」
「口を開けてみろ」

 腰を屈め、俺の顔を覗き込んでいる。
 こんな美しい人の前で、口の中を見せるのはいやだった。どうしてか、恥ずかしくてたまらない。

「顔中真っ赤だ。口の中もさぞかし……」

言いながら彼はいきなり両手で俺の頬を挟んだ。長い華奢な指先でこめかみの辺りを締め付ける。

「むぐぐ」
「素直に口を開けないと痛いぞ」

 細い体に似合わぬ強力ごうりきのような力で、口をこじ開けられてしまった。すかさず花のような顔が斜めに傾ぎ、あろうことか俺の口の中を覗き込んでいる。

「やっぱりな。真っ赤だ。はは、ははは……」

 本当に楽しそうに笑う。俺はぽかんと口を開けたまま、美しい人が笑い転げるのを眺めていた。

「それを食うと、口の中が赤くになるんだ。そんなことも知らないで、前にも食べたことがあるなんて嘘だろ?」
「嘘じゃない……」

 食べたことだけは覚えている。味も、誰と食べたのかも忘れてしまったのだけれど。

「そうか」
 いかにもわざとらしく青年は眉を顰めた。
「誰が買ってくれたのか知らないけど、だから子どもに物を買ってあげても無駄だっていうんだ。どうせすぐに忘れちまうんだからな」
ぽんと、頭を叩かれた。
「いいか。リンゴまで食っちまったら、棒を咥えたまま走るんじゃないぞ。もし転んだら、棒が頬を突き破っちまうからな」

 自分の頬を棒が突き破る感触を想像し、ぎょっとして飴から口を話す。見ると、口を捻り、青年は人の悪そうな顔をしている。そんな顔をしていても、彼は驚く程きれいだった。

 もう一度俺の頭を撫でてから、青年は立ち去っていった。日光を遮っていたお付きの者達も後に続き、辺りにはまた、誰もいなくなった。

 猛暑の中の一迅の風のように涼やかひと時だった。
 白昼夢を見ていたような気がする。あの青年の美しさそのものが、明るい昼間にもかかわらず、魔に魅入られたような陶酔を感じさせたのだと思う。

 奇妙な人だった。そこにいることが奇跡のようだった。失った人が墓から蘇って会いに来てくれたのなら、あんな風に感じるのだろうか。見慣れた現実の中に点描として現れた不可思議。たとえそれが妖魔であっても、俺は彼に従うだろう。それも、ただ一目見ただけで彼を信じ、来いと言われたらついていくに違いない。

 あの人はいったい、誰だろう。
 なんだかとても懐かしい……。






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