eyes to me~私を見て

ペコリーヌ☆パフェ

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独りぼっちの歌姫

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「ただ……いま」


しん、とした広い部屋に言葉を投げ掛けても、答える者は無い。


コポコポと音を立てる水槽だけが真っ暗な空間に響く。



美名は深い溜め息を吐いてしまうが気を取り直しリビングに向かい電気を灯す。



四角い水の国の中で悠々と泳ぎ回る、青白く腹を煌めかせた小さな魚達を見て微笑み指でそっとガラスを叩いた。



「ただいま……皆、元気にしてた?」



記者会見の日に突然綾波が姿を消してから12日経った。



会見はつつがなく無事に済んだのだが、綾波の姿が無い事に気付いた美名は取り乱し、真理や由清に宥められ落ち着いた処に志村が静かに言ったのだ。



『綾波君は、急遽暫く出張する事になったの』



『し……出張って、そんなのあるのかよ?』



真理が唖然とする。








智也が口を挟む。




『急に申し訳ない……
実は、Dream adventureでもう一組プロデュースするバンドがあって……』


そこで志村と智也が目配せし合うのを美名達は気付いたが、何をどう追及したところで綾波が暫くは帰らない事には変わらないのだろう。


美名は絶望的な寂しさを感じながら黙って智也の話を聞いていた。



『"星の王子"という若いバンドなんだが……』



『ああ、知ってます……高校生の時にインディーズデビューして、色んなフェスに引っ張りだこの若手ですよね』



由清が手を叩いて言う。



『ほう、ご存知でしたか。……そうなんです。
彼らはこの間こちらに移籍しました。
で……彼らを担当するマネージャーが急病でしてね……
その間ほったらかしにする訳にいかないので、綾波さんにピンチヒッターを頼んだんです』



『へええ……
まあ、別に俺は奴がこのまま戻らなくても構わんけどな!
なーんてなっハハハ』



真理の冗談とも本気ともつかぬ軽口に美名は蒼白になる。








『……て、冗談だよ美名!な?』



『う……っ』



真理が慌てて取りなすが、美名は泣き出してしまう。



はまじろうがやって来て美名を抱き締めて頭を撫でた。



『は……まじろう……ありがとう……』



はまじろうは、それから美名の気持ちを引き立てようとキレキレダンスを披露したり、バク転をしたりして、しまいには疲れきり満身創痍の状態で智也に引き摺られ帰って行った。




『綾波さんは……
いつまで……』



『そうねえ……
星の王子ちゃんのマネージャーさんの体調次第ね……』



『……』



『その間は、私がまたマネージャー代理をするから大丈夫よ!
……そうだわ!また三人共私のマンションにいらっしゃいよ!
美名ちゃん一人じゃ寂しいだろうし物騒じゃない?』


志村が言う。







『え~?またオッサンの所で雑魚寝生活~?』


真理は口調は嫌がった風にしているが、内心はまた美名と暮らせると喜ぶ。



しかし美名の言った言葉で真理は一瞬にして落ち込んだ。



『いえ……
私、剛さんの部屋で留守番します……
お魚の面倒も見なくちゃならないし……』







『あら……そう?
でも、もし寂しくなったらいつでも泊まりにいらっしゃいね?』



志村が優しく美名の手を握る。



そして美名はまた涙ぐみそうになるのを堪えて頷いたのだ。




――――――――――――



水の中を優雅に舞う魚達をぼんやりと見つめ、綾波もこうして自分と出会う前、思いに耽りながら魚達に語りかけたりしたのだろうか、と考える。



どんな思いを――?

叶わない憧れや過去の恋情だったのだろうか。




あれから何度か、綾波の部屋のファックスに例の怪文書が送られて来る事がある。



智也からは何も聞いていないから、岸の会社宛にも来ているのかどうかは分からない。



――今日は、どうだろうか。
また送られて来ただろうか?



美名は怖々とファックスの側へ歩み寄るが、トレイに何も入って居ないのを確認してホッと安堵し、ソファにドサリと倒れ込む。








ソファや、ベッドや、ピアノ……
部屋の至る場所に綾波の薫りと思い出が染み付いている。


思い出と言うには早すぎるのかも知れない。



だが、12日という期間、綾波と離れるのは美名にとっては寂しくて長すぎた。



「前は……一人が当たり前だったのにね……」



美名は目尻に浮かんだ涙を指で拭った。




真理にも時々部屋に泊まらないか、と誘われるが、真理の気持ちを知る上でそれに乗る訳にはいかない。


真理の事は大好きだが、もう恋人では無いのだ。

真理の優しさに甘えて部屋に泊まってしまったら、流されて抱かれてしまうかも知れない。



そうなってしまったら、もう自分で自分を許せなくなってしまう。










物思いに沈んだまま、うとうとしかけているとスマホが大音量で鳴り、一気に目が醒める。



『ママー!電話だよ―!ママー!電話だよー!』



「ああ……
いい加減この着メロ変えようかしら……
もしもし?桃子?」



『お姉ちゃん?
……何か声がくらーい~
泣いてた?』



「う……な、泣いてないよ……泣きそうだったけどね」




桃子の溜め息が聞こえる。



『似たようなもんじゃない。
……この際、真理に乗り換えなよ、マジでさ~』


「……もう……
悪い冗談やめてよ」



『やっぱ真理じゃダメか~
いい奴だけどな~残念!』



「桃子……あなたの方こそ、学校は大丈夫?
それにみっちゃんとは上手く行ってるの?』



クレッシェンドはプリキー以上に多忙を極め、二人はずっと会えていない筈だ。








『学校は楽しいよ~!この間、文化祭でファッションショーしたんだけど私とマイカちゃんのデザイン評判良くてね……
何と!MVP取ったんだよ~!』



「凄いじゃない!」



『三広くんとは、毎日メールしてるよ~!
……なかなか会えないけど……忙しいのは良い事だしね!うん』



いつの間にか、名前呼びになっている。
美名の頬がいつしか緩んでいた。



「そんな事言ってる桃子こそ、寂しくて、夜、枕を濡らしたりしてるんじゃないの~?」




『アハハハ!お姉ちゃん~!その表現古い~!昭和だよ!
……そりゃたまには寂しいと思わなくもないけどさ……
クレッシェンドが暇になったらその方が困るよ!……売れないバンドマンが彼氏なんて笑えない!』



「おお……
シビアねえ……」








『そりゃそうよ!
愛さえあれば……て言うけどさ、実際、愛だけでご飯食べれる?
それにお互いの程よい距離感も大切なんだってば。
まあ、ちょーっと私達は離れすぎだけど……
三広くんの事、信じてるし……
好きだし』



美名は電話しながら片手でケトルに水を張りガスを点火し、キッチンの収納からカップ麺を出した。



「うんうん……
ごちそう様!
桃子が幸せで私も幸せよ!うふふ」



『……お姉ちゃん?
私の事より自分は?
一人だからって、毎日インスタントで済ましてるんじゃないでしょうね?美容に悪いし精神衛生上にもよろしくないわよ?』


まるで見えているかの様に指摘され、ギクリとする。








『綾波が戻って来た時にお姉ちゃんが栄養不足でお肌も荒れちゃってたらがっかりされるわよ?』


「う……」



美名はカップ麺を睨みながら呻いた。



――どうなんだろう……


剛さんに戻ってきて欲しいと思っているけど、それ以上に会うのが怖いと思っている。



自分が「愛しているの」とぶつかっても冷たくあしらわれてしまったら――


剛さんの事を、今まで何も知らずにただ焦がれていた。


私と似ているという
"ほなみ"の事や、菊野さんとの事……


過去の無い人間など居ない。
私だってしょう君と同棲の様に付き合っていた時もあるし、他にも恋愛はして来た。


そんな風に、頭では分かっているのに、どうして上手く割り切る事が出来ないんだろう――









『お姉ちゃん……
私もね、少しならお姉ちゃんの気持ち分かるよ』



桃子は、三広がかつて綾波と関係を持っていた事を知っている。


ただ、その事を美名に言うつもりは無かった。


美名を更に困惑させたくないし、三広の名誉を守る為でもある。




三広の過去を知ったのはまだ付き合う前だったけれど、嫌悪するよりも、そうして苦しむ三広を只の憧れのスターでなく、一人の男として理解出来た様な気がして嬉しかった。


そして、三広を支えたい、共に悩みたいと思ったのだ。


ただ、自分と美名の場合は違う。

けれど敢えて桃子は言った。



『お姉ちゃん……
乗り越えるんだよ……
今は谷底に落ちた気持ちかも知れないけどさ、落ちる所まで落ちたら、後は上がるだけだからね!……そうそう、近いうちにマイカちゃんと東京に泊まりで行くよ?
大室さんがね、人命救助の御礼にって、高級ホテルのペア宿泊券とキャラメイトの商品券をマイカちゃんに送ってきたのよ――!
日にちが決まったらまた連絡するね?
じゃ、ちゃんと美容と健康に気を使ってね?
次会った時にやつれた顔してたら怒るからね!』



言いたい放題言われて切られてしまった。










「……ふう……」



美名は溜め息を吐いて、カップ麺をしまい冷蔵庫を開ける。



最近は買い物をする時間もなく、入っているのはミネラルウォーターとヨーグルトにミルクティー、冷凍室にチンして食べれる焼おにぎりが一袋、野菜室には萎びかけた大根が入っている。



「まあ……カップ麺よりマシか!」



美名は腕捲りをして久々に自炊をした。


と言っても、焼おにぎりは温めるだけだし、大根を使ってスープを作っただけだったが。



「桃子の言う通りだわ……ジャンクフードばかりでお肌が荒れてる……
うわっ!パックして寝よう……」



美名はその夜久々に念入りに手入れをし、ベッドに入った。






綾波と毎晩抱き合って眠ったベッドの枕に顔を埋め、今日までの出来事を振り返る。



ここのところ、タイアップアニメ関連の仕事が目白押しだった。


大人気の声優がDJをしているラジオに出演したり、アニメの番宣をしにワイドショーやバラエティにはまじろうと共にゲストで出たり……




今日はキャラメイトの本店で、一緒に握手会をやったのだ。



はまじろうの中の人は一切喋らないで通している。

このキャラクターの考案者は地方でライブハウスを経営している
"浜田 功雅(としまさ)"という人物らしいが、最初は浜田自らが中に入って演じていたのだが、余りにも多忙になりすぎた為に、中の役者を何人か雇ったらしい。






はまじろうの中の人が毎回同じなのか違うのかはわからないが、いつもハイテンションな動き、そしてそれは常に場の空気を読んでの動作なのだ。
そんな着ぐるみの賢さとアグレッシブさに美名はひたすら感心していた。


綾波と離れ離れ、しかも怪文書に怯える日々だったが、はまじろうと仕事をするのは楽しかった。


毎日がビックリ箱みたいなのだ。


けれど、はまじろうを伴ってのテレビ出演や取材にイベントは一ヶ月間の間と決まっている。

もう既に二週間近くが経過しているという事は、もうあと三分の一しかない。



そう考えると寂しくもあった。



仕事で気が紛れているところもあるのだ。








そして、美名は静かになったスマホを見つめて葛藤していた。



綾波が居なくなってから、連絡が一切無いのだ。


美名の方からもしていないのだが……



どうしているのか、怪我の痕が痛んだりしていなのか、心配だし何よりも恋しかった。



けれど、何をどう話していいのか分からないのだ。



綾波のあの豹変した冷たい態度で、もし電話口で冷たくされたら……


そう考えただけで、美名はまた泣きたくなってしまう。



「もうっ……
マネージャーなんだから……
元気か?てメール位くれればいいのにっ!
剛のケチ!バーカバーカ!」



ベッドの上に寝ているバニッぴー人形をふん捕まえて、怒りに任せて拳で何度も殴った。




バニッぴーがポトリとベッドの下に落ちると、一気に虚しさが襲い、首を振る。








哀れなバニッぴーを胸に抱き、一筋涙を溢した。



「ゴメンね……
あなたは悪く無いのに……」



スマホの時間を見ると既に零時になろうとしている。


明日は朝7時に志村が迎えに来る事になっている。
もういい加減眠らなくては。



「ああ……また目が腫れちゃう……
――泣いちゃダメ!
もう、寝るったら寝るっ!」



美名は半ばキレ気味に叫び、バニッぴーを隣に引きずり込み、抱き付いて目を瞑った。



明日は、天敵(真理や志村がそういう言い方をしている)
西野未菜とペアで雑誌
"ガールズ・ヘアカタログ"
の撮影の仕事が入って居るのだ。



志村が断ろうとしたが、そうもいかないらしく、引き受ける事になっていた。



美名も、正直気が重かった。








「大丈夫……大丈夫……ま、負けないもん……」



あのミュージックスタイルから西野とは会っていない。


こちらは何も悪い事はしていないのだ。
びくつく事は無いし堂々と振る舞えば良い。


……とも思うが、まだ美名は歌手として西野に憧れを持っていた。


だから未だに西野が自分にした仕打ちが信じられなくもあり、余計に怖いのだ。



(芸能界って……
外身は華やかだけど、一歩間違うと真っ黒かも……)


「ああ……
夜に考え事はダメ!
寝よう……
羊が一匹……羊が二匹……寝れない」



美名はバニッぴーを抱き締めたままベッドの上を転がった。



(剛さんと居た頃は眠れない事なんて無かったな……)



ぼんやりと寝室の奥にあるピアノを見つめていると、その前に座り微笑む綾波の幻が見えてしまう。







綾波がピアノを弾く姿を見るのが好きで、美名は良く『何か弾いて』
とねだった。



しなやかな指から色んなメロディーが奏でられて、美名が合わせて歌うと、綾波は突然弾くのを止めて美名を抱き上げてベッドまで連れて行った。


その度に美名は

『もっと聴きたいのに!何故止めるの!?』

と怒って綾波の胸を叩くが、甘い口付けで敢えなく黙らされてしまった。


『横で……あんな顔をしてあんな声で歌われたら……
正気で居られる訳がないだろう』



『ええっ?』



狼狽える美名の鼻を摘まみ、綾波は僅かに頬を紅くして言ったのだ。



『いいか……
あんな風に歌うのは……俺の前でだけだからな』








(剛さんは……確かに

『俺が今愛しているのはお前だ』

と言っていた……よね?

意識を取り戻した日にも……私をあんなに激しく抱いて、愛の言葉を沢山くれた……



なのに……
何故すぐにあんな掌をかえす様な言葉を言うの……?)




前にもこんな事があった、と思い出し、美名は眠るどころか、全神経が覚醒してしまう。


――長野の合宿の時……


ほなみの事が発覚した後、綾波と気まずくなって……


確かあの時にも綾波は同じように突き放す様な言葉を浴びせてきた。



そしてまた今回も……




「――どうしてなの?」



美名は思わず呟いていた。








ほなみの事にしても、菊野の事にしても、所詮は過去の話で、極端に言えば


"そんなの昔の事で今は関係ないだろ"


と開き直る男性の方が多いのではないだろうか。

日本中の男性に統計を取った訳ではないし、そんな事はわからないが、少なくとも美名が今までかつて恋人の関係になった男性は殆どがそういうタイプだった。



(剛さんは……
以前の時も……今回も……
自分を責めて……ワザと私に嫌われる様にしている?)



バニッぴーのファニーフェイスな、つぶらな黒の二つの目を睨み付ける如く見つめていた美名は、そんな仮説に思い当たった。



ガバリと身体を起こしてバッグの中をひっくり返すと一枚のメモ紙を取り出し、スマホの画面をタッチしてある番号を押す。



『何かあったら、いつでもお電話して来てね』



柔らかい声が頭の中にこだまする。



夜中だが、非常識を承知で菊野の携帯に美名は電話をかけた。



どうしても今、聞きたい事があるのだ。







衝動的にかけてしまったが、呼び出し音が三回鳴った時点で急に後悔が襲い切ろうとすると菊野が出て美名は小さく叫ぶ。


「ひゃああ」



『……もしもし?……どなた?』



「あっ……こんな夜中に、申し訳ありませんっ!
……美名です……」



『ああ……美名さん!
お元気にしてた?
あれから大活躍ね……美名さん達が出るテレビ、私全部録画してるのよ?ふふ……』



電話の向こうから聞こえる優しい声を聞くと、美名は今から自分がしようとしている質問をしてはいけない様な気持ちに囚われそうになった。


(傷付ける様な言い方をしたら、いけない……)


菊野には人にそう思わせる何かがあったのだ。








「ほ……本当にごめんさないっ!
初めてするお電話がこんな非常識な時間で……!……で、でも、どうしても菊野さんにお聞きしたい事があって……!」



美名はベッドの上に正座して何度も頭を下げていた。

菊野がクスリと笑うのが聞こえる。




『いいのよ……
私も何故か眠れなくてね?
誰かとお話したいなあ、なんて思ってたところなのよ……』



「ほ……本当ですか……?でも」



『美名さん、いいのよ?……何かお話があったのでしょう?
……言ってごらんなさい?』



美名は逸る胸を片手で押さえ、深呼吸してから意を決して切り出した。




「剛さんと……昔、愛し合っていた……んですか?」







(……聞いてしまった……)


美名は緊張で喉の渇きと身体の震えを覚え、菊野の返事を待った。



菊野は何秒か置いて静かに答えた。




『……そうね……
昔に……』




喉に何かとてつもない熱い物が込み上げて咳き込みそうになるが、なんとか堪えてみせる。




「あ……あの……
菊野さんは……今でも剛さんを?」




『いいえ……
もう、それはあの時に終わったのよ』





「……」




『剛さんと11年振りの再会だったのよ……私』



「えっ……」




『11年前に……
別れた時に……
……次に会うときは、剛さんが心から大切に思う人を連れてきてね……

て、私言ったのよ……
その言葉に剛さんは、物凄く怒ってたわ…… 』




「……」









菊野の声が掠れ気味で、まさか泣いているのだろうかと心配になり、スマホを持つ指に力が入る。



『剛さんは若いんだし……すぐにいい人を作って幸せになれる、て思ってたの……
でも……次の年にも 、また次の年になっても、そのまた次の年になっても……
剛さんからの連絡は来る事はなかったわ。
剛さんが祐ちゃんのバンドのマネージャーをする様になって、祐ちゃんに様子を聞いたりしても……
返ってくるのは
"アイツ、あの性格のままじゃ誰とも結婚出来ないよ?"
ていう言葉ばかりでね……
うふふ……
昔は、剛さんの背中を追いかけてばっかりだったのにね』



「まあ……」



美名は、クレッシェンドの西本は"爽やかな王子"という印象で、そんな悪い言葉は言わないと勝手に思っていたので、その意外さに驚くと共に

(確かに……
初対面の時は何て酷い男なの、て私も思ったわ)


と、笑いが溢れそうになった。







『剛さんは昔から頑固だからね……
私に当て付けて特別な人を作らない、という訳じゃないだろうとは思ってたけれど……
もし……私のせいで……』



そこで菊野が声を詰まらせたので、美名は胸が痛くなった。



何秒間かの沈黙の後、息を整えて菊野が続ける。



『私の……せいで、剛さんが……一生……
誰も愛せなくなってしまったら……
どうしよう……て、思ったりした事もあるの……』




「菊野さん……」




美名も喉が詰まり、涙が込み上げて来る。




『だけど……
剛さんが……美名さんに廻り会えた事が……本当に私、嬉しいの……』




胸の奥の何処か、脆く柔らかい場所をキュンと掴まれた感覚に、美名は戸惑った。



菊野の言葉には裏表が一切無く、どこまでも素直に美名の心の中へと入って行き、同時に剛に対して感じていたわだかまりが少しずつ解けて行くかの様だった。







美名は、あと少しで何かが完全に近い形で掴める様な気がして、最大の疑問をぶつけてみた。



「あ、あの……
違っていたらごめんなさい……
剛さんは……どうして……時にワザと酷い事を言ったりして……
まるで……嫌われるのを望んでるみたいな、振る舞いをするのか……
何故、そんな事をするのかなって……
昔から、そうなんですか?」




菊野が息を呑むのがわかった。



『まあ……
剛さん……美名さんに、そんな事を?
ごめんなさいね……』



「い、いえ、いいんです……
ただ、何だか凄く引っ掛かって……」



『剛さんは……
ああ見えて、自分に自信がないのよ』




「えっ……
ええええ!?あれで――!?
……て、ごめんなさい……」



時に無茶苦茶な、自分流の理屈を語る綾波のドヤ顔を思い浮かべ、すっとん狂に叫んでしまうが、慌てて口をつぐんだ。








『ふふ……
そう思うでしょ?
でも……
剛さんはね、愛されて育った子供ではないのよ』




「――ど、どういう事ですか?」




『彼は……
両親から虐待されて居た子供だったの』



「!?」



思いもかけない事実に身体が強張る。




『彼の両親は事故で亡くなったの……
それも、剛さんを置いて二人で出掛けて何日も放置して……そういう事になったの。

私は正直、それは剛さんにとって幸いだったと思うわ……
子供は、親を選べない……
どんな親であっても……
ましてや幼い子供は自分でそこから逃れる術は無いんですもの』




「あ、あの……虐待って……どんなっ」



知らず知らずの内に声が震えて居た。


そんな事があったとは欠片も出さなかった綾波。

心の傷を人に打ち明けられるならば、その傷は殆ど癒えていると言っても良い、と美名は考える。

だが、今でも深くその傷の痛みに苛まれているならば、その傷を色んな手を尽くして覆い隠すだろう。


強がって見せたり、明るい人間の振りをしてみたり……









『幼い頃に愛された経験が無いから……
自分を大事にしないのよ。
私が剛さんを引き取って家族として過ごす間に……かなり彼も変わったとは思うわ。
けど……彼が抱えている物は周囲が想像するよりももっと根が深いのよねきっと……』



美名は、ああ、と叫び出しそうになる。


つまり、綾波はとてつもない孤独の中で生きてきたのだ。


その涼しげに見える瞳の奥には、愛される事を知らない小さな子供が膝を抱えて居る。



それでも、綾波は確かに美名を愛したのだ。



けれど、その愛し方は時にとてつもなく強引で突拍子も無い。


今まで、綾波のそういうところは男としての魅力の一つなのだと思っていたけれど、そうでは無く、人との距離の取り方を知らないからではないのか。








綾波は愛される事を諦めた子供ではないのか。


愛されたいと望みながら、何か障害が発生すると直ぐに諦めてしまう。


脆い自分の心を守る為に予防線を張る。


そう、例えば……
ワザと攻撃的な言葉を投げ掛けたりして嫌われる様に仕向ける。




今までの出来事、綾波の態度の理由が、パズルのピースが合わさっていく様にしっくり来る様な気がする。



自分の中の疑問がクリアになって行くと同時に、胸が熱く切なく焼けつき、涙が止めどなく溢れて落ちた。









『美名さん……美名さん?
……急に色々話してしまったけど、大丈夫かしら……?』



黙り、しゃくり上げ始めた美名を気遣うかの様に菊野が静かに聞いてくる。



「は……はい、あ、ありがとうございました……
菊野さんと……話せて……本……当に、良かった……です」



『……私も、美名さんに話せて良かったわ。
今度、二人で遊びにいらっしゃいね?
待っているわ……
じゃあ、美名さん、お仕事頑張ってね?
剛さんによろしくね……』



「はい……
おやすみなさい……」




電話を終えた時、既に一時になろうとしていた。



美名は綾波がくれたバニッぴーを再び胸に抱き締め、何分間か泣いていた。



綾波の不在の寂しさを泣き、彼の子供時代の不遇さを想像し、哀れみと怒りに咽び泣いた。








綾波に会いたい、と強く思った。


今までは、強引に奪われたい、包んで欲しいと望んでいたけれど……


今確かに胸の中に新たに宿った気持ちを美名は、はっきり気付いていた。



(剛さんに守られるんじゃなくて……
私が剛さんを……守りたい……
愛したい……)




「もう……っ
勝手にいじけて何処かへ行っちゃって……
今度会ったら只じゃ置かないんだからっ!」



バニッぴーの顔をつねって頬を膨らまし愚痴る様に囁くと、また新しい涙が頬に流れた。




「剛さん……お願い……
私……から……
逃げないで……」




綾波の幻を抱く様に、強く人形を胸に抱いたまま、美名はいつしか眠りに落ちていた。




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