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第4章

第13夜 不安定恋核(5)

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 音楽室のドアを開けると、懐かしい匂いが鼻をくすぐった。埃っぽさの中に、木の香りと楽器の油の香りが混ざっている。俺たちは息を潜めるように静かに中に入り、おそるおそる明かりをつけた。

 朝日がまだ昇らない薄暗い部屋に、ゆっくりと光が広がっていく。ピアノが部屋の中央に鎮座している姿が、俺の目に飛び込んできた。その瞬間、過去の記憶が津波のように押し寄せる。小学生の頃、必死で練習した日々。果たせなかった約束。そして、それ以来ずっと抱えてきた後悔と不安。心臓が早鐘を打つ。

 胸が締め付けられるような痛みを感じる。足が震え、一瞬たじろぎそうになる。でも、もう逃げない。俺は拳を強く握りしめ、深呼吸をして、みんなの顔を見回した。

「ここで……何をするの?」

 先輩が小さな声で尋ねた。その大きな瞳には、不安と期待が交錯している。

「約束を果たしたいんです」

 俺の声が少し震えた。喉が乾いて、言葉が詰まりそうになる。

「約束?」

 哲が眉をひそめる。いつもクールな彼の声にも、わずかな動揺が滲んでいる。

「そう」

 俺は力強く頷いた。

「小学校の卒業式で演奏するはずだった『星色卒業式』を、ここで完成させたい。俺たちの手で」

 先輩の目が大きく見開かれた。長いまつげが震える。

「蛍くん……」

 その声には、驚きと何かが混ざっている。理解? 共感? 期待?

「俺の不眠症の原因、きっと、この約束を果たせなかったからなんです」

 俺は言葉を続けた。喉が詰まりそうになる。手のひらに爪が食い込む。

「だから、今ここで演奏して、みんなに聴いてもらいたい。そして……できれば……」

 俺は勇気を振り絞って先輩を見つめた。

「先輩に歌ってほしい」
「え?」

 先輩が驚いて声を上げた。頬が僅かに赤く染まる。

「私が……歌うの?」

 その表情に、戸惑いと喜びが交錯する。なんだか可愛いな、って思ってしまった。心臓が高鳴る。
 俺は真剣な眼差しで頷いた。

「高校の卒業式ではボカロが歌っていました。でも今回は、先輩の生の声で聴きたいんです。先輩の歌声なら、きっと俺の心に届くから」

 先輩の目に涙が浮かんだ。その大きな瞳に、星が宿ったように光る。

「蛍くん……」

 その声は感動で震えている。

「私たちも何かできることある?」

 未来が前に出てきた。その目には決意の色が宿っている。声には、いつもの明るさと共に真剣さが混ざっている。
 哲も眼鏡を直しながら頷いた。

「そうだな。みんなで作り上げたい。これは俺たちの物語なんだから」

 彼の声には、珍しく熱が込められている。普段の理論家な面は影を潜めている。
 俺は二人を見て、少し考えた。胸に温かいものが広がる。

「そうだな……リズムパートをお願いできないかな。手拍子とか……あと、教室にある打楽器とか。みんなの音が合わさって、初めて完成する曲にしよう」
 二人の顔が明るくなった。目が輝きを増す。

「了解!」

 哲と未来は素早く教室を見回し、打楽器を探し始めた。二人の動きには躍動感がある。その姿を見て、俺は胸が熱くなるのを感じた。みんなが俺のために……いや、俺たちのために。

 俺はピアノに向かってゆっくりと歩き出した。一歩一歩が重く感じる。心臓が激しく鼓動を打ち、耳元で血潮の音が聞こえる。でも、後戻りはしない。ピアノの前に立ち、深呼吸をしてから、ゆっくりと蓋を開けた。

 鍵盤に指を置くと、手が震えているのが分かった。冷や汗が背中を伝う。深呼吸をして、目を閉じる。過去の失敗への恐れが、俺を縛り付けようとする。でも、今の俺は違う。仲間がいる。そして、先輩がいる。みんなの存在が、俺に勇気を与えてくれる。

「準備はいい?」

 先輩が優しく尋ねた。その声に、少し緊張と期待が混じっている。俺は先輩の瞳に映る自分を見た。

「先輩こそ?」

 俺は小さく、でも確かな声で答えた。先輩は少し恥ずかしそうに八重歯を見せて微笑んだ。

 哲と未来も準備を整えた。哲はマラカスを、未来はタンバリンを手に取っていた。二人とも真剣な表情で、でも目には励ましの色を宿して俺を見つめている。

 俺は深呼吸をして、鍵盤に指を置いた。指先に鍵盤の冷たさを感じる。そして、俺たちの物語が始まった。
 最初は震える指で、ぎこちない音が響く。音が引っかかり、リズムが乱れる。心臓が早鐘を打つ。

「ダメか……」

 そう思った瞬間、先輩の歌声が聞こえてきた。その声は、不安な俺の心を包み込むように優しかった。
 優しく、温かく、俺の心に染み込むような歌声。それは俺の震える指を、優しく包み込むかのようだった。まるで星空に包まれているような感覚。

 徐々に体が音楽に溶け込んでいく。先輩の歌声が、俺のピアノと絡み合い、一つの旋律を紡いでいく。哲と未来のリズムが、その旋律に躍動感を与え、曲に生命を吹き込んでいく。

 目を開けると、先輩が目を閉じて歌っている姿が見えた。その表情に、懐かしさと希望が混ざっている。哲は眼鏡を外し、普段の冷静さを忘れたかのように熱心にリズムを刻んでいる。未来は目を輝かせながら、全身で音楽を表現するようにタンバリンを鳴らしている。

 その光景を見て、俺の中で凍っていた何かが溶けていくのを感じた。長年抱えていた重荷が、音楽と共に解けていく。過去の失敗への恐れ、自分への不信……それらが音楽と共に流れ出ていく。代わりに、温かな安心感が広がっていく。

 曲が佳境に入ると、俺の指は自然に、まるで意志を持ったかのように動き始めた。もう震えはない。音楽が俺の体を通り抜け、魂を洗い流していく。それは、まるで星空の下で風に吹かれているような、清々しくも力強い感覚だった。

 先輩の歌声が高らかに響き渡る。その声には、過去への懐かしさと、未来への希望が溢れている。哲と未来のリズムが、その歌声を支え、俺のピアノと絡み合っていく。四人の音が一つになり、新しい物語を紡ぎ出していく。
 四人の音楽が一つになった瞬間、俺の心に眩いばかりの光が差し込んだ。これだ。これが俺たちの「星色卒業式」なんだ。過去と未来を繋ぐ、俺たちだけの物語。

 最後の音が響き渡ったとき、部屋は一瞬の静寂に包まれた。その静寂は、何かの始まりを予感させるものだった。

 俺はゆっくりと手を鍵盤から離した。体が小刻みに震えている。その瞬間、先輩が駆け寄ってきて、俺を強く抱きしめた。先輩の体温が、俺の中の何かを溶かしていく。

「ありがとう。約束、果たせたね」

 先輩の声が感動で震えている。その大きな瞳には、星のような光を湛えた涙が溢れていた。
 俺は先輩の肩に顔をうずめた。堰を切ったように涙が溢れ出す。それは悲しみの涙じゃない。長年の重荷から解放された安堵の涙だった。そして、新しい未来が始まる予感の涙でもあった。

「ありがとう……みんな」

 俺は声を震わせながら、でも心からの感謝を込めて言った。

 哲と未来も駆け寄ってきて、俺たちを抱きしめた。四人で抱き合ったまま、言葉なしで気持ちを分かち合う。この瞬間、俺たちは本当の意味で一つになれたんだと感じた。

 窓から差し込む朝焼けが、俺たちを優しく包み込んだ。オレンジ色の光が、まるで俺たちの未来を照らすかのよう。永遠に太陽の昇らない街の、新しい朝の始まり。そして、俺たちの新たな旅立ちの瞬間。

 この音楽室で、俺たちは単なる約束以上のものを成し遂げた。過去を乗り越え、新しい絆を紡ぎ出した。そして、これからもきっと一緒に歩んでいける。俺たちの物語は、ここからが本当の始まりなんだ。そう確信できた瞬間だった。
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