魔王と! 私と! ※!

白雛

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第六章『スワンプマンの号哭』

十二

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 お日様の顔もまだ拝めないうちから、騎士たちは出動した。
 松明を提げ、その明かりを頼りに城下から、時には近隣の村々までルートを変えて家畜小屋を覗いて回る。
 何も干し草の入れ替えや掃除、卵の回収なんかを農奴見習いの子供に代わってしてやっているのではない。
 巡回警備の一環であって、最近はそこに一手間加わっただけのこと。
 家畜小屋はどこも似たような構造だったし、中身もまた同じように凄惨だったが、薄っぺらな壁の木板一枚一枚から日光とも月光ともつかない光がこもれてそのオブジェに差す光景は、どこか神々しくすらあって、それだけがほんの少しだけ彼ら騎士の心を支えていた。
 どこも、食い散らかされていた。
 鶏に始まり、うさぎ。豚に牛に羊……最近では馬までもやられるようになった。
 戸を開け放つなり血の海が臭いとともにむわっと広がり、乾き始めたそれにハエが集るのを、腕で鼻っ面を押さえながら松明をかざして、それでも確認せねばならない。ひどいときにはこれがジュースになって地面に泥混じりのジャムをこしらえている。
 騎士たちが確認するのはすでに食べ終えられた後の、哀れな家畜の肉と骨だ。それが奇妙なオブジェのように小屋の端に積み上げられていた。
 最初は到着するたびに多少荒っぽく胃の大掃除をしていた新兵ですらもう顔をしかめるだけに留まっていた。それほどに連日、続いていた。神経が参る一歩手前かもしれない。
 新兵のほうが呻いた。
「あぁ、クソッ……丁寧に舌まで引っこ抜かれてやがる。これで何軒目だ……そのうち肉が食えなくなっちまうぜ。あらゆる意味で」
「見ろ。やっぱりこいつはグルメだ。中身だけが持ってかれてる」
 もう一人の先輩騎士が小屋の隅に横たわる牛の骸を前に膝を折りながら、松明をその腰のあたりに向けて、背後の新兵に言った。
「やわらかなヒレをよこせ。ランプは最高だ。が、筋張ったロースや硬い骨なんかはいらんとさ。しかし、こっちは……」
背中ロースをやられてる……」
 そう言う新兵が松明を向けていたのは豚だった。
 牛に比べ、豚のロースはやわらかくて一番美味いというのは今更言うまでもないことだが、こうしてよく見てみると、家畜ごとに食べられている箇所が明確なのだった。
 新兵はこの明らかな人為的証左につぶやいた。
「……ゴブリンやオークなら」
「そう。奴らなら家畜以前に御託がない。部位どころか村ごと襲う。目的は食事だけじゃないからな。だが、こいつは違う。的確に家畜……それも人が食べてるもの、それも美味しいところを知っている」
「それじゃまるで……まるで……」
「…………」
 先輩騎士は口をつぐんだ。出してしまった方が楽なこともあるが、この場合はそうじゃない。自分たちのここ数年生き返った信念を再度泥沼に戻すような天秤にかけることになる。
 代わりに蘊蓄でごまかした。
「殊にな、尻ってのがまずいと、俺は思う」
「尻?」
「人間にもついてるだろ。二つ」
 先輩騎士はにべもなく返した。
「俺、実はそれなりに良い家の出でさ。家に怪奇系の本がいくつかあって読んだことがあるんだが、食人鬼ってのが特に好むのが、総じて尻なんだよ」
「…………」
「他は食えたもんじゃないらしいが、尻はやわらかくて絶品らしい」
 新兵は自分の尻を押さえながら、ますます青ざめた。
 夜が明ける頃に家畜小屋を出て、村の朝を眺めて通りながら、余計な先輩騎士は厳重に言った。
「さっきの話だけど、城では話すなよ」
「え……ああ、わかって……」
「王妃だよ」
「…………」
 話したがりの先輩騎士が甲冑越しにうろんな眼差しだけをよこして言った。
「最近、昔の侍女が来てから匿われて、夜には絶対に姿を見せない。前から厳しい方だったが、急変したのはいつからだ?」
「……確か一年前くらいに」
「そう。あの吸血鬼どもの襲来が会った日と合致する……」
「そうなんだよな……」
 しかし、情の深さでは劣らない先輩騎士は物憂げに続けた。
「あの人、確かに厳しいけどさ……以前より遥かに逞しくなったと思わないか、俺たち。何でもかんでも右に倣えで先代や貴族や諸侯らの仰せのままに……って感じだったのが、今は自主的に考え、実行に移すようになったろ」
「ああ……めっちゃ綺麗だしな。それで三十そこそこって……もう最高だろ。適度に叱られながら踏まれたい」
「ああ、俺もだ。俺はあの人を疑いたくない……けど、この場合は、どうすりゃいいんだ、俺たちは」
「黙すのが忠義か、語るのが忠義かってことだよな」
「……そう。黙ってるほうがいいのか、包み隠さず語るのが彼女に対する誠意になるのか……信頼ってのは難しいよ」
「…………」
 俺がもう言ったじゃん。なんで二回言ったの? と、新兵は自分の口で語りたがりの先輩騎士こそ心配しながら、ついていくのだった。
 この家畜虐殺として知られる事件は、以降何年にも渡って未解決のまま続いた。
 犯行時刻は深夜~夜明け前。現場は現在でいう〈ナルガディア帝国〉中部に位置する〈ホワイトピーチ・グラウンド〉州全域に広く分布し、公には各地の戦乱における敗残兵、野盗、もしくは小鬼どもの仕業とされていたものの、中にはハーレィ王妃が真犯人だとする噂も流れた。
 例の吸血鬼襲来から続く一連の出来事で漆黒の髪色は完全に抜け落ち、銀髪に変じていたものの、何年経っても衰えの見えない彼女の見た目、まるで老化を知らないような美貌が転じて魔性ではないかと初めは冗談めかして噂されていたところに、この事件である。
 噂は根拠を棚にあげたまま、しかし実しやかに広がり……極め付けについにかの先輩騎士も恐れていた事態が起きた。
 被害が家畜から人間へと移ったのである。
 ある晩のこと。
 一日の仕事を終え、食事も済ませると、暖炉の火も落として、その家族はいつもの通りに寝台でそろって横になった。
 それから少しの時間がして深夜、妙に風が吹くので父が気付いて起き上がると、夜衾一枚の娘が月光に透けるその長い裾をたなびかせて外に出るところだった。
「何をしている?」
 と父が尋ねると、娘は、
「声がする。美しい歌声のような……私を呼んでいる……」
 とだけ言って、戸の向こうへと行ってしまう。
 慌てて追いかけ、父も家を飛び出すのだが、なんと——その一瞬に娘は姿を消して、家の周辺、村の果てまで探しても、どこにも見つからないのだった。
 それが最初の失踪だった。
 その家族は次の日から仕事も投げ打ち、娘の捜索に日がな一日明け暮れ、時には若者たちを護衛にして郊外まで彷徨きまわったが、とうとう娘が見つかることはなかった。
 彼らは突然降りかかった不幸に泣き崩れながら、騎士に糾弾した。
「……聞けばあんたら、おかしな事件もまだだって言うじゃないか! 騎士団や王家はいったい何をしていたんだ! これだけ探し回って、死体も見つからないなんて……こんな神隠しのようなことそんじょそこらの者にできるわけもない! まさか、あんたらが何か隠しているんじゃないだろうな!」
 半ば逆上しての当てこすりにすぎなかったが、騎士たちにも心当たりがないわけではない。曖昧な返答で誤魔化す他なく、不信感は募るばかり。
 しかし、幸いといって然るべきか、これは失踪であって、騎士たちが前述の家畜のような悲惨な死体を目撃することはなかった。
 ハーレィを悩ませるのはそれだけではない。
 その日も謁見の最中に民衆から伝え聞き、それが終わるやハーレィは人払いをしたのち、渦中の青年を呼び出した。
 ハーレィの実子にして、あの時彼女が寝室で追い立てた長男。マルク王子だった。
 あれから数年。成長期とあってずんぐりまるまると肥え太り、身体ばかり大きくなった息子が玉座の前に上がってくるや、ハーレィは言伝をまとめた羊皮紙の束をぶちまけた。
「酒場に売春窟から貴様宛のラブレターだよ、マルク。大いに嫌われているようじゃないか」
「ママ様ほどじゃあないよ」
 マルクはピンク色の豚がそうするように、へらへらと笑って言った。
 オーエンが真からの忠義を貫き、なおも沈黙を保ったままなのを勘違いして、マルクはますます饒舌になる。
「騎士団を股で侍らせ、オヤツに家畜を捌き・・・・・・・・・、処女の生き血を啜って命と美を保つ女吸血鬼。ママ様こそ市井からなんて思われてるか、知ったほうがいい。みんな、怖くてラブレターすら寄越せやしないんだから」
 ハーレィは一つため息をつき、それから改めてマルクに向き合った。
「マルク……」
「なんですか……ママ様」
 言いながら挑戦的な面構えでこちらを睨み返すマルクは、一挙手一投足に自分に対する憎しみを滲ませている。
 そうやって反応を待っているのだ。
 かつてのあの人のように。
 当然だ。私がそうさせたのだし、ハーレィにとっても今なおあの時の気持ちに嘘はなかった。
 この青年は自分の子であると同時に、最愛の人を地獄に追いやった張本人でもあり、そうした自分の咎そのものですらある。
 そこに気づいてしまった以上、どう接すればいい?
 今更、欺瞞の母像を演じるのか。
 それを今後ずっと? いったい何年?
 でなければ、真実の言葉でひたすら突き放してやるのがいいのか。
 ハーレィの選択はこうだ。
 母としての言葉など持てない。
 持つ資格がない。
 ならばせめて人として、言うなれば。
「マガイモノでお前の傷は癒やせやしない。お前が真に愛を欲するなら、私を頼りにするのはやめろ」
「……マガイモノって。自分のこと?」
「違う。解っているはずだ。売女どもはお前のことなんか見ていない。お前の血筋や名前、金を……」
「そんなこと言ってさ、息子がモテモテなのがそんなに憎たらしい?」
 マルクはなおも挑発的に言った。
「俺はあの騎士とは違うんだよ、ママ様。ほしいものは何でもこの手で手に入れてるし、それで充足してる。そのラブレターとかってのもさ、ただのアンチだよ。知ってる? アンチ。出る杭は打たれるっていうのかな、嫉妬する厄介なのがいてさ……」
「マルク……」
「わかったから、行っていい? その顔見てると、ムカムカしてくるんだけど」
 ハーレィは無言で促し、マルクは謁見の間を去った。
「…………」
 やはり母の愛など自分には持ち得ない。
 いや、わかっている。それでもマルクのことを想えば絞りだすべきなのだ。だがしかし、それは……。
 寝室であれやこれやと思い詰めていると、ノックがあり、開けるとオーエンが銀色のワゴンにティーセットを載せて入ってきた。
 たちまち芳しい茶葉の香りが部屋に満ちて、荒んだ気持ちがやや和らいだ心地になるが、それは茶葉のせいだけではなかったろう。
 オーエンは何も言わない。
 何も言わずにティーセットを運んできて、こちらが何も言わなくても当たり前のような顔でお茶を入れ、言葉もなく温かいカップをテーブルに差し出してくる。
 その優しさが今のハーレィには沁みた。
 部屋の外、遠く、通路を足早に抜けていく足音がいやに大きく聞こえた。計っている、距離を。そんな計算高い自分に嫌気がさしながらも、ハーレィは、
「オーエン……」
「はっ」
 此方に佇む騎士長の手に触れていた。
 引き寄せて、もたれるようにそこへ顔を当てた。
 あの息子にしてこの母ありか。しかし……しかし、ひどく身体が重かった。もう全盛期を過ぎてしまったからか、脳の深部にクモでも巣を張り巡らしているかのように思考が速やかに回らない。以前ならどちらにせよはっきりと選択できたことが糸に巻かれてしまったように動きにくい。もどかしい。頭が重たい。
 かつての自分が見れば罵倒するような私の現状に嫌気がさす。
 それでも、こんな私でもひきずっていかねばならない。
 人生とは、かくもままならないものなのか。
 大人になれば解る。子供の頃に見てしまった手品のごくありふれた種のように、世の中はただこうして汚さとそれを覆い隠してしまいたいような自分の、あるいは正当化のための理性なんて上っ面の言葉が、皮一枚剥げばどす黒い性悪がすぐにでも顔を覗かせるような正義の仮面をかぶって、それを大人と偽り、人の間に混在しているだけの、どうしようもない現実感だけが延々と地平を築いているだけのことにすぎないのだ。
 夢も、希望も、不思議もない。
 種を知らない子供だから、それをあるかのように信じているだけのこと。
 なのに、それを知ってなお、なぜ続けなきゃいけないのか。
 人は、なぜ人類を続けるの?
 その問いが繰り返された。
 足音が反響して、遠くに聴こえた。
 遠い……。
 そのことに安心してしまう。
 汚い自分とそれを都合よく受け入れようとする自分の狭間で、少しだけ、ハーレィは甘える。
 オーエンの手はロランのものとは違う。いつぞやの父のようにゴツゴツとして硬く、大きく、熱かった。
「王妃……」
「少しだけ。……少しだけ、このままで……」
「…………」
 オーエンは何も言わずにハーレィに寄り添うのだった。





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