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第五変『降臨! 堕天使リツとの邂逅! ・中』
しおりを挟む考えてみたらこの世の全ては生きている。生きているから成り立っているのであって、人間とて同じ生き物としてその声が聞こえる、会話ができるということ、それ自体は別段、不思議なことでも特別なことでもないのかもしれない。
ただ私たち人間は、果てしない過程の折に、そのやり方を忘れてきてしまったというだけで……。
しかし……しかしだ——。
目の前には、本体のおよそ四倍以上にはなるかという大きくて黒い翼をこれでもかと威圧たっぷりに広げる天使がいる……。
怪しい空気は、その隣にいる、顔面から肢体まで全身を覆い隠すほどの長髪の人型から放たれたものか。その生ぬるい風に乗り、飛び散った黒い羽根が、まるで私たちを逃すまいとするかのように、周囲に舞っていた。
他方では、つい数秒前まで青く晴れ渡っていたはずの空が瞬く間に闇に覆われ、若葉に茂っていた右の雑木林は一転して暗い陰を小径に落としている。
これは——これは、あまりにも常識離れしすぎているのではないか……。
変異は私たちだけに留まらない。この世界のすべてが、突然に狂い始めてしまったかのようだった。
——ミカのせいで?
脳裏にカミュの説明が蘇る。
『彼女たちのケンカが起きてたのよ』
『それこそ次元を破壊してしまうような壮絶なものだった』
次元を破壊してしまうような天使たちのケンカ……それによっていつの間にかこの世界は——……。
私は以前読んだうだつのあがらない大学生の"私"のように責任者を呼びたくなっていた。
責任者は誰だろう? 自殺を図った私たちか? それとも、このすべてのカオスの中心にいるだろうミカか? それとも、ミカにそうさせた世間の"普通"が、人間の常態こそが、それ以前に初めから狂っていたということなのだろうか?
ふいに暴走しかけた私の思考を遮って——一歩、黒い翼の天使がこちらに踏み出した。
じゃり……と、高そうなブーツで踏みにじる砂利の音まで聞こえるほど私の神経は張り詰めていたが、堕天使はまるでそれらを何の気もなく跨ぐような軽快な足取りで、歩み寄ってくる。黒い翼以外の見た目は、原宿にいそうな女性のベージストそのものだ。
「いやー、ビビらないでよ。毎度、そんなにさ。こっちはただ話を聞かせてもらいたいだけなんだから……」
黒い翼の天使は数メートルの空間をゆっくり詰めてくる。クロ提督は左手のステッキを握りなおし、ミゼ卿は少林寺拳法みたいに腕を持ち上げた。まさしく一触即発といった、これまでにないような緊張感を放っている。その間に、私は小声で聞いていた。
「カミュ。あの人は?」
黒い翼の天使は話し続ける。
「私みたいなのが突然目の前に現れたら、そりゃびっくりはするかもしれない。けどさ、これぞ君たちが夢にまで見た存在だと思うんだけどな」
「私たちの味方? それとも、」
「ただまぁ……」
「——敵?」
「夢は夢のままにしといたほうがいい——ということも、私はあると思うけどね」
カミュの喉が音を返すか返さないか——というところで私の視界は回転した。
右上体。次いで、左半身全体に衝撃。
前後して、私は天使の姿が一気に大きくなったことを視認していた。迫ってきたのだ。そこに入れ替わるように、死角から何かが突っ込んできた。
ミゼ卿だった。彼に庇われた——。
神経がかろうじて捉えた眼前の一コマ一コマを、それだけにサブリミナルのような鮮明さで焼き付けながら、私は小径のアスファルトに投げ出され、左から地面に倒れ込んだのだった。
すぐに振り返り見ると、黒い翼の天使の打ち下ろしを、両腕をクロスするようにして受け止めるミゼ卿の姿があった。
天使の爪はバンギャのように鮮やかな色をして、獣のように鋭く尖っていた。対して、ミゼ卿の腕は気付けば茶色いプレートに覆われている。セミの翅のようだ。
しかし、それらが互いに直接触れることなく、一定の距離を保って静止している。まるで両者の間に見えない空気が何層か張ってあるかのようだった。
音と衝撃と痛みは全部、後からきた。閃光のように鮮烈に——二人の鍔迫り合い、それは、目の前で花火が打ち上げられてるみたいに、網膜に焼き付く光景だった。
「ち……くしょ、狡い真似を」
しかし間もなく、ミゼ卿がその場に力無く崩れ落ちた。
天使が黒い翼を広げて、倒れ込むミゼ卿を見下ろし、吐き捨てるように言う。
「セミごときが余計な真似を」
何かやられたのか? 私の目からは拮抗していたように見えたが、間違いだった?
「ミゼ——」
言葉が余波のように漏れる。それらの思考が回送電車のように過ぎっているうちに、天使がこちらを向いた。
倒れた私を見下ろし、黒い翼を閉じながら天使は言う。
「やれやれ。逃げないでよ。狙いがズレるでしょ」
私は、心の中でカミュを呼んでいた。
(みよちん? よくわかったわね!)
すぐに私の意思とは無関係な声が、頭の中に響いた。
先に一度やっていたことが活きた。やり方は身体が覚えていた。私はすぐに思い浮かべる。
(アレ!)
(アレ?)
(私の合図でアレやって!)
(あー。わかったわ)
今にも天使が何してくるかしれない。そんな状況では秒単位の猶予すらなかったが、私は鋭く息を吸うと、刮目して観た——!
ミゼ卿は眠っているようだ。そして、先ほどは気づかなかったが、肩先に黒い羽根が刺さっている。同じものが周辺の地面にも(アスファルトもお構いなしに)突き立っている。
打ち下ろすのと一緒に撃ち込んでいたのだろう。打ち下ろしは防げても、それにミゼ卿はやられた。
——狡い真似を。
ミゼ卿の見解とも一致する。そして、それは一つの活路を見出すかのようだった。
私の目で動きの視認ができ、かつミゼ卿を倒すにも搦手を用いたのだ。この天使、ひょっとすると、肉弾戦ではそんなにかけ離れて優位なわけではないのかもしれない。過ぎるくらいに痩せ細っていて、見るからに体力はなさそうだ。
こっちだって不死身のゾンビだ。それなら、まだやりようもあるんじゃないか……。
と、高速に巡り出した思考を整理し、身構えたときだった。
「脚っ! みよちんっ!」
皐月の叫び声——。
釣られて脚元を見下ろす——。
いつのまにか足首に青白い何かが巻きついている。感覚は遅れて——鋭い痛みを走らせた。
「うあっ!」
刃物で刺されているかのような鋭い痛みだった。
私はうめき声を漏らしながら、無我夢中で足首のそれを掴もうとした。
それは手だった。
地面から突如生え、伸びてくる青白い手。それが私の足首を掴んでいる。
(こちらからは触れない! これ——これは——!)」
私はちらっと天使の向こう側、彼女が立っているところから少し離れた地点を見る。
黒い長髪の人型がその場にうずくまっていた。
十中八九、あいつの仕業だと見込んだ。
「提督。身体、お願い!」
「承ろう」
皐月は短く言うと目を閉じていた。私がカミュを介して思念を送るよりも早く——頭の自由度なら皐月のが私よりずっと早く、ずっと上だ。
この手が霊体的な何かなら——オバケはこっちにもいる……!
皐月の頭から似たような青白いもやもやが飛び出して、三角巾をつけた白装束の皐月自身の姿を象るまでに何秒もいらなかった。
天使が仰ぎ見てのんきに呟いた。
「ほぉー。そっちの子は、そういうやつか」
「みよちんっ!」
さながらサナギを脱ぎ捨てる蝶のように宙に舞うと、霊体の皐月がこっちに飛んできた。
続けて、素潜りするダイバーのように上下逆さの姿勢になって、私の足首を掴む手に掴み掛かる。私は注意を促さなければならなかった。
「皐月、気をつけて! これ、」
「任せとけ!」
皐月の手は確かにその手に触れた——しかし。
「うわっ! この手、冷てェっ!」
すぐにまた手を離した。
そうだ。私がさっきから感じている痛みは、その手から伝わる極低温の冷気によるものだった。体温の奪われた私の足首はだんだんと青くなってきている。
私たちを見下ろして天使が言う。
「ポル子の良い友達になれそうだね」
そう言って彼女は黒い翼を今一度広げた。羽根を飛ばすような構えだ……!
「後でよく見せてよ」
——私はとっさにカバンを持ち上げた。
強風が巻き起こると同時、ととととと……! 包丁をまな板に落とすような衝撃が流れるようなリズムを刻んで、カバンの持ち手から伝わる。私の周囲のアスファルトにも同じように羽根が突き立てられる。
……撃たれた。私はカバンの裏から薄めを開けた。向こう側は穴だらけだろう……が、幸い、羽根は貫通してきてはいない——。
その時、皐月はすでに私の足首を掴む手を再び掴んでいた。そして今度はその爪の生え際に、自身の爪を思い切り突き立てていた——。
「…………」
その、わずか数秒にも満たない沈黙の間にどれだけ『痛がれ……!』と祈ったかしれない。神の使徒は目の前にいたが、しかし、私たちは真剣だった。
人に捕まったアリが、最後の抵抗に指に噛みついて離さなくなるような——今の私たちにできる最大限の防御と反撃。
生きているなら、痛みもまた、必ずあるはずだ——!
私は少し離れたところにうずくまる黒髪の人型を凝視する。
やがて念じが通じたように、人型はびくりとして、腕を地面から引き抜くように上体を起こした。
——足首の圧が緩んだ。私は素早く脚を引き抜くと、同じく息もつかせぬうちに叫んでいた。
「カミュ! 今だ!」
私は目を閉じて言った。私がそうするが早いか、一面に引き裂かんばかりの閃光が走った。
カミュが初めて会ったときに見せた後光であった。
「皐月!」
私は目を閉じたまま右前方に向かい、手を伸ばした。すると、ちょうどよくぶつかってくるものがある。
ファインプレーだ! スポーツか何かの試合中なら、駆け寄って小躍り一つしたいところ、私は万力で挟むようにぎゅっと掴むと、次の瞬間、全霊を込めて右の方へ駆け出した。
来た道を戻る方角であるはずだ。少なからず、あの天使たちから遠ざかれればどこだって構わない。
出だしは姿勢が低く、脚がもつれた。——が、その分回転は早くなる。加速する。短距離のクラウチングでやったように——一歩でも一秒でも早く、前に向けて、大きく脚を突き出すのだった。
ミカに分け与えられた奇跡の力。それがどれだけ彼女らにとって瑣末事なのかがよくわかった。
ゾンビやオバケになれることくらいが何だというのか。まるで話にならない。児戯にも等しい。私たちはただ遊ばれているかのようだった。
あれが、使い魔ではない、本物の天使——。
笑えないくらいの歴然とした種としての差を感じた。
幸いにも、しばらく追っ手はなかった。
痛む横っ腹を我慢して、私たちはその場から逃げおおせた。
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