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第4章「恋文」
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「そんな、そんなこと……」
「将に、女の情念だな」
源太郎がそう言うと、多恵がため息混じりで呟いた。
「そうでしょうか?」
「ん?」
源太郎は、多恵の顔を見た。
灯火に、仄かに浮かび上がる青白い顔は美しい。
「好いた人に逢いたいのなら、あたしも同じようなことをするやもしれません」
「お前がか?」
「可笑しいですか?」
「いや、お前がな……と思って」
「あら、私でもそんなときはありましたわ」
多恵は口を窄める。
「ほう」
源太郎は、おかしな顔をした。
「それは、いつのことだ?」
「それは……」
「それは?」
「あなたに、縁談が持ち上がったときですわ」
多恵の言葉に、源太郎はあっとなった。
「あのときか?」
源太郎は、再び多恵を見た。
多恵の頬が僅かに上気しているのは、灯火の明かりのせいだけではない。
「おまえ、あのとき……」
「源太郎様、覚えていらっしゃいますか? あなた様が、牧野様のお屋敷の前を通られたときのことです。あのとき、私、牧野様の桜を見上げておりましたが、なぜだとお思いになりましたか?」
「それは……、桜が見たかったから……?」
多恵は、優しく首を振った。
「私、源太郎様の屋敷に行こうと思ったのです」
「なに?」
「あの日、私、源太郎様に縁談が持ち上がったと聞いて、居ても立ってもいられなくなって……」
屋敷に行くと、源太郎はまだ帰宅していなかった。
源太郎の母から、ここで待っていなさいと言われたが、どうしてもいますぐ伝えたいことがあるからと屋敷を飛び出した。
「あそこで待っていたのです、源太郎様のお帰りを……」
「それで、わしに伝えたかったこととは?」
多恵は、恥ずかしそうに艶やかな口を動かした。
「源太郎様のお傍においてくださいと……」
源太郎は、両目を瞬いた。
「女とは……、そういうものでございます。思いつめたら、何をするか分かりませんわ」
源太郎は、伏し目がちな多恵を何とも不思議な心持ちで見詰めた。
この淑やかな女のどこに、それほどの情熱があるというのか………………?
「恥ずかしいですわ、こんな……、頬が熱くなります」
源太郎の頬のほうが熱かった。
「あら、お茶が温くなりましたわね。もう一杯召し上がりますでしょ?」
「う、うむ……」
源太郎は、多恵に湯飲みを渡す。
その手は少し震えていた。
「そう言えば……」
「ん?」
「例の桜はどうなのですか?」
例の桜とは、おかつが聞いたお七の寝言である。
「おお、その桜か。それは、お七の文にあった。これも、三吉が覚えておった。『庄之助様、いつぞやのお約束、寛永寺の桜が咲けば、ご一緒に参拝するというお約束、七は楽しみにしております。今年は風が冷たいようで、桜が遅いのでは……とおゆきは申しておりますが、私は早く咲いて欲しいと心待ちにしております。ああ、逢いたい。庄之助様と、一緒に桜が見とうございます』と」
多恵は、ずっと鼻を鳴らした。
「お茶を入れて参りますので……」
と出て行ったが、その頬には一筋の輝きがあった。
源太郎は思った。
(女とは、そういうものか)
縁側に出た。
青白い光が、源太郎の顔を照らす。
良い月夜である。
「将に、女の情念だな」
源太郎がそう言うと、多恵がため息混じりで呟いた。
「そうでしょうか?」
「ん?」
源太郎は、多恵の顔を見た。
灯火に、仄かに浮かび上がる青白い顔は美しい。
「好いた人に逢いたいのなら、あたしも同じようなことをするやもしれません」
「お前がか?」
「可笑しいですか?」
「いや、お前がな……と思って」
「あら、私でもそんなときはありましたわ」
多恵は口を窄める。
「ほう」
源太郎は、おかしな顔をした。
「それは、いつのことだ?」
「それは……」
「それは?」
「あなたに、縁談が持ち上がったときですわ」
多恵の言葉に、源太郎はあっとなった。
「あのときか?」
源太郎は、再び多恵を見た。
多恵の頬が僅かに上気しているのは、灯火の明かりのせいだけではない。
「おまえ、あのとき……」
「源太郎様、覚えていらっしゃいますか? あなた様が、牧野様のお屋敷の前を通られたときのことです。あのとき、私、牧野様の桜を見上げておりましたが、なぜだとお思いになりましたか?」
「それは……、桜が見たかったから……?」
多恵は、優しく首を振った。
「私、源太郎様の屋敷に行こうと思ったのです」
「なに?」
「あの日、私、源太郎様に縁談が持ち上がったと聞いて、居ても立ってもいられなくなって……」
屋敷に行くと、源太郎はまだ帰宅していなかった。
源太郎の母から、ここで待っていなさいと言われたが、どうしてもいますぐ伝えたいことがあるからと屋敷を飛び出した。
「あそこで待っていたのです、源太郎様のお帰りを……」
「それで、わしに伝えたかったこととは?」
多恵は、恥ずかしそうに艶やかな口を動かした。
「源太郎様のお傍においてくださいと……」
源太郎は、両目を瞬いた。
「女とは……、そういうものでございます。思いつめたら、何をするか分かりませんわ」
源太郎は、伏し目がちな多恵を何とも不思議な心持ちで見詰めた。
この淑やかな女のどこに、それほどの情熱があるというのか………………?
「恥ずかしいですわ、こんな……、頬が熱くなります」
源太郎の頬のほうが熱かった。
「あら、お茶が温くなりましたわね。もう一杯召し上がりますでしょ?」
「う、うむ……」
源太郎は、多恵に湯飲みを渡す。
その手は少し震えていた。
「そう言えば……」
「ん?」
「例の桜はどうなのですか?」
例の桜とは、おかつが聞いたお七の寝言である。
「おお、その桜か。それは、お七の文にあった。これも、三吉が覚えておった。『庄之助様、いつぞやのお約束、寛永寺の桜が咲けば、ご一緒に参拝するというお約束、七は楽しみにしております。今年は風が冷たいようで、桜が遅いのでは……とおゆきは申しておりますが、私は早く咲いて欲しいと心待ちにしております。ああ、逢いたい。庄之助様と、一緒に桜が見とうございます』と」
多恵は、ずっと鼻を鳴らした。
「お茶を入れて参りますので……」
と出て行ったが、その頬には一筋の輝きがあった。
源太郎は思った。
(女とは、そういうものか)
縁側に出た。
青白い光が、源太郎の顔を照らす。
良い月夜である。
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