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十一月に入ると黒猫の表の看板でカウントダウンが始まるのがボジョレーヌーヴォーの解禁日である。店内の壁にも案内ポスターが貼られ、メニューにもボジョレーヌーヴォーについて書かれたお手製のチラシが挿入される。
俺はそのポスターをボンヤリと眺める。
【フランス・パリの東南に位置するブルゴーニュ地方の南部、美食の町リヨンからは北部に広がる地区ボジョレーにて作られたガメ種の黒ぶどうは花崗岩質、石灰粘土層の土壌と相性が良いことから、良質のワインの産地。また通常のワインとは異なり実を粉砕せず房のまま樽に入れ発行する事でタンニンの少ない爽やかな味のワインに仕上がっています。
そんな良質なぶどうを丁寧に仕上げたからこそ産まれるこの風味と味わい、是非この時期楽しんでみませんか?】
毎年、TVとかでもボジョレーヌーヴォー解禁はニュースにもなっていたが、イマイチ俺にはその喜びが分からない。
「どうしたの? 小野くん」
ユキさんが、柔らかく声かけてくる。
「『ボジョレーヌーヴォー解禁!』って言葉俺にとっては『冷やし中華始めました』と大して変わらなくて、なんでそれをここ迄大騒ぎして喜ぶのか分かりません」
ユキさんは俺の言葉に吹き出す。
「まあ、似たような所あるからね。『冷やし中華は夏が始まるよ!』とアピールして、ボジョレーヌーヴォーは『ワインの季節始まるよ!』とその存在を改めて思い出させてくれる」
ソレを聞くと一つの疑問がわく。
「なんで、ボジョレーだけなんですか? 祝うのは」
ユキさんはフフと笑い顔を横にふる。
「ボジョレーだけでないよ、新酒を祝うのは。どこの酒の産地でもやっているし、祭りもある。ただボジョレーは世界的に有名になったのと、製法から賞味期限が短く完成して半年くらいで美味しさのピークが終わる。それだけに旬というイメージが強く、店としてはイベントにしやすい」
人の良い笑みで、ユキさんは商売人な内容のぶっちゃけ話してくる。
「ワインを人が楽しく飲むキッカケにもなるし、そうやって季節楽しむのって面白くない?」
季節を楽しむか、確かに風物詩として話題をして、飲んで楽しむ、そう言う事出来る人達って素敵な気もする。
「まあ、ボジョレーヌーヴォーはそうやって楽しむのに丁度良い所があるな、恭しく飲むというより、カジュアルにワイワイ大勢で騒いで盛り上がる。そんなワインだ。熟な芳香ではなく若さを楽しむモノだからな」
話を聞いていたのだろう、杜さんが加わってくる。その言葉にユキさんも笑って頷く。
「そうだ、小野くんも一口飲んでおくか? 味知っておいたほうが紹介もしやすいだろう。
本日ウチで出すのは一般的で軽めのアントワーヌシャトレのボジョレーヴィラージュ。この樽に入ったものがそうだ。あとルロワのボジョレー・ヴィラージュ・プリムール、シャトー・カンボン・ヴォジョレ・ヌーヴォー、そして飲み比べると面白いのでクリュ・ヴォジョレー(熟成タイプのヴォジョレー)のドメーヌ・リュエ・ボジョレー・ヴィラージュ・ヌーヴォーを用意しておいた」
前もってユキさんからボジョレヌーヴォーのリストとそれぞれの特徴を書いた紙を渡されていたから良かった。でないとここで全て覚えきれる訳がない。俺はそれぞれを飲ませてもらいその違いを頭に叩き込む。それぞれの味に特徴はあるものの華やかでいてクリュ以外は軽い口当たり、確かに陽気な場が似合うワインである。
ユキさん達は、今朝というか解禁と同時に三人で朝の四時まで楽しんでいたようで、今も純粋に味を楽しんでいるようだ。
カランとドアの音がして見てみると楽器もった三人の男性が入ってくる。本日演奏してくれるプロのjazzバンドのサードラインの皆さんだ。サックス・ウッドベース・ドラムの三人組のバンドで、Kenjiさんと同じ事務所にいるらしい。
「ボジョレー飲みにきたよ~♪」
サードラインのリーダーをしている神津さんは第一声でそんな事いってくる。『演奏しにきたんじゃないのか!』と心の中でツッコむが、杜さんは『よく来たな飲むか?』と答えている。ボジョレーヌー解禁日はワイン好きを浮かれさせる何かがあるようだ。
開店するとサードラインの人のアップテンポな演奏と、ボジョレヌーヴォーを絡めたMCもありボジョレヌーヴォーは飛ぶように注文が入る。また数種類用意した事で飲み比べを楽しむ人も多かったようだ。それに伴いフードの方も売れて、イベントとしては大成功したような感じだ。お店に顔を出してくれた学生jazz部のメンバーもホールを手伝ってくれたので助かった。
そして盛況の様子で忙しくあっという間にに閉店時間を迎えた。
しかし根小山夫妻とユキさんサードラインのメンバーとjazz部の面々でそのままお祭りは続く。閉店作業をユキさんと終わらせ俺達もそこに加わる事にする。舞台で杜さんやjazz部のメンバーらによる、プロとアマ関係なくアドリブでの演奏も行われ、心地よいJazzで大人な空気が出来上がっている。それがまた心地よく酔いも深まっていった。素人がみても杜さんの演奏している姿は恰好よく見えた。杜さんはKenjiさんと学生時代一緒にバンドを組んでいたこともあるとユキさんが話してくれたのを思い出す。なるほどだから、学生らの演奏とは明らかにレベルが違う、大人で艶っぽい音を出してくる。その違いが何なのか分からないけれど、この店でバイトしていてプロアマそれぞれのjazzを聴いているうちに耳も肥えてきて音の違いが分るようになってきた。
俺が杜さんのギターを誉めると珍しく杜さんは照れた顔を返す。
「イヤイヤ、俺は女にモテたいからギター持ってバンドをやったという不届きモノだから」
そんな事を言う。
「で、モテたんですか?」
Jazz部のお調子者の田中がそんな事を言って茶化してくる。杜さんはそれにニヤリと答え澄さんに視線を向ける。
「見れば分かるだろ? 澄をそれでモノにした」
皆がその言葉を冷やかすが杜さんは平然としているし、澄ママさんはニコニコしている。
「別に私はギターを演奏しているからじゃなくて、杜さんだから好きになったのに」
そう言葉を続ける澄ママも澄ママである。杜さんもそう言われ照れるわけでもなく澄ママを抱き寄せキスをする。こういうことを平然としてしまう所から、二人はアメリカとか海外で出会ったのだろうか? そう考えたら二人のこの愛情表現のオーバーさ、大らかさも納得できる。周りのメンバーももうこういうノリにはスッカリ慣れているようでそれを微笑ましそうに見ているだけで誰も冷やかす事すらしない。そして二人のラブシーンに即興にBGMを誰かが演奏いれてきたことで、また気ままなセッションタイムが始まる。
ユキさんと澄ママがさり気なく動き、つまみを持ってきたり、新しいワインを持ってきたりと動いていることで酒とツマミが途切れる事がないために、この素敵な酒宴は終わる事がない。田中が一番に潰れ、それを『あらら』とみていたが俺もしだいに漂う音と酒に酔いを進めてしまい途中意識を手放した。
※ ※ ※
鳥の鳴き声、近くには温かい良い香りの何か。程よい弾力のマットレス。なんかすべてが心地良い。俺はうっすらと目を開けると目の前に整った顔がある。細めの顎に通った鼻立ち。薄い唇が笑っているように口角が上がっている。閉じられた瞼から伸びている睫毛が思った以上に長い事に感心する。とそこまで観察してハッと我に返り俺は一気に目が覚める。起き上がりブルーの壁の部屋を見て、それがユキさんの部屋である事を理解する。いや、隣で寝ていたのはユキさんだったからそこは理解すべき点だけど、それ以上に何故俺はいつものリビングでなくてユキさんと一緒に同じベッドで寝ているのだろうか?
当たり前だけど、俺はまだ制服姿のままで、ユキさんはジャージ生地の洋服を着ている。慌てて飛び起きたら、頭がズキズキと痛んだ。
「あっ小野くん、おはよう」
頭痛に苦しんでいると、ユキさんの声が聞こえる。飛び起きた事で起こしてしまったようだ。
「……おはようございますユキさん。あの……なぜ俺ユキさんのベッドに?」
そう聞くとユキさんはフフと笑う。
「君がいつも使っているリビングのソファーベッドは田中くんが使っているんだ。他のメンバーは酔っ払いながらも家に帰れたんだけど、君たちはどう揺らしても起きなくて、だから俺の部屋に。四階の客室はスリーラインの皆さんが使ってしまってベッドが足りなくて。君にはこっちで眠ってもらったんだ」
そこまで俺って潰れていたのだろうか? まったく覚えていない。
「すいません、ご迷惑をおかけして」
「まあ、昨日はかなりの量飲んだからね~」
迷惑をかけたのは今日に始まった事ではないのだが、ここまで意識なく寝てしまうのは珍しい。それにベッドまでお借りしてしまったのは申し訳なさすぎる。
「シャワーでも浴びて、サッパリしてきたら?」
そう言われ恐縮しながらバスルームに向かう。そして洗面所に明らかに男性用ではない洗顔料とかクレンジングとかがさり気なく並んでいるのを見て更に俺は恥ずかしくなる。ユキさんが彼女さんと使ったであろうベッドに寝てしまった後だけに、さらにバスルームも借りる事が物凄く抵抗を感じてしまうのは考え過ぎなのだろうか? 俺は大きく深呼吸してからバスルームへと入る。俺の着替えを脱衣室まで持ってきたと声をかけてくれたユキさんに必要以上ドキドキしながらシャワーを浴びて素早く飛び出し身体を簡単に拭いて洋服に着替える。リビングに行くとまだソファーベッドに寝ている田中にムカついてくる。ソファーを蹴飛ばして起こしてしまったのは仕方がない事だと思う。それを見てユキさんは苦笑して俺に水の入ったグラスを渡してくれた。二日酔いの身体にキンと冷えた水は美味しかった。そして二日酔いで苦しんでいる二人の為にスムージーを作る。正直固形物を食べるのも苦しいから助かった。
しかしユキさんはというと、自分でチャチャっと作ったスクランブルエッグとパンとサラダとスムージーという健康的な朝食を平然と食べていた。ユキさんは俺以上に呑んでいた筈なのに平然としていた。まあBarで働いているくらいだから強くて当然なのだろうが、ユキさんが酔っぱらっている所は見たことがない。顔に似合わず酒豪なようだ。
田中はまだ気分悪いらしく、ソファーから出られずグッタリしたまま。俺も二日酔いで苦しいが、休めない講義があるのでふらつきながらも大学に向かう事にした。
虚ろな思考で抗議を受け、もう黒猫でこんなに馬鹿みたいにお酒呑むのは辞めようと心に誓う。今後のボジョレーヌーヴォー解禁の日にはかなりの確率でこういう状態になるとは思いもせずに。
というのも、このボジョレヌーヴォーな夜は最高に楽しかった。そのお蔭でその後『ボジョレヌーヴォー解禁』という文字を見るとなんだか心が躍るようになったし、社会人になっても結婚した後もユキさんに誘われて黒猫に行きボジョレヌーヴォーを楽しみ、夜通し飲み明かす事が定例となる。
この日から俺にとって十一月の第三週の木曜日は特別な意味を持つようになった。
※ ※ ※
after hours 仕事の後、ミュージシャンが仲間内で楽しむ為に演奏るすこと
俺はそのポスターをボンヤリと眺める。
【フランス・パリの東南に位置するブルゴーニュ地方の南部、美食の町リヨンからは北部に広がる地区ボジョレーにて作られたガメ種の黒ぶどうは花崗岩質、石灰粘土層の土壌と相性が良いことから、良質のワインの産地。また通常のワインとは異なり実を粉砕せず房のまま樽に入れ発行する事でタンニンの少ない爽やかな味のワインに仕上がっています。
そんな良質なぶどうを丁寧に仕上げたからこそ産まれるこの風味と味わい、是非この時期楽しんでみませんか?】
毎年、TVとかでもボジョレーヌーヴォー解禁はニュースにもなっていたが、イマイチ俺にはその喜びが分からない。
「どうしたの? 小野くん」
ユキさんが、柔らかく声かけてくる。
「『ボジョレーヌーヴォー解禁!』って言葉俺にとっては『冷やし中華始めました』と大して変わらなくて、なんでそれをここ迄大騒ぎして喜ぶのか分かりません」
ユキさんは俺の言葉に吹き出す。
「まあ、似たような所あるからね。『冷やし中華は夏が始まるよ!』とアピールして、ボジョレーヌーヴォーは『ワインの季節始まるよ!』とその存在を改めて思い出させてくれる」
ソレを聞くと一つの疑問がわく。
「なんで、ボジョレーだけなんですか? 祝うのは」
ユキさんはフフと笑い顔を横にふる。
「ボジョレーだけでないよ、新酒を祝うのは。どこの酒の産地でもやっているし、祭りもある。ただボジョレーは世界的に有名になったのと、製法から賞味期限が短く完成して半年くらいで美味しさのピークが終わる。それだけに旬というイメージが強く、店としてはイベントにしやすい」
人の良い笑みで、ユキさんは商売人な内容のぶっちゃけ話してくる。
「ワインを人が楽しく飲むキッカケにもなるし、そうやって季節楽しむのって面白くない?」
季節を楽しむか、確かに風物詩として話題をして、飲んで楽しむ、そう言う事出来る人達って素敵な気もする。
「まあ、ボジョレーヌーヴォーはそうやって楽しむのに丁度良い所があるな、恭しく飲むというより、カジュアルにワイワイ大勢で騒いで盛り上がる。そんなワインだ。熟な芳香ではなく若さを楽しむモノだからな」
話を聞いていたのだろう、杜さんが加わってくる。その言葉にユキさんも笑って頷く。
「そうだ、小野くんも一口飲んでおくか? 味知っておいたほうが紹介もしやすいだろう。
本日ウチで出すのは一般的で軽めのアントワーヌシャトレのボジョレーヴィラージュ。この樽に入ったものがそうだ。あとルロワのボジョレー・ヴィラージュ・プリムール、シャトー・カンボン・ヴォジョレ・ヌーヴォー、そして飲み比べると面白いのでクリュ・ヴォジョレー(熟成タイプのヴォジョレー)のドメーヌ・リュエ・ボジョレー・ヴィラージュ・ヌーヴォーを用意しておいた」
前もってユキさんからボジョレヌーヴォーのリストとそれぞれの特徴を書いた紙を渡されていたから良かった。でないとここで全て覚えきれる訳がない。俺はそれぞれを飲ませてもらいその違いを頭に叩き込む。それぞれの味に特徴はあるものの華やかでいてクリュ以外は軽い口当たり、確かに陽気な場が似合うワインである。
ユキさん達は、今朝というか解禁と同時に三人で朝の四時まで楽しんでいたようで、今も純粋に味を楽しんでいるようだ。
カランとドアの音がして見てみると楽器もった三人の男性が入ってくる。本日演奏してくれるプロのjazzバンドのサードラインの皆さんだ。サックス・ウッドベース・ドラムの三人組のバンドで、Kenjiさんと同じ事務所にいるらしい。
「ボジョレー飲みにきたよ~♪」
サードラインのリーダーをしている神津さんは第一声でそんな事いってくる。『演奏しにきたんじゃないのか!』と心の中でツッコむが、杜さんは『よく来たな飲むか?』と答えている。ボジョレーヌー解禁日はワイン好きを浮かれさせる何かがあるようだ。
開店するとサードラインの人のアップテンポな演奏と、ボジョレヌーヴォーを絡めたMCもありボジョレヌーヴォーは飛ぶように注文が入る。また数種類用意した事で飲み比べを楽しむ人も多かったようだ。それに伴いフードの方も売れて、イベントとしては大成功したような感じだ。お店に顔を出してくれた学生jazz部のメンバーもホールを手伝ってくれたので助かった。
そして盛況の様子で忙しくあっという間にに閉店時間を迎えた。
しかし根小山夫妻とユキさんサードラインのメンバーとjazz部の面々でそのままお祭りは続く。閉店作業をユキさんと終わらせ俺達もそこに加わる事にする。舞台で杜さんやjazz部のメンバーらによる、プロとアマ関係なくアドリブでの演奏も行われ、心地よいJazzで大人な空気が出来上がっている。それがまた心地よく酔いも深まっていった。素人がみても杜さんの演奏している姿は恰好よく見えた。杜さんはKenjiさんと学生時代一緒にバンドを組んでいたこともあるとユキさんが話してくれたのを思い出す。なるほどだから、学生らの演奏とは明らかにレベルが違う、大人で艶っぽい音を出してくる。その違いが何なのか分からないけれど、この店でバイトしていてプロアマそれぞれのjazzを聴いているうちに耳も肥えてきて音の違いが分るようになってきた。
俺が杜さんのギターを誉めると珍しく杜さんは照れた顔を返す。
「イヤイヤ、俺は女にモテたいからギター持ってバンドをやったという不届きモノだから」
そんな事を言う。
「で、モテたんですか?」
Jazz部のお調子者の田中がそんな事を言って茶化してくる。杜さんはそれにニヤリと答え澄さんに視線を向ける。
「見れば分かるだろ? 澄をそれでモノにした」
皆がその言葉を冷やかすが杜さんは平然としているし、澄ママさんはニコニコしている。
「別に私はギターを演奏しているからじゃなくて、杜さんだから好きになったのに」
そう言葉を続ける澄ママも澄ママである。杜さんもそう言われ照れるわけでもなく澄ママを抱き寄せキスをする。こういうことを平然としてしまう所から、二人はアメリカとか海外で出会ったのだろうか? そう考えたら二人のこの愛情表現のオーバーさ、大らかさも納得できる。周りのメンバーももうこういうノリにはスッカリ慣れているようでそれを微笑ましそうに見ているだけで誰も冷やかす事すらしない。そして二人のラブシーンに即興にBGMを誰かが演奏いれてきたことで、また気ままなセッションタイムが始まる。
ユキさんと澄ママがさり気なく動き、つまみを持ってきたり、新しいワインを持ってきたりと動いていることで酒とツマミが途切れる事がないために、この素敵な酒宴は終わる事がない。田中が一番に潰れ、それを『あらら』とみていたが俺もしだいに漂う音と酒に酔いを進めてしまい途中意識を手放した。
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鳥の鳴き声、近くには温かい良い香りの何か。程よい弾力のマットレス。なんかすべてが心地良い。俺はうっすらと目を開けると目の前に整った顔がある。細めの顎に通った鼻立ち。薄い唇が笑っているように口角が上がっている。閉じられた瞼から伸びている睫毛が思った以上に長い事に感心する。とそこまで観察してハッと我に返り俺は一気に目が覚める。起き上がりブルーの壁の部屋を見て、それがユキさんの部屋である事を理解する。いや、隣で寝ていたのはユキさんだったからそこは理解すべき点だけど、それ以上に何故俺はいつものリビングでなくてユキさんと一緒に同じベッドで寝ているのだろうか?
当たり前だけど、俺はまだ制服姿のままで、ユキさんはジャージ生地の洋服を着ている。慌てて飛び起きたら、頭がズキズキと痛んだ。
「あっ小野くん、おはよう」
頭痛に苦しんでいると、ユキさんの声が聞こえる。飛び起きた事で起こしてしまったようだ。
「……おはようございますユキさん。あの……なぜ俺ユキさんのベッドに?」
そう聞くとユキさんはフフと笑う。
「君がいつも使っているリビングのソファーベッドは田中くんが使っているんだ。他のメンバーは酔っ払いながらも家に帰れたんだけど、君たちはどう揺らしても起きなくて、だから俺の部屋に。四階の客室はスリーラインの皆さんが使ってしまってベッドが足りなくて。君にはこっちで眠ってもらったんだ」
そこまで俺って潰れていたのだろうか? まったく覚えていない。
「すいません、ご迷惑をおかけして」
「まあ、昨日はかなりの量飲んだからね~」
迷惑をかけたのは今日に始まった事ではないのだが、ここまで意識なく寝てしまうのは珍しい。それにベッドまでお借りしてしまったのは申し訳なさすぎる。
「シャワーでも浴びて、サッパリしてきたら?」
そう言われ恐縮しながらバスルームに向かう。そして洗面所に明らかに男性用ではない洗顔料とかクレンジングとかがさり気なく並んでいるのを見て更に俺は恥ずかしくなる。ユキさんが彼女さんと使ったであろうベッドに寝てしまった後だけに、さらにバスルームも借りる事が物凄く抵抗を感じてしまうのは考え過ぎなのだろうか? 俺は大きく深呼吸してからバスルームへと入る。俺の着替えを脱衣室まで持ってきたと声をかけてくれたユキさんに必要以上ドキドキしながらシャワーを浴びて素早く飛び出し身体を簡単に拭いて洋服に着替える。リビングに行くとまだソファーベッドに寝ている田中にムカついてくる。ソファーを蹴飛ばして起こしてしまったのは仕方がない事だと思う。それを見てユキさんは苦笑して俺に水の入ったグラスを渡してくれた。二日酔いの身体にキンと冷えた水は美味しかった。そして二日酔いで苦しんでいる二人の為にスムージーを作る。正直固形物を食べるのも苦しいから助かった。
しかしユキさんはというと、自分でチャチャっと作ったスクランブルエッグとパンとサラダとスムージーという健康的な朝食を平然と食べていた。ユキさんは俺以上に呑んでいた筈なのに平然としていた。まあBarで働いているくらいだから強くて当然なのだろうが、ユキさんが酔っぱらっている所は見たことがない。顔に似合わず酒豪なようだ。
田中はまだ気分悪いらしく、ソファーから出られずグッタリしたまま。俺も二日酔いで苦しいが、休めない講義があるのでふらつきながらも大学に向かう事にした。
虚ろな思考で抗議を受け、もう黒猫でこんなに馬鹿みたいにお酒呑むのは辞めようと心に誓う。今後のボジョレーヌーヴォー解禁の日にはかなりの確率でこういう状態になるとは思いもせずに。
というのも、このボジョレヌーヴォーな夜は最高に楽しかった。そのお蔭でその後『ボジョレヌーヴォー解禁』という文字を見るとなんだか心が躍るようになったし、社会人になっても結婚した後もユキさんに誘われて黒猫に行きボジョレヌーヴォーを楽しみ、夜通し飲み明かす事が定例となる。
この日から俺にとって十一月の第三週の木曜日は特別な意味を持つようになった。
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