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プロローグ わたしがヤルっきゃないじゃん

第1話 最高な〈夏アニ〉の宵、そして、それから……

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「三年ぶりの〈夏兄(ナツアニ)〉、最終日も期待しかないわ」
 高校二年生、十七歳の河倉仁海(かわくら・ひとみ)は、会場の入口へと向かってゆく入場者の人波に乗りながら、そう独り言ちた。

 夏休み終盤の、八月の最終週の金・土・日、仁海は、埼玉県さいたま市に位置している〈ウルトラ・スーパー・アリーナ〉、通称〈USA〉に、連日足を運び続けている。 
 このUSAでは、毎年、八月最後の週末の三日間、〈夏アニ・メロメロ・ライヴ〉、通称、〈夏兄〉というアニメ・ミュージックのフェスティヴァルが催されてきた。
 だが、一昨年の二〇二〇年は、世界規模の感染症のパンデミックのせいで、夏アニは行われなかった。
 そして、昨年の二〇二一年は、ライヴは開催こそされたものの、ソーシャル・ディスタンスに伴う座席数の半減のせいで、仁海はチケットの抽選に外れてしまった。そのため、仁海が、夏アニに参加するのは、中二の時に初めて参加した二〇一九年以来の事だったのだ。

 また、高二の仁海は、来年度に受験を控えている、といった事情もあって、夏休みの殆どを、高校の補習と予備校の夏期講習に追われる、そんな毎日を送ってきた。
 しかし、その夏の集中講座も、八月二十五日の木曜日に終了し、かくして、勉強漬けの毎日から、一時的ではあれ、ようやく解放された仁海は、頑張った自分へのご褒美として、八月末の三日間は、アニソンのライヴに参加して、思いっきりハッチャケる事にしたのだ。
 さらに、夏アニ参加後の週明けには、父親の実家がある茨城県の大洗町に行って、秋学期が開始されるまでの短い間、海沿いの町のおばあちゃんの家でまったり過ごすつもりでいた。
 短期ではあるものの、これが、仁海にとっての、文字通りの夏〈休み〉のスケジュールである。

 つまり、だ。
 勉強漬けの毎日からの解放感に、三年ぶりの夏アニの参加というスパイスが加わって、仁海はかなり昂ぶっていたのである。

  今回の夏アニに関して、仁海は、三日間全て単独で参加している。
 これは、まったくもって〈ヲタク・アルアル〉な話なのだが、夏アニに初参加した時の中学二年生当時の仁海は、実を言うと、アニメにも、アニメ・ソングにも然して詳しくはなく、また、ライヴに行ったことも一度もなかった。つまるところ、三年前の夏アニへの参加は、当時、アニソンにはまっていた親友の完全な付き合いに過ぎなかったのだ。
 だがしかし、その初めての〈現場〉で、仁海はアニソンに、瞬く間に魅了されてしまった。
 以来、仁海は、アニソンにズッポリどっぷりハマってしまい、初現場から三年が経過した今、仁海は、ソロで夏アニに参加する程の、立派なアニソン・ヲタクへの成長を遂げてしまったのである。
 ところで、仁海をアニソンの世界に引きずり込んだ当のクラスメイトは、というと、彼女は今、〈会いに行けるアイドル〉を売り文句に、ライヴ・ハウスを中心に活動している、いわゆる〈地下アイドル〉に興味が完全に移ってしまって、アニソン現場からは他界してしまっている。
 とはいえども、ジャンルや〈現場〉は違えども、仁海もその友人も、ライヴに足繁く通う、〈現場〉至上主義のヲタクである事に違いはないので、時折、二人連れだって放課後にファースト・フードに行った際には、お互いの〈現場〉について、愚痴も含めて色々と語り合う、そんな仲であり続けているのだ。

                   *

 三日間に渡って催される夏アニでは、通常、一日につき四十五曲前後、三日間で、百五十ちかい曲が歌われる。つまり、一人あたりの持ち歌は二曲ないし三曲で、約五十組のアーティストが、次から次へとステージに入れ替わり立ち替わり登場してゆくというスタイルを採っている。
 たとえアニメ・ミュージッックのヲタクとは言えども、ありとあらゆるアーティストの〈現場〉に行っている分けではなく、当然、夏アニで歌われる歌の全てを生で聴いた事があるべくもない。
 だから、普段、自分が足繁く通っている演者以外の生歌を聴ける、このようなチャンスを、仁海は割と楽しみにしていた。
 というのも、自分のアニソン・ヲタクとしてのアンテナの角度が拡がるような気がするからで、だからこそ、仁海は、フェスに面白みを覚えているのである。

 さらに、夏アニでは、オードブル盛り合わせのように、色々なアーティストの曲を味わえるだけではなく、面白い試みが為されたりもする。
 例えば、しばらく活動を休止していたユニットが夏アニ限定で再結成されたり、あるいは、ある演者と別の演者が、夏アニでコラボしたり、といったサプライズな演出が為されたりもするのだ。

 二〇二二年の夏アニの中でも特に、仁海が激しく心を揺り動かされたのは、彼女が〈おし〉ているアニソンシンガーである〈A・SYUCA(あしゅか)〉と、佐藤みのりの二人が、最終日で見せた、コラボレーションであった。
 実は、A・SYUCAとみのりは、彼女たちが中三の時に参加した、アニソンのコンテストの同期生で、同い歳の二人はこのコンテストで意気投合し、いつか同じ舞台に立とうね、と誓い合った仲なのだそうだ。
 やがて、コンテストから十年以上の時を経て遂に、二〇二二年の夏アニの最終日のステージで、その十年越しの〈約束〉が成し遂げられる事になり、そのエモエモな二人の生のパフォーマンスを、仁海はその肉眼で視認する事ができたのである。
 これに感動せずに、いったい何にエモさを覚える、というのかっ!
 さらに、二〇一二年の高校一年生の時にデビューを果たした佐藤みのりは、キャリア十年目にしてようやく、夏アニの三日目の最終演者、つまり、〈大トリ〉を務めたのだ。
 みのりが、自分の〈おし〉であるA・SYUCAの親友ということもあって、仁海は、A・SYUCAのみのりへの思いを想像するや、激しく情動が揺さぶられてしまい、思わず、感激の涙を流してしまったのであった。

                   *

「こんなサプライズもあるから、ライヴって最高なのよね。やっぱ〈現場〉しか勝たんわ」
 仁海は、会場の出口へと向かってゆく退場者の人波に乗りながら、そう独り言ちた。やがて、会場から出て、駅の改札前まで来るや、仁海は、鞄からスマフォを取り出した。
 仁海は、ライヴ中はスマフォの電源をオフにしているのだが、夏アニに来ているヲタク仲間と連絡を取ろう、とスマフォをオンにするや、すさまじい数の電話の着歴の通知が入ってきて、仁海は慄いてしまった。
 いったい何事か、と思って確認したところ、着歴の全ては、一足早く大洗に戻っている父からであった。

「チチ、家に何か忘れ物でもしたのかな? それにしても、五分おきって、いくらなんでも〈大杉〉よ」
 そんな文句を言いながら、仁海は、父に電話を入れた。
 わずか〇.五コールくらいで電話は繋がり、数瞬後、父の怒鳴り声が、仁海の鼓膜をつんざいた。

「チチ、ちょっと、声が大きくて、さらに早口過ぎ、何を言っているのか全然わかんないよ。ちょっとは落ち着いてよ」
「ヒト、お前、今、何処にいるんだよっ! 何時間も、全然、電話、全くつながんなかったぞっ!」
「さいたまのUSAだよ。言ったでしょ。今日は、夏アニのラス日だよ。フェスだから、五時間くらい、スマフォ、キリッぱだったのよ。ところで、用件は何?」
「す、すぐに大洗に来いっ!」
「だから、どうしてよ。わたし、明日には大洗に行くんだから、別に、今すぐじゃなくてもいいじゃん。この後、ヲタ友との反省会とかあるんだけれど。明日じゃダメな話なの?」
「いいか、心して聞け、……。オフクロがキトクだ」
「えっ! ……。オバアが……」

 スマフォを左手で握りしめたまま、仁海は、その場に立ち尽くしてしまったのだった。
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