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良はその後あまり多くを語らなかった。
言っておきたいことがあれば遠慮しなくていいんだぞ、と促してみても、考える顔をしてみせてから、大事なことは聞けたから大丈夫、と言った。
あまりにも望まなさすぎる、と思って、裕司はしばらく掛ける言葉を探したが、結局何もいいものは思い浮かばなかった。良という存在は、裕司の人生の中で初めて開いた宝箱のようでもあり、光の差さない暗い部屋のようでもあった。
良に見えている世界は裕司には想像することも難しくて、良が自分を頼りにしてくれていることを信じるしかなかった。裕司がいるならきっと大丈夫だと良が言うから、裕司も自分にそう言い聞かせた。
早めに夕食を取って、日が落ちてから散歩に出た。暗がりに紛れて手を握ってみると、良は笑って、こんな近所で迷子になんないよ、と言った。本気なのか冗談なのかよくわからなくて、手の平をくすぐってやると、ふふふ、と気の抜けた笑い声を漏らした。
こんな他愛もない、そしてこの上なく穏やかで幸福な時間が永久に続けばいいのに、と思ったが、そう思うほどに時が経つのは早かった。都会の暗がりはすぐ霧散して、蛍光灯の白々とした明るさに晒されてそろりと手を離す。良はそれをわかっていたような顔で、コンビニ寄って帰ろうね、と言った。
いつも以上に上機嫌であるようにも見える良の心のうちは見えなかった。どれだけ近くにいても自分以外の心は決して目に見えないし、なんであれば自分の心すら見失うことがあるのだから、とても難しいことを望んでいるとわかっていた。
良の心のありようを量り切れなくてまごつく裕司に、良は大人びた笑みを目許に乗せて、あんたは優しいね、と言う。こんなに優しさを向けられるのは初めてだから、返し方がわからなくてごめんね、とすら言ってみせるから、そんなことで謝る必要はないと言うことしかできなかった。
その日良は風呂を終えるともう瞼の重そうな顔をしていて、眠れるのならその方がいいと思って寝かしつけてやった。それから少し仕事をして、裕司も日付が変わる前にベッドに入った。
明日が来なければいいのにと思う気持ちに見て見ぬふりをしながら、良の体温にすがるように眠りに落ちた。
翌朝裕司に揺り起こされた良は、眠そうな顔をしながらも危なげない足取りで寝室を出て、裕司を安堵させると同時にわずかな落胆を覚えさせた。
良を言い訳にして今日の予定を先送りにしたいという願望があったことに気付かされて、嘆息しつつ、それを顔に出さずにいられる己でよかった、とも思う。こんなに大人げなく情けない自分はとても良に見せられなかったし、良の繊細でやわらかな心は簡単に痛むくせに裕司を許すに違いなかった。
朝食のベーコンを良が好きだと言った加減に──裕司にとっては少し焼き過ぎなぐらいに──焼いていると、短い前髪に水滴をつけた良が音もなくやってきて冷蔵庫を開けた。
「あ、牛乳もうない」
そう言って良は見るからに軽そうに紙パックを振ってみせた。
「昨日コンビニで買っとけばよかったね」
残念そうな声に、裕司は笑う。
「今日帰りにスーパー寄ろうな」
いつもの会話のつもりで言うと、しかし良は返事をしなかった。調理の音で聞こえなかっただけだろうかと思って顔を見ると、良は目を丸くして裕司を見ていた。
何がその表情を引き出したのかわからなくて眺めているうちに、良はおもむろに軽くなった牛乳パックをカウンターに置いて、ふらりと裕司のそばに寄ると、そのまま背中に抱きついてきた。
「おい、料理中……」
あまり咎めたくはなかったが、火を使っている最中だし包丁も出したままだった。良は小さな声で、うん、と言ったが、離れようとはしなかった。
「……どうした?」
仕方なくそう訊くと、幾拍か開いてから、細く頼りない声が言った。
「俺ここに帰ってくるんだね……」
その言葉の意味を考える前に理解して、しかし返答するには考える時間が必要だった。肉と卵の焼ける匂いと瑞々しい野菜の匂いが何故か強く感じられて、自分の中で何か回路が切り替わったようだと思う。
「……お前、うちにずっといるって言ったろうが」
うん、と、良はまた弱い声で返事をして、裕司の肩に頬を押し当てた。動きづらいし、髪が首に触れてくすぐったかったが、突き放すわけにはいかなかった。
良は裕司がフライパンの中身を皿に移すまでしがみついたままで、まるで大きな子どものようでいっそ微笑ましかった。実際彼はまだ半分子どもであるはずなのだ。日頃静かで物わかりのよすぎる態度の裏側で、身を潜めている寂しい子どもが彼の中には確かにいる。
「……ありがと、お皿運ぶね」
顔を見せたくないのか、良は俯きがちになって裕司から離れた。二人分の皿を持ってキッチンを出て行く背中は大人と変わらぬ骨格をしているのに、首も肩もまだ肉がつききらなくて、生命力と頼りなさが縒り合っているようだった。
──平気なふりをしてるだけだ。
そうだとは思っていたけれど、良の不安は裕司よりはるかに大きいに決まっていた。それをちゃんとわかってやれていなかったことを反省しながら、その片鱗を見せてもらえてよかったと思う。
心の中は決して見ることができないから、彼の言葉も態度も取りこぼさずに自分のものにしたかった。
言っておきたいことがあれば遠慮しなくていいんだぞ、と促してみても、考える顔をしてみせてから、大事なことは聞けたから大丈夫、と言った。
あまりにも望まなさすぎる、と思って、裕司はしばらく掛ける言葉を探したが、結局何もいいものは思い浮かばなかった。良という存在は、裕司の人生の中で初めて開いた宝箱のようでもあり、光の差さない暗い部屋のようでもあった。
良に見えている世界は裕司には想像することも難しくて、良が自分を頼りにしてくれていることを信じるしかなかった。裕司がいるならきっと大丈夫だと良が言うから、裕司も自分にそう言い聞かせた。
早めに夕食を取って、日が落ちてから散歩に出た。暗がりに紛れて手を握ってみると、良は笑って、こんな近所で迷子になんないよ、と言った。本気なのか冗談なのかよくわからなくて、手の平をくすぐってやると、ふふふ、と気の抜けた笑い声を漏らした。
こんな他愛もない、そしてこの上なく穏やかで幸福な時間が永久に続けばいいのに、と思ったが、そう思うほどに時が経つのは早かった。都会の暗がりはすぐ霧散して、蛍光灯の白々とした明るさに晒されてそろりと手を離す。良はそれをわかっていたような顔で、コンビニ寄って帰ろうね、と言った。
いつも以上に上機嫌であるようにも見える良の心のうちは見えなかった。どれだけ近くにいても自分以外の心は決して目に見えないし、なんであれば自分の心すら見失うことがあるのだから、とても難しいことを望んでいるとわかっていた。
良の心のありようを量り切れなくてまごつく裕司に、良は大人びた笑みを目許に乗せて、あんたは優しいね、と言う。こんなに優しさを向けられるのは初めてだから、返し方がわからなくてごめんね、とすら言ってみせるから、そんなことで謝る必要はないと言うことしかできなかった。
その日良は風呂を終えるともう瞼の重そうな顔をしていて、眠れるのならその方がいいと思って寝かしつけてやった。それから少し仕事をして、裕司も日付が変わる前にベッドに入った。
明日が来なければいいのにと思う気持ちに見て見ぬふりをしながら、良の体温にすがるように眠りに落ちた。
翌朝裕司に揺り起こされた良は、眠そうな顔をしながらも危なげない足取りで寝室を出て、裕司を安堵させると同時にわずかな落胆を覚えさせた。
良を言い訳にして今日の予定を先送りにしたいという願望があったことに気付かされて、嘆息しつつ、それを顔に出さずにいられる己でよかった、とも思う。こんなに大人げなく情けない自分はとても良に見せられなかったし、良の繊細でやわらかな心は簡単に痛むくせに裕司を許すに違いなかった。
朝食のベーコンを良が好きだと言った加減に──裕司にとっては少し焼き過ぎなぐらいに──焼いていると、短い前髪に水滴をつけた良が音もなくやってきて冷蔵庫を開けた。
「あ、牛乳もうない」
そう言って良は見るからに軽そうに紙パックを振ってみせた。
「昨日コンビニで買っとけばよかったね」
残念そうな声に、裕司は笑う。
「今日帰りにスーパー寄ろうな」
いつもの会話のつもりで言うと、しかし良は返事をしなかった。調理の音で聞こえなかっただけだろうかと思って顔を見ると、良は目を丸くして裕司を見ていた。
何がその表情を引き出したのかわからなくて眺めているうちに、良はおもむろに軽くなった牛乳パックをカウンターに置いて、ふらりと裕司のそばに寄ると、そのまま背中に抱きついてきた。
「おい、料理中……」
あまり咎めたくはなかったが、火を使っている最中だし包丁も出したままだった。良は小さな声で、うん、と言ったが、離れようとはしなかった。
「……どうした?」
仕方なくそう訊くと、幾拍か開いてから、細く頼りない声が言った。
「俺ここに帰ってくるんだね……」
その言葉の意味を考える前に理解して、しかし返答するには考える時間が必要だった。肉と卵の焼ける匂いと瑞々しい野菜の匂いが何故か強く感じられて、自分の中で何か回路が切り替わったようだと思う。
「……お前、うちにずっといるって言ったろうが」
うん、と、良はまた弱い声で返事をして、裕司の肩に頬を押し当てた。動きづらいし、髪が首に触れてくすぐったかったが、突き放すわけにはいかなかった。
良は裕司がフライパンの中身を皿に移すまでしがみついたままで、まるで大きな子どものようでいっそ微笑ましかった。実際彼はまだ半分子どもであるはずなのだ。日頃静かで物わかりのよすぎる態度の裏側で、身を潜めている寂しい子どもが彼の中には確かにいる。
「……ありがと、お皿運ぶね」
顔を見せたくないのか、良は俯きがちになって裕司から離れた。二人分の皿を持ってキッチンを出て行く背中は大人と変わらぬ骨格をしているのに、首も肩もまだ肉がつききらなくて、生命力と頼りなさが縒り合っているようだった。
──平気なふりをしてるだけだ。
そうだとは思っていたけれど、良の不安は裕司よりはるかに大きいに決まっていた。それをちゃんとわかってやれていなかったことを反省しながら、その片鱗を見せてもらえてよかったと思う。
心の中は決して見ることができないから、彼の言葉も態度も取りこぼさずに自分のものにしたかった。
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