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「ほんとに車じゃん」
借りた車をマンションの前に停めて、待っていた良を手招きすると、第一声でそんなことを言われた。
毎度こいつは独特な感想をくれるな、と思って、裕司はいつものように笑ってしまう。助手席に乗るように促すと、物珍しそうな顔をしながら乗り込んできた。
「なんか変な感じ」
シートベルトを引きながら、良は目をうろうろとさせていた。移動に使うだけだからと、大してこだわりもせずに選んだありふれた軽自動車だ。
「あんたほんとに運転するんだね」
ふふっ、と無意識に口から笑いが漏れた。
「ずっとそう言ってるだろうが」
「見たのは初めてだし」
「百聞は一見にしかずってか」
緩んだ頬を戻せないでいる裕司に、良は唇をとがらせた。
「そんな笑わなくてもいいじゃん」
「お前だってそんな驚かなくてもいいだろ」
良は唇を結んで拗ねたような顔をしてみせたが、すぐに諦めたように息を吐いた。
「車乗ってるあんたが思ったよりかっこいいから、びっくりした」
やむなく白状したという声だったが、それを聞いて裕司は笑いを引っ込めた。代わりに照れくささが湧き上がってきて、良から視線を外して前へ向ける。
「…………軽だぞ」
苦し紛れに返した言葉は、言ってから良には通じなかったかもしれない、と思った。
ちらりと横目に窺っても、良は良で気恥ずかしいのかつんとした顔をしていて、気まずさを覚えながら裕司は車を発進させた。
頬に視線を感じるのがこそばゆい、と思ったが、良のまとう空気が重くないことは裕司にとって幸いだった。良が一言でも嫌だと言ったなら、裕司には無理強いすることなどできそうになかった。
「……車酔いとかはしないのか?」
良がカーナビを凝視しているのが見えて、そう訊いてみると、良は視線をよこさないまま首を傾けた。
「車の匂いはあんまり得意じゃないけど……」
「ああ……」
「でもたぶん平気。この車そんな変な匂いしないし」
「禁煙車だしな」
きょと、と黒い丸い目がこちらを向いて、裕司は少し笑う。
「煙草くさいの嫌だろ?」
「そりゃ……好きじゃないけど……」
良の歯切れの悪い物言いに、また裕司の想像の及びもつかないことを考えていそうな予感があった。しかし良はそれ以上自分から何かを言い出す気配はなくて、何だか不思議な生き物だ、と思う。
年不相応に落ち着いて我慢強く思慮深い面を持ちながら、何を考え何を言い出すかわからないところが常にある。四六時中一緒にいても飽きるどころか驚かされることが多くて、それは単なる世代や環境の違いのせいばかりだとは思われなかった。
「…………ねえ裕司さん」
ちょうど信号で止まったところで名前を呼ばれて、もしかして待ち構えていたのだろうかと思いながら隣を見た。
「またさぁ……車でどこか出かけない?」
「え?」
「その……あんたが行きたいところでいいから」
そこまで聞いて、やっと可愛い誘いを受けているのだと理解した。返事より先に相好が崩れるのがわかって、我ながら現金だと思う。
「そんなの、どこだって連れて行ってやるよ。お前の行ったことないとこでも、どこでも」
「……ほんと?」
「嘘ついてどうすんだ」
良は返答の代わりに笑って、それがとても柔らかくて美しくて、その顔が見られたことがただ嬉しかった。
どこに行きたいとも言わずに、ただ二人で出かけようというだけの話でそんな顔をしてくれることが有り難くて、それを言葉で伝えてやりたいのにうまく口から出てこなかった。
車が動き出せば、裕司にとっても見慣れぬビル群が流れていく。良がどこを巡って来たのか詳しいことは何も聞いていなくて、この辺りが彼の知る場所なのかどうか何もわからなかった。
「──どこか行ってみたいところぐらいできたんじゃないのか?」
彼にとっては今の暮らしが新鮮で、とりたてて外に出たいとも思わないのだと言われたけれど、良がいつも好奇心を持って物事を見ていることはわかっていた。とりわけ初めて見るものには瞳の奥に光の粒を撒いたような目をしてみせることがあって、裕司はそれがとても好きだった。
「夏だから海は行きたいけど……でもあんたが好きなところにも行ってみたいな。バーは俺まだ行けないし……」
一昨日のことを言っているのだということはわかって、年齢のせいで仕方のないこととはいえ、文句のひとつくらい言ってくれてもいいのにという気持ちになった。夜遅くまで一人で待っていてくれて、機嫌を悪くすることもなかった彼は、我を通すという選択肢を知らないのではないかとすら思われた。
「そうは言っても、俺もそんなにアクティブな方じゃないからなぁ」
「そうなの? 昔は遊んでたって言ってなかった?」
「何想像してるか知らねえけど、そんなあちこち飛び回ってたわけじゃねえぞ。誘われて行くのはあったけど、そんなに誘う方じゃなかったなぁ」
「へえ……」
その呟きが本当に意外そうで、裕司は苦笑する。
「でも、お前はどこに連れて行っても喜んでくれそうだから、もっと出かけたいな。お前が楽しそうだと、俺も嬉しい」
いくらか間があってから、そっか、と良は小さく呟いた。その声も横顔もはにかんでいて、今日この時間を持てたことを忘れないでいたいと思う。
なんとなく、良もすべて承知しているような気がした。
借りた車をマンションの前に停めて、待っていた良を手招きすると、第一声でそんなことを言われた。
毎度こいつは独特な感想をくれるな、と思って、裕司はいつものように笑ってしまう。助手席に乗るように促すと、物珍しそうな顔をしながら乗り込んできた。
「なんか変な感じ」
シートベルトを引きながら、良は目をうろうろとさせていた。移動に使うだけだからと、大してこだわりもせずに選んだありふれた軽自動車だ。
「あんたほんとに運転するんだね」
ふふっ、と無意識に口から笑いが漏れた。
「ずっとそう言ってるだろうが」
「見たのは初めてだし」
「百聞は一見にしかずってか」
緩んだ頬を戻せないでいる裕司に、良は唇をとがらせた。
「そんな笑わなくてもいいじゃん」
「お前だってそんな驚かなくてもいいだろ」
良は唇を結んで拗ねたような顔をしてみせたが、すぐに諦めたように息を吐いた。
「車乗ってるあんたが思ったよりかっこいいから、びっくりした」
やむなく白状したという声だったが、それを聞いて裕司は笑いを引っ込めた。代わりに照れくささが湧き上がってきて、良から視線を外して前へ向ける。
「…………軽だぞ」
苦し紛れに返した言葉は、言ってから良には通じなかったかもしれない、と思った。
ちらりと横目に窺っても、良は良で気恥ずかしいのかつんとした顔をしていて、気まずさを覚えながら裕司は車を発進させた。
頬に視線を感じるのがこそばゆい、と思ったが、良のまとう空気が重くないことは裕司にとって幸いだった。良が一言でも嫌だと言ったなら、裕司には無理強いすることなどできそうになかった。
「……車酔いとかはしないのか?」
良がカーナビを凝視しているのが見えて、そう訊いてみると、良は視線をよこさないまま首を傾けた。
「車の匂いはあんまり得意じゃないけど……」
「ああ……」
「でもたぶん平気。この車そんな変な匂いしないし」
「禁煙車だしな」
きょと、と黒い丸い目がこちらを向いて、裕司は少し笑う。
「煙草くさいの嫌だろ?」
「そりゃ……好きじゃないけど……」
良の歯切れの悪い物言いに、また裕司の想像の及びもつかないことを考えていそうな予感があった。しかし良はそれ以上自分から何かを言い出す気配はなくて、何だか不思議な生き物だ、と思う。
年不相応に落ち着いて我慢強く思慮深い面を持ちながら、何を考え何を言い出すかわからないところが常にある。四六時中一緒にいても飽きるどころか驚かされることが多くて、それは単なる世代や環境の違いのせいばかりだとは思われなかった。
「…………ねえ裕司さん」
ちょうど信号で止まったところで名前を呼ばれて、もしかして待ち構えていたのだろうかと思いながら隣を見た。
「またさぁ……車でどこか出かけない?」
「え?」
「その……あんたが行きたいところでいいから」
そこまで聞いて、やっと可愛い誘いを受けているのだと理解した。返事より先に相好が崩れるのがわかって、我ながら現金だと思う。
「そんなの、どこだって連れて行ってやるよ。お前の行ったことないとこでも、どこでも」
「……ほんと?」
「嘘ついてどうすんだ」
良は返答の代わりに笑って、それがとても柔らかくて美しくて、その顔が見られたことがただ嬉しかった。
どこに行きたいとも言わずに、ただ二人で出かけようというだけの話でそんな顔をしてくれることが有り難くて、それを言葉で伝えてやりたいのにうまく口から出てこなかった。
車が動き出せば、裕司にとっても見慣れぬビル群が流れていく。良がどこを巡って来たのか詳しいことは何も聞いていなくて、この辺りが彼の知る場所なのかどうか何もわからなかった。
「──どこか行ってみたいところぐらいできたんじゃないのか?」
彼にとっては今の暮らしが新鮮で、とりたてて外に出たいとも思わないのだと言われたけれど、良がいつも好奇心を持って物事を見ていることはわかっていた。とりわけ初めて見るものには瞳の奥に光の粒を撒いたような目をしてみせることがあって、裕司はそれがとても好きだった。
「夏だから海は行きたいけど……でもあんたが好きなところにも行ってみたいな。バーは俺まだ行けないし……」
一昨日のことを言っているのだということはわかって、年齢のせいで仕方のないこととはいえ、文句のひとつくらい言ってくれてもいいのにという気持ちになった。夜遅くまで一人で待っていてくれて、機嫌を悪くすることもなかった彼は、我を通すという選択肢を知らないのではないかとすら思われた。
「そうは言っても、俺もそんなにアクティブな方じゃないからなぁ」
「そうなの? 昔は遊んでたって言ってなかった?」
「何想像してるか知らねえけど、そんなあちこち飛び回ってたわけじゃねえぞ。誘われて行くのはあったけど、そんなに誘う方じゃなかったなぁ」
「へえ……」
その呟きが本当に意外そうで、裕司は苦笑する。
「でも、お前はどこに連れて行っても喜んでくれそうだから、もっと出かけたいな。お前が楽しそうだと、俺も嬉しい」
いくらか間があってから、そっか、と良は小さく呟いた。その声も横顔もはにかんでいて、今日この時間を持てたことを忘れないでいたいと思う。
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