サクササー

勝瀬右近

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第2章 第1話 カフラーの訪問

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 国王執務室にはアレスのほかに国王後見人のローデン=エノレイル以外に一人の老人がいました。老人とアレスから少し離れた場所に座っているローデンは、老人のすぐ前に座っているアレスと同じぐらい緊張していました。
 「お初にお目にかかります陛下。わたくしの名前はハムラン=ケネス=ライジェン。元老院議員でしたが此度議員を辞職しあなたの指導指南役に任命されました。以後よろしくお願いいたします」
 「知っています。あなたは父上の弟君、ですよね?僕はアレスです。こちらこそよろしくお願いします」
 ハキハキと答えるアレスにライジェンは片方の眉を上げ、ローデンの心を乱します。しかしローデンの心配をよそにライジェンは視線を一度落としてから改めてアレスを見てさらに話を続けました。
「陛下。私がこれより陛下にお教えする内容は非常に厳格かつ繊細な内容となるでしょう。ですからもしも疑問点があったら私が話している最中でも、遠慮なくご質問あそばされますよう。そして私からの質問については答えたくなければお答えくださらなくて結構ですので、さようお心得ください。よろしいですかな?」
「うん」
「陛下。恐れながら、『うん』というお返事はいけません。『わかった』と仰せになるようお願いいたします」
 アレスは、グッと口を引き結んで少し考えた後に。「わかった」言われたとおりに返事をしました。
 満足そうに頷くライジェン。
「ようございます。では・・・」

 前国王の弟、ハムラン=ケネス=ライジェン。年齢68歳。
 彼は元老院議員でその中の最大派閥である王弟派の中心人物でした。その彼がなぜここにいるのかと言えば、実はアレス自身が望んだからなのです。

 アレスの友人であるフラミア連邦王国皇太子のカルから聞かされた様々な話、そして助言、王族という立場への考え方、存在理由などを聞かされたアレスは自分の今のありようではとてもカルに胸を張ってこの国の王であることを名乗ることはできないと感じたのです。しかしどこから、そして何から始めたら良いのかがわかりませんでした。
 カーヌやディオモレスから政治的知識を学ぶという事も考えましたが彼らは彼らで忙しい身です。それにセノン族とマシュラ族とではどうしても相いれない部分もあるように思えたのです。
 アレスの悩みは長時間には及びませんでした。ほとんど即決と言っていい程に自分の教育役を指名したのです。父の弟であり叔父、そしてまだ一度も会ったことがなかった唯一の肉親であるハムラン=ケネス=ライジェンを。

 アレスからこの願いを聞いた時、ローデンは驚きそして戸惑いました。なぜなら以前、今は亡き王妃、つまりアレスの母親からライジェンは自分の派閥に力が集まるよう画策したり、交友関係によくない噂が立つなど、灰色の策略に手を染める事があると聞かされていたからです。王妃がライジェンを後見人にしたくない理由がまさにそれだったのですから、彼の戸惑いがどれほどであったのかは想像するまでもありません。
 当然ローデンは王国評議会でこのことを報告し議題にします。そしてその時出された結論は、今の立場を捨てて国王の側近になるとはとても思えない、だったのです。
 その根拠は以下のようなものでした。


 ・国王の教育役という役割であるならまずは議員辞職する事が何より優先する。
 ・元老院議会に出席する事は厳禁とする。
 ・元老院議員との接触は監視の対象となるので、接触の際には王国評議会に報告しなければならない。
 ・余人を交えず国王と二人だけになる事は厳禁とする。
 ・『教育』『指南』以上の行為が為されたと判断された時、その判断は王国評議会で行われ、結果には反論が許されない。
 ・教育役から解任、辞任をした後の向こう10年間は元老院をはじめとしたいかなる公的機関にも属すことを許可しない。


 これはほんの一例ですが、元老院議員が何らかの形で国王にかかわる仕事に就いた時にはかなり厳しく事細かい制限が課せられ、解任後または辞任後10年間元老院議会をはじめとする公的機関に属せないという一文をとっても「元老院議員からはきっぱり縁を切ってもらう」場合によっては「元老院議員には戻れない」と言っているようなもので、かなりあからさまです。
 この厳しさは元老院議員がどのような人々で構成されているかでわかります。
 
 およそ300名からなる元老院議員は貴族と平民で構成されている組織なのですが、まず貴族には国王から兵力の提供を義務付けられています。つまり自分の所領に居住している領民から兵士を軍に供給しなくてはならないのです。この他に貴族であるために課される決まり事や義務が多いため貴族が元老院議員になる為の資格は犯罪歴がない事、税金の未納がない事ぐらいで特に難しくありません。
 そして貴族以外の一般市民が元老院議員になりたいと思うと、10年間以上の兵役経験が必要です。つまり平民議員はもれなく全員が従軍経験者なのです。もちろん領主から指名されて従軍した者もいれば、自ら望んで軍人になった者も多くいます。
 ある意味で徴兵制よりも厳しい制度でしたが、兵役は元老院議員になるための唯一の資格取得方法でしたし、そこから始まる貴族とのつながりは平民にとって決して無意味ではありません(貴族の縁者と結婚した者もいる)。また給料面でも優遇されていましたし、兵役を15年以上勤めた者には年金も支給されていたので意外と兵士になりたいと思う者は少なくなかったのです。
 そうなってくると従軍した人々の心に矜持や誇りが生まれます。つまり国家を守ったという使命感、そして兵役を勤め上げたという達成感が『自分たちは特別な存在』だと感じる土壌にもなっているのです。
 確かに国を守る軍人であればそういう思いが生まれても不思議ではありませんが、兵役を全うした者に与えられる恩給や特別な配慮によって報いているのでそれ以上を望む事は、王国法の下では不可能です。これはたとえ元老院議員になったとしても元老院議会には立法権がないので変える事は出来ません。
 
 なんにしてもこうした人々が現役軍人や後輩軍人、またはかつての同僚士官などと密接な関係を持っていれば、元老院からの影響力も無いハズがありません。
 何らかの歯止めがなければ、元老院議員と言う名誉職に就いている者から何かしらの依頼や働きかけがあればそれを無下にする者も少ないでしょう。こういった癒着がらみで元老院議会が結託などした場合に、一部の軍人たちによる軍事力を背景にした抗議行動や王権を揺るがす権力構造への圧力などが起これば大変です。しかし、こういった事態に備えて反国家審問委員会や情報部、ひいては三賢者による監視が効き目を表すのです。
 
 元老院議会はあくまでも国王の助言機関でそれ以上のことを望んではいけないというのは法です。しかし法によって取り締まることが出来るか否かが重要なのではないのです。
 周囲の尊敬や経済力などの力を認められていて、名誉ある元老院議員なら人心に与える影響力も絶大です。そんな人物が国王にごく近しい位置にいたら・・・。もちろんいるだけなら問題ありませんが、もしもその人物が国王に何らかの働きかけをし、それに同調した国王を自分たち側で擁立したら権力構造が破壊されてしまいます。これは絶対に防がなければなりません。だから国王の側近になるからには元老院議員を辞し、一般市民にならなければ許可されないのです。


 これほどの厳しい条件をのむということは、68歳と言うライジェンの年齢から考えると、大げさではなく二度と元老院議員に戻れなくなることを示唆しています。これまで派閥の頂点に君臨し、行ってみれば小さな世界を牛耳っていた者が常に監視の目に晒され自由を失うような立場を自ら望むとはとうてい思えないというのが評議会の予想でした。
 逆にそうしてまで側近になる決心をしたのであれば、厳重な警戒が必要だとも予想はしていたのです。
 果たして出来れば断って欲しいというローデンの切なる願いは裏切られました。この現実にローデンは追いつめられたウサギのような気持になっていました。
「エノレイル先生。肩の力を抜いてください。身が持ちませんよ」
「あ、はあ・・・わかっているんですが・・・」

 カーヌ=アーが同席する事を頼もしく思いながらも落ち着かないローデンは改めてライジェンを見て思いました。
 痩せた老人であまり長身とは言えない170cm前後の身長、丸い細縁の眼鏡をかけ、眉間から取れないシワが表情を常に険しく見せ、笑った顔が想像できないその風貌は、いつもにこやかで太り気味だった前王とは似ていない、というのがローデンの最初に彼に対して感じた印象でした。  
 ローデンは彼が来ることになってまずは必要以上に警戒心を抱きました。単純に亡くなったアレスの母である王妃が彼をよく思っていなかったというのがその理由ですが、それはモルドも同じだったのです。
 ローデンはモルドにはもちろんの事、王国評議会のジェフトやバターレそして三賢者のツェーデルやカーヌ=アー、ディオモレスにも相談し、まず行われたのが国王執務室の外だけではなく中にも近衛兵を二名配備し、さらに三賢者であるカーヌをローデンと共に同席させることを決定。そしてライジェンの任期をアレスが成人する17歳までとし、国王アレスの意向によって任期を延長するか解任するか決める、としました。



 実は初日。
 ローデンはライジェンが甥である国王への講義をついに始めるのだ、と思い落ち着かない気持ちで待っていたのですがライジェンは姿を現さず、教室となる国王執務室に山のような書物が運び込まれそれらを整理整頓することでその日は追えてしまったのです。それらの書物を見てアレスは意外にもやる気になったようで少し興奮したほどです。
 そして迎えた今日。準備万端整えられた国王執務室で2日目、講義の第一日目の幕が上がったのです。

「陛下。恐れながら、『うん』というお返事はいけません。『わかった』と仰せになれば結構です」
 アレスは、グッと口を引き結んで少し考えた後に。「わ、わかった」言われたとおりに返事をしました。
 満足そうに頷くライジェン。
「ようございます。では・・・。現在こうして講師として陛下の前に立たせていただいておりますが、私は陛下の家臣です。家臣に対しては決してへりくだった言葉、そして態度をとってはなりませぬ。それが絶対の主従の関係というものです。お分かりいただけますかな?」
「う・・・わかった」
「よろしゅうございます。では、今回はノスユナイア王国の地理と歴史の観点から我が国の情勢を把握していただきたいと考えております」
「情勢?」
「はい。現在我が王国が置かれている状況をまずはしっかりと把握すること。それなくして王国の統治などありえませんからな。そして次は国内産業の現状。そして次は税制にまつわる実状。最後にそれらを統括するための王国法についてお話します」
「そんなに・・・」
 うんざりしたような顔をしたアレスにライジェンはむうっと喉を鳴らします。
「何をおっしゃいます陛下。あなたは国主なのですぞ。王国の全てを隅々まで知っておかねばなりません。それはあなたのお父上も望まれていたはずです。成し遂げねばなりませんぞ。ご覚悟のほどはよろしいですかな?」
 ライジェンの言葉にアレスは表情を引き締めました。それを見たライジェンは意外なことにニッコリと笑ったのです。
「良いお顔です陛下。そうそう。私のことはライジェンとお呼びください」
「え・・・」
 父の弟でもある人物を当の本人から呼び捨てにしろと言われてアレスは困ってしまいました。見かねたローデンが言います。
「ライジェン侯爵様。普通に先生でよろしいのでは・・・」
 ライジェンはグっとローデンを睨みつけました。
「後見人殿。口出しは無用」
「は、はぁ・・・しかし・・・」
「王家王族というものはこの国の頂点に立つもの。ならばそれ以外の者は王の持ち物です、そうであるからにはたとえ目上の者であったとしても・・・」
「持ち物なんて・・・そんなの違う・・・」
 アレスがライジェンの言葉に反意を示すと。
「陛下。今なんと?」
「人は人だよ。物じゃない。僕はそんなふうに考えたくない」
 きっぱりとしたアレスの口調はライジェンを些(いささ)か驚かせたようでした。
「陛下・・・」
「叔父上。僕はそう呼ぶよ。いいでしょう?」
「いや・・・しかし王族たるもの・・・」
「嫌ならあなたの講義は受けない」
 アレスはぷいっと顔を背けました。
 うっと息を飲んだライジェンの顔を見てローデンはどうなるのかと思ったとき。
「ふふふ・・・はっはっは!ハッハッハ!」
 いきなり高笑いを始めたライジェンにローデンもアレスも目を丸くして彼を見ました。そして笑いが収まるとメガネを取ってハンカチで拭きながうんうんと何度も頷きました。
「このライジェン、陛下を測りかねたようです。お赦しをくだされ。・・・結構です陛下、思うようになさいませ」
「じゃあ決まりだね。叔父上。はじめてください」
 今まで難しい顔をしていたライジェンは優しげな顔で―とは言っても生来の厳しい表情は隠しきれませんでしたが― 頷くと、目の前の分厚い本を開いて講義を始めたのでした。
 ローデンもホッとして胸を撫で下ろします。
 講義は一日三時間。30分の休憩時間を挟んで行われました。
 初めはとっつきにくい感じだったアレスもだんだんと積極的になったのはライジェンの話術のうまさであることにローデンはすぐに気がつきました。さすがは元老院議員と思いましたが、自分自身がライジェンの講義にのめり込み始めてしまったのに気がつくと、決して元老院議員だったことが理由ではないのだと考えを改めたのです。





 第一日目の講義が滞りなく終えると、ライジェン侯爵はローデンをそばに呼んで少し話をしようと誘いかけてきました。ローデンはカーヌに意見を求めましたが、自分はここにいるからと言われローデンだけがライジェンのそばに行くことになったのです。警戒しつつ着座するローデン。
 そんなローデンの気持ちを知ってか知らずか、ライジェンはおおらかな口調で話を始めたのです。
「驚きましたな。あの利発さ知性そして理知。あれほど整然と、ハッキリと自分の気持ちを口にするとは思いもよらなかった。お恥ずかしい限りだ。反省せねばならん」
 ライジェンはそう言って嬉しそうに微笑みました。
「え、ええ。先日の弔問にいらっしゃったフラミア連邦王国のカル殿下に会われてから本当に変わられました。ええ、よい方向に」
「・・・血、だな」
「え?」
「王家の血筋だよ。後見人殿」
「侯爵様。私のことはエノレイルと読んでくだされば。・・・どうもその、名実ともにというわけでもなのに後見人と呼ばれるのはどうも・・・」
 照れくさそうに頭を掻くとライジェンは突然声を荒らげました。
「何を言うのだ後見人殿!」
 突然のあまりの迫力にローデンは思わず持っていたカップとお皿をぶつけてガチャっと音を出してしましました。ライジェンはハッとして表情をしぼませて苦笑いしてカップに口をつけます。
「いや、失礼。議会場では大声を出すのが常でしてな。つい・・・」
「い、いえ・・・」
 飲み物を味わうようにひと息ついたライジェンはゆっくりとした口調で、まるで自分を落ち着かせるように話し始めました。
「聞くところによると・・・あなたは後見人になることを王妃様から依頼された時、頑なに拒まれたそうですな」
 ローデンは驚きました。どうして知っているのかと。あの時同席していたのはモルドだけです。まさかモルドが、と怪訝そうに表情を歪めます。
「驚かれることはない。情報とは少しの隙間があればそこから漏れ出すものだ。私はそれのひとしずくをすくい取ったに過ぎない」
 情報収集。どうやってかはローデンには想像もできませんでしたが、目の前の老人はその入手経路を多く持っているようでした。そして改めて彼が元老院議会王弟派の長であること、否、だった事を思い出したのです。そしてその座をあっさりと捨てた。
「ふふふ・・・」
 穏やかな笑顔という仮面の下にはどんな素顔があるのかとローデンは身を固くしました。この人物とこのまま二人きりで話し続けるのはひょっとしてまずいのではないかとさえ思ったのです。
「後見人殿は実にわかりやすいお人だ。思っていることが全て顔に出る。政治家には向かんな」
 その言葉にローデンは喉が詰まったように何も言い返せませんでした。
「そう固くならんでくれ後見人殿。とって喰いやしない。これから少なからずあなたとは顔を合わせることになるだろう。だからその前に自己紹介がてらに話をしておきたいと思ったのだ」
 だから話をしたいと言ってきた。そう理解してローデンはぎこちない笑顔で頷きます。それを受け取った感じでライジェンは早速話を始めました。
「あなたは既にご存知だろう。王妃様が私を疎んじていたのを」
「・・・」
 わかりやすい人だと言われた今、どんな顔を作っても隠し事はできないだろう。ローデンはそう思い腹をくくりました。
「ええ。あなたを王族直系の人物であるからこそ危険視していると。・・・それに権力に執着しているとも言っておられました」
 フウっと長く吐息するライジェン。
「まったく正しい評価だ。やはり王妃様は聡明なお方だった。・・・・実はな後見人殿。疎まれていたのは王妃様からだけではない。軍人からも疎まれることはあったし、同じ元老院の中でもしかり。そして私には必ず黒い噂が付きまとった。それは認めるし、実際今もってそうなのだ。いやこれは失言だな。今は元老院とは縁を切っているのでそういったしがらみとも決別できているはずではある」
「黒い噂ですか・・・それはどうしてですか」
 ローデンは純粋な興味からつい質問をしてしまいました。その素直さに鼻から息を吐き出し寂しそうな微笑みを浮かべるとライジェンは応えました。
「確かに私は自分に主導権が集まるように画策したこともあった。あまり良い話を聞かない貴族と結んだこともあった。しかしそれはそうしなければならない事情があったからだ。わかってくれとは言わんがね。
 元老院は公正な議会。・・・と言われているがそれは表向きのことで、内実は権益を貪ろうとする有象無象の集まりのような組織でな。己の欲望を現実のものとするために利害の一致する同志をより多く集めるのは当たり前のことなのだ。だから昨日の敵は今日の友、その逆も然り。数は力なりだ。
 しかも施策が自分の利益になることを目的としたものが実に多い。それに対抗するにはどうしても汚れた盟約を結ばねばならないのも止むを得ないという事も多々ある」
 ローデンは何度かうなずきます。
「私は剣を持たん。だが議会はまさに戦場。油断すれば政治的に抹殺されてしまう。そんな中で、私腹を肥やそうとする者達を抑えて、国家をよりよい方向に導くために努力するのはまさに至難の業。・・・もっとも国王陛下の号令があれば議会など必要ない事が殆どだったが、陛下とて国内の有力貴族士族の力を借りなければ兵力維持もままならない。そこに漬け込み機会さえあれば自分が・・・という者が後を絶たん・・・」
 それを聞くに至ってローデンはハッとして思いました。
 政治に明るくないといっても元老院議会がノスユナイア王国各地に勢力拠点を置く有力貴族たちの代表者で構成される組織であることぐらいは知っています。
 この老人は、いや国王の弟であるライジェン侯爵が王族という立場を捨てたのは国王の王国統治を陰ながら支えるためだったのではないかと。
 しかしそれを口にすることはではできませんでした。もしもそれを聞いて彼が『そうだ』と言ったとしてもその言葉の信ぴょう性は判ずることすらできません。『余計な事は言うな』いつかカフラーに言われた言葉を思い出します。
 ローデンはその代わりにこう返しました。
「どうしてそんな話を私に・・・」
 ライジェンは再び長く吐息し、暫時の沈黙の後ふと顔を上げて答えました。
「疲れたのかもしれんな・・・」
「え?」
 ローデンは予想外の答えに虚を突かれたように頭の中が白くなりました。
「老いとは容赦ないものだよ後見人殿。兄が死に、残された一粒種のために老骨に鞭打つのもこれが最後と決めた。そのためには余計なものは一切排除しておきたい。痛まぬ腹の探りあいなどという無駄な労力などは特にな。若い頃は政敵を論破し捩じ伏せることに楽しみさえ覚えたものだが・・・今やそれも昔だ・・・。できればあなたとは反目しあうことのない日々を共有したい」
 そういうことかとローデンは頷き、そして腹を割った付き合いを求めようとする老人に好感をもったのです。
「しかしそのように考えておられるなら、やはりあなたのような方が後見人になった方がよほど良かったと思いますよわたしは」
 軽い気持ちで言ったもののライジェンは顔をまた厳しくさせました。ローデンはしまったと思い、また叱り飛ばされるかもと身を固くしました。
 ライジェンはメガネを人差し指でグイっと抑え顔の上で持ち上げ、ひと息つく間を空けてから話し始めました。
「実はな後見人殿。元老院では派閥を問わず私を後見人にと推す者が多かった。だが私にはそんな気はなかったのだ。だからあの日、王妃様があなたをご指名なされた時には正直ホッとした・・・・・・神の下へ旅立つまでの時間が長い者のほうが、未来に向かう力も、思いも前向きであり強い。それこそが新国王にふさわしい。そう思わんかね?」
 彼が言いたいことはわかりましたが、それでもローデンは言いました。
「知識や気概があっても若いだけでは・・・」
「いいや。老人では務まらんよ・・・。ま、あくまでもこれは私見の範疇を出ないが、確信して言える。思慮深いかもしれんが老人とは消極的なのだよ」
 ローデンは自分の倍近く生きているであろう姿勢の良い老人を見て何とも言えない気持ちでした。
 先ほどの講義の時など政治に無知な医者であれば仕方の無い事でしたが、ライジェンのする話の折々でこんなことも知らなかったのかと自己嫌悪に陥ることも一度ならずあり、不謹慎ながらこんなに無知な自分を後見人にした王妃が存命なら文句のひとつも言いたいと思っていたからです。
「いえ、何と仰られようとも私は若いだけです。あなたは政治的知識も人生経験も私よりずっと豊富で深く広い。あなたのような方が後見人になった方が良いと思ったのは一度や二度ではありませんよ」
 暫時。
「エノレイル殿。いいかね?」
 ローデンは初めて名前を呼ばれ、ハッとして顔を上げました。
「王族からの信頼を得るという誉(ほまれ)はそうそうあることではない。しかもあなたの後見人任命は王妃様のご遺言といってもいい」
 それが問題なのだ。ローデンはそう思い、気がつかれないように鼻から息を吐きます。
「あなたはどのような形であれ王妃様から後見人に任命された。それを全うすることはあなたの人生に大きな意味をもたらすだろう。決して逃げてはならん。学びなされ。不安を退(しりぞ)けるための努力を惜しんではいけない」
 厳しい表情。それは幾多の困難を退けてきた男の年輪のようなものなのでしょう。だからこそなのかローデンはライジェンのメガネの奥から自分に注がれる眼差しにどういうわけかわかりませんでしたが暖かさを感じました。
 風聞とは時として人心を惑わせ正しくない判断や評価をさせるものなのかもしれない。やはり自分の目で見て感じた上で結論を出すことが最良なのかも知れない。そう思ったのです。
「私も陰ながらあなたを、そして陛下を支えて差し上げるつもりだ。立場としては私よりあなたの方が上なのだ。遠慮することなく命じてくれれば微力を尽くしましょう」
「命じるだなんてそんな・・・。でもありがとうございます。そう言っていただくと心強いです」
 ライジェンは頷いて話を続けます。
「もうじき諡号の儀式が執り行われる。そうなれば陛下は名実ともにこの国の王。民も新しい王国の夜明けに歓喜することだろう。喜ばしいことだよ」
 ローデンは何度か耳にした『諡号の儀式』という言葉に少し興味を覚えました。ライジェンは王族だということを思い出し、ちょっと聞いてみようと口を開いたのです。
「侯爵様。諡号の儀式というのは国王陛下の世代交代のたびに行われるのですか?」
「うむ。わたしも先王逝去の折に同席したことがある。エノレイル殿は諡号の儀式がどんなものであるかはご存知かな?」
「はい。前国王陛下が亡くなったあとしばらくしてから行われる儀式で、即位した国王が戒名を前国王に諡(おくり)なし、これまでこの国を統べたことを証明する石碑を諡号の塔と呼ばれる建物の中に奉納、安置する・・・と聞いてますが・・・」
 以前アレスが即位式で使用した神殿のすぐ近くに諡号の塔という霊廟があって、そこにはノスユナイア王国建国以来のすべての統治者の諡号が刻まれた石版が列挙されていました。
「ん。そのとおり。塔に安置されるその石碑は経年による風化や人為的な破壊から守るために魔法力を籠めなければならない。これは三賢者の仕事になっているから今も年に一度更新が行われているはずだ。・・・しかし実はそれだけではない」
「?・・・・・と、いうと・・・」
 ライジェンはまたカップに口をつけます。
「諡号の儀式とは、王家に伝わる秘宝を受け継ぐ儀式でもあるのだよ」
「秘宝?」
 ローデンは漠然と金銀財宝を思い浮かべました。
「うむ。秘宝とは言っても実際には王家の紋章が彫り込まれた円牌(えんぱい)だがね」
「円牌・・・」
 ライジェンは両手で円を作りながら応えます。
「このぐらいの大きさだ。そうだな・・・テルス銀貨二つ分ぐらいの直径の円盤だよ。アスミュウム製で七つの星が線で結ばれた模様が彫られている」
「七つの星ですか」
 ローデンは壁に飾られているノスユナイア王国の国旗に視線を移しました。白地に水色の十字、その十字の交差点、つまり国旗の中央に大き目の星がひとつ描かれていて、それを中心に十字星が不均等間隔で6個散らばっています。
 夜空にスバルと言う星団がありそれと同じ並びなのでそれを模したものだと言われている。これは星神信仰を象徴しているとされています。
「あの国旗の七つの星と同じ理由でその円牌にも七つの星が描かれているのでしょうか?」
「う~む。夜空の星の配列を模した、6と言う数字は国旗のデザインが決められた当時の国王の側近の人数だとか、6種族の象徴・・諸説あるようだがハッキリ示された由来はないようだな」
 ローデンと同じくライジェンも国旗を見ながら言います。
「見慣れた紋章だが、受け継ぐのはその紋章を彫り込んだ円牌を首飾りにしたものだ。それを先王より受け継ぐということが王家代々の慣わし。諡号の儀式とはそういうものなのだよ」
「儀礼的なことなのですね?」
「一般人にとってはな」
「というと、王族には何か特別な理由でも?」
「うむ。円牌を受け継ぐという行為はわが国では建国以来『万世一系』を象徴するという意味があり、王家王族はこの儀式を非常に重要視している。しかしこういった儀式は何も我が国だけではなく、フスランでもフラミアでもエミリアでも王国と名のつく国ならばどこでも似たようなことをしている。
 まぁ考えてみるに、各国で行われているこのような大袈裟な慣わしは、何を以って己(おのれ)を統治者とするか、己がいったい何者であるかを証明する為のささやかな拠り所なのだと、私は考えているのだがね」
 わかっているのかいないのか、ローデンはうんうんと顎に拳を置いて頷きます。

「諡号の儀式が初めて執り行われたのは、ノスユナイア王国が建国された750年ほど前、つまり王国の誕生と共に生まれた儀式と言うことになる。私は常々思うのだが、この円牌を使った諡号の儀式はテラヌス朝の王家と相性が良かったんだと思う」
「相性ですか」
「うむ。どんな儀式や祭事であっても王家と相性が悪ければ廃れてしまう。だがこれは750年もの間、営まれ続けていますからな」
「そうですね。いやあ私はどうもそういう儀式で使われる道具には何か特別な価値や、秘密が隠されているとついつい深読みしてしまって・・・。すみません」
 後頭部をひと撫でするローデンを見てライジェンはほほ笑みながら言いました。
「わからぬでもないが・・・エノレイル殿。王族といえども我々と同じ人間。人間というものは弱い。弱き者は何かにすがろうとするのが常。それが代々伝わる円牌だというなら儀礼以上の何かがあるとは思えんし、仮にあなたの言う秘密があったとしても取るに足らんことだろうさ。大切なのはそこにこめられた王家の想いだ」
 ローデンはおおらかに言うライジェンを見て微笑みましたが、もしもこんな話をしているのをあのカフラーに見られたら嫌味のひとつふたつはもらってしまいそうだと思わず周りを見回して肩をひとしきり上下させました。
「まあ、その話はともかくとして」ライジェンはそう言ってからカップに口をつけます。「今この時期がいちばん大事な時だ。あなたも陛下と一緒に勉強することをお勧めする」
 嫌々ながらとはいえ、彼自身その必要性は感じていました。
「はい。そうします」
「んむ。・・・ところでエノレイル殿」
「はい?」
「ひとつ願いを聞いてもらえまいか」
 ローデンは自分よりよほど有能な人物が願いなどと言い出すと、思わずドキリとして身を引きました。ライジェンはその様子をみて表情を笑わせながら肩をポンポンと叩きます。
「最近肩が凝ってしまって夜も眠れないんだ。何とかしてもらえんかね?」
 一瞬キョトンとしたローデンはにっこりと笑って立ち上がりました。
「お安い御用です」
 もしも王妃が亡くなっていなければこうしてライジェンと知り合いになることも、話をする機会さえもなかったであろうことを思うと、運命の不思議を感じる。ローデンはそう考えながら複雑な気持ちでライジェンの肩に手を置いたのでした。





 翌日。
 週に一度の王国評議会が終えて、アレスが退席したあとに残った者たちでライジェンの講義内容の確認が行われました。
 国家体制への批判的な言動などがないか、個人的主張による思想誘導やそれに類する思い込ませ行為などが見受けられないかなど、確認というより監査と言えましたが、誰もが後見人であるローデンとカーヌ=アーの連名で提出された講義内容を記した文書を読んでもただただ頷くだけでカフラーからさえも批判などは出ませんでした。まずは問題なしというのが評議会の出した結論です。
 監査が終わり、評議員が全て退席するとツェーデルとモルドが残ってローデンを呼び止めました。
「え?」
「聴講するのはいいが、個人的な会話は極力控えたほうがいいと思うんだがな」
「個人的といっても、今回はまあ・・・」
「諡号の儀式のことが気になるのはわかるがお前だって出席する儀式なんだから聴くならツェーデルに聞けばいいことじゃないのか?」
「そりゃあそうだけど、・・・でもなかなか面白い話だったぞ」
 モルドはフウっと息を吐くと「陛下の前にお前がライジェン議員に心酔してしまいそうだな・・・」そう言って渋面をこしらえると親指でゴシゴシこめかみのあたりをこすりました。
「心配するなよモルド。あの人は悪い人じゃない。王妃様は警戒しすぎていたのかもしれない。きっとライジェン公爵は元老院で陛下を援護してたんじゃないかなあ・・・」
「ローデン。後見人のお前がそういう・・・」
 少し強い口調になりかけたモルドをツェーデルが遮る形で口を開きました。
「エノレイル先生」
「はい?・・・」
「確かに教わることも興味を惹かれることも多いでしょうが、ライジェン公爵はあくまでも陛下の教師です。あの方の政治的な側面などの憶測はやはり控えるべきです」
「は・・・はぁ・・・」
「ただ・・・」
「?」
「名前を呼ぶ呼ばないの時の陛下の毅然とした振る舞いは、聞いて少し安心しました。やはり他国の王族との出会いは無駄ではなかったんだと確信できました。これが国王としての自覚が芽生えたのだと、そう思いたいですね」
「全くです。院長。あの時のライジェン公爵の顔を見せたかったなあ。驚いたようでもあったし、とても愉快そうでもあったんです。なんだか嬉しそうに笑っておられましたよ。最初の印象では笑顔は絶対想像できなかったのに・・・」
 ローデンは笑顔を湛えながら手振りを加えて言いました。
「とりあえずそういったあなたの感想は私たち以外には話さないようにしてください。元老院で何を言われるかわかったものではありませんからね」
 ツェーデルの言葉を聞いて背筋にひやりとしたものを感じたローデンは笑顔を消してハッとしました。
 元老院議会で後見人がライジェン議員と懇意にしているなどと囁かれれば、そこから根も葉もない噂がたってしまうかもしれません。
「そうだな。根拠のないことで問い詰められたらローデン。お前、申し開きができるか?」
「そ、それは・・・」
 当然元老院議会での答弁など自分には到底できない。ローデンはそう思って口ごもりました。
「ライジェン公爵の仰ったとおり学ぶことは大切です。でも自分が国王陛下を代理する後見人なのだということをくれぐれもお忘れなく」
 それは後見人として軽はずみな行動は慎めという意味です。これにはローデンも黙って頷かざるを得ませんでした。
「あなたも聴講して後見人に必要な知識を蓄えるのは良いことでしすし、それについてはあまり咎めたくはないのですが、やはりしばらくは必要以上の接近は控えて監視役に徹してください」
「・・・はい」
 笑顔で頷いたツェーデルはひと呼吸をおいて言いました。
「それでも結局・・・」
「ん?」
「陛下がどう成長するかは我々の与える教育と情報が大きく影響します。ライジェン公爵の教育も少なからず陛下の人生に影響を与えるでしょう。それが陛下にとって良いことなのかそれとも足枷となってしまうかは時が立たなくてはわかりません」
「だが方向性はある程度測れるだろう」
 憂いのこもった目でツェーデルは改めてローデンを見つめ、そしてすぐに凛とした表情になって言いました。
「結局は公爵様を信じるしかありませんが、先生。嫌な役割かもしれませんがよろしくお願いします」
 ローデンは神妙な面持ちで頷きます。「ええ」
 少しの沈黙のあと、モルドが言いました。
「諡号の儀式はいつごろになる?ツェーデル」
「昨日ディオモレス公爵に伺いましたが、・・・先ごろやり直しになったとかで・・・それが何か?」
「いや・・・。出来る事なら確定事項である儀式関連は早めに済ませればと思ってな・・・」
「何か心配事でも?」
 モルドはテーブルに組んだ手を置きました。
「まだ2月だが、あと2か月もすれば雪解けが始まる。早ければ一ヶ月後ぐらいにはレアンへの越境が可能になるかもしれん。そうなれば国境での出来事に何か変化があるかもしれない。そうなれば評議会も忙しくなって必然的にライジェン公爵様の講義にも目が行き届かなくなる可能性がある。その前に諡号の儀式を終えられれば陛下の王位も安泰だ。国境対策に集中もできる。こればかりは今の陛下には出来ない事だからな」
 部屋の大きな窓から見えるレノア山脈の様子はまるで粉砂糖がケーキの上にかかっているようで、冬が過ぎてはいないことを如実に表しています。
 時折ロマはどうしているのかと気を揉みましたが、もしも変事があれば伝達速度は遅いものの南回り、つまりフスランに潜んでいる諜報員やトスアレナ教皇国にいるジェミン族経由で情報が伝わってくるのは間違いないので、何も連絡がないのは吉報と捉えても良いのかと自分を納得させることもしばしばでした。
 イシア城塞に駐屯している第五師団のノーエル元帥が行った越境調査では、未だ越境は不可能という報告があったことは評議会でも話されています。
「・・・第三、第五師団がレアンに行ければひとまず安心できるんだが」
「でも帝国は本当に侵攻する気なんでしょうか・・・」と、ローデン。
「状況から察するにないとは言えないという所です。ただ気になる情報がひとつだけあります」
「気になる情報?」
「マリウス長官から非公式に・・・というか、立ち話をしただけなのですが」
「諜報情報ですか?」
「いえ。諜報というより、噂です」
「噂」
「・・・ええ」
 情報部長マリウスが言ったのはこんなことでした。


 ”現在のレアン国境の帝国軍総司令官、3年前に着任したガルフレック=マッサレイ大将について。
 大した手柄も立ててない、と言うかこの人10年前にある意味で辱めを受けてますね。・・・いや結果的にそうなったって事で、ん~と、第27次ダコナ戦役において、指揮下の兵士をほとんどすべて戦闘で失っているみたい。用兵が下手だったんだね。
 ただ彼自身が言ってたらしいんだけど、「私がこのような敗退を喫したのはゲーゼルの策略のせいだ」って。え?ええ、ジェミン族からの情報ですよ。でもね院長、こればかりはどこまで真実であるかはわかりません。現在の状況から考えれば真実味はあるという程度にしか・・・ね。
 だから情報が70%真実だと仮定してお話しすると、マッサレイは歯ぎしりする思いで裸の大将を続けて2年後にようやく返り咲いたのは当時の宰相であるゲーゼルの采配です。
 ここから察すれば、マッサレイはゲーゼルを恨むか憎むかはわかりませんが、きっと大嫌いなんじゃないかな~っと思うんですよ。自分を踏み台にして出世している者から何かを与えられる屈辱はないわけがない。
 そこで今回の国境の騒ぎに目を転ずれば、あれ?マッサレイがいる。・・・・どうです。おもしろいでしょ・・・失礼、失言失言。
 そんな怖い顔しないでくださいよ院長。でもそう考えると国境で何かが起こるかもと誰だって思いますよねぇ。でも私は思うんですが、彼はそこまで思い切ったことが出来る人物とは到底思えないんです。
 そりゃあ自分より若いゲーゼルに出し抜かれて面白くない思いもしましたから、一撃目にもの見せてやりたいって気持ちは、ええ、腹に一物あるでしょうが、現在の地位であるレアン国境方面総司令官と言う職はゲーゼルのおかげともいえるわけですよ。
 それに帝国にとって重要なのはダコナ戦線です。レアン国境防衛は帝国にとっては二の次三の次です。そんなところだからこそマッサレイが抜擢されたかもしれませんが、総司令官職ともなれば話は別だって・・・私なら考えますね。
 ええ、恨んでいて嫉妬していたとしても、よほどのことがない限り何かが起こるとは思えない。それが情報部長の私の見解です。保証は出来かねますけどね。
 ただ我が国がまだ安定しているとは言えない今の状況はマッサレイも知っている事ですから、この春は気を付けた方がいいでしょうね。ただ可能性は・・・はい。では。”


「院長。それはつまり、場合によっては・・・」
 ツェーデルは静かに一度だけ頷きました。
「国境を超える可能性は決して高くはないですが、注意は怠れないということです」
「ううーむ・・・」ローデンは眉間にしわを寄せ、ふと。「ところでゲーゼルって?モルドは知ってるのかい?」
「ああ。帝国筆頭宰相ヨゼック=タン=ゲーゼルのことだ」モルドは困ったような顔をしてローデンを見ました。「・・・お前、そんなことも知らんのか?」
 ローデンは肩をすくめます。
「僕は数ヶ月前まで医者だったんだぜ。政治のことなんて・・・」
「ふん」
「大佐。そんな顔をしないで」ツェーデルはニッコリしてモルドを宥め、ローデンに言いました。
「私が説明しましょう。・・・ヨゼック=タン=ゲーゼル。40歳。彼は10年前にある大勲功をあげ、デヴォール帝国の大帝バンアデル=ハーチェス=ギャベックキッツに筆頭宰相に任ぜられました。依頼帝国の実権はこの男が握っているとっても差し支えないでしょう」
「30歳で筆頭宰相に?・・・。10年前って・・・あ、さっき院長が言っていたダコナ戦役のことか」
 仕方のない医者だという顔をして鼻息を吹き出しながらモルドは言いました。「当時のことはよく覚えている。第10師団で旅団長をしていた私が近衛隊長に任命された年だったからな・・・」
「へぇ・・・」
 そう言われてハッとしてローデンは手を叩きます。
「あ!ああ、思い出した!そうそうそう!ロマさんが近衛に入隊した年だったよな。近衛隊に転属になったばかりの君が随分興奮した様子でまだ町医者だった僕のところに来たんだ!」
「む・・・」
 モルドはうっと言葉を詰まらせて、居心地悪そうに視線を泳がせました。
「すごいやつが来たぞ!って言ってたじゃないか。そうだそうだ、思い出したよ」
「あら初耳。そうなんですか大佐?」
「む・・・昔のことだ」
 モルドはあまり話したくなさそうですが、ローデンは記憶の糸を手繰り始めたのです。
「それがね院長。ほら、今でも近衛隊では5人対5人で模擬戦闘訓練というのをやっているでしょ?」
「ええ」
「僕はそのおかげで軍医みたいなことをさせられる羽目になったわけですが・・・、まあそれは置いといて、とにかくその模擬訓練で当時新兵だったロマさんがひとりで全員やっつけちゃったらしいんですよ。いやあ今思えば喧嘩千人の片鱗は見えていたんだなあ」
「まあ。ロマったらそんなところでも・・・・」
 ほほ笑むツェーデルの言葉にかまうことなくローデンは話し続けます。
「でね。その時のモルドはまるで子供みたいにあいつはすごいって褒めちぎってたんですよ」
「ローデン」
「なんだよ。本当のことだろ?」
「俺だってあの頃はまだ若かったし・・・ちょっとしたことで興奮することもあった・・・」
 モルドは余計なことを言ってしまったと厳しい顔に困った顔を合わせたような表情で言葉を濁します。
「僕たちも若かったけど、あの頃のロマさんはまだ17歳で初々しかったなぁ・・・。ああ、でもそうするとあれだな。僕が陛下の侍医になるきっかけはロマさんだったってことだな。あはは。不思議だなぁ人の縁というものは。そうかあれからもう10年か・・・早いもんだ」
 モルドはやれやれといったふうに愉快そうに笑うローデンを見ながら兜を脱いだ気持ちになって首を振りました。
「思い出話はもういいだろう?ツェーデル、続きを話してやってくれ」
「ふふふ」
「続き?・・・あ、ああ、10年前のダコナ戦役か」
 ローデンは表情をコロコロと変えて頷きます。
「よろしいですか先生?」
「あ。あ、ええ。お願いします」
「10年前の大勲功というはゲーゼルがフラミア連邦王国との国境を100kmも押し広げたという戦功です」
「戦功?紛争ですか」
「ええ。第27次ダコナ戦役について詳しいことは省きますが、その紛争で勝ったのは帝国側でした。そして勝因を作ったのがタン=ゲーゼルです。そして帝国筆頭宰相と言う今の地位を手に入れたのです」
「ほう」
「今でこそ国家の事実上の舵取りであり、皇帝の次に実権を握る実力者ですが、ゲーゼルの経歴は帝国という国体では有名無実の護民官という官職から始まっています。生まれはダコナ地方だと言われていますからそのあたりで働いていたのでしょう」
「へえ。護民官。確か帝国は皇帝以外は奴隷だとか言われているんですよね?そこで護民官とはなんだか・・・」
 そして生まれ育ったのが紛争の地であったダコナ地方とくれば、地の利も勝利に一役買ったのではとローデンならずとも考えます。
「今私は有名無実と言いましたが、実際、帝国の貴族たちは民は搾取の対象という考えしか持っておらず、例えば作物の出来が悪かったり、収穫量が少なかったりするとそれの責任を民に負わせて何の対策も立てませんでした。ところが護民官になったゲーゼルはそういう考えを改めさせようと努力したんです。つまり、文字通り民を護る事が帝国を発展させるための礎だと考えたんです」
「何をしたんです?」
「普通のことです」
「普通?」
「官民一体となって生産物の増産と安定供給を目指すということです」
「それは・・・わが国では当たり前のことですよね?」
 頷くツェーデル。「国王陛下の号令一下、元老院主導のもとに何百年も前から当たり前のようにしていることです」
 ローデンはため息が出る思いでした。搾取するために国民に鞭打ち、一部の貴族だけが豊かになる。そんなことをしていながらよく国体を保っていられたものだと不思議な気持ちにさえなりました。
「ゲーゼル宰相の家系はもともと地元では有力な貴族だったので、まずはその基盤を有効利用し出資者を募って資金を調達、それを元手に農業、工業、鉱山開発などの拡充に着手しました。その影でジェミン族の技術供与と販路の開発が役立ったようです」
「ジェミン族が?それって裏切り行為なんじゃ・・・」
「そうですね。一面的にはそう見えます」ツェーデルはスっと一瞬目を伏せてすぐに視線をローデンに戻しました。「先生。戦争が起こる理由をどう考えますか?」
「え?」突然質問されたローデンはモゴモゴとしながらも答えました。「それは・・・領土争いとか・・・お家騒動とか・・・理由はいろいろでしょうね」
「ええ・・・。仰るとおり理由は様々ですが結局は欲望です。私は欲望が形を変えたものが戦争だと考えています」
 ローデンが何度か頷いて同意を示しますが、気がついたように顔を上げました。
「でも院長。双方が欲望にまみれて争い会うのは置くとしても、そうじゃない場合もありますよね?例えば聖戦とか反乱とか・・・」
 聖戦とは宗教がらみの戦争のことです。
「そういうことも歴史を紐解けば多々あることです」
「それなら一概に欲望が戦争を引き起こすとは言えないですよね?」
「でもね先生。国体を保つ、ここは自分の国であると主張する、という行為自体が支配者にとっては欲望と考える事は出来ませんか?」
「ううむ・・・」
 ローデンは多少ひねくれた考えのように思えましたが、考えてみれば確かにその通りだと頷かざるを得ませんでした。
「皇帝や軍人、そして貴族だけでなくそこに生きる国民たちまでもが憎しみあっていたら、いつ戦争が起こっても不思議はありません。でも民間の間で商業を通じて或いは技術供与を通じて交流があれば戦争は起きにくくなると私は考えます。もちろん絶対はありませんが、そうする事のつなぎ役としてジェミン族が働いていたとしたらどうですか?」
「・・・」
 ローデンは何度か頷きます。ツェーデルはひと呼吸おいてから話し始めました。
「・・・人は飢えれば他人の畑から作物を盗みます。盗みという行為は許されることではありませんが、飢えて死ぬことと盗みを天秤にかければ答えは自ずと出てきます」
「それは・・・、でもそれは安易すぎる意見だと思いますけど・・・」
 反論するローデンに、おや、という感じでツェーデルは顎を引きます。
「では先生はどんな意見を?」
「いやぁ。例えば人の善意に期待して働かせてもらうとか、山野に生える果物や動物を狩るなんてのは極端でしょうけど、いざとなればそれぐらいはするんじゃないかと思います。僕だったら、ですが・・・」
 ツェーデルは微笑んで頷きます。
「確かにそういった手段を選択する人もいるでしょう。・・・でも追いつめられた人は切羽詰ると即物的衝動に駆られる生き物です。溺れる者は藁をも掴むのです」
「ふぅむ・・・」
 明日にも飢えて死んでしまうかもしれないという恐怖は、精神状態を確かに即物的にさせるかもしれないとローデンは思いましたがそれでも今ひとつ納得できませんでした。ツェーデルはそれを見透かしたかのような返答をします。
「私は人に対しては基本的に性善説的には考えまません。だから思うんです。貧しい者ほど盗みに対しての罪悪感の垣根が低く、そして盗みに慣れてしまった者はモノを作らなくなってしまうと。
 盗む者と盗まれる者・・・その双方が自分の身を守る為に敵を殺す行為を大儀と考えて何とも思わなくなる。この敵対関係は人心を荒廃させ、憎しみが団結力となって更なる争いを生み出してしまいます。
 でも神々の与えてくれる大地の恵みを得る術を知っていて、人に分け与えることに喜びを見出す人々が増えれば争いは少なくなるのです。そう考えればジェミン族のしたことを一概に裏切りとは言えないと、私は考えます」

 納得した様子でローデンはしっかりと頷きました。
「うーむ。なるほど。それじゃあゲーゼル宰相は争いのない豊かな国を作ろうとした・・・ってことですかね?」
「表向きはそうです」
 期待したのとは違う答えにローデンは表情に疑問を呈します。
「表向きって・・・じゃあ裏で何か・・・」
「ここから先はマリウス長官から聞いた話を元にした私の想像になるのですが、ゲーゼル宰相の前後の経歴から察するにそう遠くない事実だとは思っています」
 ローデンは黙って次の言葉を待ちました。
「先ほど言ったように豊かでない土地の者は豊かな土地の者から盗みを働こうとしますが、これからする話の場合は盗人ではなく貴族です」
「貴族・・・ですか」
「ええ。・・・生産力の上がったこと、即ち納税額が多くなった事を皇帝に認められ始めたゲーゼルを妬んで敵意を向ける貴族が増えてしまったのが理由だと思うのですが・・・彼は自己防衛のために有力軍人を取り込むようになったようです。手に入れた富と名声を背景に」
「政敵から守ってもらうためですね?」
「ええ。結果的にはそうなりますが、でも、それが彼の未来を変えたんです」
「未来を?」

 ツェーデルは一呼吸おいてから話を続けました。
「デヴォール帝国は専制君主を頂点にした軍事政権国家です。つまり軍人は皇帝に一番近い存在であるという事実は誰もが認めるところでしょう。そして彼がダコナ地方と言う紛争地帯で生まれ育ったという背景。この二つを考え合わせると、軍隊の持つ力は純粋な軍事力も然(さ)ることながら政治的にも役に立つと考えるようになったとしても不思議はありません。
 おそらく初めは先生の言う通り、自己防衛が理由だったのでしょう。軍の有力者に奢侈品などを贈与するなどして親密な関係を築き上げて政敵を牽制し、その関係をあえて明るみに出すことで噂という形でまずは名前を売る。しかしその行為が皇帝に接近する一番の近道でもあることに彼は気づいた。・・・そしてどうすればよいのかも心得ていた」
「賄賂だよ」
 大佐が答えます。 
「賄賂・・・か。まあいい方は悪いけど、自己防衛のための必要経費だよな?」
 モルドはふと口元に笑みを浮かべます。
「お前らしいな」
「先生。確かにその通りです。でも忘れてはいけません。その必要経費は民が汗水を流して獲得した収入から徴収した税金です。その税金で彼は皇帝に近づくための、いわば人生の賭けをしていたのです。それが露見し更に収賄行為の結果が悪ければ民にとって彼は集めた税金で賭け事をした大悪人として断罪され殺されていたかもしれません」
 お説ごもっともですとでもいった風にローデンは大きくうなずきます。
「なるほど。確かに表向きは民を守るためにした事のようでも、裏を返せばあまり褒められたことではない・・・。で、皇帝に近づいたそのあと彼は何をするつもりだったんです?」
 ツェーデルは皮肉を含んだ口調で言いました。
「努力の甲斐あって、彼の役職はその頃護民官から地元の行政官になりました。25~26歳ぐらいだったそうです」
「では出世が目的だった?」
 ローデンはモルドをちらりと見やります。
「俺もそう思ったんだがな」
「違うのか?」
 ツェーデルが応えます。
「一見そう見えますが彼にとって出世はあくまでも副産物で、権力が手に入れば役職などなんでも良かったのではなかったかと思います。ただ、確かに彼はこのあと出世街道を驀進しています」
「驀進・・・」
「ええ。・・・どのような手を使ったのかはわかりませんが、それからしばらくしてダコナ地方の総督に任命され、ますます内外への影響力を高めていったようです」
 金の力か、とローデンは思いました。
「この頃になると他の貴族たちや宰相たちもうかつに手を出せない存在にまでなっていたでしょうね・・・」
「畑から作物が盗まれにくくなったんですね?」
 ツェーデルはローデンの言い様にフッと笑って頷きました。
「でも私の想像ではおそらく彼の計画はここまでだったように思います」
「というと?」
 ツェーデルは少し間を置いて言いました。
「想像の域は出ませんけど、彼の経歴を見るとやり方の清濁はともかく地元のために働く名士と言えます。つまり役職が行政官であろうと総督であろうと、護民官だった頃の志(こころざし)が行動原理だと思えるんです。そうでなければ最初から軍人になっていたでしょう」
「ふぅむ・・・それじゃあ宰相になろうとは思っていなかった。と?」
 ツェーデルは頷きます。
「たぶん想定外だったんだと思います。戦場に赴くようなことになってしまったのは何か特別な理由があったんでしょう」
「ダコナ戦役ですね?」
「ええ。その時懇意にしていたギルベルト=フレッチャロッサ、そしてバライアス=クーターゼンと言う軍人と共に」
「フレッチャロッサ、クーターゼン・・・・」
「どうして一個師団を任されたのかはわかりませんが、このフレッチャロッサとクーターゼンが大きな役割を果たしていたのは間違いないでしょうね」
「軍人か・・・。いったい何があったんでしょうね・・・」
 ツェーデルは首を振りました。
「わかっているのは彼が地方総督になった翌年、つまり今から10年ほど前に彼自身がフラミア連邦王国との国境に一個師団を従えた師団長として着任し、その直後に彼の手で起こされた第27次ダコナ紛争によって帝国は国土を100km押し広げたということです。そしてその功績を認められゲーゼルは帝国筆頭宰相となった」
「行政官になってからわずか数年で・・・すごいな・・・」
 そしてモルドが呟くように言いました。
「皇帝の右腕であるゲーゼルのことを『皇帝に位並ぶ端倪すべからざる人物』と誰もが呼ぶそうだ」

 『端倪すべからざる人物』という言葉を冠するヨゼック=タン=ゲーゼルなる人物を想像したローデンはじわりと背筋が寒くなりました。
 もしもゲーゼルがレアン国境で指揮を執ったら。国境からレアン共和国首都までおよそ100km。
 それはそこにいた三人ともが頭の片隅で考えていたことでした。






 第五師団の第一大隊第一中隊所属第一分隊は越境口付近に越境調査のためやってきていました。
 先頭を行っているのはネンダイウス軍曹です。
「おいネンダイウス!無理をするな!もうそのへんにして・・・」
 隊長のシェルダーがネンダイウスに声をかけたその時でした。
「うわ!」
 突然ネンダイウスの姿が消えたのです。
「ネダイウス!!?おい!・・・なんてこった!みんな!手を貸せ!ネンダイウスが!くそ!」
 近づこうにも近づけないシェルダーはただ叫ぶことしかできません。
「ネンダイウス!返事をしろ!おい軍曹!!」
 シェルダーの声を聞きつけた部下たちが集まってきます。
「シェルダー隊長!どうしたんですか?!」
「エイザー!こっちだ!ネンダイウスが落ちた!」
「なんですって?!」
「ロープを持って来い!」
「了解!」
 すぐにロープを持ってきた部下からそれを受け取ると、別の部下が。
「隊長。自分が行きます」
 軍人は誰もが体格が並外れているためネンダイウスが落ちた場所まで行くのは困難でした。志願したのは隊員の中でも一番背の低い男だったのです。「お前なら適任だモータス。頼んだぞ。気をつけろ」とはいえ、常人からすればかなりいい体格をしていたのですが。
「どうだ!見えるか!」
「いましたァ!10メートルほど下に軍曹殿が見えまぁす!」
 一同の顔に安堵と緊張の色が浮かびました。
 ネンダイウスは運良く厚い氷でできた棚のような場所に落ちたのです。
「無事か!?」
「軍曹殿ぉ!お怪我はありませんか!!」モータスが下に向かって叫びました。
 ネンダイウスは辛そうに表情を苦痛に歪ませて右腕を指差しました。モータスがそれを見て腕が折れたか脱臼したのだと理解しました。
「右腕を負傷しているようでぇす!」
「なんてこった・・・」
「モータス降りられそうか!?」
「なんとか!いけると思います!」
「よし!ちょっと待ってろ!・・・どうします?隊長」
「・・・やむをえんだろう。腕が負傷しているとなるとロープを垂らしても自分で体に巻きつけて縛るなど不可能だ。モータスに降りてもらってネンダイウスにロープを巻きつけて俺たちで引き上げる。そのあとモータスにロープを垂らして引き上げる。どうだ?」
 シェルダーの案に全員が頷きました。
「そうですね。それが一番だと思います。しかし・・・」
「どうしたエイザー」
「軍曹が今いる場所まで十メートルほどだとモータスが言ってましたよね」
 その言葉の意味するところはすぐに全員が理解できました。
「足らんのか?」
「今モータスを吊り下げているロープは約15メートル。手持ちはそれが2本です。長さは足りても二人を吊る強度が果たして・・・」
「クソッ!」
 シェルダーが拳を握って装備不足を悔やみました。
 しかしこういった雪道の探索にはロープはあまり使いません。例えば全員をロープで結ぶことは一見ひとりが滑落するなどの危険に陥った時に助けになるように思えますが、実は逆に全員を道連れにしてしまう可能性の方が高いのです。だから余程のことがなければロープを使わないのが常識でした。
 緊急事態でもなければこんな常識はずれの季節に越境するなど狂気の沙汰で、実際この時期は越境できないというのは当たり前のことです。今回の雪中行軍も調査の名目だったのでシェルダーもすぐに引き返すことになるだろうと踏んでいたのです。重装備は不要だと考えた事が悔やまれます。
 シェルダーは咄嗟に言いました。
「お前ら!全員軍服を脱げ!軍服は丈夫だから結べば綱の代わりになる!」
 シェルダーの言葉で全員が軍服を脱ぎ結びました。
「ようし!引けぇ!!」
 号令を受けて全員が声を合わせて軍服で作ったロープを引っ張り、ネンダイウスが姿を現しました。
「ロープを緩めるな!ネンダイウス!ここまで来れるか!?」
「まって・・・くだ・・・イテテ・・・」
 ネンダイウスは輪にしたロープを体から外すと下で待っているモータスに向かって放り投げました。
 かくしてネンダイウスは救出され、パンツ一丁の男たちが歓声を上げたのです。
「すいません隊長。油断しました」
「それはいい。とにかく戻ろう。話は怪我の手当が済んでからだ」
「くそー。解けねぇ」
 結んだ軍服を解こうと頑張っている隊員が布をこねくり回しています。
「おい!早くしてくれ!俺のアレが凍えちまってる!」
「お前のはいつも凍えてるだろ。こーんなによ」
 笑い声が雪山に響き渡ります。
「隊長。分かりきっていたことですが、これでは越境はまだ無理ですね」
「そうだな。帰って報告書を書くとするか・・・よし!撤収するぞ!総員帰還準備!」
 仲間の生還を喜び合った男たちは帰還準備の声に安堵の思いを抱き、帰途についたのでした。

 シェルダー少尉からノーエル中将に渡った〈越境は不可能〉の報告が王国評議会や元老院に伝えられたのは2月25日のことでした。









 ライジェン公爵のアレスへの教育も次第に日常に溶け込み始め、時折吹き始めた西風が北国に春の匂いを運び始めた、そんな頃。王国評議会を揺るがす事件が起こったのです。

 その日はいつものように講義を終えて、ライジェンとローデンが歓談をしていたのですが、そこへ突然カフラーがやって来てこう言い放ったのです。
「エノレイル殿。大変申し訳ないが我々にご同行願いたい。あなたにある事件の嫌疑がかけられている」
 そう言われたローデンは全く身に覚えがなかったので惚けた様な顔をしただけでした。
「は?」
 立ち上がりかけたローデンの耳に信じられない言葉が飛び込んできたのです。
「陛下の後見人であるあなたに対してたいへん恐縮だが、あなたには王妃様殺害の疑いありと判断させていただいた。それゆえこうしてまかりこした次第です」
 ローデンはカフラーから告げられた言葉に何も言えずバカみたいに口を開けてまじまじとカフラーを見てしまった程でした。
「なんですと?」
 あまりのことにライジェンも口を出します。
「何を根拠に言っておるのだねカフラー委員長。納得できる説明をいただきたいものだな」
 カフラーはライジェン侯爵の言葉を聞いても表情を崩すことはありませんでした。それどころか黙殺したのです。
「もしもご自分の嫌疑を晴らしたいと思われるなら、つまり身の潔白を証明したいとお思いならば、我々に同行なさったほうが良いと思いますよ」

”私が王妃様殺害の容疑者だって?この人はいったい何を言っているんだ。”

 ローデンはなんと言っていいのかわからず、ただただ唖然とするだけでした。




第2章 第2話へ続く




◆情報----------------------------------------
【ハムラン=ケネス=ライジェン】
 兄が国王に即位するとほぼ同時に兵役につき10年で退役。そのまま王位継承権を放棄して元老院議員になる。最終軍歴は旅団長。公爵の爵位を授与されたがその下位にあたる侯爵ならと、兄より侯爵の爵位を授与。このことで王家から距離を置くことを体現したらしい。

【ノスユナイア王国の国旗】
 上下に分けた二色。上が水色で下が白色。空と雪を象徴している。中央に描かれる星の一群は星神信仰の対象となっている星団【スバル】の配列である。

【諡号の儀式に使う円牌(えんぱい)】
 直径10cmほど。諡号の儀式に使われる円牌にも国旗と同じ数の星が描かれているが、円牌の星はその外周部に沿って配置されていて国旗とは違う。それぞれの星が直線で結ばれているがこれがどんな意味を成すのかは知られていない。
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