サクササー

勝瀬右近

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第1章 第20話 決断 決断 そして 決断

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■マカタチ



 魔法院にあるラットリア=ツェーデルの執務室では、呼び出されたエデリカが戸惑っていました。
 無理もない。突然こんな話を切り出されたらきっと自分でも戸惑ってしまうだろう。そう考えながらツェーデルは過日のモルド大佐とのやりとりを思い出していました。

「エデリカをマカタチに?」
 マカタチとは侍従、侍女のことです。
「うむ」
 渋面をこしらえたモルドが頷くとツェーデルは言いました。
「あの子は近衛になりたいんですよ?」
「分かっている」
「それでは入隊は・・・」
「場合によっては見送りだ」
 少しの間モルドの顔を見つめたあとツェーデルは言いました。
「承知すると思う?」
 モルドは黙って憂鬱そうに視線を動かします。
「そうね。どうやって説得するつもり?」
「それを相談したい」
 ふうっと息を吐いたツェーデルは肘を付いた手指を組んで俯かせた頭を支えます。
「近衛入隊はエデリカのかねてからの目標だったから説得は難しいですね。・・・でも確かに、そうね。良い考えだとは思います。おそばに好意を持っている者がいれば、陛下の気持ちも落ち着きましょうし」
「知っていたのか」
 少し驚いた様子のモルドにツェーデルは片方のまゆを上げました。
「あなたにそれを言われるとはね。モルド大佐」
 わざとらしく咳払いをしてモルドは決まり悪そうにします。「今もエデリカは時間が許す限り陛下のお側にいるようにしているらしいが、学友としての立場では四六時中というわけにも行くまい」
「そうですね・・・」
「エデリカが近衛に入隊できる年齢になるまでに陛下が立ち直っていれば問題ないが、近衛兵になったら学友としての立場は捨てなくてはならない。そうなったら衛兵以上の長時間の近は不自然でもある」
 ツェーデルはモルドの口調が”エデリカが近衛兵になることは既に決まっている事”だったので思わず表情を微笑ませてしまいました。
「その点でマカタチならば帯剣できないが常にお側にいることができる」ツェーデルが何度か頷いているとモルドは更に。「陛下を立ち直らせることが出来るのは今のところ誰もいないと言っていい。エデリカでも難しいだろう」
「・・・かもしれませんね」
「だが、陛下を一人にするのはもっとまずいと俺なりに考えたんだ」
 それはローデンのあの発言を受けての考えでした。
「どのように?」
「先刻ツェーデルが言っていた外国の弔問団の事が出た時におぼろげだった思いがハッキリした。陛下が果たして年齢が近いという条件だけで傷ついた心を他人に開けるものなのだろうか、とな」
 ツェーデルは顎に手をおいて「確かにそうですね」同意を示します。
「外部からの刺激なくして立ち直るというのはありえない。だが、その刺激がかえって陛下の心を固く閉ざしてしまう可能性もある」
「それで侍女ですか・・・」
 頷くモルド。
「心安い者が近くに入れば、初対面の人間との意思の疎通も図りやすいでしょうね」
「誰であっても近くに100%味方であることがはっきりしている者がいるというのは心強いものだからな」
 無骨という印象の強いモルドに似つかわしくない細やかな心遣いに、ツェーデルは穏やかに微笑みます。
「わかりました。でも期待しないで。エデリカにはきちんと話した上で彼女自身に決めさせないとあとあと面倒なことにもなりかねませんから」
「すまないな・・・。俺が直接説得できればいいんだが・・・」
 火に油。ツェーデルがそう言いたげな表情でいるのを見て、モルドは続けました。「・・・それでだな、エデリカが承知したとしても、出来ればローデンの娘だということは隠しておきたい。できるか?」
 その言葉の真意はすぐに理解できました。後見人の娘でしかも学友として親しいというのは既に知れ渡っていることです。そのエデリカが侍女としてお側に仕えるということが発覚した場合、この事実がおかしな噂につながる事は、未だなんの評価も得ていないローデンにとって望ましいことではなかったからですが、これが醜聞に繋がってしまったらアレスの心にどんな影響があるか計り知れません。
「それは髪を染めるなりカツラや化粧なりでなんとかなるでしょうけど・・・。」思案顔のツェーデル。あれほど近衛隊に入隊したがっていた者を果たして説得できるだろうかと表情を難しくしました。「とにかくやってみましょう。でも・・・」
「ん?」
「身分詐称なんて。規則に厳しいあなたが、よくぞ決心したものね」
 不本意を顔に表して視線を落とすモルド。
 彼にしてみれば、ローデンが言っていたアレスの心の傷の回復を促すための対応策であるだけでなく、人として君主への助力を考えたというのが本心だったようですが、人として振舞うためには嘘も必要な要素なのだと瞼を重そうにして腕組みし、鼻息を吐くばかりでした。
「陛下のため・・・」皆まで言うなという感じでツェーデルは笑顔をつくりました。「そういうことにしておきましょう」



 しかしエデリカにまで嘘をつくわけには行きません。彼女には真実を知ってもらった上で話す。でなければ到底説得など出来ない事をツェーデルはよくわかっていたのです。
「あの・・・侍女って、あの侍女、ですか?」
 ツェーデルはええと口を動かしただけで実際に声は出しませんでした。
「ツェーデル先生。冗談・・・」
「ではないの」
 エデリカは視線を泳がせて一体どういうことなのか思案を巡らせています。
「でも・・・」
ツェーデルは首をかしげてエデリカの次の言葉を待ちました。
「私・・・もうすぐ近衛に・・・」
「わかっています」
「じゃあそれまでの間だけ侍女に?」
「場合によっては延長されます」
「そんな!」
 やはり。そう思ったツェーデルはふっと息を吐きました。
「私は近衛になってアレ・・・陛下と約束したんです!守るって!一番近くで守るって!誰にも邪魔させないわ!」
「エデリカ。落ち着いて」
「誰の提案ですか?・・・」ハッとするエデリカ。「大佐?・・・モルド大佐なんですね?先生!」
 勘がいい。ツェーデルはそう思ったものの、近衛入隊が延期される場合があるなどと言われれば、その影にモルドの姿が見えるのはわかって当然、と仕方なく開き直ったのです。
「ええ。そうです。この提案は大佐がして、私はあなたを説得する役目を引き受けました」
「わたし嫌です!」
 エデリカは思いました。自分を近衛にしたくない理由が知りたい。と。
「どうして?!あの人はそんなに私を近衛帯に入れたくないんですか?!」
 ツェーデルは興奮気味のエデリカをじっと見据えて、視線を一度落としてから再び元に戻しました。
「エデリカ聞いて。陛下のご様子がおかしい。あなたはきっと分かっているだろうから多くは言いません。はっきりとしていることは、陛下は今の状態ではとても王国評議会への出席など望めないということです。そしてそうであるからには、このままの状況が続くと、ノスユナイア王国にとって非常にまずいことになるということです」
 心の内は穏やかではありませんでしたがツェーデルの言っていることをエデリカは理解できました。
 現在アレスは塞ぎ込んでいて、あのカーヌ=アーにさえ心を開こうとはしていませんでした。ツェーデルならずとも先行きの不安は大きいと考えるでしょう。
「現状では陛下がお立ち直りになられるのが一体いつになるのかというのは全くわかりません。勿論我々王国評議会の構成員全員が陛下のよき理解者であろうとしていることは言うまでもありませんが、陛下が心を閉ざしている以上、その思いは空回りするばかりでしょう」
 頷かずそっと息を吐くエデリカ。
「陛下をひとりにしてはならない。外部への窓口となる理解者がお側にいる必要があるのです」
「それが・・・侍女・・・」
「そうです」
 事情は飲み込めました。
 モルドやツェーデルが何を考えて自分を侍女にしようとしたのかも理解できました。しかし理解できても心情的には受け入れられなかったのです。
「そんなの・・・、そんなの勝手です!だって私は・・・」
「ええ」ツェーデルはエデリカの言葉を遮りました。「私は勝手な事を言っています。あなたの意思を尊重することもせず、陛下の為という大義の下にあなたに困難な選択をさせようとしています」
 そう言った賢者の目は、エデリカには疲れたような感じに見えました。しかし実際は疲れているのではなく、困っていたのです。適任者がエデリカしかいないという、選択の余地が全くない事に。

「あなたは今、陛下を一番近くで守ると言いましたね?」
 興奮して息が荒くなったエデリカは、肯(うなず)きもせずツェーデルを見つめました。その目には悲しみと戸惑い、怒りや不安などが渾然となっています。
「その意味があなたには分かっていますか?」
 言われたことの意味がよくわからない。視線の動きで思案していることを読み取ったツェーデルは「陛下を守るという意味をあなたはわかっていて?」また同じ質問を繰り返しました。
「・・・」
「わからないのであれば教えてあげます」
 エデリカは今までいく度か自問自答していた事を思い出していました。
 剣術に長けているだけでアレスを守れるだろうか。近衛になれば答えが見つかるのだろうか。それらの答えを目の前にいる賢者が教えてくれる?でもそれと侍女になることがどう関係しているんだろう。ごまかすつもりなんだろうか。
 疑心は暗鬼を生じさせ、エデリカの心を頑なにしました。
「陛下を守るという行為は、国家を守るという行為に等しいのです。そしてそれはノスユナイア王国に住まう1000万人の民を守るという意味でもあります」
 ツェーデルは少し間をおいて言いました。
「あなたにその覚悟がありますか?」
 ある。もちろんある。エデリカはそう答えたかったのですが、どういうわけなのか、口が動きませんでした。頭の中で”違う”という言葉が何回も浮かんでは消えてゆきます。
 違う。私が守りたいのはアレスで、国家なんかじゃない。
「私も大佐も、いいえ、国家の中枢にいる全員が形こそ違っても陛下をお護りしているのです。私が先ほど言った言葉の意味を理解した上で、ね」
 エデリカは興奮しながらも、じっとツェーデルの言葉に聞き入っていました。
「あなたが本当に陛下を守りたいと思うのなら、頑なになってはいけません。目標を持つことは大切ですが、その目標が目的を得るための足枷になってしまっては本当に自分がしたいと思うことが手に入ることはないでしょう」
「でも・・・でも私は戦うことしか・・・」
 得意分野を開発して、それを切磋琢磨することで自信を得てゆく。人はそうして成長して人生を歩いてゆく。エデリカにとって近衛兵になるというのはアレスの近くにずっといるための手段でした。そうすることが彼女にとって正しいことだったのです。
「エデリカ。自分の可能性を狭めないで。剣を持つことは大切なことではありません。大切なのはあなたの心の中にある陛下を守りたいという気持ちです。陛下もあなたもまだまだ若い。先が見えなくて不安になることもあるでしょう。でも志を同じくする私たちがあなたたちの道標となれば、求めるものがきっと手に入ります」
「・・・」
「私も大佐もあなたの目標を壊そうとしているわけでも、人生を狂わそうとしているわけでもないの。ただ陛下のことを思い、私たちと志を同じくする者に手を貸したいと思っているだけ。それは分かってね」
「・・・」
 視線を落としてじっと話に耳を傾けているエデリカは迷っているようにも落胆しているようにも見えました。
「でも。選択するのはあくまでもあなたです。決断はあなたの意思でなされなくては全く意味がありません。一日よく考えて、どうするか決めたらもう一度私のところへいらっしゃい」
 去りゆく教え子の後ろ姿を見送りながら賢者ラットリア=ツェーデルは成熟した大人でも判断することが難しい選択をさせることに苦悩していました。
 苦渋の決断をするにはエデリカはまだ若すぎたからです。






 その夜。

 エデリカは理不尽を感じていました。
 近衛になるのは個人の自由で、その理由を聞かれることはない。なりたいという意思と実力があれば何も問題はない。
 それなのにこれは一体どういうことなのだろう。どうしてこんな決断をさせられなくてはいけないのだろう。
 
  彼女はふとカーヌ=アーがいつも自分に言っていた事を思い出しました。

”人の心は数学的に割り切れるものでは絶対ありません。だからひとつの問題が持ち上がったら、それには必ず二つの違った答えを与えなさい。似たような答えもいけません。双方の答えの結果が全く違う状況を齎(もたら)すとしても、どちらも自分にとって納得できて正しいと思える答えを探すのです”

「二つの・・・答え」
 既に答えは二つあります。近衛になるか侍女になるか。
 でもこれは違うようにも思えました。なぜなら近衛になることは正しいと思い、侍女になることは少なくとも今は正しくないと思っているからです。
 そこでアレスを護るという観点から考えました。
 これならば侍女であっても近衛であっても目的の達成はできます。しかし侍女になることを納得できるかと言えば納得することは難しく思えました。
 やはり自分は近衛になりたい。そのためにずっと努力してきたのだという思いが強かったのです。

 ”陛下を守るということの意味をわかっていますか?”

 エデリカは一途であっただけなのです。だから国家がどうでもいいというより、ただただアレスのそばにいて彼を勇気づけ、襲い来る脅威や不安から守り、安心させてあげたいと思っているだけなのでした。

 得られる結果は違うのに、どちらをとっても納得できる。そんな答えなどあるものなのだろうか。カーヌは理想を言っているだけなのかもしれない。

 エデリカは今度は自分が侍女になったらアレスがどう思うかを考えてみました。
  
 簡単に夢を捨ててしまう浅はかな女だと軽蔑するだろうか。それとも傍にいるなら侍女であろうと近衛であろうと気にしないだろうか・・・。
  
 これはあまり考えたくありませんでした。
 それはアレスが思うことであって、自分が納得するかどうかとは無関係と思ったからです。

 ”大切なのは陛下を守りたいというあなたの気持ちです”

 自分の意思。
 自分で決断しなければ意味がない。
 アレスを護りたい。
 侍女になることはアレスを立ち直らせるため。

 自分がどうすれば良いのかをエデリカはもうわかっていました。
 それでも、自分を納得させるためにくどいくらいに何度も繰り返し考えたのです。

 近衛、侍女、どちらをとってもアレスの傍にいることができる。

 要は自分が我慢すればいいのです。が、我慢するということは納得していないということです。

 でも近衛になれないわけじゃない。
 アレスが立ち直って、そのあとに近衛になることだって出来るかもしれない。
 多少回り道になるだけ。
 アレスの今の状態を考えればこの選択は正しいと思える。
 近衛であろうと侍女であろうとアレスを護るという私の気持ちに違いはない。

 エデリカはそこまで考えてハッとしました。またしても以前カーヌが言っていた事を思い出したのです。

 ”愛国心”

 ツェーデルが言っていた”アレスを守るということは国家を守るということである”という言葉は、この愛国心に通じる何かではないのか。

 ”愛国心は人それぞれでその形は様々。”
 ”国王陛下を守りさえすればそれが愛国心なのかといえばそうではない場合だってある。”

 カーヌはそう言っていた。
 難しい。
 難しいけれど何かの緒(いとぐち)のように思える。

 アレスを守ること。
 国王陛下を護る事。
 それの本当の意味を知りたい。
 侍女になってその意味を知ろうとするのは、近衛兵になるために努力しているのと同じ事なのではないだろうか。

「ありがと・・・カーヌ」
 二つの答えは出されました。
 エデリカは侍女になることを、暫くの間近衛隊士になれない事を納得した上で、決断したのです。






◆デヴォール帝国軍 動く◆


 王国評議会でローデンの発言がなされた翌週。1月23日。
 招集された元老院議会では在国師団の司令官を交えて王国評議会で決定した事項を発表しました。すると元老院たちから評議員たちが想定していなかった反応が返ってきたのです。
 何もしない王などありえない。という意見から始まって、王国評議会の構成員は官僚主体で政治家が少ない。そんな偏った機関での国家運営など無理があるのではないかというものだったのです。この発言に殆どの軍人たちも賛意を表明しました。
 もしも王妃ローレルが存命ならば、おそらく元老院議員たちは反発などしなかったでしょう。なぜなら議員たちのほとんどが王妃がどういった人物であるかをよく知っていたからです。
 女でありながら政(まつりごと)に識が深く、理もわきまえていて、現実的。そんな人物であれば一定期間新国王アレスとの共同統治でも問題ないと考えたに違いない。三賢者たちも王国評議会の議員たちもそう思うだけの理由はあり、それは事実でもありました。
 では元老院は一体どうしたいのか。
 評議会側が聞くまでもなく、元老院議員たちから提案がありました。
「王国評議会の方々。元老院議員の中から何名かを招聘してもらいたい。評議会構成員に加えてくださらなくとも結構。国王陛下に政治哲学を知って頂くための場を設け、我々にも陛下に助力して差し上げる機会を与えて欲しい」
 提案はこの一件のみで、それは元老院議会からの嘆願と捉えたのは王国評議会の一致した見解でした。
 この提案を王国評議会は突っぱねることもできました。しかし元老院銀たちは各地の有力氏族や貴族たちから成っていて、当然彼らの所領から多くの兵力提供がありました。軍事力を背景にした政治関与はここ数百年、ノスユナイア王国ではありませんでしたが、ここで譲歩しなければ国体に重大なゆがみが生じかねないと考えた王国評議会は二日ほどの討議を経て元老院の要望を受諾。そして元老院より提出された原案を持って元老院会議に臨み、何度かの休憩を挟みながら数日かけて決まったのは以下の内容でした。


骨子
・元老院から1名を国王陛下の教育役として抜擢する。尚、選出方法は元老院に一任する。
・任期は陛下の成人まで。
・教育役として招聘される者には何らの特権も与えない。
・任期中の元老院議員は元老院会議への出席、および関与を認めない。これを犯したときには即時解任し厳罰に処する。
・王国評議会への出席は認めない。
・教育役が国王陛下と同席中、後見人及び評議会が定めた監視役も同席する。
・守秘義務を課し、守られなかった場合は解任。場合によっては断罪する。
・任期途中でも王国評議会が教育役として相応しくないと判断した場合、予告なく解任し以降同一人物の任命はしない。
・この骨子案については、今後改変、追加が成される可能性を考慮したものとする。

 この条件の多さは評議会側がこの取り決めをどう思っているかを如実に表すようでした。
 実施については先日ローデンの進言によって評議会が決めたアレスの心の傷の回復を待ってから、という可決済みの事項も合わせて元老院議会は受け入れたのです。



 そしてこの議決がなされたあくる日、派兵軍から暗号による秘密文書が届きました。情報長官マリウスが王国評議会でレアン共和国とフスラン王国の国境でデヴォール帝国軍に不穏な動きを認めるという内容が報告されました。
「以上、ドリエステル司令官からの密書です」
 冬期は休戦期間。それは暗黙の了解とでも言う感じで、戦時であってもその部分だけは律儀に実施されていました。しかし冬季とはいえ今回は状況がまるで違います。王国はまたひとつ困難への対処を迫られたのです。
 
 現在ある王国の不安定さにつけ込まれる、若しくは結束が緩み命令系統が弱体化している事を見込んだ仮想敵国の勝手な予測で、事に及ぶかもしれないとなれば迷っている暇はありませんでした。が、今は山越えが困難な冬季です。如何に整備された軍道があるとはいえ、標高3000m級の山々が連なるレノア山脈の冬季の気候は大荒れで、除雪作業などしようものならまさに命がけという状況なのです。簡単に兵力増員というわけには行きません。
 北回りで船で、という案が出ましたが元老院でも猛反対でした。
「あんな化け物だらけの海に漕ぎ出すなど愚か者のすることだ」
「レアン共和国の調査結果ではアリノホークやジェノホークがあのあたりで何度も目撃されている。あんなものに襲われたらひとたまりもないぞ」
「レノア山脈北部は大山岳地帯と同じ様相を呈しているのを知らんのか?」
「あんな場所を3000kmも航海するなど不可能だ」

 レアン共和国はノホーク灘を調査して以下の事実を公表している。
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 ノホーク灘は小さな岩礁が点在するばかりか霧が頻発する難所と呼ばれている。それを聞いただけでも嫌な気持ちになるが、それに加えて3種類の障害があった。
 ひとつは浮遊岩石生物デラックである。この怪物は個体差があるものの大きさは概ね数メートル以上もあり数もかなり多く非常に硬くて突起が多い機雷のような形をしていてノホーク灘の全域を漂流している。これに船が衝突すれば船体に穴が開くこともある。だがこの浮遊生物は積極的に船に襲い掛かる事はない。ただ浮いているだけなのだ。
 ふたつ目の障害はこのデラックの上を生活の拠点としているマグと呼ばれる怪鳥がいる。羽を広げた体長は30~40㎝。目がある位置からカニのように突起が伸びてその先に眼球がある。口は蝶のような巻取り式の管でこれをデラックに挿し込んで何かを得ているらしい。デラックひとつに10~20体棲みつく。人体に直接被害を与えないが羽ばたくと磁気を発生し羅針盤を狂わせるという厄介な存在である。もしもこの時に折悪しく霧が発生すると方向を見失った船がラデックに衝突あるいは座礁してしまう。

 座礁したり立ち往生している船があるとそれを狙う怪物が忍び寄ってくる。この三つ目の障害が一番恐ろしい。
 この怪物はアリノホーク、またはジェノホークと呼ばれ恐れられている。
 アリノホークもジェノホークも体長は触手を含めても50~60cmでそれほど大きくはなく一見タコのように見える。この化け物の足は12本あって、そのうち8本にはタコのような吸盤があるが、この吸盤にカギ爪が付いていて一度吸い付かれたら引きはがすときに怪我をする。そして残りの4本の足の腹の部分に多くの目玉状の組織があるが、これは感熱組織と嗅覚組織。この化け物はまず嗅覚を使って海にはない物質である木材や金属、布、そして人の匂いを嗅ぎつけて近寄ってくる。そして感熱組織を使って発熱物体を感知したとたんに触手を使って絡みついてくる。そして絡みつくと同時に獲物の体に針を刺して溶解液を注入する。
 アリノホークは溶けた肉を啜るが、ジェノホークは頭に絡みついて耳の穴に針を突き差して脳髄を啜る。アリノホークなら場所によっては引きはがして治癒魔法で手当てできるが、腹に溶解液が注入されたらのたうち回って死ぬことになる。そしてジェノホークに絡みつかれたらまず助からない。
 しかもこれが数匹程度ではなく50~100匹という群れで襲ってくるのだ。

 この怪物から逃れる方法はひとつだけである。アリノホークもジェノホークも泳ぎが得意でないので動きが遅い。だからとにかく船を止めない事が肝要である。航行中の船に襲い掛かってくることはまずないのだ。だが浮遊岩石生物のデラックとの衝突を避けるため船速を下げなければならない。船舶はあらゆる衝突被害を避けるために船首に金属製の防護板を取り付けてはいるが、デラックへの衝突回数が多くなるとそこに巣食っていたマグが羽ばたき船にたかる事で磁気異常を引き起こし羅針盤がくるってしまう。そこに霧が行く手を阻めば座礁や岸壁への衝突の危険性が増す。
 どうしてもと言うなら風のない時期の航行を奨めるが、近寄らない事が一番だ。

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 ノホーク灘、ナーヴ灘、リバント灘。船乗りの間ではこの世界の3つの灘の怪物を神格化してる風習も残っているが、この怪物たちを殺した太古の魔法使いの事を神殺しと呼んでマストにその名を刻んだり、名を記した守り札を船のいたるところに張り付けたり、中には船名にしてもいました。
 しかしこの海峡は難所と呼ばれるだけあって国境の役目も果たしているのです。
 船での航行が容易でないことから、デヴォール帝国も易々とは侵攻が出来ず、200年前の紛争の時もここから帝国がノスユナイア王国へ進軍してくることはありませんでした。

 さてそんな事情で兵士の増派は困難を極めましたが、ドリエステル元帥の密書の内容を読めば、どうやら一触即発の事態というわけではなっそうであることが読み取れたので、まずは三個師団をレノア山脈登山道入り口に一番近いイシア城塞に常駐させ、随時越境可能であるかを調査させつつ、もしもの時にはすぐに出発できるように準備することを決定したのです。
 そしてもう一つ採られた施策があります。それは友好国であるトスアレナ教皇国に支援を求めるというものです。サホロ公国はトスアレナ教皇国の属国だったのでまずは宗主国に使者を送ってフスラン王国の国境に軍備を増強してもらおうと考えたのです。これによってレアン共和国との国境に配備された軍事力を分散させることが期待できます。
 しかしノスユナイア王国の友好国とはいえ戦闘の片棒を担ぐという危険を果たして容認するかと言えば、それは考えるまでもなく可能性としては低いと言わざるを得ません。トスアレナ教皇国がサホロ国境に軍事的行動でもしようものなら、帝国がなにをするか分かったものではないという不安は大きかったのです。

 結局王国評議会は過酷な決断をすることになってしまいました。雪解けするかしないかというギリギリの時点でイシア城塞に駐屯させておいた三個のうちの二個師団を増援として派遣する。事態が急変したのであれば強行軍での増派兵を断行するというもので、いずれにしても現段階ではレアン共和国軍とノスユナイア王国派兵軍に国境防衛を期待するしかないというのが最終決定でした。




第21話に続く。
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