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第2章 日常讃歌・相思憎愛
第8話 カブ
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空冷4ストロークSOHC単気筒エンジン独特の排気音だけが響く。星斗と亜依の乗った白い愛機が、対向車も人も全くいない道をひた走っていた。
「もう少しで着くからしっかり掴まってろよ!」
「うん!」
仁代星斗は娘の亜依に話しかけ、自身のキツイ乗車姿勢を誤魔化す。
(この体勢は本当に乗り辛い……学校までもう少し……頑張れ、俺!)
娘に大変な想いをさせる訳にはいかず、かと言って他に素早く移動できる手段もない。星斗はカブのスロットルを全開までひねり、現状出しうる限りの最高速度で深山高校へと向かっていた。
途中、亜依の身体の元の持ち主である、亜衣の家の車を借りれば良かったと何度かそんな考えが過ぎった。
しかし、車両がそこかしこで交通事故を起こし、霊樹と共にアスファルトに縫付けられている状況である。それらを鑑みるに、小回りの利くバイクが一番速度を出せる選択肢だという結論に戻ってくる。
そんな事を考えていると、目の前に信号待ちの車に追突し、玉突き事故を起こしている車両の群れが見えてくる。
車両は折り重なり、霊樹が根を張って道路を塞いでいる。
「あー……これどうするかな……」
「お父さん?」
カブの速度を緩めて交差点前で停車し、路肩にバイクを寄せる。
そこは比較的大きな県道同士が交わる交差点だが、複数の車両にバスが突っ込んで、交差点を塞いでいる。幸い火災にはなっていないようだが、各車両の運転席や助手席から霊樹が生えてアスファルトに根を張っている。観光バスと思しき大型のバスは窓ガラスが割れ、霊樹が枝葉を伸ばし放題になっていた。最早こんもりとした古墳の様な、小高い霊樹の丘を形成している。
「都内からの観光バスか……最近増えてたからな。子爵様効果かな」
子爵様とは、深山市出身の江戸時代から明治時代にかけて活躍した偉人である。
深山市には生家や所縁の地が複数あり、大河ドラマや新紙幣発行のお陰で、最近は都内等から観光バスに乗って訪れる人が増えていた。
星斗が受け持っている七元駐在所は、その偉人の生家も管轄として受け持っている。他にも管内には偉人の師匠の家や、お祭りの行われる神社、資料館等がある。
星斗も一通り見学したり、親戚筋の人達とよく話しており、現在100歳近い人達はその偉人の事を「子爵様」と呼ぶ。
同時期活躍した政財界の大物達の中で、唯一男爵の1つ上の子爵を賜った事に由来する呼び名である。
余談だが、駐在所のすぐ北側の道は旧七元村のメインストリートであり、その道は「戦勝通り」と呼ばれており、偉人の生家があった場所の正門まで延びていたそうだ。
「お父さん、どうする?」
「んー……、まだ歩いて行くには遠いいんだよなぁ……」
県道であるため、歩道はあるが追突してはみ出した車両が道を全て塞いでいる。
更にその車両から霊樹が根を下ろし、アスファルトに食い込むようにガッチリと車体を縫い付けていた。
星斗と亜依は何処か通れそうな場所がないかと、辺りをキョロキョロと探して回る。どうしても駄目であれば、回り道しなければならない為、できればこのまま進みたい。だが、道路は完全に塞がれてしまっているようだ。
「これは厳しそうだな……引き返して迂回するか……」
星斗は道路が塞がれて通行できないと判断し、迂回しようと考えていた。
そんな星斗に亜依が声をかける。
「ねえお父さん、こっちから行ったら駄目なの?」
亜依は道路脇の畑を指差しながら、そんな疑問を投げかける。
県道は片側1車線の車道に、縁石で区切られた歩道が設置されている。歩道の両脇は畑になっており、まだ収穫されていない時期遅れの葱が植えられている。体だけで葱を跨いで歩いて行くならば、問題なく霊樹の森を迂回することができるだろう。
だが、バイクを走らせるとなると、無理がある。
土寄せして高くなった畝、そして畝と畝の間隔は狭く深い。
固く締まった土は簡単には崩れず、行く手を阻む。
「持ち上げられれば早いんだけどな……」
どうしたものかと思案する星斗は、カブに手をかけ、荷台を持ち上げる動作をしてみる。
ガタッと荷箱が音を立て、カブの後輪が軽く浮き上がる。
「えっ――」
星斗は一瞬、センタースタンドを立てていて、後輪が持ち上がっただけかと思った。だが、センタースタンドでは立ててはおらず、サイドスタンドで駐輪している事を思い出した。
未だ大した重量感も感じずに、カブの後輪を持ち上げている自身の手を見て、星斗は自分の手とは思えない不思議な感覚を覚える。
それと同時に、不気味なものを見ている気がして慌ててカブの後輪を下す。
「今、なから軽かったぞ……」
自分の手とカブを交互に見ながら、星斗は今起こった事が夢ではないかと疑う。
今現在が悪夢の様な世界のため、夢なら覚めてくれと思ってしまう。
だがそんな都合のいい事は起きない。星斗は現実を確かめようと、もう一度カブの荷台に手かける。今度は両手でバランスを取りながら荷台を持ち上げる。
「軽!!」
ヒョイっと音が鳴るような簡単さで、カブの後輪が持ち上がる。特に踏ん張ることもなく、持ち上げ続けられてしまう。
「お父さんすごーい!」
「どうなってるんだこれ……」
亜依の無邪気な歓声とは裏腹に、星斗は今起きている事が理解できずに混乱していた。
余りの軽さに思わず右手で離してしまうが、左腕1本でカブの車両重量を支えられてしまっていた。
カブの車両重量は100キログラム近い。いくら後輪と荷箱だけとは言え、それなりの重量だ。
それをあたかも、自転車を持ち上げるような感覚でできてしまったのだ、現実も疑いたくなるというものだろう。
持ち上げた後輪をそっと下し、自身の両手を握ったり開いたりして、感触を確かめる。
「特に変な感じはしないんだけどな……」
「お父さん!もう1回やって!」
「ぉ……おう……やってみる……」
今度はカブの左横に回り、右手でキャリアのグリップバーを、左手でハンドルを握り、力を込めて真っ直ぐ上に持ち上げてみる。
ズズッとカブの車体が持ち上がり、両輪が宙に浮く。
しかし、星斗は大した力を込めてはいない。
更に、洗濯籠でも持つかの様に、カブの車体を浮かせたまま斜め前方へと突き出し、背筋を伸ばす。
(重く感じないな……このまま歩けるか?)
星斗はカブを持ち上げたまま1歩2歩と歩き出し、縁石を跨いでカブの車体を歩道に下す。
「すごーい!お父さん力持ち!!」
「…………大丈夫か、俺の身体」
亜依は素直に凄いと褒める。だが星斗本人は自身の身体に起こった変化に戸惑い、困惑していた。
巨大猪の時といい、巨大熊やルフと呼ばれる男の時といい、今日だけで別人の様に身体が変化している。
そのお陰で生き延びているものの、自分が得体のしれない”何か”に変化していっていると思うと、恐怖が込み上げてくる。
(身体が丈夫になっただけじゃなく、力も強くなっている?強くなっているとか、そういう問題でいいのか?)
「お父さん!そのまま持ち上げて、行っちゃえばいいんじゃない?」
「……お、おう……そうか、やってみるか……」
今は考えている暇もないことを思い出し、星斗は亜依に言われるがまま、カブを再度持ち上げてみる。
「軽い……さっきよりも軽くなった気がする……これなら行けるか?」
「頑張って!お父さん!!」
「ふんっ!!」
星斗は再度キャリアのグリップバーとハンドルを握り、腕を両脇に引き付け、背筋に力を込める。そのまま全身を使って身体を後ろへ反る様にしてカブを持ち上げる。
込めた力の割に、呆気なくカブの両輪が地面を離れ、宙に浮く。
そしてそのまま、勢い余って水平近くまで持ち上がってしまう。
「っと、ガソリンが漏れたらマズい。にしても簡単に持ち上がったな……」
「お父さんこっちこっち!ここからなら通れそうだよ!」
星斗は力の込め具合と、刻々と変化していく自身の身体に四苦八苦していた。
そんな中で、亜依は葱畑の中に突っ込んだ車と車の隙間見つけ、霊樹の枝を持ち上げながら星斗を呼ぶ。
何とか安定してカブを持ち上げたまま維持できるくらいに力を調節し、ゆっくりと歩き出す。
「ゆっくり行くから、ちょっと待っててくれ」
「分かったー」
歩道から畑に下り、畝を1つ1つ丁寧に跨いで越え、亜依が待つ場所の畝までカブを持ち上げたまま跨ぐ。畝の堅くなった土の上を1歩ずつ確実に歩いていく。
ベシベシとカブのタイヤが葱に当たり、葱の葉と葱坊主が揺れる。
育った作物に傷を付けるのは本意でない。
申し訳ないと心の中で謝りつつ、星斗はゆっくりと丁寧に歩みを進めていく。
「亜依、そこをくぐるから、枝を持ち上げたまま隣の畝にいけるか?」
「行けるよ、ちょっと待ってね」
亜依は隣の畝へと大きく飛び越えた。亜依の身長で畝を跨ぐのは、畝の底から葱の頭までの高さが高すぎる。飛び跳ねて越えるしかないのだろうが、そう、両足を揃えて易々と葱に触れることなく跳び越えてしまったのだ。
この時期の葱は、昨年に植え付けられて成長しきった状態である。土寄せもされていることで、畝の底から葱の葉の先までだと1メートル以上の高さがある。
亜衣の身長が120センチメートル位とすると、自分の身長に近い高さを跳び越えている事になる。
亜依もまた星斗と同じように、身体に何らかの変化が起きているのだろうか。
星斗は亜依の姿を見ながら、ふとそんなことを思う。
願わくば、これ等の変化が悪いものでない事を祈り、亜依へ身体に不調がないかを問う。
「亜依、身体の調子は大丈夫か?変な所はないか?」
「うん?大丈夫だよ?亜依の体、何かおかしい?」
星斗の問に亜依が不思議そうに答える。
「いや、何か凄い跳んでたから……大丈夫ならいいんだ。亜依の運動神経がいいのかもしれないし、体の持ち主の亜衣が運動神経良かったのかもしれないし」
「んー……分かんない。お母さんといた時は身体無かったし……亜衣の記憶にもそんな記憶は無いし……」
亜依にはそもそもとして、肉体を持って動いた記憶が無い。あるのは美夏から教わった知識と、亜衣が持つ記憶だけである。
そも亜衣は幼稚園児であり、そんな高く跳べるはずもないのだ。
何らかの原因で星斗だけでなく、亜依の身体にも変化が起きているのは間違いないようだ。
「そうか……まあその辺は後で調べてみようか。ああ、ちょっとそこの枝を持ち上げてもらえるか?」
「うん、分かった」
亜依が霊樹の枝を持ち上げ、その隙間を星斗がカブをくぐらせる。
そのまま葱畑の中を進み、適当な所で道路まで再度葱を跨いで歩いていく。
常人では考えられない膂力でカブを持ち上げ続け、大して疲労することも無く歩道まで上がる。
「よっと」
歩道を乗り越え、車道にカブをそっと下した星斗は軽く息を吐く。そしてカブを持ち上げていた、自身の両手を見て再度握ったり開いたりする。
「……全く何ともない」
「お父さん凄い!やっぱり力持ち!」
亜依が駆け寄ってきて、星斗を純粋に凄いと羨望の眼差しを向ける。だが当の星斗は素直に喜べる状況ではなかった。
(後でゆっくり調べないとな……)
自身の身体の変化がどういった原因で、どんな影響を受けているのか。更に星斗だけなく亜依にもその変化の様子が見られる。
これが身体に悪い影響がなければ良いが、もしも、何らかの悪影響を及ぼしているのであれば、早急に対策を考えなければならないだろう。
(それに……あの弾のこともあるしな……)
星斗は小学校での猪との戦いや、先程の林の中での戦いを思い出し、その時に掌の中に現れた紅と翠の銃弾を思い出す。
無我夢中で銃弾を創り出し、巨大猪に撃ち込んだ1発。
霊子を意識し、自らの意思で銃弾を創り出し、あいつにぶち込んだ1発。
その後誰の手も借りずに創り上げ、熊に食らわせた2発。
合計4発の銃弾を創り、撃ち込んできた。
通常の銃弾も撃った。警察官として一生に一度有るか無いかの経験だ。
それを上回る出来事が、起こり過ぎている。
あの銃弾は薬莢も残らず、空気中に霧散してしまって手元には何も残っていない。
一緒に戦った管理者の男と女から教わった、「願い」を霊子に込めた銃弾。
そもそも「霊子」とは何なのか、それを生み出す元人間の「霊樹」とは一体何なのか。
考えても答えに辿り着ける訳がないが、元凶は分かっている。
「ルフ」と呼ばれる男が「彼の方」と呼ぶ者の為にやったのだと。
「お父さん?」
「ん……ああすまん。考え事してた、みんなの所へ急ごうか」
カブを置いてそのまま考え込んでしまった星斗を見て、亜依が心配そうに声を掛ける。
星斗も今やるべき優先順位を思い出す。
ヘルメットを被った亜依の頭をポンポンと叩き、亜依を持ち上げてカブに乗せて自身も跨る。
「さて、行きますか」
「しゅっぱーつ!」
2人を乗せたカブが元気よく走り出す。
「もう少しで着くからしっかり掴まってろよ!」
「うん!」
仁代星斗は娘の亜依に話しかけ、自身のキツイ乗車姿勢を誤魔化す。
(この体勢は本当に乗り辛い……学校までもう少し……頑張れ、俺!)
娘に大変な想いをさせる訳にはいかず、かと言って他に素早く移動できる手段もない。星斗はカブのスロットルを全開までひねり、現状出しうる限りの最高速度で深山高校へと向かっていた。
途中、亜依の身体の元の持ち主である、亜衣の家の車を借りれば良かったと何度かそんな考えが過ぎった。
しかし、車両がそこかしこで交通事故を起こし、霊樹と共にアスファルトに縫付けられている状況である。それらを鑑みるに、小回りの利くバイクが一番速度を出せる選択肢だという結論に戻ってくる。
そんな事を考えていると、目の前に信号待ちの車に追突し、玉突き事故を起こしている車両の群れが見えてくる。
車両は折り重なり、霊樹が根を張って道路を塞いでいる。
「あー……これどうするかな……」
「お父さん?」
カブの速度を緩めて交差点前で停車し、路肩にバイクを寄せる。
そこは比較的大きな県道同士が交わる交差点だが、複数の車両にバスが突っ込んで、交差点を塞いでいる。幸い火災にはなっていないようだが、各車両の運転席や助手席から霊樹が生えてアスファルトに根を張っている。観光バスと思しき大型のバスは窓ガラスが割れ、霊樹が枝葉を伸ばし放題になっていた。最早こんもりとした古墳の様な、小高い霊樹の丘を形成している。
「都内からの観光バスか……最近増えてたからな。子爵様効果かな」
子爵様とは、深山市出身の江戸時代から明治時代にかけて活躍した偉人である。
深山市には生家や所縁の地が複数あり、大河ドラマや新紙幣発行のお陰で、最近は都内等から観光バスに乗って訪れる人が増えていた。
星斗が受け持っている七元駐在所は、その偉人の生家も管轄として受け持っている。他にも管内には偉人の師匠の家や、お祭りの行われる神社、資料館等がある。
星斗も一通り見学したり、親戚筋の人達とよく話しており、現在100歳近い人達はその偉人の事を「子爵様」と呼ぶ。
同時期活躍した政財界の大物達の中で、唯一男爵の1つ上の子爵を賜った事に由来する呼び名である。
余談だが、駐在所のすぐ北側の道は旧七元村のメインストリートであり、その道は「戦勝通り」と呼ばれており、偉人の生家があった場所の正門まで延びていたそうだ。
「お父さん、どうする?」
「んー……、まだ歩いて行くには遠いいんだよなぁ……」
県道であるため、歩道はあるが追突してはみ出した車両が道を全て塞いでいる。
更にその車両から霊樹が根を下ろし、アスファルトに食い込むようにガッチリと車体を縫い付けていた。
星斗と亜依は何処か通れそうな場所がないかと、辺りをキョロキョロと探して回る。どうしても駄目であれば、回り道しなければならない為、できればこのまま進みたい。だが、道路は完全に塞がれてしまっているようだ。
「これは厳しそうだな……引き返して迂回するか……」
星斗は道路が塞がれて通行できないと判断し、迂回しようと考えていた。
そんな星斗に亜依が声をかける。
「ねえお父さん、こっちから行ったら駄目なの?」
亜依は道路脇の畑を指差しながら、そんな疑問を投げかける。
県道は片側1車線の車道に、縁石で区切られた歩道が設置されている。歩道の両脇は畑になっており、まだ収穫されていない時期遅れの葱が植えられている。体だけで葱を跨いで歩いて行くならば、問題なく霊樹の森を迂回することができるだろう。
だが、バイクを走らせるとなると、無理がある。
土寄せして高くなった畝、そして畝と畝の間隔は狭く深い。
固く締まった土は簡単には崩れず、行く手を阻む。
「持ち上げられれば早いんだけどな……」
どうしたものかと思案する星斗は、カブに手をかけ、荷台を持ち上げる動作をしてみる。
ガタッと荷箱が音を立て、カブの後輪が軽く浮き上がる。
「えっ――」
星斗は一瞬、センタースタンドを立てていて、後輪が持ち上がっただけかと思った。だが、センタースタンドでは立ててはおらず、サイドスタンドで駐輪している事を思い出した。
未だ大した重量感も感じずに、カブの後輪を持ち上げている自身の手を見て、星斗は自分の手とは思えない不思議な感覚を覚える。
それと同時に、不気味なものを見ている気がして慌ててカブの後輪を下す。
「今、なから軽かったぞ……」
自分の手とカブを交互に見ながら、星斗は今起こった事が夢ではないかと疑う。
今現在が悪夢の様な世界のため、夢なら覚めてくれと思ってしまう。
だがそんな都合のいい事は起きない。星斗は現実を確かめようと、もう一度カブの荷台に手かける。今度は両手でバランスを取りながら荷台を持ち上げる。
「軽!!」
ヒョイっと音が鳴るような簡単さで、カブの後輪が持ち上がる。特に踏ん張ることもなく、持ち上げ続けられてしまう。
「お父さんすごーい!」
「どうなってるんだこれ……」
亜依の無邪気な歓声とは裏腹に、星斗は今起きている事が理解できずに混乱していた。
余りの軽さに思わず右手で離してしまうが、左腕1本でカブの車両重量を支えられてしまっていた。
カブの車両重量は100キログラム近い。いくら後輪と荷箱だけとは言え、それなりの重量だ。
それをあたかも、自転車を持ち上げるような感覚でできてしまったのだ、現実も疑いたくなるというものだろう。
持ち上げた後輪をそっと下し、自身の両手を握ったり開いたりして、感触を確かめる。
「特に変な感じはしないんだけどな……」
「お父さん!もう1回やって!」
「ぉ……おう……やってみる……」
今度はカブの左横に回り、右手でキャリアのグリップバーを、左手でハンドルを握り、力を込めて真っ直ぐ上に持ち上げてみる。
ズズッとカブの車体が持ち上がり、両輪が宙に浮く。
しかし、星斗は大した力を込めてはいない。
更に、洗濯籠でも持つかの様に、カブの車体を浮かせたまま斜め前方へと突き出し、背筋を伸ばす。
(重く感じないな……このまま歩けるか?)
星斗はカブを持ち上げたまま1歩2歩と歩き出し、縁石を跨いでカブの車体を歩道に下す。
「すごーい!お父さん力持ち!!」
「…………大丈夫か、俺の身体」
亜依は素直に凄いと褒める。だが星斗本人は自身の身体に起こった変化に戸惑い、困惑していた。
巨大猪の時といい、巨大熊やルフと呼ばれる男の時といい、今日だけで別人の様に身体が変化している。
そのお陰で生き延びているものの、自分が得体のしれない”何か”に変化していっていると思うと、恐怖が込み上げてくる。
(身体が丈夫になっただけじゃなく、力も強くなっている?強くなっているとか、そういう問題でいいのか?)
「お父さん!そのまま持ち上げて、行っちゃえばいいんじゃない?」
「……お、おう……そうか、やってみるか……」
今は考えている暇もないことを思い出し、星斗は亜依に言われるがまま、カブを再度持ち上げてみる。
「軽い……さっきよりも軽くなった気がする……これなら行けるか?」
「頑張って!お父さん!!」
「ふんっ!!」
星斗は再度キャリアのグリップバーとハンドルを握り、腕を両脇に引き付け、背筋に力を込める。そのまま全身を使って身体を後ろへ反る様にしてカブを持ち上げる。
込めた力の割に、呆気なくカブの両輪が地面を離れ、宙に浮く。
そしてそのまま、勢い余って水平近くまで持ち上がってしまう。
「っと、ガソリンが漏れたらマズい。にしても簡単に持ち上がったな……」
「お父さんこっちこっち!ここからなら通れそうだよ!」
星斗は力の込め具合と、刻々と変化していく自身の身体に四苦八苦していた。
そんな中で、亜依は葱畑の中に突っ込んだ車と車の隙間見つけ、霊樹の枝を持ち上げながら星斗を呼ぶ。
何とか安定してカブを持ち上げたまま維持できるくらいに力を調節し、ゆっくりと歩き出す。
「ゆっくり行くから、ちょっと待っててくれ」
「分かったー」
歩道から畑に下り、畝を1つ1つ丁寧に跨いで越え、亜依が待つ場所の畝までカブを持ち上げたまま跨ぐ。畝の堅くなった土の上を1歩ずつ確実に歩いていく。
ベシベシとカブのタイヤが葱に当たり、葱の葉と葱坊主が揺れる。
育った作物に傷を付けるのは本意でない。
申し訳ないと心の中で謝りつつ、星斗はゆっくりと丁寧に歩みを進めていく。
「亜依、そこをくぐるから、枝を持ち上げたまま隣の畝にいけるか?」
「行けるよ、ちょっと待ってね」
亜依は隣の畝へと大きく飛び越えた。亜依の身長で畝を跨ぐのは、畝の底から葱の頭までの高さが高すぎる。飛び跳ねて越えるしかないのだろうが、そう、両足を揃えて易々と葱に触れることなく跳び越えてしまったのだ。
この時期の葱は、昨年に植え付けられて成長しきった状態である。土寄せもされていることで、畝の底から葱の葉の先までだと1メートル以上の高さがある。
亜衣の身長が120センチメートル位とすると、自分の身長に近い高さを跳び越えている事になる。
亜依もまた星斗と同じように、身体に何らかの変化が起きているのだろうか。
星斗は亜依の姿を見ながら、ふとそんなことを思う。
願わくば、これ等の変化が悪いものでない事を祈り、亜依へ身体に不調がないかを問う。
「亜依、身体の調子は大丈夫か?変な所はないか?」
「うん?大丈夫だよ?亜依の体、何かおかしい?」
星斗の問に亜依が不思議そうに答える。
「いや、何か凄い跳んでたから……大丈夫ならいいんだ。亜依の運動神経がいいのかもしれないし、体の持ち主の亜衣が運動神経良かったのかもしれないし」
「んー……分かんない。お母さんといた時は身体無かったし……亜衣の記憶にもそんな記憶は無いし……」
亜依にはそもそもとして、肉体を持って動いた記憶が無い。あるのは美夏から教わった知識と、亜衣が持つ記憶だけである。
そも亜衣は幼稚園児であり、そんな高く跳べるはずもないのだ。
何らかの原因で星斗だけでなく、亜依の身体にも変化が起きているのは間違いないようだ。
「そうか……まあその辺は後で調べてみようか。ああ、ちょっとそこの枝を持ち上げてもらえるか?」
「うん、分かった」
亜依が霊樹の枝を持ち上げ、その隙間を星斗がカブをくぐらせる。
そのまま葱畑の中を進み、適当な所で道路まで再度葱を跨いで歩いていく。
常人では考えられない膂力でカブを持ち上げ続け、大して疲労することも無く歩道まで上がる。
「よっと」
歩道を乗り越え、車道にカブをそっと下した星斗は軽く息を吐く。そしてカブを持ち上げていた、自身の両手を見て再度握ったり開いたりする。
「……全く何ともない」
「お父さん凄い!やっぱり力持ち!」
亜依が駆け寄ってきて、星斗を純粋に凄いと羨望の眼差しを向ける。だが当の星斗は素直に喜べる状況ではなかった。
(後でゆっくり調べないとな……)
自身の身体の変化がどういった原因で、どんな影響を受けているのか。更に星斗だけなく亜依にもその変化の様子が見られる。
これが身体に悪い影響がなければ良いが、もしも、何らかの悪影響を及ぼしているのであれば、早急に対策を考えなければならないだろう。
(それに……あの弾のこともあるしな……)
星斗は小学校での猪との戦いや、先程の林の中での戦いを思い出し、その時に掌の中に現れた紅と翠の銃弾を思い出す。
無我夢中で銃弾を創り出し、巨大猪に撃ち込んだ1発。
霊子を意識し、自らの意思で銃弾を創り出し、あいつにぶち込んだ1発。
その後誰の手も借りずに創り上げ、熊に食らわせた2発。
合計4発の銃弾を創り、撃ち込んできた。
通常の銃弾も撃った。警察官として一生に一度有るか無いかの経験だ。
それを上回る出来事が、起こり過ぎている。
あの銃弾は薬莢も残らず、空気中に霧散してしまって手元には何も残っていない。
一緒に戦った管理者の男と女から教わった、「願い」を霊子に込めた銃弾。
そもそも「霊子」とは何なのか、それを生み出す元人間の「霊樹」とは一体何なのか。
考えても答えに辿り着ける訳がないが、元凶は分かっている。
「ルフ」と呼ばれる男が「彼の方」と呼ぶ者の為にやったのだと。
「お父さん?」
「ん……ああすまん。考え事してた、みんなの所へ急ごうか」
カブを置いてそのまま考え込んでしまった星斗を見て、亜依が心配そうに声を掛ける。
星斗も今やるべき優先順位を思い出す。
ヘルメットを被った亜依の頭をポンポンと叩き、亜依を持ち上げてカブに乗せて自身も跨る。
「さて、行きますか」
「しゅっぱーつ!」
2人を乗せたカブが元気よく走り出す。
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