DEAREST【完結】

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第179話 NAGI

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 …………。
 …………。
 …………。
 これが僕のいた世界。言葉のない世界。
 ううん、僕に向けられる言葉がなかった世界。
 五歳になるまで僕は一言も喋らなかった。話しかけられる事がなかったから話すという事を覚えなかった。
 だけど、目の前で会話をする両親をずっと見ていた。早口で交わされる言葉はほとんど聞き取る事はできなかったけど。
 毎日やって来る『祖父』に食事などの世話をして貰って僕は何とか育っていた。だけど、そんな祖父も両親と喧嘩をするばかりで僕に話しかけた事はなかった。
 僕が五歳。その年に両親が亡くなり祖父の家に引き取られる事になった。
 『クロッカス』の『村長』である祖父の家に。
 両親はとても仲が良かった。毎日愛情表現は欠かさない。お互いを必要とし合って生きていた。
 僕のお父さんはクロッカスの人じゃなかった。外から来た人。
 クロッカスの人は外の人間がこの村に住むのを嫌っていたから、外の人間との間に生まれた僕はお母さんによって家の中に隠され続けた。
 当時の僕は何を考えていたのか覚えてない。そもそも言葉を知らなかったし。だけど、目に映るものはまるで絵のようにしっかりと頭の中に残っている。仲の良い幸せそうな両親の姿。
 僕は待っていたのかも知れない。いつか自分に話しかけてくれるのを。
 でも、そんな日は結局一度も来なくて、いつしか声を出すことを忘れた。
 赤ちゃんの時は泣いていたりもしたのかな。ずっと放って置かれて泣く事もなくなったのかな。
 毎日毎日自分一人だけの世界。
 そんなある日、お父さんはいつものように僕を柵のついた赤ちゃん用のベッドに入れた。まるでおもちゃをおもちゃ箱に片付けるように、ただ入れるだけ。
 もう五歳になっていた僕には小さすぎて、膝を抱えるようにして眠っていたのを覚えている。
「……でね……なの。でも……」
「うん」
「……が、…………に」
「うん」
 隣にあるベッドの中の両親の声を聞きながら 、僕は眠りにつく。だけど、両親が目覚める事はなかった。
 自ら命を絶った事を知ったのも、それがどういう事か理解したのも、随分後の話だった。
 僕は両親の愛情表現を覚えてないんじゃなくて、ただ知らないだけ。
 この日から祖父と暮らし始めて、そして、『リサさん』と出会うことになる。
 祖父の『教育』が始まって一ヶ月。僕が発した言葉は『うん』だけ。お父さんの口癖で、唯一はっきりと聞き取れていた言葉。
 祖父は僕に言葉を覚えさせようと必死だった。だけど、高圧的な祖父の話し方や、上手く話せずにいると叩かれるという怖さから、僕はとにかく何か言葉を返そうとだけ考えた。だから、何を言われてるか分からなくてもとりあえずすぐに『うん』と返事をする癖がついた。
 体だけはどんどん大きくなるのに中々言葉を覚えない僕を祖父は『出来損ない』だと言って、自分の孫だという事を隠すように言った。
 僕は答えた。『うん』って。
 僕が村長さんの孫だって知ってるのはほんの一部分の人だけ。その人達も、村長さんには逆らえなくて黙っていた。
 僕は、外から来たお父さんの連れ子という事になった。僕は朝から晩まで畑仕事をさせられる事になった。
「おはよう、ナギ君。今日も精が出るねぇ」
「うん」
 村の人が話しかけてくる。
 この頃になると『ナギ』という言葉が自分の名前だって事は分かっていた。
 『おはよう』って言葉が挨拶の言葉っていうのも分かってたけど、『おはよう』という言葉に『おはよう』と返せばいいという事がよく分かってなくて、その日もまた『うん』とだけ返す。
「村長さんはお家にいらっしゃる?」
 もう一人の村の人が聞いた。
「…………」
 何かを聞かれたらしいけど『いらっしゃる?』って言葉が分からない。
「ナギ君、村長さんは、どこ?」
 村の人がまたそう聞く。覚えた言葉から必死に答えを探す。
「…………お家」
「そう、ありがとうね」
「うん」
 また仕事に戻る僕に背を向けて村の人はヒソヒソ話す。
「あの子、やっぱりどこかおかしいんじゃないかしら?」
「そうよね、もうあんなに大きいのにほとんど喋れないなんて変よ」
「両親も何もあの子を置いていかなくてもいいのにねぇ」
「まあ、村長さんと毎日言い争ってたからねえ……出ていくのかと思ってたけど、まさかあんな死に方するなんて」
 遠ざかる声。何を言っているかは大体分かっていた。でも、言われた事に何を感じればいいのかは分からなくて、『おかしい』って何だろうなんて手を動かしながらぼんやり考えてた。
 そんな時。
「あ! ナギくんよね?」
 目の前に現れた長い金髪の女の人。
 初めて見る顔に戸惑って「うん」という返事すら出ない。僕の前まで来てしゃがむ女の人。
「ナギくんでしょ? はじめまして! 『リサ』です、『リサ』」
 女の人は自分を指差して何度も『リサ』と繰り返す。
「……リサ?」
「そう!」
 リサさんは笑顔で大きく頷いた。
「ナギくん、おはよう! はい、ナギくんも!」
「……おはよう」
「おはよう!」
 リサさんはまた笑顔で頷いた。初めてできた挨拶に、何だか少し嬉しくなった。
「……おはよう、リサ」
「おはよう、ナギくん!」
 挨拶をして、名前を呼ぶ。
 たったそれだけの事なのに、急に全部理解できたような、そんな誇らしい気持ちになった事も覚えてる。


「ちょーっと、寝坊してお祈りの時間に遅れたからって、外出禁止ってお仕置きはひどくない? 神様は心が広いから、そんな事くらいで怒ったりなんかしないわよね?」
 木陰に入って幹にもたれて座る。分からない言葉が出てきたけどリサさんの話を一生懸命聞いていた。
「うん」
「でしょう? 窓からナギくんの姿を見つけて、何あの可愛い子! 早く会いたい! って、ずーっと思ってたんだから!」
「うん」
「だってこの村って子どもがすーっごく少ないでしょ? 去年生まれたうちの甥っ子と、マリさんちのフロルちゃんだけ!」
「うん」
「だからね、ナギくんを見つけた時もうすっごく嬉しかった! 子どもが大好きなの! もう可愛いすぎ! 天使みたい!」
 そう言ってリサさんは僕を抱きしめた。誰かに抱きしめて貰ったのは初めてでとにかく驚いた。
「…………」
「ナギくんも天使みたいに可愛い!」
「……て、てんし?」
「そう! 可愛い!」
 リサさんは僕を離すと今度は頭を撫でてきた。
「……かわいい?」
 僕は首を傾げる。言葉の意味が分からなかったから。
「ん? 可愛いっていうのはね、んー……あ、そうだ! ナギくん、ここで待ってて。座っててね」
「うん」
 僕は言われた通り座ったまま待った。しばらくすると、リサさんが赤ちゃんを抱えて戻って来た。
「じゃーん! 私の甥っ子の『タキ』でーす! よろしくねー」
 リサさんはまた僕の隣に座ると、その赤ちゃんを僕に渡してきた。赤ちゃんを見るのも初めてだった僕は、また驚いて無言で固まる。そんな僕の膝にリサさんはそっと赤ちゃんを座らせた。
「可愛いでしょ? ほっぺプニョプニョってしてるの! ほら、触ってみて!」
 僕は恐る恐るタキの頬に指先で触れる。タキはふにゃって笑って僕の指を握った。小さな手がすごく暖かくて。何て言ったらいいか分からない気持ちが込み上げて来た。
「可愛いでしょ? タキはちょっと体が弱くて甘えん坊でね、フロルちゃんはすっごく元気でいつも笑っててね」
「うん」
 リサさんはエプロンのポケットから何かを取り出した。
「はい、ミルクあげてみる? タキはまだ哺乳瓶離れできないの」
「うん」
 哺乳瓶を受け取った僕はそーっとタキの口に近づけた。タキはすぐにミルクを飲み始める。
「どう?」
「…………うん、『可愛い』」
 僕をじっと見ながら一生懸命ミルクを飲むタキを見ていると、何故だか分からないけど涙が溢れた。
 初めて触れた『愛情』に、初めて『可愛い』と思った感情に、自分の心が『生きてる』事を感じた。
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