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参、幽囚深宮

六、

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 魏王府が火事になり、伯祥が死んだ。その報せに、紫玲は衝撃で言葉も出ない。

 どうして? どうしてそんなことに――

妃子おくさま……」

 食事も喉を通らない紫玲に、徐公公が煎じ薬を差し出す。

「少しでもお飲みください。そのままではお体が……」
「だって……もう生きていられない! わたしのしたことは無駄だったの! いいえ、わたしの裏切りがあの人を追いつめた……」
「妃子……」

 徐公公が紫玲の顔に顔を近づけ、囁くように言った。

「魏王殿下が死んだのなら、なおさら、あなたさまは生きねばなりません。かの方の形見は、もはやあなたの内にしか残らない」

 ハッとして、紫玲が徐公公の顔を見る。
 至近距離で徐公公の静かな視線が、紫玲と交わる。
 ゴクリ、と紫玲が唾を飲み込んだ。

「その後、お体の具合は?」
「今は……何とも。でも時々、気持ちが悪くなって……」
「もう少し我慢してください。男女の交わりから子ができ、それを母が自覚するまで二月ほどはかかります。今、申し出れば主上の種でないことを疑われてしまう」
「わたしは……」

 紫玲の目尻から涙が零れ落ちる。

「あの人のところに行きたい。こんな……」

 愛しい人を救うためならばと、皇帝との閨も耐えた。心が死んでいくような時間だった。――愛しい人が死んだ今、これ以上あれに耐えるなんて、できそうもない。

「ご自分を責めてはなりません。あなたの献身のおかげで、父君は要職に就くことになった。あなたさまが拒んでいたら、家族もろとも殺されていたかもしれない」

 徳妃への冊命とともに、数年間、無官だった父がようやく官職を得る。兄も昇進が決まった。にわかに脚光を浴びた蔡氏の邸宅には、縁を結ぼうとする人が殺到しているという。
 紫玲が、蔡氏の繁栄のきっかけを作るかもしれない。

 でも――

 紫玲はただ、伯祥を救いたかったのだ。自分のすべてを差し出しても、ただ、あの人だけは――
 それが叶わなかった。もしかしたら、彼は紫玲の裏切りに絶望して自ら死を選んだのではないか――

「いいえ! それだけはありえません!」

 徐公公が色を生して反論する。

奴才やつがれはあの夜、獄まで殿下の釈放を伝えに参りました。そしてその後、殿下を魏王府までお送りしたのです。その時、僭越とは存じましたが、あなたさまのお気持ちをお伝えしました。どれだけ辛い決断を強いられたか、そして、どれだけの苦しみの末に選んだ道なのか。――あなたさまが、形見の鏡をずっと握りしめておられたことも、すべてお伝えいたしました」

 徐公公の言葉に、紫玲がハッとして顔を上げる。

「では、伯祥さまは――」
「もし主上の思し召しを拒めば、あなたさまのみならず、蔡家すべてが破滅するだろうと。……殿下も、そのことはわかっていて、『それでも、私は約束を忘れるない、そう伝えてくれ』と仰いました」

 徐公公は伯祥の伝言を伝え、さらに続けた。 

「それから、殿下はあなたさまあてにこれをと――」

 徐公公が袍の懐より、小さく結んだ文を取り出す。

「お預かりしておりましたが、主上がこちらに居続けていらっしゃる間は、お見せできなかったのです」
「伯祥さまの、……お便りが……」 

 差し出された結び文を、紫玲が震える手で開いた。



 玉匣清光 復は持せず、菱花散亂して月輪虧けたり
 秦臺一たび山鶏を照らすの後、便ち是れ孤鸞舞を罷むるの時
 
 (玉の匣に入った破鏡は、再び一つになることはなく、八稜鏡の破片は散乱し、月のように欠けた。
  みすぼらしい男は不思議な鏡に照らされて束の間の夢を見たが、今、つがいを失った鳥のように、鏡の前で踊るのをやめる――)    

 手蹟も乱れてはいたが伯祥のものであった。鸞という鳥の前に鏡を置くと、鏡に映る自身の姿をつがいと間違え、死ぬまで啼いて舞い続けた、という故事にかけている。

 紫玲はその詩を見下ろし、何度も読み返す。

「……これは、伯祥さまが死を覚悟したものではなくて?」
「死は、覚悟しておられましたでしょう。ですが、殿下はけして、あなたさまを恨んではおられません。約束が何かは存じませんが――」
「でも、わたしは伯祥さまを裏切った……」

 最後の手紙を握りしめて俯く紫玲に、徐公公が言った。

「いいえ、あなたさまのせいではありません! ご自分を責めてはなりません」

 徐公公の黒い瞳が、じっと、紫玲を見つめる。

「責められるべきは、殿下を死に追いやった者たちです。奴才には殿下が御自害あそばしたとは、信じられない。もし御自害ならば、もとはっきりわかる手紙を言づけるのではございませんか?」

 紫玲はもう一度、手紙を見返した。

 ――便ち是れ孤鸞 舞うを罷むるの時。

 つがいのいなくなった鸞鳥が、鏡の前で啼き騒ぐのをやめる――

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